デューイの現実在の捉え方についての解釈があまりにも多義的でつかめておりません。
というか、まだまだ勉強不足であります。
そこで、

1.デューイの「reality as experience」とは、経験としての現実在ということでよろしいのでしょうか?

2.であれば、これはヘーゲルの「生の運動」的な位置づけと解釈していいのでしょうか?

3.もし「経験としての現実在」なら、デューイの質的直接性の文言は一体どこへいってしまうのでしょうか??

4.「rearity as experience」という文字を私はデューイ研究者の論文から見つけ出したのですが、デューイの著作でデューイ本人がこの言葉を用いている著作は何ですか?



多くてごめんなさい。
すべてじゃなくてもよろしいので、もし御回答いただければ幸いです。

A 回答 (1件)

デューイについて知りませんでしたので、私自身も知りたいと思い、ネット検索をしてみました。



http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/6760 …
の冒頭をみると、デューイの思索はミシガン前期と後期とに大きく分かれるようですので、
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捉え方についての解釈があまりにも多義的でつかめておりません
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のようなことになるのでは?と勝手な解釈をいたしました。

>>> http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/6760 …

前稿1)において私は, 「ミシガン前期」2)におけるデューイの思想展開を,彼の心理学研究を中心に考察した。ここでデューイの言う心理学は,もとより個別科学としての心理学を意味するものではなく,万有(the universe)の有機的統一を人間の意識経験の過程を通して捉える「哲学の方法」としての心理学を意味していた。彼によれば,哲学はあらゆる実在を根源的に統一している絶対精神を扱う学であるが,しかしこの絶対精神は人間の個別的な意識経験を通してしかその存在を現さない。従って,人間の意識経験を研究対象とする心理学こそが,絶対精神を捉える唯一確実な方法でなければならないのであった。
(中略)
前節で見たように, 1889年のデューイはグリーン哲学の絶大な支持者であるかのように見えた。
ところが,デューイは1890年代に入ると,すなわちミシガン後期に入ると,一転してグリーン哲学の厳しい批判者として現れる。デューイのグリーン批判は,具体的には, 1892年の「グリーンの道徳的動機論」65)と1893年の「道徳的理想としての自我実現」66)において行われた。一般に, 1890年はデューイの思想形成における「臨界年」 (acriticalyear)だとされている67)。すなわち,この年を境に,デューイはヘーゲル流の「普遍的精神」の概念から徐々に抜け出し,道具主義の確立へと向かって行ったとされている。そして,それを象徴する出来事が,若き日の偶像グリーンに対するデューイの批判であったとされている。
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とあり、一時期ヘーゲル的な概念に染まっていたようです。

あと、
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4.デューイの著作でデューイ本人がこの言葉を用いている著作は何ですか?
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ですが、
John Dewey (1906). Reality as Experience. Journal of Philosophy, Psychology and Scientific Methods 3 (10):253-257.
John Dewey in 20th Century PhilosophyDewey*
というのがネットで引っかかってきました。
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この回答へのお礼

いやいや、大変ご丁寧なご回答、ありがとうございます。
まさかこんなに教えていただける方がいらしたなんて!
参考になりました。デューイのその論文、読んでみようと思います。
本当にありがとうございます。

お礼日時:2009/11/22 00:24

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