『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

 次の質問の続編です。

 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html
 ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。
 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。

 ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から
           《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ

 ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。

 (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。

 (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。

 (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。

 (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。

 (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。
 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

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A 回答 (72件中1~10件)

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。



> (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。
> (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。

 意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。

> (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。

 各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。

> (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。

 上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。

> (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。
(4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

 「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。
 そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。
 まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。

・安定した仕事がある人の再犯率は19.3%
・アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0%
・無職では34.4%
・ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。
(ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200 … )

 もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。

 一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。
 また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。

“修復的司法”
「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」
http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。

 ご参考になれば、幸いでございます。

この回答への補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。

 そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。

 まづ さらに記事の中から 数字として08年は
 ▲ 再犯者率最悪、41% 
 ☆ だったのですね。
 そこで 更生のための考え方ですが。
 ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。
 ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。

 ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて
 ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場 
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。
 →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。
 ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9% …
 修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。
 いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。
 コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。

 だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。
 ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。

 ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。
 ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。
 素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。

 この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

補足日時:2009/11/26 21:36
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この回答へのお礼

 補足欄についておぎないます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。

  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。
 おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

お礼日時:2009/11/27 12:28

bragelonne様、皆様、こんにちは。


Hidocci様、ご丁寧なお返事と鋭いご賢察にあらためて感謝申し上げます^^

>「さわらぬ神、にたたりなし」「思考停止社会-空気のみの支配による社会」

仰る通りです。
「事件性」が浮き彫りになり、第三者である皆の関心が向いている時こそ「社会福祉の必要性」の論議をする絶好の機会だったはず。
当時各メディアが一様に取り上げなくなったのは、とても残念なことだと思いました。

>A級戦犯者

レオナール=フジタ(藤田嗣治)といった画家たちにも、当時は戦争画を描く強い要請がありました。
国を挙げて戦意を鼓舞していた時代であれば権力とマス・メディアの癒着は必然的にも増すということでしょうか。

>「その国の政治家はその国民の身の丈にあった政治家しか選べない」>「身の丈にあったメディア」にしかなれない」

はい、それは否めないと思います。
人の手を通じて伝達される以上は、いかなる情報も変質は否めません。
海外メディアも含め、氾濫するあらゆる情報の適宜適切な取捨選択のため、日々の自助努力は必須なのですよね。
情報に安易に流されない「距離感」もまた大切かもしれません。

>地域コミュニティの重要性を謳いたい

Hidocci様の想い、重々承知致しております。仰ることはごもっともだと思います。

我が子たちは6歳離れておりまして、状況の差を肌で感じます。
昨今の不況のせい、もしくは女性の社会進出(共働き傾向)のせいでしょうか。
集団登下校時の引率など、学校行事以外の地味で善意ある補助的活動に、自発的に参加する父兄が徐々に減ってきております。
(逆に我が子にかける塾や習い事の支出は増加している?)

私は共働き傾向の是非を問くつもりなど毛頭ございません。時代の流れがあると思います。
現状を鑑み地域コミュニティの必要性が問われ、そこでは理念が高らかに語られます。
でも、中心的役割を期待される年齢層が最も参加意欲に乏しく余裕が少ないという一面。
これにも焦点を当てる必要があるはずで、むしろ理念の構想以上に難しく、いま理念と「同時に」問われている問題だと思います。

Hidocci様、ご多忙な中拙文をお読み下さったことに感謝申し上げます。
寒くなります、御身体ご自愛くださいますよう^^

bragelonne様、私ももうおわづらわせすることはないかと思います^^
ただ一つ、決定的な違いを見出したのでここに記させていただきます。
(くどいようで恐縮ですが、bragelonne様を説得するつもりすら毛頭ございません。
それに「意見の共同化を希求する」ではなく「意見の差を理解し認めあう」スタンスです、例によってどうか右から左へと流してうっちゃって下さい。)

>◆ (【Q:ポルノと言う存在。】回答No.48 ) ~~~~~~~~
>・・・じわっとした感じで あるいはごく普通の大地に足を踏みしめた感じで、  人を愛せれば その時どんなゾゾゾゾゾゾゾ体験もそれごと、笑って抱きしめられるよ、 ということが解かります。
>レイプトラウマは、その時 何もかもが 何もかもがですが 消えているはずです。 蚊に刺されたようなものです^^/。(〔* bragelonne とは〕喧嘩してる最中なのに 結論がまったく一緒だった? なぜだああああ。

私の結論とはやはり異なるようでした。
≪蚊が刺した≫として性犯罪や痴漢行為を≪無効≫と捉える。
それは、あくまで「幸せになりたい」という「自分自身のため」にほかなりません。

