プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

はじめまして、23歳の女です。
私の質問に嫌悪感を抱く方が多いだろうな、とは思いつつ抑えきれずに質問させて頂きます。

私は「死」に関して凄く興味があります。
元々読書が好きで色んなジャンルを読みますが、特に人の死を取り扱う話を好んで読みます。
しかし、いわゆる「美しい死」には全く興味がありません。
例えば恋愛小説で恋人が死んで…等は全くです。
殺人、自殺、人体実験など、出来るだけむごい描写のものを好んで読みます。
ちなみに中学の自由研究も「人体実験」でした。
(医学的な興味ではなく主に死までの過程、死体への興味ですが)
フィクションでもむごい(グロい?)話が好きですが
やはりノンフィクションかつ描写が生々しい物が一番好きです。
しかし死体が好きというわけではありません。(画像を見て楽しむ、などは皆無です)

私の一番の興味は「死んだらどうなるか」です。
非常に不謹慎なことかとは思いますが、好奇心が沸いてしまうのです。
もともと鬱の傾向があるのか、自殺願望も持ってはいたのですが
最近はそういった意味での願望が強くなっています。
私個人としては、死んだら「無」になると考えております。
しかし当たり前のように、答えは誰にもわかりません。
ですから知りたいのです。答えを。
「好奇心」という言葉は不適切かもしれませんが…。
普通の自殺願望とは少し違うのでこの言葉を選びました。
「何もそんなに急がなくても…」と言われてしまいそうですが、
きっと元々生に対する執着心がないのでは、と思っております。
哲学的に死に興味がある、と言いますか…。
(しかし専門的に勉強しているという訳ではなく、考えることが好きで…程度です)

最近このサイトを利用するようになって「死への恐怖」という質問が多いことに驚愕しました。
いえ、きっとこの考え方が普通なのだとも思います。
思いますが、むしろ私は、死がないことの方がよっぽど怖いと思います。

ちなみにですが、私は身近な人を亡くしたこともあります。
(むしろこれがきっかけのような気もしますが…)
母方・父方の祖父、そして実父を学生の頃に、最近では友達を自殺で亡くしました。
「悲しい」という感情はあります。
けれども、私自身の願望は消えないのです。

そしてもう一つあるのですが…実は自分が死ぬ時は、いわゆる綺麗な死は嫌なのです。
恐らく大半な方は綺麗な死を望むので少数派だとは自覚していますが…。
最近の私は、「一番むごい死に方」を探しています。
頭の中であらゆる場合を想像し、自分の死体を創りあげ、楽しんでいる自分がいます。

実際私は何度か自殺未遂を起こしています。衝動的なものもありましたが…。

死にたいなら勝手にしろといわれそうですが…
「死への恐怖」を読んでいるうちに、やはり異常なのか?と…
こういった考えの方は他にもいるのか?という疑問が沸いてきたのです。

そしてもう一つ、こういった類の自殺願望はどのような方法で改善するのだろうか?
恐らくこれは専門医に聞くべきだとは思いますが…。

拙く、まとまりのない文章で長々と書き申し訳ないのですが、
もしよろしければ意見を聞かせてください。

A 回答 (26件中1~10件)

死んだらどうなるか、それは焼いた場合は植物の一部になると考えています。

もしかしたら動物に、運が良ければ人間の一部にもなるかもしれません。何だかへんに思うかもしれませんが、実際、今の日本では死体は焼いて、(火葬)墓に埋めます。生物の体のほとんどは有機化合物で出来ています。つまり、燃えやすく、更に、燃えると二酸化炭素が発生します。この二酸化炭素は植物の光合成には必要です。そのため、植物に吸収されます。そして、植物のデンプンになります。これが運が良ければ野菜で、人間に食べれるとからだの中にそれが入ります。
    • good
    • 4

 人間は死から逃れる術がありませんが、死後の話に関心を持つ人は多いようです。



 しかし、この世界がコンピュータシミュレーションならば、いざ知らず、現実の世界では、テレビゲームのように人生のセーブデータをメモリーに保存して復活するというわけにも行きません。

