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戦中戦後に発生した食糧不足は何故起こったのでしょうか?
食糧自給率がほぼ100%だったうえ、田畑の耕作放棄が起こったわけでも無いはずなのに、何故あれほどの食糧不足が発生したのでしょうか。

耕作人員にしても、国家総動員によって耕作者が減ったとも思えません。
海外に派兵した人員に比較しても、食糧不足は深刻だと思います。

昔とある田舎で、「配給制度ができて初めてお米が食べられるようになった」という話を聞いたことがあるのですが、配給制度の失敗からなのでしょうか。

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A 回答 (8件)

ミクロ的見知から答えられている人が多いので、


マクロ的見知からひとつ。
まず日本の内地(朝鮮、台湾を省く)の食糧自給率は戦前のときですら、80%程度でした。
残りの食料は満州、朝鮮、台湾などからの輸入に頼っていたのです。
また、窒素、カリ、燐酸などの化学肥料などはほぼ輸入に頼っていたので内地のみの力で賄える、実質の食料自給率はもっと下がります。
また米の生産量ですが、
1941年 825万トン
1942年 1000万トン
1943年 942万トン
1944年 878万トン
1945年 587万トン
と、最盛時に比べて半減していることがお解りいただけると思います。
他に1944年の化学肥料の生産はピークの1937年に対し、6分の1まで落ち込み、食糧の輸入はピークの1941年に対し、3分の1まで落ち込んでいます。
配給制度の失敗というより生産計画の失敗。
生産計画の失敗というより戦争指導の失敗といえるように思います。
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この回答へのお礼

具体的な数値を教えて下さりありがとうございました。
国内の自給率が意外と低かったことに驚いています。
また国内では、魚粉や落ち葉・人糞などの肥料を主に使っていたと思いこんでいたために化学肥料の輸入に関しても目からウロコでした。
回答をお寄せいただき、ありがとうございました。
お礼が遅くなったことをお詫びいたします。

お礼日時:2003/05/15 10:11

>戦争中も食糧を国内調達していたので、帰還兵がいても総消費量は変わらないような気がするのですが??




戦時中の「人手不足」による慢性的な食料不足に
戦後の海外からの復員軍人、
海外・旧植民地(朝鮮半島、台湾、満州)からの
引揚者700万人の帰国がさらに、それを深刻化
させました。


参考URLの中の下記項目をご覧ください。
「敗戦直後の日本の経済社会の状況」

参考URL:http://www.kkri.org/hist/history.htm
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この回答へのお礼

回答くださりありがとうございました。
URL参考にさせていただきました。天候の要因も大きかったみたいですね。

お礼日時:2003/05/08 22:52

既に回答されていますので、蛇足になるかもしれませんが。



 昭和20年に入り、本土決戦ということで、本土に飛行場を大量に作ることになりました。飛行場には、芝生が必要です。そのために肥料も必要になります。窒素等の化学肥料です。これらの肥料が、農家に渡らず、軍部が奪っていったのです。

 以上あくまで付け足しです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
窒素肥料などの不足も考えられるのですか。参考になりました。

お礼日時:2003/05/08 22:50

一応、父母に聞かなくても分かる年代です。



終戦直後の食糧不足は色々な原因が重なった結果です。

1.人手不足(肉体的に欠陥のない40才ぐらいまでの男子は戦場か国内の軍関係の仕事をしていた)
2.肥料、農薬不足
その結果イモチ病などにかかり収穫が激減。
3.二期作の激減
上記1-2の理由から二期作(同じ田畑で年二回の収穫を行なう。夏は米、冬は小麦、或いは水稲を二回)
4.天候不順
昭和20年以降台風が多く大雨で田畑が荒らされ収穫が減った。洪水は戦争中に軍用に木材を切り、燃料がないため一般人も木々をきり、禿山が多かった事が原因といわれる。
現在の緑の日につながる植林は終戦後に始った運動。

消費のプラス要因はなんと言っても一般人引き上げ者の急増です。(満州、朝鮮半島、台湾、樺太や太平洋諸島)
プラス兵隊の引き上げ。正確な数字は分かりませんが数百万人に達した筈です。

戦争があれば必ず食料不足が起こります。現代でもアフガニスタン、イラクで起こっています。戦争のない北朝鮮でも食料危機だと言われています。原因は上記のどれかだと思います。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
皆様仰るように、人員不足みたいですね。
回答の内容から、現在の北朝鮮の食糧不足も似ていると思いました。
燃料不足から来る木の伐採、禿げ山からの土砂の流出などを考えると、自然環境の大切さが見えてきますね。
大変参考になりました。

