【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

 wikiで「自我」に就いて調べてみました。
 でも難しい言葉の羅列でよく分かりませんでした。
 
 西洋哲学が使う「自我」
 仏教で使われる「自我」

 違いがあるなら、知りたいのです。

 私は、「自我」=私心(わたくしごころ)あるいは欲、煩悩の住む心と云ったような受け止め方なので、仏教的だとは思っています。

 よろしくお願いいたします。

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A 回答 (20件中1~10件)

最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって生じています。


自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙(無の無限の闇に対する自我の射影)。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。

「有」の実態を知ると、それは「無」とオーバーラップするものである事が分かります。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に、仮想的な認識体の断面を切ると、その認識体にとって、相補的不確定性を伴う存在による宇宙が見えるのです。

しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。
実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。
無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性(記憶=過去)」の相補としての「時空仮説性(予測=未来)」。
「相補」というのは、絶対時空を否定し、認識体との相対においてしか時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。

即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。

この回答への補足

 とりあえずこれで閉めます。
 もうこれ以上詰め込めません。
 あふれ始めました。
 “知識”が。

 後でゆっくりお礼欄に感想書きます。
 Kjinenさんにでも助けを求めようかと思いましたが、止めておきます。
 
 psytexさん。後ほど。
 ありがとうございました。

 

補足日時:2009/11/04 21:25
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この回答へのお礼

 この文章を読みきるのは大変です。

 だからなんとなく、カレー屋さんの前を通ったらいい香りが漂ってきたと言うレベルでの感想です。食べてはいません。

 ようするに、「有」と「無」は背中合わせであると、「有」がなければ「無」もない。「有」が在るから「無」が在る。

 というメッセージであると受け止めました。

 ありがとうございました。

                     自分への独り言(おつかれさま)

お礼日時:2009/11/05 00:40

こんばんは、NO.14です。

少し補足がたりなかったでしょうか?すみません・・・。

個の概念ですが、人間一人が死ぬと言う事と動植物の種が絶滅すると言う事が同列と言う意味で、一匹の蟻、一輪の花は個ではありません。動植物は種としての進化のみに生きていて、一匹・一輪単位での進化は無いと言う事です。

言い換えれば、人間一人一人は各々自己責任で進化が出来、自己判断で行動を取れると言う事でそれが神の子と言われる所以です。蟻や花は黙々と種として自然環境に順応して自己を存続させるのですが、人間は一人一人が自己の存続を決定している所に大きな違いがあります。

進化の決定権と言えば良いのでしょうか、人は一人、動植物は蟻・ひまわりとしての種が一つの自我という事です。全世界で種の絶滅が起きるのはそのような理由からです。

世界を見渡せば色々な人種が存在し進化の度合いも色々ですが、これは優越ではなく歩みの進捗度であり正に人種と言う種の集合自我による違いの現れです。人種は同じような波動の集合体であり、一人一人はその中の自我を形成して生きているとなります。

差異が生じるのはその自我の個性による所でもあり、人種や民族、価値観や宗教観までもが波動として引き合う仲なのです。その部分を共同行動と言い換えるのも悪くは無いでしょうね。人間は自我が無数に存在し、認め合い・ぶつかり合うために争いは絶えませんが、蟻やひまわりは淡々と生きているので争い(殺戮とかの・・・)は天敵などの他種間でしか無いのが理解のうえで足しになるのではないでしょうか。

まだ言葉が足りない気がしますが、私の稚拙な知識ではこんな表現が目一杯ですのでご勘弁の程・・・。
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この回答へのお礼

 哺乳類はともかく昆虫や植物について、全体を一つの単位としてみると言う発想は新鮮でした。

 考えてみます。

 ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/05 00:25

No.16お答えします(^^)/が


私自身、頭では理解出来るんだけど、言葉に表現と成ると難しいですね。
学問として、習得した事じゃないから。
生きて来た中での見聞きや、経験からなので<(*^^)

男男→完全な男

女男→女の優しさのような素質を持つ男

女女→完全な女

男女→男の人が持つ、勇ましさが素質として有るような女


脳科学に関係するような事ですが、男の脳と、女の脳は違うとされていますよね(^^)
染色体や、遺伝子も違うから、矢張り複雑な構築だと思う。
そこに、外からの影響・環境や、本人の経験などの関わりで、変化して行くと思うし(^^)。

