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私は浄土真宗の教行信証や歎異抄に感激し、個人的に念仏を唱える用になりました。
私は阿弥陀仏を真理(縁起)を擬人的に表現した物と捉えています。しかし、そのような解釈は真宗の教義上、許されるのかどうか大変気になっているのです。
どなたか浄土真宗のお詳しい方がいらっしゃれば、教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

A 回答 (10件)

 こんにちは。

少しばかりお話をさせていただきます。

>>私は浄土真宗の教行信証や歎異抄に感激し、個人的に念仏を唱える用になりました。
 このような方がいらっしゃると私も大変励まされます。南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛

>>私は阿弥陀仏を真理(縁起)を擬人的に表現した物と捉えています。しかし、そのような解釈は真宗の教義上、許されるのかどうか大変気になっているのです。
 この問題は古い時代からずいぶんと議論が重ねられてきた、浄土教の根幹の問題を内包した質問です。その代表的な一例をまず取り上げたいと思います。

 野村直太郎氏の『浄土教批判』という著作おご存知でしょうか?東京大学COE研究室特任研究員ワルド・ライアン氏は、この書を「浄土教の非神話化」と評しています。「非神話化」非神話化はドイツの神学者ルドルフブルトマンが提唱した概念です。日本仏教に限らず、近代の宗教は「迷信」という問題を抱え、それを排除しなければ時代に相応しないという危機感に直面していました。
 そんな中、伝統的な浄土系の宗派は地球が存在するごとくに西方極楽浄土が存在し、アメリカにオバマ大統領が存在するごとくに西方極楽浄土には阿弥陀仏という人格者が存在すると、事実のごとくに説いていました。しかし、野々村氏は「往生思想を歓迎するような時代はもはやおそらく永久に去った」と述べ、近代科学の到来によって「前近代的」な浄土観・阿弥陀仏観は、もはや封建主義の残物に過ぎなかったのです。
 この野々村氏の批判の対象となったのが「三世因果」「六道輪廻」「極楽往生の救済思想」、そして「宗教神話として築かれた弥陀成仏」でした。野々村氏によれば、原始仏教には往生思想などなく「印度人の大嘘」に過ぎないといいます。
 では浄土教はただの嘘かといえばそうではなく、そういった神話化をそぎ落とした先にある浄土教の本質は「二種の深心」であると言います。二種の深心とは、絶対に救われることのない存在である自分(信機)が、阿弥陀仏によって絶対に救われるという(信法)ことで、この絶対に救われないものが絶対に救われるという「反論理的形式」こそが、我々を「はじめて計らひに囚われたる生活より脱出せしむる」と言います。野々村氏は浄土教を来世云々というのではなく、現世の苦悩を解決する教えであると位置づけたのです。
 この本は当時の仏教界で爆発的に売れました。当時においては大ベストセラーといっていいでしょう。しかし、この後多く批判に晒されることになります。その批判の中心となるのが、「一体何を信じてるの?」ということです。野々村氏は二種の深心が浄土教の本質と捉えていましたが、自分自身は絶対に救われないという「信機」はいいとしても、阿弥陀仏が絶対に救ってくださるという「信機」は「印度人の大嘘」と否定べきものになってしまいます。
 こういった論争は長引きましたが、その結果野々村氏は当時龍谷大学の教授でしたが、その座を追われることになります。しかし、この野々村氏の問はいまだ完全に決着を見ていません。私は中外日報社の復刻版『浄土教批判』をもっていますが、その前書きに龍谷大学学長二葉憲香氏の一文が添えられています。そこを抜粋すると、

「『浄土教批判』は、浄土教特に真宗に対する近代の問いに対して大胆で画期的な提言であった。師の提言は浄土往生の思想を取り除いても親鸞の宗教の本質的、現実的な意義は失われないとするものであった。この提言は、教団内伝統的な立場に衝撃を与え、強い拒否反応を呼び起こした。教団は野々村を追放したが、師の提起した問題は、真宗の根幹に関わる近代の問いであり、追放不可能である。この問いに答え、真宗信仰の本質と歴史的現実とのかかわりを明らかにするような教学は未確立であり、低迷に域を出ていないように見える。」

