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1.記紀には聖徳太子が送った遣隋使が中国への最初の使いのように書かれていますが、中国側の史料には
邪馬台国や倭の五王の時代に使いが何度も来ている事が書かれています。
これらの時代の事はなんで記紀には無いのでしょうか?

2.遣唐使船はしばしば難破したり漂流したりで半分くらいしか辿り着けていないそうですが、
白村江の戦いでは日本軍は一千隻もの軍船に数万の兵を搭載して大陸まで送る航海技術があったのに、なんでこうなったのでしょうか?
白村江の戦いでも実際はその数倍の軍船が建造されていたけれど、途中でかなり沈んでいるのでしょうか?
でもそのような記述はありません。
また千に数倍する軍船が建造されていたとすれば、それ自体遣唐使の時代とかなりの技術力
や生産力の違いが感じられるのですが。

A 回答 (5件)

2についてですが、その白村江の戦いの結果、安全な半島経由のルートが使えなくなったため、直接海を渡るルートを使わざるを得なくなり、非常に危険なものになったそうです。



遣隋使、遣唐使も白村江まではわりと安全だったらしいですよ。
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邪馬台国は三国志によって知られたわけですから当然その時代のことは日本には記録がありません



白村江の戦い:この時代は沿岸航海です
遣隋使になると沖縄や台湾あたりまで行ってから大陸に渡ったようです(古代日本の航海術参照)
白村江の戦の時に比べると非常に危険な航路を使用しています
理由はおわかりですよね
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>これらの時代の事はなんで記紀には無いのでしょうか?



未だに邪馬台国がどこにあったかわからない。
というような論争がされているように、
記紀にはそのあたりの時代の記述が非常に不明瞭のようです。

最近読んだ本では、
日本書紀は天武天皇の発願により開始されたが、
途中、藤原不比等の陰謀で事実関係が意図的に
隠蔽され、その結果その頃まで遡って歴史が歪められたのだ
というような話でした。

単なる憶測の域はでないでしょうけど、
説としては非常に面白いものでした。

私の拙い憶測では、記紀は大和朝廷の正史であって、
邪馬台国や倭の五王は正式な日本代表の使いではない
からあえて正史から外した
というようなことなのではないかと思われますが。

箸墓古墳や今公開中の桜井茶臼山古墳のように
その当時の古墳などの調査が進むとその当時の
諸事情も含めて解明されるのではないかと思われます。
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お初です


1.について・・・
邪馬臺国・倭の五王と近畿天皇家に繋がりがあるかどうかで考え方としては何通りもありますが、日本書紀は天皇をトップとした中央集権体制が整った後、中国の史書に倣って編纂された「日本の」歴史書です。時代を遡るにつれ国内史料が少なく、或いは全くないと言う事もありましょうし、自国の恥部であろう中国の属国(朝貢国)だった歴史を握りつぶした可能性もあります。「隋書」にあって「書紀」にない外交交渉の記事があります。
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>記紀には聖徳太子が送った遣隋使が中国への最初の使いのように書かれていますが、



確か、日本の古い書物には日本が隋に遣ったという言葉は、何処にも書いていないと聞いて居ります。唐に派遣したと書いてあるのみだそうです。それを、明治のお偉い先生方が、何を根拠にしたか知りませんが、それは間違いだ、隋に遣ったのだ、と言い出したと聞いて居ります。もしかしたら、私の聞き違いかもしれませんので、日本が隋に遣ったとどの部分に書いてあるのか、教えてくれませんか。私にとって、大変に参考になりますから。
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