説明に成ったかな<(*^^)
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この回答へのお礼

 自我とは後天的なもの、と言う受け止め方をしました。

 ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/05 00:21

NO.14です。



早速のお返事ありがとうございます。自我についての解釈はれぞれあって良いと思います。それが個性の現れであり各々の存在意義でもありますし。

NO.15さんの回答に私は共感するものがあります。宇宙は二極性から成り立っていますが、正と悪、陰と陽、プラスとマイナス、雄と雌・・・あげればきりがありませんね。自我と無我も然りです。波動とは二極性の現れでもあり全ての構成はフラクタルです。

宇宙を生成する源を無我の領域とするならば、その無我は何を持って無我を認識するする事が出来るのでしょうか?それは自我という相対する存在でしか認識できないってことです。

その無我をここでは非物質領域の神とするならば、我々人間は物質領域の神の子でありそれを自我と表現しても良いと思います。そして回答の補足に入りますが、他の動植物は神の子の三次元ワールド(現在は)を顕現させるべくサポートとしての存在であり、人間ひとりでの個は植物に例えるならばひまわりの花と言うのが個となります。

地震や天変地異などで動物が共同行動を起こすのは、彼らが個として行動しているのではなく、種そのものが個であるためです。

人にも人間として括る事の出来る種の領域もありますが、現在はあまりに唯物主義に洗脳されて、そこにアクセスする事は困難と言える状況です。人間ももっと自然と共生する社会システムを築ければ霊性(抵抗がある方は波動性)に富んだ生き方が出来たのでしょうが・・・。

今は一つの時代の終焉が訪れようとしています。マヤ暦で言う2012・冬至ですが、時代の流れも波動の現れ、振り子が大きく切り替わるように今はその時なのです。それが世間で言う次元上昇であり、アセンションと言われていることです。

信じる・信じない賛否はありますが、各々の自我が経験する事でありすべては選択です。自我を目一杯表現し、経験するのが人としての在りかただと思います。

自我について考える事はとても有意義であり、深遠でもありますね。

この回答への補足

 自我の解釈にはあまりこだわる必要はない、という意見ですね。
 そのような考え方でも、生きるうえでの支障と言うものはないように私も思います。
 これも人によりけりでしょうけど。

 また、表現は違いますがこの世界は、二面性があると私も受け止めています。

 そして動物の共同行動を、個であると言う捉え方をするならば、人間の生きる姿、これさえも共同行動であると、神や仏からは見えるのではないでしょうか。

 また、肝心な補足質問した件がよく分かりませんでした。

 種そのものが自我であるとか、それに今回の「人間一人での個は植物に例えるならひまわりの花と言うのが個となる」というところです。

 できればもう一度回答お願いします。

補足日時:2009/11/04 18:48
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自我について



宗教の場合
神性
仏性
のような信仰心から来る事。


心理学の場合
男男
男女
女女
女男
4つのパターンに区別出来る事。
人体科学においても同様。


哲学の場合
代表的には、善悪の判断が出来るかの問題。


このような事が、人それぞれ複雑に構築され、自我形成が有ると考えている。
私の持論です。

この回答への補足

 宗教的に、そして哲学的に取り上げた回答はいくつかいただいているので、心理学的に見る自我について、もう少し聞いて見たいのですが。

 4つのパターンと言うものがどういうものか、ちょっと知りたいです。

 よろしくお願いいたします。

補足日時:2009/11/04 14:11
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自我は、脳の思考からできてます。

この世界は、不調和の脳の世界と、調和の神の世界が出会うために、創られた、シュミレーションの世界です。だから人の心は、脳の自我と神の無我が合体して出来ています。だから宗教では、人は神の子といいます。合体した最初の頃、アトランチス文明頃までは、人の心は、神の無我が強く、神人と呼ばれ超能力がありました。しかし現代は、人の心は、自我が強くダメ人間になりました。この世界は、始めと終わりがあります。マヤ暦では、2012年が終わりだと言われています。終わると仕切り直しになり、人の心は、自我と無我に解体されて、自我は、脳の世界へ無我は、神の世界ヘ帰ります。
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この回答へのお礼

 この意見は何度か拝見しています。

 ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/04 14:06

こんにちは。

興味がそそられました。

自分なりの解釈になりますが、簡単に言えば自我とは個としての波動と言えるのではないでしょうか。人の波動の現れが3次元では肉体ということです。植物などは人間と違い種そのものが自我となります。