と述べておられます。
 私は

>>阿弥陀仏を真理(縁起)を擬人的に表現した物と捉えています。

というtaka-kazuさんの質問を読んだとき、この野々村直太郎氏を思い出しました。確かに親鸞聖人は阿弥陀仏の姿を「法性法身」「方便法身」に分けて説明されておられます。『唯信鈔文意』には、

「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。」

とお説きになり、「法性法身」色もなく形もなく、我々の心では思うことも出来ず、考えることも出来ない「法(悟り)」そのものであるとします。そして、「方便法身」は法性法身よりあらわれたと説いておられます。確かにこれを「非神話的」に解釈すれば、阿弥陀仏は真理の擬人的表現した物と解釈することも出来るかもしれません。しかし、阿弥陀仏が真理の擬人的に表現した物とするのならば、我々が信じる「阿弥陀仏なんて本当はいない」ということになってしまいませんか?確かに「阿弥陀仏を真理(縁起)を擬人的に表現した物」とすれば現代人には分かりやすいし、納得もしやすいかもしれない。けれども、それと同時に私達を救ってくださる阿弥陀仏はいないことになってしまいます。

 「方便」と言う言葉がありますが、浄土真宗では『教行信証』証巻に曇鸞大師のお言葉を引用し

「正直を方という。外己を便という」

と説かれています。この言葉は、偏りも歪みのない正直な心を「方」と言い、自分の都合を全く考えずひたすら人々のためだけを思う心(外己)を「便」と説いておられます。
 つまり、一般的に方便とは「真実に導くための便宜的な仮の手立て」という意味で使われています。「嘘も方便」と言うのがその代表的な使い方ですね。その意味で考えれば、方便法身は「便宜的な仮の仏」と言うこともできるでしょう。しかし、親鸞聖人にとって方便とは便宜的な仮のものではなく、「差別なく自分の都合がよかろうとも悪かろうとも、ただひたすらに衆生を救わんとすること」を方便と言うのです。親鸞聖人にとって方便法身の阿弥陀仏は、法性法身の阿弥陀仏へ導くために表わした便宜的な仮の仏(あなたの言葉を借りれば「真理(縁起)を擬人的に表現した物」といえるかもしれません。)ではなく、「真実の救いの仏」であることが伺えます。
 
 しかし先にも野々村直太郎氏話の中で申したように、この質問の回答はいまだ決着がついていません。私の意見を言わせていただけば「阿弥陀仏がいらっしゃることを信じることに意味がある」と思っています。真宗学者曽我量深氏は「私達を救う働きを阿弥陀仏と呼ぶ。」とおっしゃったそうです。私も「なるほど」と思います。しかし、同時に自分の考えが前に出て、仏様を後回しにしているようにも感じます。私は「私達を救う働きを阿弥陀仏と呼ぶ」というより、やっぱり「阿弥陀仏が私達を救ってくださる」と言うほうが好きですね。

 さてここまで書きましたが、ぜんぜんまとまってないですね。申し訳ありません。こんな文章でも参考にしていただければ幸いです。
 いくつか参考文献を挙げておきますので、お時間あったら調べてみてください。
●参考文献参照
 『浄土教批判』 野々村直太郎 中外日報社
 『真宗の本尊』 宮城 顗 同朋選書
 『中外日報』 近代の肖像
 307、野々村直太郎(1)(H21.05.28)
 308、野々村直太郎(2)(H21.06.02)
 309、野々村直太郎(3)(H21.06.09)
 『弥陀身土思想展開史論』 神子上恵龍
この神子上恵龍氏『弥陀身土思想展開史論』は名著です、一度目を通して見てください。あなたのおっしゃる意見から、私の意見まで網羅されているはずです。阿弥陀仏の仏身論(阿弥陀仏はどのような仏であるかと言う理論)の論書で今のところ最高のものです。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

文献のご紹介と、私の見解に対するご意見、ありがとうございます。
確かに、阿弥陀仏を真理の象徴としてしまうと、救いの働きが説明できなくなってしまいます。私もそれに気づいてしまい、随分と悩ましい日々が続いていました。
結局、自分としては開き直って、阿弥陀仏がいらっしゃらないと考えるよりも、いらっしゃると考えたほうが、同じ人生でも楽しいものになると捉えています。また、歎異抄にあるように、「地獄は一定住みかぞし」のこの身ならば、阿弥陀仏信仰が正しかろうが間違いだろうが、それに一身を投ずるしかないとも思っています。
ご紹介された文献については是非とも探してみます。それでは、のちほど。

