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日本人にとって海外旅行っていつから当たり前になったのですか?
戦後?
戦前はまず無理ですよね?
としたら1950年くらいからでしょうか?

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A 回答 (13件中1~10件)

No.6です。



詳しく説明します。
 日本での一般人海外渡航解禁は1964年です。これにより誰でも申請すればパスポートが取得できるようになりましたが、資産証明書又は海外渡航契約書を添付して申請する必要がありました。また、海外渡航には20万円以上の現金持ち出しが禁止され、海外から持ち帰る規制物品として時計(3個まで)があります。時計はその後解禁となりましたが、基本システムは1992年に改正されるまで変わっていません。
 1992年、機械化されたため発行がたやすくなり、資産提示又は渡航契約書の提出は不要となりました。
 1995年、1回旅券が廃止されて5年と10年に変更されます。同時に三国人規定が改正されました。この改正は円高(1ドル80円台)の影響があって海外渡航が急激に伸びたため、1回旅券の需要が無くなったためです。
 1996年、団体旅行よりも個人旅行が一般化し、この頃から大手旅行代理店も格安航空券の販売を開始します。

 No.8さんが79年にロサンゼルスへ行く時、旅行代理店へ行く前にパスポート申請は出来ましたか?出来なかったはずですよ。パスポート申請の時に渡航契約書を持っていってるはずです。
 ちなみに何故、詳しく覚えているかと申しますと、私が初めて海外に行ったのはソウルオリンピックの交流団での派遣でして、その際に旅行代理店から「この書類はパスポート申請に必要な書類なので大事にしてください」と、念を押されたためです。現在は何時でも申請できます。

 また、ビザの免除は1990年代(92年改正だったと思います)入ってからで、これと円高が相まって当たり前の海外旅行が始まったのです。

 No.8さんの事例は一般人では無く、経済に余裕のある方の事例です。70年代はヨーロッパ渡航費40万円(父が仕事で3回海外に行きました)です。航空会社も海外はJALしかない時代(ANAとJASへの海外路線解禁は86年)で、ジョニ黒は高級酒、海外土産を貰うのがステータスだった時代です。80年代の一般的日本人はテレビで海外を眺め、何時かは行ってみたいなぁと思っていた時代ですよ。88年の韓国渡航費は航空券5万円、滞在費が10万円かかっています。それも国からの補助金があって…98年に再度渡航した時は航空券が2万円でした。
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この回答へのお礼

お詳しいですね。
大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/11/03 20:00

”戦争中は厳しいですね。

”何時の戦争のことを考えておられるのか、良く分かりませんね。一般的に日本人が”戦時中”と言うと第二次世界大戦”(太平洋戦争)のことですが、お分かりでしょうか?
それと、揚げ足を取るようで申し訳ありませんが、現在でも海外旅行は
当たり前でしょうか? 私は2回オランダとドイツを旅行しておりますが、ちっとも当たり前ではなかったと感じております。3回目が可能かどうか判りかねております。
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この回答へのお礼

すいませんでした。

お礼日時:2009/11/19 21:38

旅行ではありませんが、1959年に大学の先輩がドイツに(DAAD)留学するのを横浜港の大桟橋に見送りに行きました。

フランスのマルセーユまで船でした。その4年ぐらいあ後だと思いますが、兄がドイツへ留学するときは(DAADでの留学)羽田の空港でした。その時、一回に持ち出し可能な金額は40000円でした。戦前でもかなりの人が色々な理由で海外渡航をしていますが、全くの観光旅行というのは割合から見ると多くなかったと思います。海外と言っても、中国などは如何だったのでしょうか。
1950年は昭和25年で朝鮮戦争の最中ですか? 海外渡航なんて日本人
には無理ですよ。
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この回答へのお礼

戦争中は厳しいですね。
有難うございます。

お礼日時:2009/11/10 07:36

すみません、沢木さんの前に五木寛之さん世代があったそうです。


林真理子さんが週間文春連載の『夜ふけのなわとび』に書いていらっしゃいました。

「青年は荒野をめざす」
http://www.amazon.co.jp/%E9%9D%92%E5%B9%B4%E3%81 …
 ↓
今こんな旅行をしたいと海外旅行カテゴリで質問したら、「違法です」と言われちゃいますけどね(^^;
オーバーステイにもなりそう。


今ふと思い出したのですが、岩波新書から出ている『グアムと日本人』という本を読むと、グアム旅行の変遷や日本のガイドブックの歴史が出てきて興味深いですよ。
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この回答へのお礼

そうですか。
ぜひ読んでみたいと思います。
有難うございます。

お礼日時:2009/11/10 07:36

1980年代はツアー旅行が主だったのでしょう。


たまたま先日、そんな雑誌記事を読みました。
沢木耕太郎の『深夜特急』は1970年代前半の話ですから、旅費を用意できれば一般人も海外には行けたということなのでは。

1980年代は、日本人が米国に行くにはビザ申請が必要だったそうです。
今はビザ免除対象国になっています。
テレビ番組の「アメリカ横断ウルトラクイズ」をやっていた頃は、海外旅行の有難みが今とは違いました。
ニューヨークに行くのが夢なんですから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1% …