お礼日時:2003/05/05 22:02

こんにちは。

当然私も経験してないので、母から聞いた話です。

>国家総動員によって耕作者が減ったとも思えません。

これは大幅に減ったそうです。
若い男は(終戦近くなると相当歳が行ってても)みんな連れて行かれたそうです。
実際には連れて行かれてすぐ兵隊になるわけではなく、訓練したり、部隊の編成などで結構長く国内に滞留するのだそうです。・・・とここまでが母の話です。

そういう人達は当然農業にも従事できないし、出征してはいるけど、戦地に行ってるわけでもない、そういう の人が相当いたようです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
やはり男手が足りないことから、農業生産が著しく低下した事が原因なのでしょうか。参考になりました。

お礼日時:2003/05/05 21:58

母が、その父母・祖父母から聞いた話だそうです。



それによると、そこはかなり田舎(今でも郡部です)
であるにもかかわらず、戦争中期~後期は田畑へ出ていると
その人に向かって飛行機から爆撃があったそうです。
田畑は隠れるところがありませんので、上空からでもよく見えたのではないか?ということでした。
ということで、農作業がろくに出来なかたそうです。

これが原因の全てではないかもしれませんが、
原因の一つにはなりうるかと思います。
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この回答へのお礼

回答下さりありがとうございました。
たしかに、空襲をうけるような都会の近くでは、農家も機銃掃射を受けたかも知れませんね。

お礼日時:2003/05/05 21:56

専門家ではないので詳しいことは分かりませんが…



まず、復員、引き上げの影響があると思います。
戦争で海外など日本にいなかった男性がいっせいに生還すると
当然食料がなくなるのではないでしょうか?
5万人ほど帰ってきたそうですよ。
すぐに作物が収穫できるわけではないですし。
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この回答へのお礼

回答くださり、ありがとうございます。
戦争中も食糧を国内調達していたので、帰還兵がいても総消費量は変わらないような気がするのですが??
確かに、作物はすぐには収穫出来ませんよね。

お礼日時:2003/05/05 13:47

全くの戦後生まれで、当時のことを知っているわけではないので、可能性の推測ですが



耕作人員の減少があったかどうかは不明。
でも、その中心的要因が青壮年男子から老年者及び婦女子などへ変化したことは考えられます。
疎開児童が、農耕の援助作業を行ったとも聞いていますが、不慣れな子供達の労働力では限度もあるでしょうし

当時は機械化も進んではいませんでしたから、その体力差は容易に埋められなかったのではないでしょうか?
また、荷役馬や農耕牛馬も、戦地への徴発対象となったとも考えられます。

また、戦争後期には物流ルートも寸断されていたでしょうから、食料があっても輸送できなかったとか

様々な要因が複合した結果ではないのでしょうか?
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この回答へのお礼

>荷役馬や農耕牛馬も、戦地への徴発対象となったとも考えられます
確かにその可能性はありますね。国内から農耕馬などが居なくなったことで、生産効率が下がっていたかもしれませんね。
ご回答いただき、ありがとうござました。

お礼日時:2003/05/05 13:43

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Q太平洋戦争ー戦時中の食料不足について

年寄りの人達に戦争時代の話を聞くと決まってみんなが、食べ物がなくて苦しかったと言います。

四六時中腹を空かしていたと言うんですけど、なぜ戦時中はそんなに食べ物がなかったんですか?

戦時中だから工業製品や鉱物資源が不足するのは分かるんですけど、食料なら自分達の土地で農作業さえ続けていればいくらでも生産できそうなものなのに(もちろん栽培品種は限られるでしょうけど)、でも国民が餓死するほど食べ物がなかったのはどうしてなんですか?

Aベストアンサー

兵士に食わせるために主食(米 麦 豆)を優先的に供出させて 戦地に送った
せっかく送ろうとしても 次々と輸送船が敵国の手で沈められた
国内で主食を増産しようにも 働き手が 戦地に取られて農村にいない
カリやリンなどの 工業的な生産が必要な肥料が 物資の不足で作れないので 田畑から作物がたくさん収穫できない
では天然素材の魚かすなどの肥料を撒こうとしても 食糧事情がそれどころではないので取れた雑魚さえすべて人の口に入る。

Q戦中戦後の食糧難の理由

日本の第二次大戦中と戦後、食糧難に見舞われたようですが、なぜなのでしょうか?当時も食糧をかなり輸入に頼っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