お礼日時:2009/11/17 10:05

> 平野修先生、宮城しずか先生



のご著書は私もお薦めです。
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仰りたいことはおおむねその通りだと私は思います。



もっと言うならば、真理自体の擬人的表現というよりも、真理が一人一人に届いた時、その届いた人にのみはじめて登場する神話的表現だと私は思っています。あくまでも、「届いた時」というのが重要なところです。
というのも、『大経』では「阿弥陀仏」ともうひとつ、「法蔵菩薩」という神話的表現が出てきます。
『大経』では法蔵菩薩が「人々を助けたい」という願いを起こし、長い修行の結果、阿弥陀仏となったという物語がしるされています。
これは、真理が人間を目覚めさせようとはたらきかけてくる様子を「法蔵菩薩の願いによる修行」として表現しているのであろうと思います。
ですからまとめると、真理が人間にはたらきかける作用を「法蔵菩薩」と名づけ、その成就を「阿弥陀仏」と名づけたと言えると思います。

実は、このような非神話化の議論は昨今の真宗の教学では当たり前のようにされています。しかし、そこで必ず確認されるのは、ただ非神話化し、ものごとを体系づけるだけでは、ただの理論で終わってしまうということで、その神話的表現に託してしか言えない事があることを忘れてはならないということです。

私自身もそう思います。
なぜ真宗のお寺の本尊は名号ではなく阿弥陀仏の木像なのかというと、人間を真実に出会わせるために、真実そのものではもちろん分からない、名号でも分からないので、人間でもなんとか分かる具体的人格にまでなっていることの象徴だと言われます。

現代人にとって神話的人格が出てくる仏教の世界は、その時点で胡散臭いものになってしまいますから、非神話的説明というのはとても重要だと思います。
しかし、いざ仏道を歩む者になると、神話的表現に託さざるを得なかったことも私自身少しずつ頷けてきています。

参考までに、平野修先生、宮城しずか先生、広瀬杲先生の本がお勧めです。
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念仏というと、一般の書店で売られている一般書が断然多いのは浄土真宗がらみですが、私は、特に何の根拠もないのですが、日本人の心というのか、集合無意識というのか、知らず知らずのうちに、日本人の物の考え方に大きな影響を与えているのは、こと念仏では、実は時宗なのではないかと勝手に思っています。



「うちは(浄土)真宗○○派です」というおうちが現代日本では、既存の宗教団体、教団としては、最多数派であると思います。現時点、教団としては、「我が家は時宗です…」と意識的に思っている人数は少ないと思います。が、こと念仏に関しては、実はしらずしらずのうちに、時宗の影響が一番大きいのではないかと…。

時宗は、現代では、教団としては大きくないように見えますが、時宗はむしろ日本人全員の心の中に溶解してとろけて入っているのではないかと…。

真宗でも「念仏は無義をもって義とす」と言います。多分、たとえば本願寺公式の教義(?)というと大袈裟で、読む本によって違いはあるでしょうが、まあ大抵は「自力のはからいのないこと」というような解説になるのでしょうが、そういう難しいことは置いておいて、素直に普通に読んだら「念仏することには理由はない」ということでしょう。

念仏する行為はその外部にそれ以外の目的を持たないということ。

お金を儲けるために魚を取るなら魚を取る行為はお金を儲けるという魚を取るということの外部にある別の目的の為の手段に過ぎませんが、一方で趣味で魚釣りをするならば、魚釣りはその外部に別の目的を持ちません。ただ純粋に魚を釣っているだけですね。レジャー。暇つぶし。

念仏も念仏したら祖霊がやすまるとか、商売繁盛、無病息災、家内安全、交通安全……等々、その手の、外部の別の目的が達成されるということのための手段ではなく、まあ、その手のことはなーーーーんにも起きないわけです。念仏する行為そのものに意味があるとまで積極的な表現に言い換えてしまうと、ちょっと言いすぎかもしれませんが…。

まあ少なくとも、教学とか難しい文脈ではなくて、普通に素直な日本語での日常会話の意味では、阿弥陀仏とはなんだろうかとか理屈で考えることや、無病息災を念じてとか、と念仏とは違うわけです。普通の文脈では。(難しく考えたら、気がついたら口から念仏が出ていたというまさにそのとき、阿弥陀仏…という反語的な考えはありえますが、普通の日常会話的な日本語表現では逆。難しく考えたら煩悩即菩提とか生死即涅槃とかあるわけですが、普通の日常会話的な日本語表現での文脈では、煩悩は菩提ではないですね。)