※でも今でもニューヨークに憧れている、まだ行ったことない人はいますよね・・・・・。
海外旅行に対する興味度合いにもよるのですが。
「いいなー」「かっこいい」などと口では言っても、実際に行くほど関心がない人も多いので。
(お金や時間があるとしても、海外旅行には興味が薄い)

私は1994年に初めてパスポートを取りましたが、当時は10年旅券は無かったと思います。
でも確か、5年旅券を普通に取りましたよ。
手間は、最近の手続きと別に変わらなかったような。

95年以降は、個人旅行がしやすくなったんじゃないでしょうか。
96年に一人旅しようと思ってJTBに行ったら、「きままハーフメイド」とか、半分パッケージになっていて、ある程度選んで自由にアレンジできるタイプの個人向け旅行商品がありました。

かつては個人旅行=バックパッカーが多かったと思いますが、インターネットが一般化した後、2000年代はネット手配が手軽になり、一般人(旅の猛者でない人)も個人旅行がしやすくなりました。
昔は海外と通信しようと思ったら国際電話や国際FAX、国際郵便、あってもパソコン通信(インターネットほど自由につながらなかった)などで、それなりに通信費が掛かったんだと思いますが、インターネットだと国際料金が掛からないですよね。

敷居が低くなったので、何が何でも「個人旅行するべき」「ツアーは悪」と勘違いしたり、英語が読めないのに「海外サイトで手配するのが良いはずだ」と思い込む人も増えている感じがいたしますが(^^;


戦前は、お金持ちだと海外留学したりしてました。
あとは商人とか、道路工事の人が働きに行ったりとか、移住とか、漁師とか。。。
観光旅行は一般的ではないです。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/11/07 19:19

私は1979年、18歳の時にロサンゼルスへ1週間の旅行に行きましたが?


1970年代後半には既に一般化されていました。
当然、当時パスポートの取得に銀行預金残高証明など必要ありませんでしたよ。
1995年には既にバブル崩壊していますので、ANo.6さんの回答は明らかに間違いです。
なぜならバブル時代には多くの日本人が、その経済力を生かして世界中に旅行していますから。
当時は世界中どこの国に行っても、日本人のいない国はないと言われたくらいです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/11/03 19:56

私の周りの連中(いわゆる中流の下のほう)が、新婚旅行に国内ではなく海外にいくようになったころが、一般的になったということでないでしょうか^^



私は20年前に新婚旅行でタイ・シンガポールにいきましたが(当時はまだハワイが主流でアジアは翌年あたりからブームになりました)、だいたいその10年前くらいから、新婚旅行は田舎でも海外が多くなったような気がします。よって、1980年ころでしょうかね。
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この回答へのお礼

一般的の定義があやふやですいません。
ありがとうございます。参考になりました。

お礼日時:2009/11/03 19:56

1988年は相応の貯金か航空券を所持していなければパスポートが取得できませんでした。

1990年代に入り1回旅券が廃止され5年と10年(それまでは1回か5年)に変更されます。

海外旅行が一般化したのは1995年頃からです。つい15年前ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
参考になりました。

お礼日時:2009/11/03 19:55

当たり前=一般的という定義では十分ではないような気もしますが…



とりあえず数値だけ。

http://www.mlit.go.jp/hakusyo/kankou-hakusyo/h21 …
上記URLは政府の発行する観光白書です。この4ページ目に日本人海外旅行者の推移というグラフがあります。平成6年(1994年)ころに1500万人を超えており、それ以降1700万人程度で推移しています。1800万人を超えたことはありません。日本の人口を概算して1億3千万と考えると、これは多く見積もっても国民の14%に過ぎません。このうちのビジネス旅行者がどれほどになるのか分かりませんが、純粋に観光として海外に出ている人はおそらく人口の1割程度ということでしょう。

また、平成13年版の観光白書
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/kankou-hakusyo/h13 …
によれば、海外旅行者の数が500万人を超えたのは、昭和62年、つまり1987年となります。

どの時点で「当たり前」ととらえるのかは質問者様の自由ですが、人口の20%を超えてない状況では、「まだ当たり前ではない」という感じでしょうか。
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この回答へのお礼

とても参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/11/03 19:55

羽田から国際線が飛んでいた昭和50年頃までは、1ドル360円でした。

また、当時外国に持って行ける金額も限られていて、持ち出し金額をパスポートに記載しなければなりませんでした。

海外旅行が一般市民にも当たり前になって来たのは、成田空港が開港されてからで、それ以降「Japan as No.1」なんていう本がベストセラーになってバブル最盛期の頃だと思います。