むろんそれは自らの自由意思に基づくものですが、その自由意思は被害のダメージで傷ついた精神状態からは自然発生しないものと考えます。
つまり≪蚊が刺した≫の理論に精神的な拠り所を得るのではありません。
(サビーヌさんの場合であれば)BFに対する愛情や家族友人などの強い支えがあって強く健全な自由意思が形成され、ようやく≪蚊が刺した≫を受け容れられるものと考えます。
だからでしょうか、理論の精緻化ではなく、現実にいかに即すかという視野に私は立ってしまうのです。
一事が万事この傾向にあると思われます。

恐らくbragelonne様はちゃらんぽらんな私とは違ってとてもストイックな生き方をなさっていらっしゃるのだと思います。
その差だと思いますし、私は素直にbragelonne様を尊重します。
逆に私はどう思われようと気にしません。
ゲリラでもマでものっぺらぼうでも、お好きなようにどうぞ^^

さらに「人を愛せれば その時どんなゾゾゾゾゾゾゾ体験もそれごと、笑って抱きしめられるよ」に関しては、行為自体が「無効」である以上、犯人の更生ならびに愛し抱きしめるなど、想いを馳せることすら無いと私は考えます。
一切が全く関係なくなります。
「赦す、赦さない」の問題ではなくなると考えます。
他の人は、もしかすると性犯罪者である加害者を「赦すことができる」のかもしれませんね。わかりません。
それは私ではないので「可能性も否定できない」ということになります。

でも、arayata様の仰ることもとても奥が深いお話のように思われて、う~んと頷かされるのです。もちろんこちらにつきましても尊重しております。
私も御歳に近づくほどに、そのようなあたたかい心を得られたらと、願わずにはいられません^^

そういえば、昨年エロ爺に太ももを撫でられて帰宅した際、上の子がぼそっと言い放ちました。
「誰でも良かったんじゃないの?」

だから≪蚊が刺した≫と考えられるのであって、この「自由意思と無関係な事象に対する無効宣言」は何かとつかえそうですし(幾らなんでもこの先は痴漢には遭わないと思うので、笑)、これからも私なりに何に適用できるか現実に即して模索していくつもりです^^以上でえーす。
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この回答へのお礼

 わたしに向けての文章は
 
  おまえには有徴性がある。

 という上塗りであると受け取りました。
 その事情ならびにわたしの物言いは すでに述べてあります。

お礼日時:2009/12/03 20:09

 回答番号:No.72


 ★ 赦して水に流す、という状態にはなっていません。
 ☆ ということでしたら それは 過去の人間たちの子孫として言っているということでしょうか? 
 ◇:いや、現実にやった人やそれを継続している人は、死んでしまった人はともかく、赦して欲しいとも想ってもいない状況であり、赦すとか何とかの前に、事の真実について共通の認識にさせ、そうなることが必要でしょう。そして赦すとかなんとかの前に、被害者という側としてしっかりした態度と行動があるべきでしょう。
 
 ローマ・ワ”チカンが表に出せない資金の洗浄化をおこなっているという事件について質問を出されていましたが それも おそらく過去の清算すべきあやまちの一つだというところでしょうね。
◇:これも未だに大きく基本的な暗黒面の勢力なのでしょう。過ちとおもっていないのではないですか?だから赦す前に、糾弾する事が必要でしょう?

 ★ 赦すとかどうかの問題ではありません。勇気もない、意志も発揮できない存在が赦すというのは偽善であり、欺瞞。嘘です。逃亡です。いいわけです。懶惰です。言葉の遊び、美化だけです。
 ☆ これではじんるいもまだまだ悪循環に落ち入っている。こう言わざるを得ない。おっしゃるとおりでしょうね。
 ◇:赦す前に事柄を、お前は悪い事をしたぞ、今もやっているぞ。やめろ。ということをしっかり言動で表示し、抵抗しなければいかんではないですか。

 国家なら今も私的報復ないし自力救済をおこなう。それが 公共の権力だというんでしょうか? それは国家族にとっての社会公共のものでしかないのではないでしょうか? 社会生活人にとっての公共とは どういうものなのでしょう? それと 個人のあやまち もしくは それにまつわる個人間の敵対関係とが 絡み合っているように思えます。
 ◇:そういうことは申しておりません。
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この回答へのお礼

 ご投稿をありがとうございました。

お礼日時:2009/12/03 20:10

オコリザルです。


かつて大袈裟に人間信仰として人間同士が信じあうことの尊さを満身で理解しようとしていた私ですが、そのような視点でテレビの凶悪なニュースを見ると人間が人間でいるために、そのような凶悪犯の心に閉ざされた愛を何とか汲み取ろうと考えます。
死刑が免れない場合でも赦されて死ぬのならずいぶん違います。
「赦せない」「殺してやりたい」には「あいつは人間で無い」が含まれるでしょう。そんなはずないじゃないですか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★(α) 「赦せない」「殺してやりたい」には「あいつは人間で無い」が含まれるでしょう。そんなはずないじゃないですか。
 ☆ この問題は 次のように《第二の死》をどう扱うかにかかっていると考えます。

 【Q:復讐に意味はあるのでしょうか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5466279.html
 ☆☆ (そのNo.14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  死が死ななくなった人間をどうあつかうか?