他の方が書いていない理由を挙げると、「流通システムの破壊」があります。食料は農家つまり田舎で生産されますが、人口は都市に多いです。都市に住む人々は食料を自給していませんから「輸入」に頼らねばなりません。
その輸送の主力は実は船でした。そして鉄道もあります。自動車は日本ではほとんどモータリゼーションが進んでいなかったので道路も未発達でした。

戦争が進むと前線で輸送船がボカボカ沈められます。でも戦争をするためには前線では船が必要です。生産して補充しなきゃいけないけど追いつかない。だから、それは民生で使っている船を徴用しなきゃいけない。でもその船を前線で使うと生産活動に影響がでます。つまり、それでなくても追いつかない生産が資材不足でさらに遅れます。それでさらに民生の輸送分を前線に回し・・・というデフレスパイラル状態になるわけです。
さらに戦局が悪化すると空襲されるようになって輸送船や鉄道が襲われます。そうやって流通ルートが根底から破壊されるようになります。そのため、仮に農家で食料を生産しても都市に輸送できなくなります。さらに当時は保存技術が今ほどないですから、どんどん食品がダメになる。

戦後は全てのインフラが失われていますから、混乱して右から左への輸送もマトモに行われなくなります。配給でなんとかしなけりゃなりませんが、闇で売ると高値で売れるから農家は配給への供出を出し渋り、高値で売れる闇市のブローカーに売ります。それで配給は滞り、闇市の値段がますます上がるというわけです。
戦争直後、闇米を口にすることを拒否して餓死をした判事さんがいたそうです。法の番人たる判事が法を犯して手に入れた闇米を口にすることを潔しとしなかったのです。当時まだ子供だった父から聞きましたが、当時それは大人たちの間で非常に衝撃的に受け止められたそうです。当時の人はまだウブだったので法を犯して闇米を食べることに後ろめたさがあったそうですよ。

他の方が書いていない理由を挙げると、「流通システムの破壊」があります。食料は農家つまり田舎で生産されますが、人口は都市に多いです。都市に住む人々は食料を自給していませんから「輸入」に頼らねばなりません。
その輸送の主力は実は船でした。そして鉄道もあります。自動車は日本ではほとんどモータリゼーションが進んでいなかったので道路も未発達でした。

戦争が進むと前線で輸送船がボカボカ沈められます。でも戦争をするためには前線では船が必要です。生産して補充しなきゃいけないけど追いつか...続きを読む

Q戦中、戦後の食糧難の原因は?

戦中、戦後は食糧難で大変だったようです。
どうして食糧難になったのでしょうか?
満州でとれた食料は運ぶ船が沈められたという話は
聞いたことがあります。
しかし国内で自給自足できたのではないでしょうか?
軍事に力を入れていたとはいえ、もともと農業立国です。
男手が足りなくて農家の生産力も落ちてしまったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 戦時中に限って回答させていただきますが,
http://mltr.free100.tv/faq08n.html#06064
http://mltr.free100.tv/faq08f02.html#02329

から纏めますと,以下のようになります.

 1940年の時点では,米の年間消費量1200万トン.
対して,国内総生産量は900万トン,つまり,差し引き300万トンは不足し,タイやインドからの輸入,朝鮮,台湾からの移入で賄っていました.

 外米輸入に必要な貨物船は,1万総トン級(今は10万総トンとかありますが,当時はこれくらいの規模が最大級)のものでも,単純計算で300隻必要になります.

 1945年には米の備蓄量は僅か3.8日分まで落ち込んでいます.
 これは移送に使用する船が悉く撃沈されたためでもあります.
 また,B-29によって日本列島近海には機雷が撒かれ,船舶の通行を妨げます.
 B-29による海上封鎖用の機雷投下は,昭和20年3月から始まっています。
 5月から本格化した機雷投下は,終戦まで続けられ、12.000個が敷設されました。

 この効果はすさまじく、終戦までに喪失した日本商船は総計890万総トン(2.534隻)に上りますが、その内訳は
*潜水艦 54.7%
*空母機 16.3%
*海軍および海兵隊機 4.3%
*陸軍機 10,2%
*機 雷 9.3%
*海難事故等 4%
で、実質わずか4ヶ月ほどで一割近い戦果を達成しています。

 関門海峡は繰り返し敷設され、いくら掃海しても間に合わない状態でした。
 瀬戸内海全体でも被害が出てますし,
 佐世保・舞鶴も封鎖されています。
 博多・仙崎・敦賀・七尾・伏木・新潟・酒田・船川など、日本海の主要港が主な標的で、八戸が最後に掃海完了となりました。