その頃になると有名私立高校の修学旅行がヨーロッパとか、農協団体の研修旅行とか盛んでしたね。

ヨーロッパでは、北の工作員が留学生などを相手に、勧誘をしていたころです。
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この回答へのお礼

バブルが一番ですね。ありがとうございます。

お礼日時:2009/11/03 19:54

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Aベストアンサー

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http://ww1.m78.com/question/sail%20yokohama%20london.html

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教えてください。

Aベストアンサー

鹿地亘

第二次世界単戦中に中国に渡り、中国に協力し、日本軍捕虜の洗脳教育を行った。
戦後は文筆活動を国内で行うが、アメリカ軍に拉致されアメリカのスパイになるように強要された。
彼が中国で組織した、日本軍捕虜の洗脳機関、「日本人民開放連盟」には多数の日本人が参加し、戦後の左翼運動、日米安保反対闘争などで活躍し、中国よりの姿勢は、現在のアメリカ軍沖縄基地問題、南京虐殺事件、従軍慰安婦問題などに影響している。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-148.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%9C%B0%E4%BA%98

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戦前のトップ女優 アナウンサー
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%98%89%E5%AD%90

http://byeryoza.com/topic/log2004b/touhikou.htm

鹿地亘

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戦後は文筆活動を国内で行うが、アメリカ軍に拉致されアメリカのスパイになるように強要された。
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こんにちは~☆

休日を含めないで、おそよ1週間くらいです。

最寄りのパスポートセンターに電話して、例えば明日申請したらいつ出来る??って聞くと教えてくれますよ。

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お米1合(150g)は炊きあがり後の「ご飯」になった時は大体何グラムでしょうか?
また、炊飯ジャーなどで、容量6L等とありますが、このリットルはどの状態の事を差すのでしょうか?(米?ご飯?、容積?)

Aベストアンサー

一合150gのたきあがりは約300gです。ちなみにお茶碗一杯150gおにぎり一個100gすし一貫20gカレー一人前300g弁当一個220gが標準です。

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仲良しな国なんですか?

それとなぜアメリカはイラクの独裁政権をやっつけたみたいに、北朝鮮の独裁政権をやっつけないのですか?

Aベストアンサー

まず中国ですが、中国は北朝鮮と国交のある数少ない国の1つです。同じ共産主義政権という事もありますし、共産主義独特の思考で「同志」をかばうのは、これ当然の事なんです。

かつて連合赤軍や赤軍派・京浜安保共闘・反日武装戦線グループが日本の共産化を目指し、あちこちで犯罪を犯しましたが(よど号ハイジャック事件・ダッカ事件・連続企業爆破事件・あさま山荘事件・塚田銃砲店襲撃事件・M作戦・クリスマスツリー爆弾事件など)、結局彼らのした事は鎮圧・制圧されました。こいつ等も仲間を「同志」と呼び、裏切り行為があれば、リンチにかけて激しい制裁を加え、挙句殺してしまうところまでいっています。中国が死刑を強硬に行うのは、所謂、同志の「裏切り行為」に対する制裁と見せしめです。おっかないんですよ、中国って。日本でも共産党委員長になった宮本顕治元議員も同志を殺害したという事実があります。とにかく危険な主義・思考なんです。


アメリカが北朝鮮の独裁政権を潰せないのは、イラクの時みたいに大量破壊兵器を持っているのは分かってはいるんですが、問題はその兵器にあるんです。CIAが入手した情報によれば、核ミサイルは勿論、生物兵器・細菌兵器という怖っそろしい武器をゴロゴロ持っているからです。それと並行してアメリカは北朝鮮に対し「攻撃」の大義名分を持っていない。それがアメリカが北朝鮮に対し攻撃できない理由なんです。もしアメリカと北朝鮮が戦争状態に突入したら、アメリカの同盟国である日本にも甚大な被害が出ると、きちんと計算してるからなんです。それと中国にも。


北は中国の言う事なら何でも「ハイハイ」と聞きます。それでアメリカは今懸命に中国を通して北を何とかしろと影の部分で交渉しているのですが、先にも書いた通り、北と中国は「同志」。かばっているからいつまで経っても進展が無いんです。

まず中国ですが、中国は北朝鮮と国交のある数少ない国の1つです。同じ共産主義政権という事もありますし、共産主義独特の思考で「同志」をかばうのは、これ当然の事なんです。

かつて連合赤軍や赤軍派・京浜安保共闘・反日武装戦線グループが日本の共産化を目指し、あちこちで犯罪を犯しましたが(よど号ハイジャック事件・ダッカ事件・連続企業爆破事件・あさま山荘事件・塚田銃砲店襲撃事件・M作戦・クリスマスツリー爆弾事件など)、結局彼らのした事は鎮圧・制圧されました。こいつ等も仲間を「同志」と呼び...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む


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