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科学は、疑うことから始まり、宗教は信じることから始まるといいます。
科学と宗教は相反するもの、又は、別の物という言われ方をしています。
自分も、そう思っていました。


しかし科学は、事実と言う名の神を信仰する宗教ではないか?
とふっと思いました。

その事について、すこし考えたのですが、
宗教では、神を絶対視します。
科学も、事実(実験結果)を絶対視します。
(自分も、実験結果は神聖なものだ、それは絶対的なものだ。と教えられました)
たしかに、実験結果に疑いを持ち、別の角度から実験を行うことをしますが、これは、より事実を確認する行為で、事実を絶対視する心は同じだと思います。
事実を深く研究するように、例えば、キリスト教では、聖書を研究したりします。

これらのことから、科学者も、神聖とする神が違うだけで、宗教家という考えも成立する気がします。

この考えに対して、意見を聞かせてください。
.

A 回答 (15件中1~10件)

 はじめまして、Hidocchiと申します。



 ご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。

 愚生と致しましては、逆に“信”なるものから、論を進めさせていただきたく存じます。ちなみに、結論は、ご質問者様と同様、科学も宗教とみなしうる(共通する点がある)というものでございます。

 現在では、科学、例えばニュートンの万有引力の法則は皆様もご存知かと思います。また、質量保存の法則等の種々の“法則”も、もちろん、ご質問者様のみならず、大部分の方たちにも周知の事実かと思われます。

 ですが、これら“法則”、例えば、引力の法則を例にとりますと、原因(メカニズム)はいまだに詳細は不明でございます。さらに、これらは経験則でもあるため、明日にどうなるか? とは保障できないとも考えられます。
 確かに、各物理法則は今日まで、矛盾なく成り立ってきました。ですが、この経験則が明日、さらには1年後も確実に成立しているという保障はどこにあるのでしょうか?そもそも、そのメカニズムすらも判明していないのですから。
 
 ですが、私たちは、これを“信”じて、生活をしています。おそらく明日も存続し続けると信じながらです。

 一方、神社、お寺さん、教会もしくは各ご家庭のお仏壇、さらには、内なる神との対話の中で、今日の恵みに(無事一日終えることができたことに)感謝しておられる方もおられるかと思うのです。その前提をなしているのは、やはり超越的存在者(神さま等です)の存在の“信”に基づいてのことかと思うのです。

 つきましては、科学も宗教と共通するところがあり、またみなすことも決して無理な論理ではないも
のと考えております。

 お役に立てるところがございましたならば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
僕の質問した、深いところに触れているので嬉しい内容です。

自分が、科学に疑問を感じたのが似たような理由です。
例えば、光の速度は30万km/sとなっています。
これは、観測結果ですが、何故、30万km/s かは、誰もわかりません。
この様な例が、様々な科学の分野で散見され、疑問が深まりました。

そもそも、科学とは何なのか?
神が、事実は教えても、そのメカニズムは教えない。というような印象を持ち、宗教との類似性を感じ、質問を投げかけました。

ありがとうございます。

お礼日時:2009/11/11 21:26

宗教と科学の違いは、根拠を置くところが、その体系の内部におくか外部に置くかではないですか?


例1)宗教は神はこういった、なぜそれが正しいのかと問われれば、それは神がいったからだ
例2)この理論はこういう現象を説明する、なぜそれが正しいかと問われれば、それは実験で確認してくれ
※実験というのは私たちの経験で、経験自体を信じるかどうか、経験が何がしかの法則をもつはずである
 という信念は、科学という体系とは別物だと思います。といいますか、それを議論するのが哲学だと思います。
※例1はたぶん宗教を冒涜しているかもしれません。でも信じるって、極論すればそういうことだと思っています。
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この回答へのお礼

なるほど、根拠を置くところが違うということですね。
参考になりました。
ありがとうございました

お礼日時:2009/11/13 05:42

その考え方をあらゆるものに応用したとき「宗教ではないもの」として何が残るのかと考えたのですが、私の想像力の及ぶ範囲でそれに当てはまりそうなものが思いつきませんでした。