 時間がエンドレスループになっていて、死んだ直後に誕生した頃に逆戻りして、人生を繰り返しているのならば、死を恐れる必要は無いでしょうが、それは人間の儚い夢であって、現実は違うようです。

 死ぬ直前まで行って助かった人の話は数多くあります。臨死体験と呼ばれるものですが、最近は研究が進んで、血液中の二酸化炭素が多くなると夢で見る幻覚であるのがわかって来ました。

 臨死体験は男と女で大きく違います。男は澄み切った冷たい空気の中で、異様に美しい星々が見える暗い青空と花畑を夢で見た後、幻獣と呼ばれる白黒の魔物が現れます。魔物は眼が4つあり、指の数は通常よりも多く、透明な牙のような歯が無数にあり、胸は骸骨のように骨張っていて、腹は奇妙な形をした突起が無数にある鎧を着たような姿をしていています。長い尻尾が生えており、西洋ではワルキューレ、バルキリー、ドラゴンなどと同一視され、東洋では神や竜と同一視されるものです。

 映画やアニメで描かれる竜やドラゴンは怖くありませんが、幻獣を初めて見た人はショックを受けるほどの恐怖感を感じるようです。幻獣に会って、未来に起こる出来事を教えられたり、誰も知らない事実を教えられる人もいます。

 幻獣に会った後、夢の世界が闇に包まれて消え去り、夢から覚める人もいれば、幻獣に乗って死の世界へと旅立つ夢を見る人もいます。

 もちろん、夢で見るだけの話で、実際に、そういう世界があるわけではないのですが、人間の男というのは、そういう夢を見ながら死んでいく生き物であるようです。夢で出会うのが幻獣ではなく、両親や家族の姿を見る人もいます。

 女性の場合は、月や扉のような丸い物が見えて、その中に吸い込まれて、トンネルを抜けて行くような感覚なのだそうですが、臨死体験に関してはリンクを参照してください。

 文明が始まる以前から臨死体験者は数多くいたはずで、宗教や政治が始まるようになったのは、臨死体験と不可分ではないようです。臨死体験者が夢見た理想が、現実社会で実現されている例が多いように思います。臨死体験が無かったら、人類は現在のような文明社会を作り上げようとしなかったかもしれません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%AD%BB% …
    • good
    • 1

>私個人としては、死んだら「無」になると考えております。


>しかし当たり前のように、答えは誰にもわかりません。
>ですから知りたいのです。答えを。


と、ありますが……私は矛盾しているとは思いません。
むしろ当たり前の事ではないでしょうか?

たとえば月に降り立つ前の我々人類は、月には何があるのだろうかと心を踊らせたのであろうと思います。
しかし実際に月に降り立って知ってしまえばそれは新たな知識として人類に溶け込んでいってしまい、想像しなくなる。


分からないからこそ、知りたい。


好奇心というものはもともとそういうものだと思います。

なのでそれが今まで誰も解き明かせなかった『死』に向かうのはごく自然。



あくまで私個人の印象ですが、投稿者様は身近な方の死になんらかの責任、といいますか……そのようなものを感じているのかな、と。
血縁の方は分かりませんがご友人は自殺ということで…
無意識のうちに自分を責めてしまっているのかもしれないと思いました。


簡潔にすると、
『死』を目の当たりにした自己の無力感からきているのではないか?
ということです。

だから自分を痛めつけるような想像をしてしまうのかな…と。


あくまでも私が投稿を見て(深読みして)思った意見ですので……

投稿者様が全然違う、と憤られたりしないかと内心ビクビクしてたりします…


それでは長文失礼いたしました。
    • good
    • 5

私も死に対してとても興味がありますよ。


死のサイト教えてあげます。死について色々な記述がかいてあります。
http://x117.peps.jp/minnashinda
    • good
    • 0

