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関東で平安以前の歴史の名所ってありますか?

神奈川在住なんですけど、
奈良時代とか飛鳥時代がとても好きです。

近場でそういう名所があると良いのですが、
無いでしょうか?
あるのならドライブがてら行ってみたいのですが・・・。

貝塚とかは嫌です。

よろしくお願い致します。

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A 回答 (4件)

国分寺跡、国府跡、郡衙跡等々たくさんあります。


群馬・栃木には大型古墳もたくさんあります。
相模国分寺跡(神奈川)や武蔵国分寺跡・東山道武蔵路跡(東京)、しもうさ風土記の丘・上総国分尼寺跡(千葉)、なす風土記の丘・しもつけ風土記の丘(栃木)、観音山古墳・保渡田古墳群(群馬)などが著名なところです。
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奈良時代や飛鳥時代の名所は復元されていることが少ないので、古墳時代が中心になってしまいますが…



神奈川県でしたら秦野市の桜土手古墳群なんかはどうでしょうか?
隣接して資料館もありますので、なかなか楽しめると思いますよ。
時期は7世紀まで入りますので一部飛鳥時代と並行します。

その他にも横浜市青葉区の市ヶ尾横穴墓なんかも岩壁に人が入れるくらいの穴がいっぱい開いてて面白いですよ。

墓ばっかりですとあれなんで…
港北ニュータウン内にある横浜市歴史博物館と弥生時代の大塚遺跡の復元公園なんかが、竪穴式住居や高床式倉庫を復元しているので楽しめると思います。

横穴墓に入る際には気持ち悪い虫にご用心を。
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この回答へのお礼

回答を有り難う御座います。

古墳は、小学校時代に学校でやたら習った記憶があります。
それからはあまり馴染みが無くなってしまったような・・・。
(大学まで出ていますけど)

懐かしいです。

少し調べてみます。参考になりました!

お礼日時:2009/11/01 06:39

埼玉県内の遺跡、史跡を3題。



さきたま風土記の丘 
行田市のさきたま古墳群は、1968年、その中の稲荷山古墳から金錯銘鉄剣が出土して、一躍有名になりました。銘文の文字の解読によって、神話と実在の間を揺れていた雄略天皇の実在を裏付けたからです。現在9基の大型古墳や中小の古墳と博物館建設等、地域一帯が風土記の丘として整備されており、世界遺産への登録運動がおきています。

和銅遺跡
秩父市黒谷の和銅遺跡は、708年に皇朝十二銭の第1番、和同開珎が作られた自然銅を産出した場所として有名です。

高麗神社
日高市から飯能市に至る高麗郷一帯は、7世紀末に高句麗から渡来した高麗一族が移り住んだ場所で、付近の先進的な産業(窯業や織物業など)に多大な影響を与えたと言われている。高麗神社は、一族の王高麗若光を祀ったもので、現在の宮司も高麗若光の直系とされている。埼玉県内では、海外からの観光客(韓国から)が一番多い場所である。最近、鳩山一郎氏がお参りをしてすぐに首相になったことが話題になったが、以前からこの神社にお参りすると出世すると言われ、歴代首相にも参拝者が多い。
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筑波山といえば「歌垣」かな?



ロープウエイもあるけど。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/tukuba.htm
とか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2% …
とか
参照願う。
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この回答へのお礼

面白そうですね、
参考にさせて頂きます。

回答を有り難う御座います!

お礼日時:2009/10/30 22:38

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Q平安時代の関東地方のようす

大河ドラマ"平清盛"を観ていると関東にいるのは未開の地の住人のように描かれますが実際はどうったのでしょうか?もしそうであるなら、何で伊勢平氏は源氏に敗けたのでしょうか?

Aベストアンサー

清盛の当時の関東(坂東)は京に比べると確かに田舎です
しかも坂東武者と呼ばれる多くの武士集団があった事も知られています
つまり「典雅な京の都」と「荒くれ者の坂東」という対比です

元々は平氏の勢力が強く、坂東平氏と呼ばれた彼らは広大な関東を次々と開拓し、私有田を増やし力を蓄えていきました
坂東八平氏と呼ばれる武家氏族が形成されたのもこの頃(鎌倉氏・千葉氏・三浦氏・梶原氏など)
源氏(清和源氏)の祖である「源経基」や藤原氏の中でも武士階級の人々も集まり、「坂東武者」とか「坂東武士」と呼ばれるようになってきた訳です
坂東平氏の内紛に端を発した「平将門の乱」で功績を得たのが藤原武士の棟梁、藤原秀郷
後に北条氏に滅ぼされる比企氏(鎌倉幕府御家人)は藤原秀郷の直系だと言われています

つまりそれなりに群雄割拠の地であったわけともいえるでしょう

清盛をはじめとする「伊勢平氏」は坂東平氏の傍流です
京でこそ権勢をふるいましたが、本来頼みとすべき坂東武者が非好意的でした

よく「源平合戦」などと言いますが、実態は京に上った勢力VS坂東武者
源頼朝側のメンバーを見ると坂東平氏の顔ぶれの多さに驚かされます
上総広常や千葉常胤、梶原景時、三浦義澄、和田義盛などは坂東八平氏の面々です
また一説には北条も平氏(将門のイトコである平貞盛の系列)とも言われています

源氏三代、のちは北条が実権を握ります
ひょっとしたら頼朝は「坂東平氏」による「伊勢平氏」つぶしに利用されただけなのかもしれません

清盛の当時の関東(坂東)は京に比べると確かに田舎です
しかも坂東武者と呼ばれる多くの武士集団があった事も知られています
つまり「典雅な京の都」と「荒くれ者の坂東」という対比です

元々は平氏の勢力が強く、坂東平氏と呼ばれた彼らは広大な関東を次々と開拓し、私有田を増やし力を蓄えていきました
坂東八平氏と呼ばれる武家氏族が形成されたのもこの頃(鎌倉氏・千葉氏・三浦氏・梶原氏など)
源氏(清和源氏)の祖である「源経基」や藤原氏の中でも武士階級の人々も集まり、「坂東武者」とか「坂東武士...続きを読む

Q古代関東の歴史があまり分かっていないのはなぜですか?