  この《死が死ななくなった》という《第二の死》をわれわれはどう見るか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりひとの自然本性としての善性がぜんぶ損傷を受け失われた状態 したがって究極の悪 としての第二の死をどう見るかにかかっているのではないでしょうか?

 この第二の死などあり得ないと見れば (α)がそのまま有効なのだと思います。
 たぶんこの問題は 非思考のなぞの領域において決裁されるのではないでしょうか? (これは 逃げになりますが)。

お礼日時:2009/12/02 22:36

回答番号71から 続いて回答となります。



すみません、 久しぶりに回答を書くこととなり、とまどってしまったところがあります。

この質問に回答すべく 急いで他の方の回答の流れとかを一応掴んでおいたほうがいいと思い、ざっと読んでいましたら、なつかしいマシュマロ2様の回答とかもあり、 そのマシュマロ2様が、 bragelonne様のことを、「様」とつけて呼ばれていたので、  つい昔、ここで一応に人の名前に「様」をつけていた時の気持を思い出し、 私もbragelonne様と 「様」をつけてしまいましたが、

その昔の、その心は、ネットでは言葉でしか語れないのだから、尊敬の意味合いを言葉に込めるのに、それが自然と思っていた、ということであり、
そのうちに、ネットの言葉を通しても、心の通うさまざまな友が出来てくるにしたがい「様」では不自然とも感じるようになり、 「様」と「さん」を使い分けるのも これも不自然、 ならば「さん」に統一しようという気持になったのを、 ここに思い出しました。

で、 そんな感じで ここにbragelonne様を、 ここからbragelonneさんと呼びかえる形になってしまうことを、ご理解ご了承ください。

失礼いたしました。

しかし、 次の点、 《無思考》と《非思考》を 区分けしないで書いてしまった点は、 とまどいとかいった点を越えた、 不注意だったと思います。

私自身が、 「無思考」という言葉を使ったかどうかは憶えていませんが、たしか宗教組織の中の頭のいい人までまるで夢遊病でもあるかのような思考停止状態にあることに 驚いた体験を いくつかこのサイトでも書いているところ、  

「無思考」という言葉であっては“そんな状態の《信仰?》”という意味合いを連想させてしまうところですね。

もちろん、bragelonneさんは、わたしがそんな意味でこの回答に使っているなどとは、もはや思ってはいないでしょう。

しかしあくまで、そこは、曲げてはならない言葉の使い方(言葉の置き方)であったと思います。

この不注意も、最初にお詫びしておきます。

その上での回答なのですが、

やはり、bragelonneさんとの対話には、《信仰》についての論議を全く避けて通るということは、 すくなくとも私との対話においては、難しいことのようです。

ただ、 ここでのbragelonneさんのご質問は、「人が 人のあやまちを赦すことができますか(づつき)」ですから(すみません、前回の質疑はまだ読んでません。 読む必要がありそうな《流れ》がここにありますでしょうか? それによっては急いで読んでみます)

できるだけ その質問の回答の範囲で、その《信仰》との関りの世界も膨らませてゆきたいと思います。

1つに 私の感性哲学の世界と 信仰の世界は 両方とも「《表象》とそれを越える世界」という文脈の言葉を使っていますし、それをもっとも重要な点の1つとしている点でも似ていますので、 

また その点を抜かしたら 私の方からも「人間は あやまちを赦すのは難しい」という観点が生まれてしまいますので、 私の方からは、 そのあたりを、ここでは、主として追求していきたいと思います。

でも、 ここに戻ってきたからには、 以前によくbragelonneさんの言われてもいた「ゆっくり行きましょう」を 1つの軸としたいと 私も思います。

その「ゆっくり」さが、 「ベテランの技とは、いつもゆっくりに見えながらじつは早い」という範疇であることを 祈りつつです。(これは《長期、中期、短期》についてのマシュマロ2さんとの論議と重なるところかもしれません)

まず、
おおむね、上記の主旨に従いつつ、 私の方も ここに少しだけ信仰論の方に話を持っていってみたいと思います。

まず、 bragelonneさんの書かれている《非思考の信仰》というところに なぜキリストという歴史的人物が関ってくるのか? というそのへんこそは ここではつっこまないでおきたいところなのですが、

「表象」という点で こんなことが思い出されます。

ずっと昔、私がまだ若かった頃ですが こんな話を聞いたことがあります。

ある神父さんが、電車の中で 見も知らない男からこんなふうに声をかけられたそうです。「神なんていない。 ならばキリストはなんなのか?」とかいった問いかけだったと思います。 即座にその神父さんは、こう答えたそうです。「私たちが そういう疑問を持つのはあたりまえだ。 キリストでさへ、絶望して死んでいったのだから」