死ぬことを語るに、生き抜くことを避けることは青いまま落ちる果実のようで、好ましいとは思えない。



虫に食われようがイビツであろうが甘くない果物はないのだろう。

ならば、最後まで生きるべきだ。自分が生まれたくて生まれたことに異論を唱える必要はない。

貴方に、リアリティーのある空間や思いや現実をプレゼントできなくて申し訳ないと思う。

今が幸せでないと思えるなら、もう少し待ってみよう。子供の頃は、帰る道を違えたら良いことがあるだろうかといつも思っていました。

足下を見て歩けば、イイモノが落ちているかとも思って何日もそれをしました。

今は自分の中や関わりの中に宝物を見つけています。

もしも、立ち止まったままでいたら何も得ることはなかったでしょう。

ご飯をしっかり食べて、ちゃんと生きることをしていれば良いことはささやかに訪れる。誰からのプレゼントだろう・・
    • good
    • 1

 『異星の客』というSF小説の中では、死は「分裂」と表現


されています。私が死について考える上でとても参考になった概念
でした。質問者様が仰るような残酷な描写は全然ありませんが、
もし興味があればどうぞ。
以下は私が実際に経験し、感じたことです。

 (1)祖父の頭

   祖父の頭は生前、禿げ上がっており、どこから見ても不恰好で
  ゴツゴツした頭の形がハッキリわかるほどでした。
  祖父が火葬されて窯から出てきた時、頭骨がかなり原型を留めて 
  (特に後頭部)いたのですが、その形がまんま生前の祖父の頭の形
  だったのです。不謹慎を承知で述べますが、思わず笑ってしまい
  そうでした。

   何が言いたいかというと、私は死の先は「無」ではないと
  思います。祖父の個性は死して白骨になっても尚、生きている
  私にその存在を知らしめていました(頭の形という一側面ですが)。
  人間の自我・意識も同じなのではないでしょうか。
  現時点で生きているあなたの思考・願望は、死んだ後はそのまま
  残ることは無いと思いますが、あなたらしさは留めたまま「分裂」
  して何処かに存在すると思います。

 (2)私の自殺願望

   幼少からの宗教環境からか、「死にたいと思うのはいけない」
  という観念が物心ついた頃からあった為、
  「消えて無くなりたい」と願ってました。今考えれば、
  言葉が違うだけで中身同じですねw。「暴力はいけない」という
  観念も強かったので、身体を壊して死ぬこともせず、ただ真剣に
  「消えて無くなりたい」と願っていました。すると、
  その願い自体が消えてしまいました。

   それから考えて思ったことですが、人間誰しも「思い」や
  「願い」、「欲求」などがあるのですが(質問者様もそういう
  ものがあってここに質問されていますよね)、それは全部
  「生きる」ための道具です。「死ぬ」ための道具ではありません。

   質問者様に「死にたいと願ってはいけない」と強要しても、
  自然と出てくるものを消し去ることは無理だと思います。
  ただ、あまり自分の中にある思念を分析したり変えたりしようと
  せず、ありのままを祈願してみてはいかがでしょうか。
  願いの方向性や強さをとことん極めていってほしいです。
  そしたら自然と「生きたい」ってことに行き着いてしまうと
  思いますよ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E6%98%9F% …
    • good
    • 0

失礼ながら


死への好奇心は自然なものと思いますが、それに捉われ過ぎるのはよくない事のように思われます。
何故よくないかと言えば
自然な生命の働きを否定し抑圧してしまう恐れがあるようにも思えるからです。

人の死というものは、その場に立ち会ってみて始めてその真実を知る事になります。
死への憧れなどは微塵も無くなってしまう感じさえします。
そこには、美しさという基準では測り知れぬ厳粛さがあるものです。
この厳粛さは体験によってしか味わう事のできぬものです。
言葉では言い表し尽くせないものです。
その場に立ち会えば、自殺願望の甘い夢など思いもつかぬ事になるはずです。