で、もし全てが「宗教」であるという結果が出るのだとすると、その元になった「宗教」の定義かその解釈がおかしいのだろうと私は予想します。
なお、どうおかしいのかは判りません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/11/13 05:38

ご質問に対して、純粋に書き込みしています。


実際の言葉を置き換えているから、難解かと思います。

想像力と、社会問題を足して考えてみて下さい。

そうすれば、私の言い分は少しは理解出来るかと思います。

日本では、何が有りましたか?

「魔女裁判」の表現しか出来ません。続いていますよね。

論外と思うのは、道理です。

あれを認める事に成りますから。

科学と、宗教が一体に成った時、人間は、究極の道を歩みます。
自分たちの利益を重んじます。

あの事は、世界の民族や宗教紛争とも違いますよ、絶対に。
教義内容知りませんが、実際に起きた現実ですよね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そういう心配をもとに考えているのであれば、意見も分かります。

参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/11/12 11:21

NO.7 です。


>ニュートンの万有引力による運動方程式が、アインシュタインの相対性理論で違うとされても、光速に近い場合の話なので、一般的には使われていますし、それに、アインシュタインは、光と同じ速度で移動したら光はどう見えるか?という疑問から相対性理論を作ったので、ニュートンの理論を疑うところからスタートしていませんよね。

質問者様は上記の例を
>科学は、事実と言う名の神を信仰する宗教では?
の傍証とされるのですか?
私はむしろ逆の例だと思います。
物理現象をより精緻に捉えるために、現代では宇宙科学者でさえニュートンの計算法を捨て、相対性理論に従っています。
アインシュタインは光のふるまいにおいてニューとン理論の矛盾に気づいて彼の理論を打ち立てたのです。有名な話だと思いますが。
それぞれ過去の事実を絶対としていたら得られなかった科学史の成果です。
ご参考になれば。
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この回答へのお礼


>物理現象をより精緻に捉えるために、現代では宇宙科学者でさえニュートンの計算法を捨て、相対性理論に従っています。
アインシュタインは光のふるまいにおいてニューとン理論の矛盾に気づいて彼の理論を打ち立てたのです。有名な話だと思いますが。
それぞれ過去の事実を絶対としていたら得られなかった科学史の成果です。

宇宙科学者でさえ、といいますが宇宙科学者だからではないのですか?
ニュートン理論の矛盾・・・の例は知りませんでした。詳しいサイトを教えてください。
私は、科学史に詳しいものではないです。

それにしても、科学史の成果・・・て表現おかしくないですか?

お礼日時:2009/11/12 09:32

受付中なので、書き込みします。


落ち着く為に、気に成ってたから。
あなた様は「カルト系宗教」と科学との繋がりによる、影響や歴史を知っていますか?
そこに「魔女裁判」を取り上げた理由が有ります。

宗教は自由だから、中傷,批判はしません。

図書館にて、日本の宗教辞典を見ると分かると思います。持ち出し許可申請が必要な場合有り。理由は書く必要は無いと思いますが、確か!?図書館にもよりますが。

内容は、
神道各宗派
キリスト教各教派仏教各宗派
イスラム教
ユダヤ教
新興宗教
カルト系宗教
個人的に宗教家名乗る者
セミナーと称する団体
などのカテゴリーから成る辞典です。
信仰する対象
創立者
本拠地の住所,電話番号
歴史(弾圧含めて)
信仰内容,思想
などの詳細が書かれいる。

それに目を通すのも良いと思います。
私自身、全部に目を通した事は無い。無理が有り過ぎ、あまりにも宗教が多くて。
代表的な話題性有る所だけを確認した、10年くらい前に。

科学は、矢張り学問的な探求,探究心(欲求)の世界に思います。
宗教とは、考えたくない。怖いもん、考えが…。
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この回答へのお礼