そして波動をマクロで見るならば宇宙・存在の根源となるのでしょう。神とか創造主とかは表現上の違いであり、同一と解釈しています。

我思う・故に我あり・・・波動は創造主を初めとして最後には各々に意識が生まれ、個としての意識を経験値として創造主は進化するのだと思います。

個としての進化も進むとするならば、いずれ創造主への帰依となるのではないでしょうか?そして宇宙は無限に進化していくのでしょうし、宇宙は無数にあるとも言えます・・・。

この回答への補足

 gigamax2さんが12人目の回答者さんですが、皆さん受け止め方や表現が違います。
 まずそのことに驚いてます。
 私の頭ではこれを整理するのはちょっと難しいです。

 心の発生点から考えてみるとか、心全体を自我と受け止めてみるとか、心と自我とを分けて考えるとか、たくさん回答をいただきました。

 gigamax2さんは「個」の現れそのものが自我であると言っているようですが、「植物などは人間と違い・・・」と言う点がわかりませんでした。

 違いをどのように区別されているのでしょうか。

 よろしければ再度回答お願いいたします。

補足日時:2009/11/04 11:52
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自我というのは人が生きていくうえでの最小必要限の意識と無意識の部分だと考えます。


タイムスリップで江戸時代に突然放り出されると、その時点から自我は崩壊していき、新たにその時代に見合った自我が作り出されるものではないでしょうか?
自我に目覚めるという言葉がありますが、10年後・20年後にはまた違う形で自我が作り出されていて年を取る度に感じるものではないですが、10年スパンで考えると自我も変化するもの、年齢に応じた自我とういうものがあるのだと思います。
当然日本以外の国で生まれていたならばまた違うでしょうし、これが自我です!と簡単に説明できるものではないような気がします。

この回答への補足

 自我という心は変化するもの、という捉え方が出来るということですね。

 そう受け止めました。

 ありがとうございます。

補足日時:2009/11/04 10:08
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私は素人です、心について興味が有ります。

学んだ事は有りませんが、今まで生きてきて、自分なりに感じている事を書いてみます。

人間には心が二つ在ると感じています。一つは「自我意識」と云うものです。この意識の能力はものを分析して論理的に処理をする能力の事です。従って割り切れるもの、或いは割り切れる事にしかその処理能力が無いと感じています。従って割り切れるものの総称である「有限」と云うものの理解しか出来ない脳と云えます。

もう一つ人間には意識が有ります。その意識は自我意識には感じられませんが、確かに存在しています。人間が生きてゆく事で起きている間に使っている顕在意識(自我意識)の時間を調べた研究が有りますが、その時間は僅かに5パーセントと云うものが有ります。と云う事は残りの95パーセントは潜在意識(無意識)が人間を働かせているという事になります。

人間には障害が有ります、例えば神経症と云うものですが、この神経症を例に挙げるならば分かり易いかも知れません。神経症は自我意識だけで生きてゆこうとしている事に相当します。実に95パーセントの潜在意識(無意識)の働きを無視して、自我意識のみで生きてゆこうとしている心の状態の事です。そういう風に「心」を使おうとする事によって「もう一つの意識」=仏性から圧迫が加えられます。

この圧迫の事を「罪悪感」或いは「違和感」或いは「生き難い想い」として自我意識は受け取っています。そうして日常生活までもうまくゆかなくなっている状態の事です。神経症とは心の使い方の誤りの事です。他の言い方をするならば、その人の認識の誤りと云う言い方も出来ます。

神経症の他にも考えられます。自律神経失調症と云うものです。今の医学でも解明できにくい現象の事ですが、この事にも関係が有ります。仏性とは「命そのものの働き」と云うもので出来ています。従って心臓も早くしたり、遅くしたりできます。腸の働きも自在に出来る者の事です。人間の心も働かせています。怖いものを見た時に身の毛がよだつようにして自我意識に教えている者の事です。或いは納期や期限が来た時に自我意識を急き立てるようにして「焦った」心持にさせている者の事です。

普通は人間は自我意識が自分の全てと感じていますが、大いなる誤りと云うべきと思っています。自我意識には有限の事しか理解出来ないという欠点があります。一つでも不確定なものがあるならば決断が出来ません。この事が有史以来人間に悩ましい問題を提起しています。それは一言で言うならば感情の問題です。感情の問題は割り切れないもので構成されています。言い方を替えたなら矛盾を含んだ問題の事です。割り切れない心の問題の事です。

死にたくないのに、命には限りがある、と云う問題の事です。死にたくない=永遠の命が欲しい。と云う事と有限の命と云うものが対立をして人間は大いに悩める者となっています。この永遠のテーマが宗教文化の発展を促してきました。