全く、死に急ぐ必要など無いものと思います。
いずれ年を取れば、そうした場に数多く立ち会う事にもなります。
死に対する結論は、人それぞれにそうしたところから得られるものでしょう。
自然で静かな死を目の当たりにすれば分かるものと思います。
死の厳粛さと生きている事の貴重さが同時に感じられるはずです。

人の死に立ち会う機会も無いまま、空しい自殺願望に捉われてばかりいるのだとしたら
死への思いから離れた時間を少しでも作ってみるようにして下さい。
それは楽しい工夫をする時間でもあるはずです。
その時間が増えてゆけば、自然と自殺願望の悪夢から解放されるものと思います。
そして、自殺願望が心の自然な一部なのだと感じる時が来るものと思われます。
    • good
    • 0

直接の回答ではありませんが、ご参考までに。



人間の興味というのは、森羅万象、万物に対して及ぶので、
死に対する興味が沸いてもそれは何ら不自然ではありません。

こちらに死に関するゴリラとの手話の記録があります。
http://blog.coach-bali.com/?eid=399796

対話手はゴリラですが、人間がそれを考えても不自然ではない、
という事になると思います。

但し、この不自然ではないと私が呼ぶ範疇は
「死とは何だろう」「死んだらどうなるんだろう」という
未来の状態の知識獲得に対しての興味であり、
「自分が積極的にその状態になりたい」という願望は、
生き抜く事を前提に存在する生物の一種である人間としては
一般的ではありません。

これはもっと突き詰めると「後戻りできないから」という理由があるからですね。
つまりは「もし後戻りができるのであれば、死をも体験してみたい」という
興味は人間に備わっていると考えています。
昔、臨死体験を興味半分で能動的にしてしまう学生などの映画がありましたが、
これを考えてみればいいでしょう。

では、後戻りできないから、という理由で死を選ばないか、
と言われるとそうでもありません。
自殺を選んだ人間は枚挙にいとまがありません。
信念の故に毒を飲んだソクラテス。
誇りを保つ為に自害した小カトー。
苦悩の末に切腹した大西瀧二郎。

大体の場合、現状の状態よりも死んだ先の方が良い状態を見込めるから、
後戻りできないデメリットよりも死んだ方のメリットが大きくなる、
という理由で死に至るようです。

----
但し、現在において自殺をするとどうでしょう。
死んだ後に神様みたいな方から怒られるんじゃないでしょうかね。
「せっかく生まれたのに命を無駄遣いしおって、
 勿体無いにも程があるわ。どうせなら周囲の人間を幸せにしとけ」
とかね。
※私が想像する神様は結構なけちんぼで語彙が少ないので
 想像の上ではこんな言い方しかしません。

また、死んだ方々は生きている人間に対して、
「早よこっちゃ来ーい」
なんて言っているフィクションをよく見かけるのですが、
はっきり言えば、それは死んだ人のワガママなんであって、
本物の愛情ではありません。

本当に我々を愛しているなら、健康的で楽しく幸せにすごしている
我々の姿を見たい訳ですから。

逆の立場になればきっと分かると思います。
次の例を考えて見ましょう。
自分の息子・娘が生まれて、自分自身は早々に他界してしまった。
それでもって、こっち(あの世)は寂しいから早く来てくれー
なんて言おうものなら、周囲の人間(死んでる人)からフルボッコですよ。
あるいはガン無視される。
お前一人のワガママなのに、唯一の血縁である子供に
迷惑かけてどうする、と。
暖かく見守ってやれや、と。

で、結局は天国は我々を見守ってくれている人が仰山おると。
天国へ引っ張っていこうとするような輩はむしろ悪人です。

----
自殺をすれば、現在の困難や不安から逃れる事ができますが、
それって本当に自殺するような問題かな? と思う事はよくあります。

 解決できる問題をあれこれ悩むのはムダ、解決できぬ問題をくよくよ悩むのもムダ
 (映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』)