だって、

>私は、宗教には、色々と宗派有りの教派有りと、常々理解する者です。カルト系は論外ですが。

と、考えているんでしょ。
だったら、最初に「魔女裁判」を出す理由がないでしょ。

お礼日時:2009/11/12 02:09

宗教は、人の幸不幸を扱っています。


ですから、勝手に作った邪教は結果、不幸になってますし、見極める基準では法を犯してるかどうかという点で見極められると思います。
 物質を扱う科学の中には、仏教の考えから来る因果があります。
 高等仏教(仏教では高低があり、低い教えは、導くための方便といわれます)
 高等仏教からいえば、物と心は一体といわれています。
 ですから、今、高い技術を手に入れて、クローン技術など、その用い方、人格、人間の行動、倫理、心のありよう、それが問題視されています。
 つまり、科学技術によって邪な考えで使うと人が不幸になるレベルまで科学は進歩したと思います。
 仏教では、非常に現実的で、仏とは自分の命の表現とも言われてます。
 また神とは、外側から結果を手助けする「働き」手伝ってくれる人の行為として認識できます。
 生命は独立して完全ではないので、恵みとして無条件に与えられてる水や空気、太陽の光などで完全となり支えられている存在であり、また周囲の人によって不完全を補足している存在です。
 そういう自己自身が完全に自由ではない。つまり水や空気という束縛がある以上そこからの自由は少ない存在であり、その認識のない生命を無知の危険から、教えてあげるのが宗教で扱う道理などではないでしょうか?
 まったく空想を扱うのは方便であり、自身の生命尊厳を教え信じるというのが正しい宗教にはあります。
 つまり現実と通じるのが高等仏教です。
 仏教の生命感から言えば、人間生命にかかわる俗世の法も含みますし、科学も含むのは当然です。
 宇宙生命などは仏教から古くから言われていますが、すでにかたられています
 今は、世界的に西洋哲学は生きずまり、経済も生きずまっているといわれています。
 ですから、今、仏教でいう自力本願、自己の成長ということや他者に対して喜びを与える実力の人格が求められる時代となりました。菩薩の心とも言われ、誰の心にも存在するものです。
 こういう真理の現実の正しい宗教観から言えば、物質も生命の一側面であり、外側の関係によって、多くの生命活動の姿を現す物質も、人類のために生かすという考え、哲学からすると、心と物質は一体であり、それらも含みます
 ですから、科学者もよい人格考えで人に貢献できるのであれば、哲学宗教家ではないでしょうか。
 ですから、認識を深め、科学で不幸を作らないという重大な部分の責任を負っているのが科学者と認識しましょう。
 すでに、自分の精子から多くの人をクローンで妊娠させたアメリカの犯罪者がいます。無宗教や哲学がないとこういう人格。はっきりいえば犯罪者。自己の利益しか考えない独裁者的マッドサイエンティストを作ります。
 人はやり方作り方を覚えます。これは真理です。そのやり方、その真理を知り、それを幸福に使うか不幸に使うかは、人の心によります。
 ですから真実の教えの高等仏教では、昔から物質と心は一体であり、
 すべては生命哲学で語られてるところです。
 科学で使われる因果であっても、自己の性、力、相、作、原因、結果を助ける縁(これを神の働きとして人の行為としてみます)、そして結果、その結果を報じられる。
 これらがすべて自分と一体であるといわれています。
 高等仏教では詳しく述べられていますし、そこから幸福な生き方、道理なども自己の心から行動行為などに発展し自分の人生、生き方をも含みます。つまり一日に現れる何万という心の変化などすべては自分の生命の姿の実際の姿でたまたまというのはないといわれます。
 ですから、堀江のように東大に行っても、犯罪を犯す命があり、その原因から逮捕され有罪となるという実際の姿が現れてくるといえます。
 科学もやはりそれと同じように、原因や間接の影響で変幻し性質を明らかにし現れ、その特性を生かし製品にしたり利用していますから、生命哲学から言えば、科学も含むというのは昔から言われてます。
 しかし、勝手に作るのではなく、物理法則のように、現実にあることが説かれているのが、高等仏教です。くれぐれも間違いがないように。
 また、勝手に作る人がいたりするなどともすでに指摘されて、邪悪であると論じられてます。
 宗教は手垢にまみれ汚れてますが、中には正しく認識している人がいますので、正しく理解されるといいと思います。
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この回答へのお礼

