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功利主義の善とはどういったことか
カント主義の善とはどういったことか
簡単に教えてください。

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A 回答 (4件)

さて、ベンサムは「最大多数の最大幸福」という人類の普遍的な目的をかかげ、


その目的にどれだけ役立つかを善悪の尺度にしようとしたのであるが、
それに対してカントは何らかの目的を達成するための手段としてある道徳的な行為を行うというのでは、それは真に道徳的であるということはできないと主張したのです。
たとえば、「世間の評判を良くしたいから、正直にする」というのなら、世間の評判を気にしないものは正直にしなくてもいいということになるし、
また、評判を良くするのに役立つのなら嘘をついてもかまわないということにもなろう。
これでは、「正直にする」ということが、いつ、いかなるところで、誰でも守らなければならないという絶対的な法則ではなくなってしまうのです。
「正直にする」とはそれは人間としてなすべき正しいことだからするのであって、それによって評判が良くなろうと、悪くなろうと、そんなことは問題ではない。
カントのいう道徳法則とはそういう絶対性を備えたものなのです。
道徳法則にこのような絶対性を持たせるために、カントは、それは「もし世間の評判を良くしたいなら」といった条件付の仮言命法で示されるようなものであってはならず、
単に、「正直にせよ」と無条件的に指示する定言命法の形式のものでなければならないと主張したのです。
カントは道徳の根本法則を次のように言い表した。「汝の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」。
(※格率とは、個々人の意志がめざす目的、あるいは何々しようと思うことを言います。)
カントによれば、そのような主観的な原理、つまり格率が、普遍性を帯びるような立場において行為せよといったのです。
カントはあたかも自然法則のように、矛盾なく普遍的に妥当することができるものを善とし、そうでないものを悪としたのです。
カントはまた、人間の内なる道徳律は義務の声としてわれわれに迫ってくると言った。カントの主張した道徳(善)は義務の道徳(善)でもあるのです。
これらのカントの主張は、功利主義的な道徳観がとかく利己的な利害の打算に流されやすい点を反省して、
利害に捉われぬ絶対的な行為の規範を打ち立てようとするところから生じたのだと思われるが、
その行為のうちに含まれる心情や目的性、効果性(結果)を全く無視して、ただ行為の形式のみを絶対視するのは大きな問題だと言わざるを得ない。
カントは純粋理性(理論理性)と実践理性を区別して考えた。
純粋理性とは認識のための理性であり、実践理性とは意志を規定し行為へと導く理性である。
ここに純粋理性と実践理性を分離したことにより、定言命法による行為がなぜ善なのかという問題が生じざるを得ない。
ある行為が、善かどうかを決定する場合、その行為の結果を確認しなければならないからである。
ところがカントは、結果がいかなるものにせよ、「何々すべし」という定言命法に従った行為であれば善だというのである。
たとえば、ある人が道で苦しんでいる人に出会ったとします。そこで、「彼を助けよ」という定言命法が発せられて、その人を病院に連れて行くとします。ところが、その人はかえって有難迷惑として感じる場合があるのです。
しかし、助けた本人は実践理性の発した定言命法に従ったのだから、それで満足だというわけである。
このように結果を確認しないで動機だけを問題としているのである。
これはカントが純粋理性と実践理性を、すなわち認識と実践を分離してしまったがために、そのようなことになってしまうのである。
本当は純粋理性と実践理性は二つに分かれたものではないのです。
理性は一つであって、その一つの理性に従って結果を確認しながら行為するのが、実際のあり方なのです。
これ以上の言及は避けるが、彼の思想には、他にもいくつもの難点があり、矛盾を生み出し、結局彼の道徳律は基準のないものとなってしまったのです。
カントは実践理性の与える義務のみに基づいて善の基準を立てようとしたのですが、それは冷たい義務の世界、規律の世界でしかなかったのです。
義務や規律はそれ自体が目的となるべきものではないはずなのです。
より良き社会の実現のために必要な要素の一つなのだと思います。
すみません、難しくてわかりづらくなってしまいましたね!
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カントの主張した道徳は、簡単に言えば「義務としての道徳」なのだが、少し説明を要するので、それは後回しにし、わかりやすい方の功利主義から入らせて頂きます。


快楽と苦痛を善悪の基準とする「功利性の原理」を唱えたのが、ベンサムです。
ベンサムは快楽と苦痛を量的に計算して、最も多くの快楽をもたらす行為が善であると見なし、「最大多数の最大幸福」をその原理としました。
彼は人間に快楽と苦痛をもたらすものとして、四つの区別される源泉があり、即ち「物理的、政治的、道徳的および宗教的源泉」と区分けしました。
その中でも最も根本的なものは物理的な源泉であると見たのです。
それは物理的な快と苦のみが客観的に計算できるからです。
結果、彼はできるだけ多くの人々が均等に物質的な富を得ることが最も望ましいと考えるに至ったのです。
カントは目的とか物質的利益にとらわれない「純粋な善」を主張したが、ベンサムは善の行いは人間の最大の幸福を実現すべきものであると主張し、特に物質的な幸福を追求することを積極的に肯定する立場に立ちました。
ベンサムはカントのような「義務としての善」ではなく、善の行いは人間の幸福を実現するものでなくてはならないと主張した点は間違いではなかったと思うのですが、
しかし、幸福を物質的な快楽を中心として捉えたところに問題があったと思われます。
物質的な快楽のみによっては、人間の幸福は実現できないからです。
実際、今日、先進国では多くの人々が物質的繁栄を受けるようになったが、
それと同時に、社会混乱と人間性の喪失が著しくなっているのです。
これは、功利主義によっては、真の幸福は実現できないということを証明する事実といえるのではあるまいか。
当時の社会背景(イギリスの産業革命)から考えればこういった思想が生まれてきやすかったといえましょう。
カントは次回にて失礼致します。
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>>功利主義の善とはどういったことか



「治める」がキーワードの善悪の善の意味。個人個人の善性を元に論じているわけではない。多くが不幸になれば悪。多くが幸福になれば善という思想。為政者としての立ち位置。

>>カント主義の善とはどういったことか

人間の本質に基づく善悪の善。ヘーゲルと同じで個々人の善性を元にした思想。 より宗教的な立ち位置。
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功利主義という場合、そのキャッチフレーズは


「最大多数の最大幸福」という言葉で表わされています。
言葉では、簡単に表現できますが、実際問題、「最大多数の最大幸福」という言葉がどのようなものかに関してはいろいろな意見があるようです。ロールズの「格差原理」とか。

カント主義は、ちょっと難しいです。
カント主義を「先験主義」(経験とかかわりのないもの)として、考えた場合、カントの義務の概念に重点を置いて、「我が内なる道徳律」を認める立場に成ります。
しかし、カントの「定言命法」の解釈によっては、万人が行うように、私も行う・・・と言った、社会契約説として解釈することも可能なようです。

ですから、社会契約説は一種の経験論的な考え方で、これと先験主義を同居させるのは、なかなか難しいところがあるようです。カントを社会契約説と捕らえると、カント主義と功利主義は、対立ではなく、親近感のある考え方になってしまうようです。

参考図書

「現実を見つめる道徳哲学」J.レイチェルズ
「ロールズ哲学史講義」上下

ユニークな読み物

「倫理学の統一理論」平尾 透
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