この問題の発生そのものが、自我意識と仏性(命の働きそのもの)との矛盾となっています。つまり心の矛盾と云う事になります。この問題の解決方法が宗教の中には存在しています。中でも分かり易い例を挙げるなら、それは「禅」の中に存在しています。

有限と永遠との矛盾の解消と云う事ですが、自我意識は「有限」で出来ています。仏性は「永遠」で出来ています。有限と永遠がぶつかり合って人間の心は「心の分裂によって」大変悩ましい、苦しい、生き難いという状態が出来ています。その状態の解消方法が「禅」の歴史には存在しています。

その最たるものが「禅問答」と云う事になります。左脳の自我意識には備わっていないもの、それは永遠と云うものの概念を理解出来ない事が自我意識の欠点と言えます。処が右脳に存在している意識「仏性」は永遠そのもので出来ています。自我意識が右脳の意識とコンタクト出来るなら、心の矛盾が解消できる事を禅の歴史は物語っています。

如何したら右脳の意識と出会えるのだろうか?と云う事が「禅問答」のテーマとなっています。或いはテキストと云っても良いかと思います。自我意識がもう一つの意識と出会うためのテキストが禅問答と云う事になります。

長くなって大変ですので、このへんで結論とします。禅問答が解けた心持を書いてみます。「生死の問題が解決した」と云う事になります。今までは左脳の自我意識が「主導権」を握って生きてきました。悩みが多くなるばかりで解決できませんでした。

その後は右脳の意識が主導権を握っています。「分別を捨てて」生きてゆく事になります。自我意識は「従」として生きてゆく事になります。キリスト教の例で言うならば、「神に会って和解した」と云う事になります。そうして「神の御心のままに」生きてゆくという事です。自我意識が出しゃばらなくなったという言い方になると思います。

その心持が仏教的に言うならば「涅槃」と云う事になります。今の言葉で言うならば「絶対の安心」と云う事になります。キリスト教的に言うならば「天国に住む」と云う事になります。心が二度と争いを起こさなくなる、或いは心の分裂が終結をした、或いは心の矛盾が解消した。と云う事になります。

この回答への補足

 一般的な表現で言うと「意識と無意識」についての考えと受け止めました。

 自我は意識できる心である、と仰っているような。

 それはちょっと違うよ、といわれそうですが。

 無意識の識に禅的精神があるようですね。

 ありがとうございました。

補足日時:2009/11/04 10:06
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No.7 & No.10です。

。。

あとの二つのURLは、ゼロとの関係で引用しようとしたのですが、良いところが見つからなくて、wikiを引っ張ってしまいました。

エンカルタのダイジェスト版の「空」
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_116153010 …
に詳しく書いてありました。

で、近年の西洋哲学における否定神学の考え方は、仰っておられる内容とは微妙に異なるように思います。どちらかといえば、まさしく「空」に近い考え方だと思います。

・・・といった話は、この辺りで打ち切って・・・

さて、自我という概念は思索の出発点であり、相対立しあう方向性を定め、その出発点でもあり、さらに、そういった相対立しあうように思われる二項以上のものごとを取りまとめようとします。

今回のご質問は、そういった自我へ(出発点へ)帰って行く方向性にて、そもそも「違いはないのか?」といったご主旨だと解釈いたしました。

自我がなければ、そういった出発点もなく、西洋とか東洋とかいった差異もなく、宇宙とか個人とか、全体とか個とかいった概念も生じ得ません。

「自我」とは、まさにそういったさまざまな相違の概念が生じるのと同時に、その境界として立ち現れるのだろうと思います。

右の手と左の手とで「ぱん!」と打ち鳴らした、まさにその「間隙」とともに、右の手と左の手と打ち鳴らすという行為とのまさにその「全体」とともに立ち現れるものだと思います。

この回答への補足

 パソコンの具合が悪いのか、エンカルタのダイジェスト版「空」を開けませんでした。

 上手くいえませんが出発点にこそ自我があると仰っているように受け止めました。

 西洋哲学的思考と言ってよいでしょうか。

 我思う、故に我あり。

 ここが出発点であると。

 

補足日時:2009/11/04 09:40
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Q《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。

 (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。
 
 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~
 § 広義の無意識と潜在意識

 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、
 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。

 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。

 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。

 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。

 すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。

 すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。

 (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 

 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。
 無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。

 (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。

 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。

 (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。
 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。

 (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?
 《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。
 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