すみません。
頭が悪いので、長い文章は苦手です。
最初の書いてあったことを、最後の方では忘れてしまうんで・・・
ただ、気になった事を数点書きます。

>すでに、自分の精子から多くの人をクローンで妊娠させたアメリカの犯罪者がいます。

そういうのは、クローンと言わないでしょ。これをクローンとすると普通の夫婦生活で子供は、全てクローンになっちゃいますよ。
クローンをwikiで見ると

「クローン人間」というと、「自分と姿・形が全く同じ人間」というイメージが一般にあるが、仮に自分のクローンを作る場合、核移植した細胞を仮親の子宮に着床させ、妊娠・出産することにより作られるため、現在の自分とは年齢のギャップが生じる。

というように、精子は使っていませんから・・・

回答者様の内容は全て把握していません。
できれば、今の1/3ぐらいの分量で、要約した内容にしていただくとありがたいです。
(自分の頭のいい訓練になりますし、文章力もUPしますよ。)
それから、スペースの改行で文章を作っていただくと、読みやすいのでお願いします。

又の、投稿お待ちしています。

お礼日時:2009/11/12 02:27

科学的思考は、事実からの帰納にて、なるべく多くの物事に共通で無矛盾な論理的説明を与えようとすることにあるでしょう。



したがって、一見、相矛盾するような事象についても、包括的に説明可能な理論・論理が見つかれば、それで良しとするだけになるでしょう。
すなわち、「説明可能性」なだけで、それが「真理」かどうかは別問題と捉える立場だと思われます。

ただし、あらゆる物事が「包括的に説明可能」だという前提条件を暗黙裏に認めていることから、大統一理論といった概念が生まれるわけです。「包括的・統一的に宇宙全体の法則を扱いうる」ということをアプリオリに信じるところは、唯一神を信じるところと根底は同じだと思います。

言い換えるなら、唯一神との関係で、全体を統一的に扱いうる理論(的可能性)が見いだされたならば、(アインシュタインも信じていたといわれるところの)スピノザの神よろしく汎神論的な世界観を共有可能だと考えるところに科学的な方向性があると思います。

一方で、全体の部分としての個は、それぞれが異なっていて、全く同一の状態のモノは存在し得ないので、統一的な扱いとは相容れない訳です。こういったところに、哲学的な立場があると思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

大統一理論と唯一神を重ねる発想はありませんでした。
とても、参考になります。

お礼日時:2009/11/12 02:33

科学者は(自身が認めた個々の)事実を、その整合性によって一時は信じますが、そこでとどまることなく、更にその向こうにあるより整合性の高い事実を求めるために、究極的にはすべての事実を証明できる絶対的真実を得るために行動を続け、途中得られた「事実」を決して絶対視することはありません。

途中「様々の事実」を総合してひとつの法則性を求めることはありますが、一旦得られた法則性それすらも捨ててしまうこともしばしばあります。科学者は常に疑い、動いています。一箇所にとどまることはありません。彼らが当面絶対視するものがあるとすれば、傍らにある個々の事実ではなく、自分の疑う心、日々動いて不安定な精神そのものです。
>宗教では、神を絶対視します。
その通りです。ですから科学とは全く違うと思います。
>キリスト教では、聖書を研究したりします。

神から離れることの出来ない宗教者は、聖書を(客観的に)研究したりは出来ないと思います。いるとすればそれは歴史研究とかの科学者でしょうね。
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この回答へのお礼