そのとたん、その男の目からは 滝のような涙がこぼれてきて 彼は即クリスチャンとなったのだそうです。

クリスチャンというと、その組織の一員でしょうし、自覚が故の信仰とは言え、bragelonneさんの言われる《キリスト者》の世界とは別なのかもしれませんが、 私は その彼の涙の世界も“《表象》しえない世界”の1つだと思います。

いずれにしても、 bragelonneさんの中にも おそらくよほどの大きな体験の、そんなふうな世界が そこにあったのではないかと思われるのですが、いずれ、そのことについても もっとつっこんでお話し合いできればと思っております。

また、《非思考と信仰》それ自体についても、ここでは簡単に次の一般的疑問を提出しておくことにとどめておきたいと思います。

論理からも神への信仰への道はあるかと 私は思います。

論理が苦手な(数学を知らない)人間の 簡単な推理の世界なので、とんでもなく甘い考えかもしれませんが、 恥とか外聞よりも、わたしには議論をともかく進めたい気持のほうが強いですので 書いておきます。

確率とは ということの正確な数の世界を私が解かるはずはないのですが、 これって 数字が大きくなるほど、確率計算って不確かな世界になってゆくのではないですか?

分数のあの記号の 分母が下かどうかさへもうすっかりその面の頭が固くなった50歳になろうとしていた時に やっと知った人間が 何を言い出すのかと自分でも思うのですが、 どうしても疑問となるところなので逆に質問させてください。

万華鏡が もう一度全く同じ模様となる確率は 確か数百億年もの後のこととなると聞いたことがありますが、これって実際には、その日が明日かもしれなくても、あるいは数秒後であるかもしれなくても、真逆にはほとんど永久に同じ模様でが現れることはありえない、という世界でもあるということですよね。

これは 金融確率理論でしたかの理論に支配されていた経済界への疑問とも重なることかもしれませんが、そこまではここでは考えないこととします。

では、 この地球が ブラックホールから生まれた確率は ?

と考えると、あるいはこの存在を自覚する命である人間が生まれた確率はと考えると、

そこには無限という《非思考》が思考の中から生まれ出てくる。

という論理です。

でも 私は 《信仰》イコール《神の存在の確信》とした場合、それをもってその地にたどりついたというのならば、それはまだはっきりしない論理に思えます。

そのことに《驚く心》の存在、また その《驚く心》の存在に驚く心の存在、つまり 感性という存在がそこに存在しないならば その論理もまた半欠けと思う者なのです。

逆に言って その時の《驚く心》の世界、それ自体がすでに 私の中では《非思考》と捕らえられてしまっているのです。

《表象》で捕らえられる「驚き」の世界もあり、それは思考(比較)ができ、言葉で語られえますし、 その世界の「驚き」がいかに科学の発展や文化の発展に重要だとしても、それが《非思考の信仰》となるとは私も思っていない点までは、 bragelonneさんのお考えとたぶん、同じ、あるいは同じ言葉づかいで真実を追究しているかと思うのですが、

たぶん、違うと思われるのは、 芸術にも 《表象》と《それを越えた世界》があると私が思っているのに対して  bragelonneさんのお考えは《表象を越えた世界》はすべてイコール《信仰の世界》となっている点ではないかと思うのです。

まだ 論議の始まりにて すでに長文となってしまいましたが まず、そのへんどうでしょうか?

私は 深い感動を呼ぶそのような芸術ならばそれは人の心に 時間はかかっても やがて、どんな時にも人とあらゆるあまやちを赦せる力をもたらすと思っています。

どうでしょうか。

この回答への補足

 そうですね。――ご回答をありがとうございます。――前回の説明につぎのことを加えれば 今回は 要が足りると思うのですが どうでしょう。

 1. 経験的な思考および行為の世界は 相対性の支配する世界です。経験合理性を基準としてすべてを 妥当か否かとして 判断します。

 2. ひとは どういうわけか この相対世界を超えたところを想定してしまいました。超えているのですから とうぜん 絶対の世界であり 経験思考の及ばないなぞの領域です。

 3. ところが げんみつに言うと 経験思考が及ぶか及ばないかが分からない領域というべきだと考えられます。それが 絶対という意味です。

 4. その意味での無限は 一、二、三・・・無限大というように一つひとつ数えて到達するかのようなものではありません。なぜなら――これは 《可能無限》と言って じつは実際には 経験思考の世界に属しますが―― 無限大+一 という数を表象しうるからです。さらに +一・・・と加えて行けるということは 表象し得るのであり 経験的かつ相対的です。

 5. 絶対としての非思考としての無限は 一を足すことが出来るかどうかは分かりません。そして仮りに――仮りにです 仮りに――この絶対としての無限を分割しうるとして 二等分や三等分したとします。ところが その半分や三分の一は じつは なお無限なのです。そういう内容で想定されるのが 《絶対》です。