 また,機雷散布以外にも,灯台や気象観測所のような航路標識にも攻撃をしたりと,地味ながら確実に効く通商破壊戦を仕掛けました。
 これらのお陰で船舶輸送は殆ど麻痺、資源採掘地では輸送できない資源が山積みにされ、工場は殆ど操業できない状況に陥ります。
 モータリゼーションがあまり発達していなかった当時の日本にとっては致命的で、このまま戦争が続けば冬を越せない地域が出るという試算が出ていました。

 これらの結果,日本人の主食とされた米の生産は,1936~40年の五カ年平均(1,098万トン)を100とした場合,45年には60(660万トン)に下がり,この傾向は他の農産物でも同じでした.

 ちなみに,主要蛋白源である水産物(鮮魚,塩乾魚)にしても45年には39年の65%(198万トン)まで落ち込んでいます.
 これは,それを捕る漁船が海軍に徴用され尽くしたところにもありましたが.

 戦時中に限って回答させていただきますが,
http://mltr.free100.tv/faq08n.html#06064
http://mltr.free100.tv/faq08f02.html#02329

から纏めますと,以下のようになります.

 1940年の時点では,米の年間消費量1200万トン.
対して,国内総生産量は900万トン,つまり,差し引き300万トンは不足し,タイやインドからの輸入,朝鮮,台湾からの移入で賄っていました.

 外米輸入に必要な貨物船は,1万総トン級(今は10万総トンとかありますが,当時はこれくらいの規模が最大級)のものでも,単純...続きを読む

Q戦時中の食料不足の原因?

戦時中には石油・鉄鋼・食料その他が極端に不足したとは歴史の教科書で習いました。

そこで疑問なのですが、石油・鉄鋼に関しては資源を輸入に頼っていた為に不足したことは理解できるのですが、食料に関しては何故でしょうか?

当時から食料自給率は低かったとは思えませんし、働き手が不足しただけという説明もピンときません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

聞いた話ですが、当時は、まず一般市民よりも兵隊さんという考えが大変強かったそうです。もちろん軍部の政策や世相等によるものでしょうが、普通の市民よりも、お国のために命がけで戦ってくれている兵隊さんに食料をはじめ、ありとあらゆるものを優先させていたようです。

 戦いに勝っていた日清戦争から太平洋戦争初期の頃までは、戦場の物資も潤沢で、うまくいっていたようですが、中期・末期になると日本は連戦連敗で、一般市民を2の次・3の次にして集めた多くの物資も戦場に運ぶ途中に、輸送船(団)がことごとく撃沈されてしまい、食料をはじめ兵器も他の物資もその多くは海のもくずと消えていきました。

これはもともと日本軍部が兵站を軽視していたのに起因しています。

そして戦争も末期になると、送っても送っても戦場では物は足らなくなっていったようです。
その結果国内では、「欲しがりません勝つまでは」と言われるほど、国民の生活は窮乏していったようです。

Q戦前・戦中・戦後の食糧事情について質問です。

戦前・戦中・戦後の食糧事情について質問です。

先日、戦前生まれの叔母に会う機会があり、ふとした事から食べ物の話になりました。
叔母もそういう事があったという事情は話してくれたのですが、詳しい事についてはうろ覚えでわからないとのことでした。
そこで以下が質問です。

1、戦前〜戦後も麦飯は臭みもあり貧乏人の象徴のようなもので、弁当に麦ご飯が入っていても弁当箱のフタで中身を隠しながら食べていたそうです。「じゃあ、お米を食べればいいじゃない」というと「米は供出に出していて(戦時中は主に軍用米として供出していたと思います。戦後も多分農協にいくらか供出があったように思います)充分に食べられなかった」というのです。私は供出などは戦時中の食糧事情が最も苦しい時だけの事だと思っていたのですが、そうでもないようなのです。米だけではないと思うのですが、この供出の制度はなぜあったのでしょうか?また、どのようなものが供出対象でいつからいつまで存在したのでしょうか?

2、配給制についてですが、これも私は戦時中だけの事だと思っていたのですが、戦後もいくらかのものは配給されていたそうです。どのようなものがいつからいつまで配給されていたのでしょうか?