回答ありがとうございます。
ちょっと分からなかったのは、

>一旦得られた法則性それすらも捨ててしまうこともしばしばあります。科学者は常に疑い、動いています。一箇所にとどまることはありません。彼らが当面絶対視するものがあるとすれば、傍らにある個々の事実ではなく、自分の疑う心、日々動いて不安定な精神そのものです。

の具体例を挙げていただけますか?
ニュートンの万有引力による運動方程式が、アインシュタインの相対性理論で違うとされても、光速に近い場合の話なので、一般的には使われていますし、それに、アインシュタインは、光と同じ速度で移動したら光はどう見えるか?という疑問から相対性理論を作ったので、ニュートンの理論を疑うところからスタートしていませんよね。

思いつかないので、再考のために具体例を教えてください。

お礼日時:2009/11/12 02:43

”この世には自分以外は実在していないのでは?”と感じられたことはないでしょうか。

私は時々この恐怖に襲われます。
人間の本質的な矛盾は自己の存在を確証するすべを持たない事。
これが17世紀の聖書研究者デカルトの科学的観察による事象の自己認識の正しさを問うた結論が”我思う故に我あり”のうめきになったと、そして科学が進歩した今もこの答えに変わるものはないと私は思っています。
思うに、宗教と科学は自己認識、自己存在の術としての方法論の2者であり、己の5感を信じず疑問を感じるならば、世界は自己の中で構築しされ、その中で自己を見いだされると、このことに共感すれば宗教につながり。
5感に頼ることに矛盾がなければ自己の外に世界は構築されそこに存在する自己を見いだす事に、それはすなわち広義の意味で科学に根ざすものと思われます。
人は不安定なものです。マイナス273度から何万度にも達する宇宙の中で、僅か36.7±5度が生存範囲です。5感を管理し思考の中心である脳はさらに狭い範囲でしか正常に働きませんし、病害虫ににも犯されやすいものです。科学も宗教も自己の存在を確証するような主が現れない限り常に人間には科学も宗教も必要とし、そして狂気も混在するでしょう。

”事実”は真に見えにくいものです。”事実らしき”ものはある時は偽りの科学に、ある時は偽りの宗教に利用されます。

以上の解釈の元に、科学は宗教とは見なせないと考えます。あえて言えば両立する2者とみています。
いずれにせよ両者は 絶対的な真実 を求めています。ここに犬猿の間柄と思われる所があるのでしょう。
しかし本質的な違いは宗教は過去に真実を求め、科学は未来に真実を求めています。
ここに完成された押しの強さの宗教と、未完成の科学の弱さの(謙虚さ)差が生じてます。
たまに宗教が無遠慮に見えるのはこの違いでしょうか。
以上が自己以外の存在を”科学”という道具で認識出来ればありがたいと思っている哲学には無知の私の考えです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>しかし本質的な違いは宗教は過去に真実を求め、科学は未来に真実を求めています。

と書いていますが、気になり宗教について、色々調べました。
wiki、手持ちの辞書とか、
wikiの例は長いので、手持ちの辞書での解説を転記すると
[宗教]
神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗な物から分離された禁忌された神聖なものに関する信仰。

と書いています。過去に関する見方では無いようです。
つまり、「神は現在でも存在して、信仰者を見守っている」様な現在進行形で、神を意識しているのではないかと解釈できます。

それから、デカルトの「我思うゆえに我あり」は、現在では批判も少なくないんですよ。 以下のwikiを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D% …


ただ、質問者さんは
>この世には自分以外は実在していないのでは?”と感じられたことはないでしょうか。私は時々この恐怖に襲われます。

と書いています。
これは、哲学者が同様の不安に襲われ、哲学を始めた契機になっている例が少なくないんですよね。だから、質問者さんは、哲学をやっていく資質が高いかもしれません。

意見は、参考になる点も多かったです。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/12 03:05

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