 6. (3)の持つ意味は こうです。相対世界を超えているということは この相対世界を ひょっとすると 覆っている。あるいは包んでいる。かも知れないということです。あるいはもっと言えば どこにでも存在している。つまり普遍であり遍在であるということかも知れません。そういう意味合いが はじめの想定からは出てきます。

 7. つまりたとえばですが 絶対無限を神と言うとすれば 《神は 遍在す》あるいは 《神は愛なり》うんぬんというふうに いろんな形容がなされていくということです。《神は 〔超えているゆえ〕不在である。不在であるが いま現在する》とも言われます。《非思考の信仰がいだく神は 不在なるなぞの現在である》などと言います。

 8. これで分かっていただけると思います。あくまで初めの想定にのっとる限りですが 《表象し得ぬ領域》が《表象し得るこの経験世界》に やって来ている。あたかも介入している。と言い表わすような情況が 仮りの思考において得られます。――これは ただし結局はあくまで 非思考の信仰を抱くその《わたし》の主観の内においてのみです。

 9. その主観内面に思い描かれた仮りの描像を 他者に伝えてもよいのですが それ以上のことは もう《仮りの上の仮り》の表現の問題に陥ってしまいます。文学の問題に入り 哲学はつつしむはずです。

 10. たとえば 《驚くこころ》にあたかも神の存在が宿るかも知れません。宿らないかも知れません。たぶん そんなことは分からないでしょう。しかも分かるかも知れません。――けれども分かるというのは あくまでひとりの《わたし》における主観の内に起こる現象としてです。しかもこの現象じたいも じつは神のはたらき自体ではなく その仮りのものを 人間の言葉で表現しただけのものです。

 11. 主観――そこに非思考の信仰を含む――の内のことがらとして 《ひとのあやまちを赦すことができる》と言えます。しかも――そのことを ほかの人に伝えることまでも出来ます しかも―― そこまでです。そこまでのことも もしそれが信仰において赦すのだということであるなら あくまで全く 仮りのことなのです。神の力か人間の力か どういう力がはたらいたか 分からないからです。
 
 12. もしそこで信仰には関係なく おのれの経験思考において《赦す》というのであれば その後の心の経過やその相手との相互関係の進展具合いが 吟味されることになります。これは 一生かかります。《赦す》というのは どういう現実であるのか。これは ひとには分からないのです。と考えます。一般性をどう捉えればよいかが分からないからだと思います。

補足日時:2009/12/02 22:24
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 こんばんは、Hidocchiです。



> Hidocchi さん。もし関心をお持ちになるようでしたら つぎの情報に当たってみてください。

 かような経緯があったのですか。愚生は、「コミュニティにおけます“加害者”、“被害者”“第三者”の関係および、そのあり方について」のみの議論かと思っていたのですが。そうではなかったのですね。
 こちらの方は、また後日(興味深い議論が出てきた折には)、対話させていただければと思っております(愚生は、病なのか薬(パキシル?)の副作用かわからないのですが、もう“性欲”はなくなってしまっていますが)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 また、mashumaro2様におかれましては、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。

 まず、最初の疑問点につきまして、概ね意見が一致したかと思っております。

> でも、誰が、でしょうか?情報の取捨選択は本当に難しいところだと思われます。

 視聴率至上主義の弊害かと考えております。因みに、メディアも、加害者が“障害者”であったと判明したとたん、即座に報道を取りやめました。“人権派”と呼ばれる人たちからのバッシングを恐れたためかと推察しています。ですが一方、社会福祉の必要性についても全く取り上げませんでした。「さわらぬ神、にたたりなし」といったところでしょうか。
 あれだけ、騒ぎ立てたのにも関わらずに です。これでは、「思考停止社会-空気のみの支配による社会」を招くだけかと考えてしまうのですが…..
 先のご質問に、あの戦争のことが載っておりましたので、思ったところを述べさせていただきます。

 あまり知られていないと思いますが、A級戦犯に、正力松太郎(読売新聞社社長;第三次指名)等新聞社のひとたちもいました(戦争によって、新聞紙の売り上げを2倍近くまで上げることに成功しています)。新聞社と軍部の“お友達関係”は戦前からよく知られたことでしたが、詳細は半藤 一利著「昭和史」、またメディアのミスリーディングについては田原総一郎「日本の戦争」をごらんくださいませ。

A級戦犯者:http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6 … 

> マスコミの「知る権利」をかざした報道姿勢に対し、いかに被害者加害者双方の家族縁者のプライバシーを守るかという問題にも繋がります。

 メディアは権力の監視役であると同時に、社会的な権力者ともみなせます。従いまして、メディアと国民との間に、国家と個人のような垂直的な権力関係と類似の関係が生じていることは否定できないと考えております。ですが、憲法は「国家対私人」に対して有効であり、「私人対私人」(メディアも私人ですから)では、適応外となってしまうため、条文化は困難なようでございます。「その国の政治家はその国民の身の丈にあった政治家しか選べない」とは耳にしますが、メディアにおきましても、視聴するのは国民である以上、「身の丈にあったメディア」にしか、なれないのかもしれません(暗くなってしまい、申し訳ございません)。

 それでも、それでも、最後の最後まで、国民を信じていますが…….