3、戦時中にしばしば街に住んでいる人が矢絣の着物とお米を交換して欲しいとやって来たそうです。私どものように田舎の人間で作物を幾分か作っている農家は貧しいながらも何とか食べていけたと思うのですが、都会に住んでいる人はどうやって食べていったのでしょうか?配給のものだけでは食べていけないと思いますし、食べ物と交換する着物なども有限なので餓死してしまうと思うのです。
お金のある家は闇市などからでも調達できると思うのですが、空襲で身寄りもあまりなく無一文になった人が大勢いたはずです。まさに「ほたるの墓」を時でいくような生活をしている人も沢山いたと思います。

今のようにお金さえ出せば、食べ物をいくらでも購入できる時代とは違い、昔の人は本当に苦労したと思います。
ただ、戦後生まれで農家でもない知識のない私には、上記のような事を調べてもまるでわかりませんでした。

このような事に詳しい方がいればご教示頂けたら幸いです。
また、質問項目が多数なので、私の質問にある戦前〜戦後の食糧事情や供出・配給などについて制度も含めて詳しく書かれてある書籍やサイトがあればご紹介頂ければ助かります。

戦前・戦中・戦後の食糧事情について質問です。

先日、戦前生まれの叔母に会う機会があり、ふとした事から食べ物の話になりました。
叔母もそういう事があったという事情は話してくれたのですが、詳しい事についてはうろ覚えでわからないとのことでした。
そこで以下が質問です。

1、戦前〜戦後も麦飯は臭みもあり貧乏人の象徴のようなもので、弁当に麦ご飯が入っていても弁当箱のフタで中身を隠しながら食べていたそうです。「じゃあ、お米を食べればいいじゃない」というと「米は供出に出していて(戦...続きを読む

Aベストアンサー

はじめまして。
親戚に農家の方がいるので、その方から聞いた話をさせていただきます。が、片田舎の話ですので都会の方のことはあまり分かりません。

1については、地域差がけっこう酷かったようです。十分に食べられる地域とそうでない地域があり、当方の場合は前者で、後者の地域の方がよく支援を求めてきていたそうです。中には息子が出征するから、その前の日だけでも好きなものをたらふく食べさせてあげたいから、この箪笥と何かを交換してくれと言ってきた方までいらっしゃったそうで、あっちのほうはそんなに困っているのかと驚いたと言っていたのを聞いたことがあります。供出自体は戦後しばらく続いたようですが、別段食うに困ったということはなかったそうです。
米だけではなく、様々なものを作っていたために米が少ない時でもほかに食べるものがあったからというのはかなり大きいでしょうが……。
(養蜂、豆、豚、鶏、芋、柿などだそうです)

2については、ものによっては戦後も配給が続いたそうです。

3に至っては、様々な人が食料を求めて訪ねてこられたようで、爆撃から逃れる際に持ち出したわずかな財産を手に食料を分けてほしいと入ってこられた方が大勢いらっしゃったようです。箪笥、着物、宝石類、はたまた伝家の宝刀や家宝、あげく娘さんが自分と家族がある程度食べていけるだけの食料を交換してくれといったこともあったそうです。
無一文になった身寄りのない方などは、なんでも働くから食べ物と雨露凌げる場所をということもあったそうです。
あと、農家の横暴が酷かったとおっしゃられている方がおられますが、農家の側からしてみれば、まるで食べ物がいくらでもあるかのように言い、余裕がなくて分けることができない時などは野菜を盗み、あることないことわめき散らし、心ない言葉を浴びせていくことも多々あったそうです。

とある片田舎での話ですが、『こういうこともあったんだ』ということを頭の片隅にでも置いていただけたら幸いです。

はじめまして。
親戚に農家の方がいるので、その方から聞いた話をさせていただきます。が、片田舎の話ですので都会の方のことはあまり分かりません。

1については、地域差がけっこう酷かったようです。十分に食べられる地域とそうでない地域があり、当方の場合は前者で、後者の地域の方がよく支援を求めてきていたそうです。中には息子が出征するから、その前の日だけでも好きなものをたらふく食べさせてあげたいから、この箪笥と何かを交換してくれと言ってきた方までいらっしゃったそうで、あっちのほうはそん...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q戦時中は食糧難だったのですか?