で、日本人は知らず知らずのうちに、なんとなく、念仏と言うと、ただひたすら念仏するだけと思っているという傾向があると思うのです。それは、浄土宗より浄土真宗、浄土真宗より時宗ではないかと私は勝手に思っているので、それが私が勝手に思う、日本の民衆の心にとろけて、教団としては消えている時宗です。

念仏は自ら決断して教団に入ってするものではないと、なんとなく日本人はみんな思っているのではないでしょうか?そうではなくて、もしかするとある日、出会う。雷に打たれたようになるかどうかは知りませんが。自分から自らの決断でお寺に行くというよりも、気がついたら口が念仏を称えていた…。こちらからするのではなく、念仏が向こうからやってくる…。

となると、念仏が向こうから自分にはまだ来ていないのであれば、念仏しないとなりますね。機が熟していない。(形から入るという日本文化もあるので一概には断言は本当は言いすぎですが。)あるとき念仏に打たれて気がついたら念仏が口から出ていたというのが本当だというようなことを日本人の多数の人はなんとなく思っているような気がしています。教義に理屈として納得したからではなくて。

現代の教団としての宗派としての時宗がそのようなことを主張しているのかどうかは知りません。知りませんが、私が勝手に日本人の心にとろけた時宗と思っているのはそういう心です。
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信仰ではなくて、哲学の文脈であれば、もしかすると、お考えのことと同じかも知れませんが、私の言語表現であれば、あるいは、私が日本語の単語を選ぶとすると、おそらく、真理、法、ダルマ等ではなくて、不可能の領域、といった単語を選択するかな…とは思います。



くどいですが、信仰の文脈ではなく、哲学・思想の文脈であれば。

たとえば、変な例ですみませんが、自分の親が死んだときに、ほとんどすべての人間がプチ鬱になるのではなかろうかと思います。あたかも自分の親の死が自分のせいであるかのように…、つまり、自分は人の死をコントロールできる、自分は全能であるかのように…。

それは、考えてみると、一種の傲慢なのですが、人間が人間である限りの病、あるいは、少なくとも近代西欧的自我の成り立ち上、そうなので、その意味では、少なくとも近代西欧的自我が有る限りにおいては、ある意味、普通のことと思います。

しかしながら、自分にはどうしようもないこと、人はみんないつか死ぬとかですね、は、あるんじゃないかと。

人はなんでも自分の意図の通りになるのだという幻想を抱かなければ普通に生きていけないということはあっても。

自分がやってしまったこと、言ってしまったこと、やったり、言ったりしなかったが、今から反省してみれば、やればよかった、言えばよかったことというのは、後から、事後的に、意図的だったんだ、わざとだ…と、後から屁理屈をつけて、自分は自分は昔からそういう人間なんだ、という整合性、アイデンティティを保とうとする、そういう幻想に生きているのが普通としても。

けれども、そういう普通のあり方では、とても辛いことというのは起きてしまうわけです。自分の親が死んでしまうとか。そのときに、自分が意図的に親を死なせたのである、自分が、親なんか死んでしまえと心のそこで願った念力で死んだとかいう幻想は、持ち得ないといいますか(無意識に持つからこそ罪の意識があるわけですが)、辛いことなわけで、自分には思うとおりにならないことがある、という自分の限界を一瞬垣間見る、そのときに、自然に、口が南無阿弥陀仏と言っていた…

というイメージです。

くどいですが、信仰の領域ではなく、哲学の領域ですが…。

なので教義とかではないです。
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何人かの方がすでにおっしゃっておられることと同じになってしまい、ご質問に対する回答には全くなりませんが、私も、教義で…は、分かりませんが、良いと思います。



というのは、教義というのは誰が決めるのか、この問題について、はっきりこれが正しく、これが間違いと、言葉で語れるのか不明だからです。

本質は言葉では語りえないのではないかと…。

ある教団(たとえば仏光寺派とか、高田派とか、本願寺派とか)に属する人が何かに書いていることが教義なのかどうか。というのは、著者によって表現が違うのではないかということですが…。(本質は同じだったとしても…)。

言い換えると、いろいろな本を読んでみられる、いろいろなお坊さんの話を聞いてみる……ということしかないのではないでしょうか?