 (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。
 
 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~
 § 広義の無意識と潜在意識

 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、
 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (2) とにも...続きを読む

Aベストアンサー

#23です。

>《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。
 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

そもそも、すでに、このように述べておられますから、自我もエス・無意識も超自我も(言葉が違うだけで)その存在は認めていることになります。
仮に《超自我》を《内に省みる心》と言った場合、何がどう違ってくるのか、その当たりが不明確ですよね。
省みるわたしと省みられるわたしが分裂するわけですから、要するに運用の違いということでしょう。
わたしとしては別に他の言葉でも構いませんが、大事なのはその中身、思考法だろうと思います。
このスレにおいては、そのことを正面から取り上げる形にはなっていないでしょう。
肝心の議論が傍系になってしまっている。
建設的ではないというのはそういうことです。

> 《わたし》でありつづける。
 これで たたかいは すでに勝利です。

「>《わたし》でありつづける」
これは何にでも言えることだと思います。
そのための方法論の問題でしょう。
方法論の比較をしても仕方ないと思うのですが。
ある方法論を批判するのは構いませんが代替案がないと・・・。
しかも、(もしあるなら)その代替案についての論議こそが大事なように思われます。
今回も文中で触れておられるのかもしれませんが、出だしが出だしなのでどうも焦点がぼやけてしまっている可能性はありそうです。

>《わたし》がいま・ここにいるという自覚だけでも すでに勝利だと考えます。

そうですね。
ただ、そのように自覚できないのが神経症なのですから、どのようにしたら自覚できやすいか、ということだと思います。
続く項目も順次拝見しましたが、自我をわたしと置き換えて表現することによる有意な根拠が見出せなかったので、あえてコメントは控えさせていただきます。

>大波津波の起こる社会の歩き方じたいには 何も言わないし むしろそれが自己運動をするにまかせている。まかせていることによって 一定数の患者が確保され 自分たちはおまんまが食える。こういう構図になっていはしますまいか?

その方面の実体は全く知りませんが、ブラジュさんの説でいくと人はみな評論家か政治家を志すべきだ、ということになりそうですね。
結局、真理(であるかどうかという問題はおいといて)を知ることによって人は一番安定するんじゃないかなと思います。
大波津波に対して何か言うから有意義ということには必ずしもなりません。

> エス・超自我・自我のシステムによって内面へ向かう自省のこころみは 無駄に終わる。こう考えます。

そういう見解があっても良いと思います。

◇  
#22さんとのやりとりでエディプス・コンプレックスが挙がっているようなので、若干触れてみます。
コンプレクスというのは本来複合という意味で、錯綜のように解釈してもよいと思います。
他の女性を母親と重ね合わせること、勘違いすること、とも言えます。
母親の子に対する愛情は一般的に言って相当強いもののはずで、しかも自我(と言うとまた怒られそうですが)の芽生える以前からの付き合いで、言ってみれば自分の一部として生きた時代を経るので半端ではない環境刺激として脳に記憶されないほうがむしろおかしいと考えるのが自然です。
詳しいことは知りませんが、大なり小なりこのコンプレックスは人間であれば誰もが持っているものでしょう。
ただ、錯綜しているからといって社会生活上支障がなければ問題視する必要はありません。
それがどうした、で済むわけです。

この用語はギリシア悲劇から題材を得ていますが2つの意味から命名されました。
ひとつは、男児が母親に対する愛着と忌避、父親に対する尊敬と反抗という相互矛盾を乗り越えて、それらを年齢を経るとともに解決し統合していく過程で精神的昇華が得られる、つまり超自我性が育まれていくという構図を示したものです。
また、エディプス王が国内の災厄の原因を調べていくうちに結局自らの行為がその原因であったことを突き止める、という過程が、内面にあるにもかかわらず本人が気づかない無意識にあるものを浮かび上がらせることによって悩みを解決するという分析手法と酷似しているというのが2つめの因子です。
このように、幼児からの心理的発達過程とそれを探る手法を表した用語で、近親相姦云々はこの用語の要旨とは殆ど関係ありません。

以上、一素人の個人的見解も多く含まれていますので悪しからずご了承願います。
今回のスレはこんなところで失礼します。
  

#23です。

>《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。
 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

そもそも、すでに、このように述べておられますから、自我もエス・無意識も超自我も(言葉が違うだけで)その存在は認めていることになります。
仮に《超自我》を《内に省みる心》と言った場合、何がどう違ってくるのか、その当たりが不明確ですよね。
省みるわたしと省みられ...続きを読む


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