古代の関東と関西を比較すると、歴史的遺産でいえば関西の方が圧倒しているように思います。
大和政権や古墳時代の歴史もある程度解明されていますし、日本史の授業でもわりと習います。

一方で、関東地方の古代史はほとんど分かっていないように思います。わずかに平将門で歴史教科書に出てくるくらいです。
また、古墳がいくつか残っているのでそれなりの勢力があったことは間違いがないと思うのですが、歴史に出てくるような勢力の記録がほとんどないのはなぜでしょうか?
西日本であれば、大和政権以外にも吉備国、出雲国、筑紫国といった国があったことは分かっており、その程度の勢力があってもおかしくないはずです。

自分が考えた理由は以下の通りですが、どれに近いと思われますか?
①人は住んでいたが、西日本に比べて文明が遅れており、狩猟採集生活から脱却できていなかった。
②富士山の噴火、たびたび発生する地震、風土病の蔓延などで人が暮らすには不適当な土地だった。
③土地が痩せていて農耕に不適当であり、人口密度が低くて勢力の形成に至らなかった。
④それなりに人は住んでいたが、小勢力がお互いに戦乱を繰り返していたため文明の蓄積が進まなかった。
⑤古墳時代までには大勢力が形成されたが、大和政権が征服にあたり徹底的に破却し、歴史上から抹殺した。

古代の関東と関西を比較すると、歴史的遺産でいえば関西の方が圧倒しているように思います。
大和政権や古墳時代の歴史もある程度解明されていますし、日本史の授業でもわりと習います。

一方で、関東地方の古代史はほとんど分かっていないように思います。わずかに平将門で歴史教科書に出てくるくらいです。
また、古墳がいくつか残っているのでそれなりの勢力があったことは間違いがないと思うのですが、歴史に出てくるような勢力の記録がほとんどないのはなぜでしょうか?
西日本であれば、大和政権以外...続きを読む

Aベストアンサー

たしかに記録は少ないですが、そこまで未開だったわけではないでしょう(いや、未開が悪いとは思いませんが)。

まず、埼玉県の稲荷山古墳からは、雄略天皇の名前を記した剣が出ています。したがって5世紀後半までには関東も、ヤマト政権の勢力下にあったことはほぼ確実です。ヤマト政権のシンボルと言われる前方後円墳も、すでに4世紀からありますし、多分4世紀にはヤマト政権の傘下に入っていたのでしょう。
ヤマト政権の傘下に加わった地域では、文化交流が広く行われていたはずです。関東地方だけが文化面で、大きく遅れていたとは思えません。ちなみに水田稲作も、紀元前2世紀ごろには関東まですでに伝わっていたとされています。↓
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=24432

関東地方の古代記録としては、『常陸国風土記』が残っていますから、ここからある程度知ることができます。
ただやはり、『古事記』や『日本書紀』にあまり関東の記録がないことはたしかです。「蝦夷が反乱を起こしたから、討伐させた」とか、その手の記述ばかり目につきます。
これはおそらく、西日本各地の勢力が連合して、ヤマト政権を建てたからでしょう。ヤマト政権が「自分たちの歴史」を語るなら、当然西日本の豪族たちの伝承を主にとり上げます。関東の勢力は遅れて加わったので、ヤマト政権の歴史記録で彼らの伝承が、大きく扱われることはありませんでした。

関東地方の勢力で、記紀に比較的よく出てくるのは、「毛野氏」という有力豪族です。崇神天皇の子・豊城入彦(とよきいりひこ)の子孫とされていますが、これは史実ではなさそうです。「天皇の子孫」とされたのは、ヤマト政権が毛野氏を重視していた証拠でしょう。吉備や出雲などと並んでこの毛野も、古墳時代の大きな勢力の一つとされています。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E

記紀を見る限り、毛野氏の祖先には、蝦夷を討ったという話が多いです(景行天皇のときの御諸別、仁徳のときの田道、舒明のときの上毛野君形名)。ヤマト政権からみれば、東方の軍事の要という役割があったようですね。ちなみに、鹿島神宮(茨城県)と香取神宮(千葉県)にも、蝦夷に対する前線基地という面がありました。

古代関東や毛野氏については、多くの研究書が出ています。
私は主に『日本の古代(2)列島の地域文化』を参照しましたが、以下のような本も参考になりそうです。
上原真人ほか『列島の古代史(1)古代史の舞台』
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12250137/
熊倉浩靖『古代東国の王者――上毛野氏の研究』
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12439320/
志田諄一『「常陸国風土記」と説話の研究』
http://www.honyaclub.com/shop/g/g11358593/

たしかに記録は少ないですが、そこまで未開だったわけではないでしょう(いや、未開が悪いとは思いませんが)。

まず、埼玉県の稲荷山古墳からは、雄略天皇の名前を記した剣が出ています。したがって5世紀後半までには関東も、ヤマト政権の勢力下にあったことはほぼ確実です。ヤマト政権のシンボルと言われる前方後円墳も、すでに4世紀からありますし、多分4世紀にはヤマト政権の傘下に入っていたのでしょう。
ヤマト政権の傘下に加わった地域では、文化交流が広く行われていたはずです。関東地方だけが文化面で...続きを読む


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