> 地域住民のクチコミや噂も重要な情報ソースとなり得ますから、毅然とした態度、安易に口をはさまないという姿勢が求められると考えております。

 意見を等しく致します。

> ルサンチマンを放出して日々生きていく。いえ、生かされているのでしょうか。誰に?

 これは、愚生のオツムではわかりません。

> 最後の給食のご質問でございます。

 各地域により、差があるのはお分かりいただけたかと存じます。また刑務所よりも貧弱な給食すら見かけます。
 「給食費未納問題」ですが、これは、あくまで愚生の推察ですが、各校に未納者が数名程度であるならば、こんな問題とはならなかったかと思っています。おそらく、未納が連鎖的に広まって集団的に生じたものと考えています。一応、学校給食法11条2項には、「前項に規定する経費以外の学校給食に要する経費(以下「学校給食費」という。)は、学校給食を受ける児童又は生徒に規定する“保護者の負担とする”」 と明文化されているのですが。
 そこで、愚生はコミュニティの重要性を謳いたい訳でございます。「老齢者の“孤独死”を防ぐ」、「身障者への福祉活動」、「未来を託す学園児への支援」、これらは、地域コミュニティの“思い”の共同化なしには成立しえないと思っているからでございます。

 駄文、ご一読いただきまして、まことにありがとうございました。
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bragelonne様、こんにちは。

ちょっとお借りします^^

Hidocci様、こんにちは。
いつも拝察致しております。大変多くの学びがございます。
こちらこそどうぞよろしくお願い申し上げます^^

>そもそもこういった情報というものは、旧友等は別として、一般的にはメディアを通して得られることが多いと思うのです(野次馬)。

はい、仰る通りです。
野次馬を含む一般人にとって、メディアによるこの事件の報道とは、一体何を意味し、もたらしていたのでしょう。
必要、不必要、或いは程度問題にも繋がるでしょうか。

>そもそも、彼ら“野次馬”は元来事件には何ら関係のない人たちです。どうして部外者にもかかわらず、こんな面倒なことにまで首をつっこんでくるのかは、ある意味不思議なのです。

確かに不思議だと私も思いました。
マス・メディアによって人為的につくられた”関係ないのに声をあげたがる人たち”。
”関係ない”にも色々次元があると思いました。

野次馬がメディアを通じて一喜一憂する「健全な」代表例として、テレビ観戦する熱狂的なファンが挙げられます。
直接競技場には赴かずとも、リアルタイムで贔屓チームの勝敗に狂喜乱舞、或いは怒り心頭によりテレビ局に八つ当たり電話をかけます。
この電話苦情係のバイトを私は大学時代に経験しました(時給はかなり良かったです)。

ナンセンスな言いがかりが多かったです。
「あの解説者を呼んだから今日は負けたんだ!」と。
だから女子大生の猫撫で声でなだめさせていたのでしょう。

でも、そう言えば、今は当時ほど毎日定時に放送されなくなりました。
大衆の趣向も一様ではなくなったとみれば、それはそれで意味深いものもあるように思われます。

または、自分のお目当ての娯楽ではなく、ある特定の社会情勢や風潮に絡み、ピンポイントで焦点を当てられた人の姿に反応する人もいます。
そしてご承知の通り、大概が自説の検証を目的として、当サイトで質疑が交わされることも見かけられます。

非正規雇用者の雇用打ち切り問題も当時は厳しい意見が目立ったように映りました。
「だって非正規だから切られてもしょうがない。自分は苦労して正社員になったんだ。世の中甘くはない。」と。
でも本来は、雇用者が対峙すべきは経営側であり、雇用者はむしろ一丸となっておかしくないはずです。
しかもそのソースが、何と朝の「めざましテレビ」をチラ観だったとのことでした。
朝の慌ただしい時間にスポット的な情報で憤ってしまったのでしょうかね。

そしてこのたびHidocci様がご指摘下さった帽男事件の場合。
本当に「自分と全く接点のない」野次馬たちによる嫌がらせが多々あったとのですね。
加害者家族に対する不必要な社会的制裁を如実にあらわしています。
やはりそれもエンタメ流に情動的に制作されたソースによるものかもしれません。
ニュースも娯楽な時代であり、刻一刻新鮮なネタを必要としています。

でも、誰が、でしょうか?
情報の取捨選択は本当に難しいところだと思われます。

>彼らは、珍しさといった理由もあるのでしょうが、心の中に何か“ルサンチマン”みたいなものがあるように思われるのです(社会の閉塞感みたいなものが起因しているかと)。

はい、全くその通りだと思います。
しかも、何かしら社会において異質な存在の中に「有徴性」を見出し攻撃することで、自らのアイデンティティを日々保つ人々も存在します。
それは本来の思考の柔軟性やゆとりの部分を喪失してしまった日常の裏返しとも言えるのです。
ルサンチマンを放出して日々生きていく。いえ、生かされているのでしょうか。誰に?