良く、「戦時中は食べるものもなかった。」というような話を聞いたことがあります。なぜ、戦時中や昔は食べ物が不足していたのでしょうか?
日本は島国で魚介類はいっぱいとれるし、野山では果物や野菜等が手軽に手に入ったのではないのでしょうか?例え、男手がなくても。
いかがでしょうか?時間がある方、おつきあい下さい。

Aベストアンサー

食料が不足した例としては.軍による接収。軍に種まで取り上げられてしまった集落があります。
疎開者による需要増か。「山に食料はある」にはあります。しかし.翌年の収穫を確保するために残しておく場合があります。これを疎開者が食べてしまうと翌年に農村の食料がなくなりますので手放しません。
大体100軒の集落で必要な山林面積が1-2平方kmで.しかも.何年もかかって蓄積します。
秋口に収穫して.これを食べつづけるのです。ですから.とつぜん100人くらいが集団疎開してくると食料がなくなります。
農地を増やすとか作付けを増やすとか.あります。しかし.戦後まで農地は増えていません。開墾した場合には.何年か税金を免除するということがありましたが.開墾地は肥料がほとんどなく何も取れないのですぐに作付けが放棄されるような状態です。

漁業ですが.取る手段が
かぎられていました。結局巣もぐりに近い状態か.手探り(手を水中に入れて手の上に魚がくる野を待って救い上げる)しか方法がありません。金魚が比較的簡単に救い上げができます。金魚ばちの中の金魚を手で救い上げてみてください。
疎開者はこの救い上げの技術を持たず.高額な支払いをして現地から買うか.その地域で食べないものを食べる(同僚宅に疎開していた人は蛙しか取れないので蛙を食べていた)しか食料がないのです。
高額な支払いとしては.こめ1升と布1たんが交換なんて極端な工学取引があったようです。

山に関しては.地主が立ち入りを禁止している場合があります。戦争前の日常生活を話題にした小説がいくつかありますので参考にしてください。戦争成金の近所の地主は.山への高額な立ち入り料金を請求して.金を集め山を買いあさりました。

食料が不足した例としては.軍による接収。軍に種まで取り上げられてしまった集落があります。
疎開者による需要増か。「山に食料はある」にはあります。しかし.翌年の収穫を確保するために残しておく場合があります。これを疎開者が食べてしまうと翌年に農村の食料がなくなりますので手放しません。
大体100軒の集落で必要な山林面積が1-2平方kmで.しかも.何年もかかって蓄積します。
秋口に収穫して.これを食べつづけるのです。ですから.とつぜん100人くらいが集団疎開してくると食料がなくなります。
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Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む

Q戦時中・戦後の配給制について質問です。

戦時中・戦後の配給制について質問です。

亡くなった祖母・曾祖母に聞いた話です。
香川県小豆島の農村の人たちです。農家なので当然、米や農作物を作っていました。
戦時中・戦後しばらくは生活物資のほとんどが配給制で賄われていたと聞きました。
特に戦時中はとにかく物がないので、「芋のツル」まで食べていたといい、農村とはいえ栄養失調の人もかなりいたと言っていました。

そこで以下が質問になります。
1、都会や農村、地域などで配給物資は違ったと思いますが、一般的に配給制で配給される物には具体的にどのようなものがあったのでしょうか?
2、配給制自体は、いつ頃に始まり、いつ頃に終わったのでしょうか?
3、配給制について、詳しく述べてある書籍や資料、過去のテレビ番組などがありましたらご教示下さい。

余談ですが、曾祖母の話では、街から「どうかお願いです。この着物と食べ物を交換して下さい」と来る人がいた。大体の相場みたいなものはあったが、曾祖母は自分も食べる物が無いけど相場よりも多めの米を渡して精一杯の事をしていたらしいです。あと供出という制度もあって、農家で米を作ってもそのほとんどを国に差し出さねばならなかったと言っていました。

難しい質問だと思いますが、ご存知の方がおられましたらご教示のほど、よろしくお願いいたします。

戦時中・戦後の配給制について質問です。

亡くなった祖母・曾祖母に聞いた話です。
香川県小豆島の農村の人たちです。農家なので当然、米や農作物を作っていました。
戦時中・戦後しばらくは生活物資のほとんどが配給制で賄われていたと聞きました。
特に戦時中はとにかく物がないので、「芋のツル」まで食べていたといい、農村とはいえ栄養失調の人もかなりいたと言っていました。

そこで以下が質問になります。
1、都会や農村、地域などで配給物資は違ったと思いますが、一般的に配給制で配給される...続きを読む

Aベストアンサー

日本では、国家総動員法により1938年~1946年まで、 米コメに関しては、1982年まで配給制でした。

1.米、野菜、塩、砂糖、魚、肉、etc,
2.1938~1946年
3.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%8D%E7%B5%A6_%28%E7%89%A9%E8%B3%87%29
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1%E6%B3%95

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む


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