自殺をするのは「勿体無い」。
自殺をするのは、今後あなたが作り出すであろうものの可能性を
ゼロにするので社会的損失である。
天国にいる人達的には自殺を推奨していない
(むしろ現世の我々の生活を助けてくれるでしょう。)
神様的には投資したものが無駄になっちゃってむしろ迷惑。

というのが私が考える「自殺しない方がいいんじゃね? 」という理由です。
    • good
    • 0

よくわからないので、ご教示願います。



>>>
最近の私は、「一番むごい死に方」を探しています。
頭の中であらゆる場合を想像し、自分の死体を創りあげ、楽しんでいる自分がいます。
<<<
とのことですが

1.死に至るまでの、生きている間にむごい状態(拷問に近い状態)を受けることを想像し、かつ、死後の遺体には何ら触れることは想像していないのか?

2.死に至るまでは苦しまずにいて、死後の遺体にむごい(と思われるような)ことを行うことを想像しているのか?

3.死に至るまでと、死後の遺体の両方において、むごいことを受けている状態を想像しているのか?

の、いずれでしょうか?
>>>
主に死までの過程、死体への興味ですが
(中略)
死体が好きというわけではありません
<<<
なので、死体に対して何らかの行為を起こすような状況は想像しておられないようにお見受けしました。

それゆえ、「1」だと勝手に解釈してしまうのですが・・・もしかしたら、そうでないかもしれないし、上記のいずれでもないかも知れない・・・ご教示願います。

===以下、勝手に「1」と「2」のそれぞれの場合を想定して書いておきます。

1-1.もし、死後も「わたし」といったなにがしかの人格がどこかに残る場合
「どうして、死んだ途端に、体を痛めつけるのを止めてしまうの?」と思うことでしょう。貴方は、自身の「体」を痛めつけたり自殺したりすることができても、自分自身の「こころ」を消滅させることはできないということです。もし、生きている間も、死後も、「こころ」を痛めつけ、消滅させてしまいたいとおもっていたとしても、死後も、なにがしかの形でのこるのであれば、どうしようもない状況に追い込まれるでしょう。
はっきり言ってしまえば、無駄な抵抗を試みていると言わざるを得ません。

1-2.もし、死後「わたし」といったなにがしかの人格が全く残らない場合
貴方が「生きてきた」という事実は、他者との関連性、およびあらゆるものごととの関連性のうえに、永遠に記録され続けるということです。貴方は、こうして他者と意見交換し、他者のこころと通じ合うことを試みておられます。そういった意味で、貴方の「こころ」にとって「死はない」といって良い状態がつづくことでしょう。他者のなかの「貴方」までも、むごい状態になってしまうということは、決してないということです。
もし、「あなた」に関するあらゆる物事を死後も「むごい」状態にしておきたいと思っても不可能です。死んでしまって、人格に相当するものがなくなる(意志を働かせることがなくなる)のであれば、むごい状態だったものも、きれいにされてしまう(変容していく)ことに対し抵抗できないでしょう。
ようするに、無駄な努力だということです。

---
2.
きれいに死にたくない、むごい死に方をしたいとのことですが、死後に遺体を放置すれば、自然にむごい状態になっていきます。

周りの人が迷惑であるため、早急に処分されるので目にすることはありませんが、昔は、よく目にすることのできた光景のようです。

「九相詩絵巻」を参照してください。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/deki/dekixx/aco …

死後の自然な変化を受け入れることなく、死を想像して楽しんでも、無意味でしょう。

このあたりは、養老氏の「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)を参照してください。
    • good
    • 0

No.15です。


非常に醜い死を考えたいのですね?
こんな事を書き込みしてよいのか、迷いますが。

「切腹」十字に切る遣り方です。

目は充血し、涙が出る。
鼻からは、鼻水が出る。
多分、口からは、涎や血が出るだろうか。
確実に腸は外に出る。
血は一面に広がる。
お尻からは、汚物が出る。
時間が経つに従い、上記の事が展開しますよ、きっと。
痛みは究極でしょう。でも、途中で気絶したら、最悪ですよ。


死体片付ける人間は大変ですよ。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す