「レッサーパンダ帽」「自閉症」「事件関係者」といった「普通の人々」と隔てる「異質」な「徴」。
被害者家族、加害者家族双方にとってこの「有徴性の烙印」は相当酷いものとは想像には難くありません。
ですが、やはり経験した者でないと、想像を絶する取材合戦と嫌がらせの嵐は、とても第3者が述べられる類のものではありません。

>彼らコミュニティの一員であった場合(加害者のコミュニティの一員としてくださいませ)、どのような行動を取るか

マスコミの「知る権利」をかざした報道姿勢に対し、いかに被害者加害者双方の家族縁者のプライバシーを守るかという問題にも繋がります。
地域住民のクチコミや噂も重要な情報ソースとなり得ますから、毅然とした態度、安易に口をはさまないという姿勢が求められると考えております。

これすらも実際にその当事者の周辺人物の身にならないと、本当のところはわかりません。
でも、第3者が口を滑らせるほどに事件の物語性が膨らみますから、やはり憚る必要があるでしょうか。
また一連の加熱した情報合戦により、被害者加害者双方が疲労困憊し、事件によって生じた亀裂を深刻化させているという面も見過ごせません。

Hidocci様、以上全般並びに、このような一般市民による傷害、殺人事件の報道について、どのようなご見解をお持ちでしょうか。
忌憚のないご意見を頂戴出来ましたら大変嬉しいです。
長い拙文をお読み下さって本当にありがとうございました。

ps:S市の給食(メロンパン&牛乳)にはあまりに酷いですよね。
大人用だからでしょうけれど、刑務所のメニューが一番ヘルシーで十分すぎると感じました。
今の世知辛い世の中を鑑みると、服役中とはいえ三食が保障されている点については、恵まれていると言えるのではないでしょうか。
(あと一切の光熱費なども?)

bragelonne様はどのメニューがお好きなのですか?

この回答への補足

 mashumaro2 さん ご投稿をありがとうございます。

 ☆☆ (No.69お礼欄)たいへんお騒がせしてごめんなさい。
 ☆ と前回わけの分かりにくいことを書きましたが もうおわづらわし申し上げることもあるまいとの意味でした。

 わたし宛てに声がかかっており 何はどうあれここはわたしの質疑応答の場ですので もうひとことお応え申し上げます。同じく前回のわたしの書き込みです。

 ☆☆ (No.69お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★★ (No.68ご回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
   私は現実社会に用いて幸せに一歩でも近づけてこそ、哲学はナンボ、のスタンスです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 長期か中期か短期かの違いだけだと思います。    
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ことほどさように ひとは誰もがみづからの主観を むろんしかるべく自由に 述べあうものです。
 主観には その基礎としておのれの価値観ないし信条や信念があります。
 あるいはさらにその中核にあって これは誰に対してであってもそれ以上はゆづれないという自由意志とその心の在りかを持ちます。
 そしてこの中核は 意識しているいないにかかわらず ひとの非思考としての信仰に いしずゑを置いているはずです。

 主観の自由な対話において きわめて煮詰めた捉え方をするなら ひとは互いにその信仰を しかもしかるべく自由に うながしている。こう考えます。なぜなら そうであるゆえに ひとは 心で同意し 主観の中身を互いに共同化しうる。
 つまり話し合える。理解し合える。こころざしを同じくし得る。また正当にも違いを分かり合える。間主観性とか 共通感覚あるいは共同主観 つまりそれとしての常識です。知識の問題というよりは これは判断力だと考えられると思います。

 このように《非思考なる信仰》は その中身をただちに具体的にこれこれだと言って示し得るものではないにもかかわらず おおむね意志の自由(その互いの平等)に関しては 共通である。こう言いきってもよいはずです。
 ところが この信仰を積極的に打ち出すブラジュロンヌなる輩は 突出していると見えるようで つまり有徴性を帯びているようです。
 これまで それを契機として 排除の論理なる風が吹きすさびました。量としては風当たりが強かったようです。けれどもこの台風は 構造的に衣替えを いま しつつあります。不当な排除であると明らかになりました。そもそも何の根拠もなく 批判と言うにはまるで論旨が成っていない投稿だったわけです。

 このたび 根拠はなお明らかになってはいないのですが 論旨がはっきりしている批判の投稿が舞い込みました。つまり おまえには有徴性がある。突出しているきらいがある。というところまで はっきりしている。根拠はなおありません。有徴性が突出していようがいまいが 誰もが同じく互いに信仰をうながすという要素を持つ対話をしている。これだけのことなのですから。

