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先日読んだホラー小説は凶、恐、狂の字のキョウコが登場する話でした。
そこでふと思いついたのだけど、自分の名前に絶対に凶、恐、狂のどれかを入れなければならないとしたら、どんな名前がいいですか。
姓ではなく名で考えてください。
どれも嫌だ!という回答も可です。

今はかなり変わった名前も多いから、一文字で”凶”君をカッコいいと感じる人もいるかもしれない。
でも、くれぐれも自分のお子さんにはつけないでください。

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A 回答 (9件)

眠 狂四郎(ねむり きょうしろう)

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狂子

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恐竜。

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デビュー当時の氷室京介さんが「狂介」と名乗っていましたね。


桜塚やっくん(古)のネタで「恐子」ってなかったっけ?

ま、このあたりかなとw
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無頼控。

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○○ 狂 がいいですね。


これは男しか使えないですね(笑)
凶 だと 縁起があまり良いとはいえない印象
恐 だとなんだか臆病みたいな印象
狂 だとプラスに考えるとたくましい変質者?(笑)
酔狂なんて言葉もありますし、狂っているなんて印象は
よほど変な行動でもしない限りはひとには影響しない感じがします。
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大凶がいいです。



御神籤だと引いた時点が大凶なら後は上がるしかないので大吉よりもいいと言う人もいますから、生まれた時点が大凶なら上がりっぱなしの人生送れそうです。(笑)

それに大吉だとあまりにも能天気な漫画の登場人物のようです。
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名前はやはり考えないといけないですね。


昔、学生時代に大会パンフレットを見ていたら「○○幽加」という人がいたのを覚えてます。
幽霊の幽だけにビックリしました。
写真写りも暗かったような気がします。
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こんばんは†



変わったアンケートなの
(^^)ゝ

だから、お答えするなの。

あたしだったら,

<狂花>⇒キョウカ

あたし,マッド系な頭だから…自分で言うっかってなの。

でも,花で有りたいの…女だからなの。
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Q山縣有朋(狂介)の「狂」の字

どういういきさつで名前に「狂」という字をいれたのでしょうか?

それとも昔は「狂」の意味が現在とことなるのでしょうか

Aベストアンサー

・幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。

 改名したのは、処刑された恩師吉田松陰の影響だそうです。

 ※江戸末期から明治の開国に至る時期に、吉田松陰が主宰した松下村塾では、画一教育を絶対にしませんでした。高杉晋作が「『孟子』が読みたい」と言えば「じゃあ、『孟子』を読みなさい」と言って読ませ、伊藤博文が「『論語』が読みたい」と言えば、彼には『論語』を読ませます。生徒は分からないことがあると「ハイ、先生」と手を挙げるので、松蔭先生は傍らへ行って「どこが分からないんだ?」と聞き、「それはこういう意味だ」と教えました。

 吉田松陰だって万巻の書を読んだわけではありませんから、分からないこともありますね。山縣有朋が「先生、ここが分からない」と言います。山縣有朋は漢詩や『墨子』など難しい作品を読む人でした。松蔭は「先生もよく分からないから、今晩家へ帰って勉強して、明日の朝教えてやる」と答えます。

 実際、松下村塾が終わると家へ帰って、生徒の質問箇所を徹夜で勉強したそうです。翌日、目を真っ赤にして出てきて「おい、山縣、お前の問うたのはこういうことだぞ」とちゃんと教えた。そのうち、生徒たちの間に「松蔭先生は、質問をして分からないことがあると一晩寝ずに考えてくださる方だ」という評価が浸透し、やがて「この先生のためだったら死のう」という気持ちに発展していきます。

 吉田松陰が彼らに教えたのは「狂」という字でした。狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、本来は「自分でも持て余してしまうような情熱」を指します。松蔭は生徒に、「『狂』を持て」と言います。それで山縣有朋は自分の名前を変えて山縣狂介とするんですね。高杉晋作は東洋の一狂生(普通は一書生と言いますよね)と名乗ります。そうやって生徒たちは松蔭の言う「狂」という字を、心の底でトンと受け止めました。「先生も生徒も一緒に育つのが学習だ」という考えの実践を、松蔭の松下村塾だけでなく、広瀬淡窓の咸宜園もやっていた。つまり江戸時代の塾というのは、先生も生徒も一緒に燃えていたということですね。 



草柳大蔵著「午前8時のメッセージ99話」( H21年発行静新新書 )より

 

・幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。

 改名したのは、処刑された恩師吉田松陰の影響だそうです。

 ※江戸末期から明治の開国に至る時期に、吉田松陰が主宰した松下村塾では、画一教育を絶対にしませんでした。高杉晋作が「『孟子』が読みたい」と言えば「じゃあ、『孟子』を読みなさい」と言って読ませ、伊藤博文が「『論語』が読みたい」と言えば、彼には『論語』を読ませます。生徒は分からないことがあると「ハイ、先生」と手を挙げるので、松蔭先...続きを読む


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