また、私は一時期、短期間、米国に住んでいたことがあるのですが、米国ですとプロテスタントがメジャーだからかとも思いますが、そのとき知り合った、何人かの友人が、信仰というのはパーソナルなものだ…と異口同音に言っていたことも思い起こされます。
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浄土真宗の阿弥陀仏を、真理の擬人的表現と捉えてはいけないでしょうか



よいと思いますよ。
真理の擬人的表現といえば毘盧遮那仏も同じ意味ですね。役割が違うので名前は違いますが同じく真理の擬人的表現ですね。
なぜそうかといえば釈尊が晩年に霊鷲山で行った説法「我は今世、仏陀になったわけではない、久遠の昔より仏陀であり続けた久遠実情の仏陀である。」というとことから来ているのですね。この「久遠実情の仏陀」を浄土系では「無量寿光」と表現していますね。これは実相が巨大な黄金の光そのものですから実相をみた高僧がそのように表現したのでしょうね。
仏陀の実相は巨大な黄金の光であり同時に法身(真理そのもの)ですから、名前はどうあれ真理そのものですね。だから真理の擬人的表現であってるわけですね。その巨大な黄金の光から一条の光りが地上に降臨するのですね。それが仏陀再誕ですね。釈尊もその一人であったという認識ですね。阿弥陀仏も毘盧遮那仏もあの世に存在する釈尊の本体という意味ですね。
もう少し詳しく述べれば、阿弥陀仏は仏陀の救済的側面、毘盧遮那仏は神秘をつかさどる側面というだけの役割的名前だけのことですね。どちらも真理の塊ですからどちらから信仰しても真理にたどり着けますね。
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阿弥陀仏は釈尊と違い実在した仏ではないので空想の存在ですし、究極を表すものではなく西方成仏のみを意味します。



ですので真理=法を現すのは釈尊ですので、阿弥陀仏ではありません。

よってその意味解釈の仕方が真宗と違い許されざるものと思います。
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 こんにちは。



 ふたつの関門があると言うべきでしょうか。
 (1) 親鸞の文章に即してその解釈ができるか? 妥当であるか?
 (2) 浄土真宗の教義上 ゆるされるのか? 

 ☆ (2)は 早い話が その宗教団体の合議を経なければならないのか? その同意をとりつける必要があるか? にもなります。
 わたしは (2)は 放って置きます。
 そこで(1)ですが あらためて 問いは
 ★ 浄土真宗の阿弥陀仏を、真理の擬人的表現と捉えてはいけないでしょうか
 ☆ ですが 賛成の見方を寄せたいと考えます。

 (あ) 一般的には――つまり taka-kazu さんのいまの観点がそうであると思われるように 哲学の視点に立てばというほどのことですが―― まづ
 ★ 真理の擬人的表現
 ☆ をここで次のように捉えます。
 ○ 《絶対》を想定するとともに その絶対を擬人化して 《絶対者》と表現する。とき この《絶対者》のことを言う。
 ☆ と。《真理》が《絶対》であり 早い話としては 《神》のことです。 
 念のために言い添えるなら それは 《あらゆることが相対的な関係にあるこの経験世界を超えたところ》という想定のことだと考えます。ひとは そこに真理のひかりを見ると思ったり(感じたり) あるいは ふるい言葉で正しさとしてのちからを感じたりするということだと思います。

 (い) あとは 親鸞から文章を引きます。
 教行信証は歯が立たなかったことを覚えています。歎異抄には親しめました。はづかしい話ですが最近になって ひょっとするとこの歎異抄よりもきちんと 絶対他力のことを述べていると思ったのは 末燈抄です。
 その末燈抄から引こうと思って探していると 《十 仏智不思議と信ずべき事》の注釈に つぎの文章のことが引かれているのを見つけました。これを 論証の文例としたいと考えました。
 ▲ (親鸞聖人御消息集) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 他力と申すは 仏智不思議にて候ふなる ときに煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば 仏と仏とのみ御はからひなり。
 さらに行者のはからひにあらず候ふ。
 しかれば 義なきを義とすと候ふなり。
 (慶西御坊御返事)――(伊藤博之校注:『歎異抄 三帖和讃』1981 p.201頭註一〇)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (う) 《非思考のなぞ あるいは 無根拠》とわたしは言っています。
 ▲ 仏と仏とのみ
 ☆ と言うのですから その《はからひ》のちからは すべてまったくわれわれ人間の与り知らないところで起こっていると言うべきでしょうね。わづかにそのちからが もしくは声が もしくはあたかも指の先が わたしたちにそれぞれ 或る晴れた日に ふと――どろぼうのごとく――やってくるのでしょうね。
 あるいはひょっとすると 二番目の《仏》は――ひょっとするとです―― わたしたちおのおののこころに自然本性としてやどる仏性のことかも知れませんね。

 (え) そして 阿弥陀は 原語で《無量光(アミターバ) もしくは 無量寿(アミターユス)》のことだそうですから もう現代では 《擬人化》の必要もないように思ったりします。どうお考えになりますか? 
 つまりもっと言えば 《かみ》のこととまったく違わないと思われます。

 教団のそとの一般人ですので その点お気にさわるようなことがあったとしますなら 本意ではありませんので おわびを申しておきたいと思います。
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 私には適切な答えは出来ません。


 だから、答えが書かれているのではと思う文章を以下に紹介します。
 明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章です。
 文章自体が読み取りにくいので、印刷などなさって学んでみて欲しく思います。
 私も、時々読み返して理解を深めようと努力しています。

 表示的擬人観
 全宇宙を色心不二の大日と云い、神の本質を表示するに人格を以ってす。
 汎神、世界は全一体、物質の万物は普遍の相関に統一せられ、内容生活もまた全一なり、精神に統一せらる。
 六大【地大・水大・火大・風大・空大・識大】は物質と意質の二質【ふたつの性質がある、ということ】なり。この両面は同等の位にあらず。識大は真の実在にして、五大は意志に実現せられたる現象に過ぎず。
 識大と五大、即ち、色と心とは本と一体の二属性と云うべし。これを全知全能なる如来一大精神に帰(き)【この二属性が如来一大精神である、といっていると思います】せざるべからず。ゆえに、六大に全知全能、即ち絶対写象と絶対意志となり。これを、統一せる精神を如来法身と云う。
 汎神論に全一の如来身を論究する要点は、世界万物は普遍の相関に統一性を有し、全一体、万物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられた活動するものに非ず。
 全体としての万有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして、外界より世界に伝(つた)うもの無し。
 汎神論の神は人格に擬するも、本より人類に有する内的生活を有するに非ず。人格の自己意識なる思考及び意志の如きは、全一なる神に有りとは云うべからず。神には人の如く感情自覚等の如き、個人的人格の要素にあらざること言(げん)を俟(ま)たず。
 人間の不円満なる不完全なるに反し、神は完全に円満、如来を人格に擬するは、全知全能神聖等の属性なる、ただ表号的の形容をなすのみ。これ全く如来の本質を人格と云うに非ず。
 宇宙精神を人間精神に比して、神にこれの如き精神有りとして写象し、最完全なる善美なる性質によりて、表号的に神を形容して人格に擬す。ゆえに表号的人観とす。

 ここまでで、質問の答えがあるように思いますが、もう少し文章は続きます。知識があって、興味をもたれた方の為に、続けてみます。

 密家には、即事而真とて、宇宙現象即実在として、これを、大日心王如来と号し、現象界は全く大日心王の表現にして、心王如来を離れて現象ある事なし。故にこれを心王の表徳とす。
 宇宙本体本来大日如来、表徳光明、長(ながら)へに照らし、一切処として密厳浄土に非ざるなきも、一切衆生は自ずから無明に翳(かざ)せられて【覆われてという意味だと思います】如實に法界の真相を知見すること能(あた)わず。
 神の力に依りて実現せられたる相待の万有も、如来を離れたるものに非(あら)ざるも、如来の本質は絶対。かゝる衆生の為めには、ビル【ビルシャナ佛】の本質を直感すること能はず。ここに於いて神の超絶論起こる。

 情けないけどこちらのほうは、ほとんど分かりません。
 ただなんとなく、真実を云っているのかなあ、と思うばかりです。
 でも、勉強はしていますよ。
 括弧は、私が付け加えました。間違っているようでしたらご指摘ください。

 真宗の教義上のことは分かりませんが、taka-kazuさんの受け止め方で良いのではないでしょうか。

 
 
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