 でもあたかも第二次の第三項排除の論理という歯車が回り始めたかに見えます。いわく:――
 ★★ (No.69ご回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 当初から私の対話目的は「お互いを少しでも理解する」に留めており、bragelonne様の「お互いに合意を求めあう」とは異なると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 留めようが留めまいが 中核の信仰を しかるべく自由に 互いに促し合うことは 誰もがおこなっているのです。

 というもう成すこともないと思った弁明を 成しておきます。

補足日時:2009/12/02 10:55
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 回答番号:No.57


 原爆投下、戦争における加害。そして文化的侵略。
 十字軍遠征、大航海時代の西欧などの侵略進出。そして大東亜戦争。
 
 これらは継続している事であります。終了しておりません。
 彼らは悪いと思っていません。そして赦してもらう必要も考えていません。
 この事に対する被害者としての東洋人、アジア人、そして加害者でもあるわたくしたち日本人は、まだなすべきことがあります。
 赦して水に流す、という状態にはなっていません。
 被害に関しても、そしてその抵抗も、そしてその反省と方向転換についても、やらせ、そして我々としてやらせなければならないことは多々あります。
 武器はともかく、身を挺してしなければいけないことは世界史の中で多々あります。
 赦すとかどうかの問題ではありません。勇気もない、意志も発揮できない存在が赦すというのは偽善であり、欺瞞。嘘です。逃亡です。いいわけです。懶惰です。言葉の遊び、美化だけです。
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この回答へのお礼

 krya1998 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 これは 部分的にご見解の基調をお変えになったでしょうか。
 あるいは じんるいという観点に立って 誰もがあやまちを犯したという過去を背負っているという歴史的事実を指摘なさっているというところでしょうか。

 もし
 ★ 赦して水に流す、という状態にはなっていません。
 ☆ ということでしたら それは 過去の人間たちの子孫として言っているということでしょうか? 
 輪廻転生説に立って過去の自分が言っているということではないでしょうから そして社会的な行為関係の錯綜して相互に影響しあうような事実としての因果関係の問題ではなく ひとが価値観をもって捉えるところの倫理的な意味での善因善果や悪因悪果 これとしての因果応報の説に立ってのことでもないとわたしは見ますから 類としてのヒト そしてその子孫である者として現代において現在にあって 過去の清算は必要である。こう訴えておられるというふうに受け取ります。
 ローマ・ワ”チカンが表に出せない資金の洗浄化をおこなっているという事件について質問を出されていましたが それも おそらく過去の清算すべきあやまちの一つだというところでしょうね。
 ★ 赦すとかどうかの問題ではありません。勇気もない、意志も発揮できない存在が赦すというのは偽善であり、欺瞞。嘘です。逃亡です。いいわけです。懶惰です。言葉の遊び、美化だけです。
 ☆ これではじんるいもまだまだ悪循環に落ち入っている。こう言わざるを得ない。おっしゃるとおりでしょうね。

 国家なら今も私的報復ないし自力救済をおこなう。それが 公共の権力だというんでしょうか? それは国家族にとっての社会公共のものでしかないのではないでしょうか? 社会生活人にとっての公共とは どういうものなのでしょう? それと 個人のあやまち もしくは それにまつわる個人間の敵対関係とが 絡み合っているように思えます。
 ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/02 10:08

bragelonne様との議論となると、 やはり時間がかなり必要となってしまいますね^^。



さっそく、かなりややこしいこととなってしまいました。

まず、わたしのキリスト観は、やはり信仰ではない(あるいは、そこにいたっていない)と思います。

例えば 最近論語に触れたのですが、 孔子という人をすっかり見直してしまいました。

礼儀を重んじ 人間関係を大事にした人としか考えていませんでしたので興味もそれなりのものでしかなかったのですが、  この人はまず歌の真髄をもとらえていますし、 人の死に対して礼などかなぐり捨てて周りの人のことも忘れて泣きまくったりするような人でした。

老子のようなところも内包しつつ、そのうえで、あの時代を当意即妙に生きたすばらしい人であり、 そうであれば、 どこまでもやはり謙虚であってこそ論語を読んでゆくことができるのではないか。 と驚いているところです。

もちろん、さらに歴史を貫く言葉を キリストは単純明快にも思えてしまうたとえ話で語っています。

が、わたしにとっては、同じに ちょうど言葉というものが人間の文化の中に定着し始めた頃に、 その文化の全体を極限まで達観した人たちが現れたのだというふうに思っていて キリストもその一人としてまず考えるわけです。

私自身は その意味では、まったく平凡な人間そのものと言えるでしょう。

一方 私は、これも最近なのですが 縁あって確かにこの人は悟った人だと思える純粋な人とメールを交わしたことがあります。

新約聖書の言葉も 仏教の経典も語りますが、すべて純粋に悟りを開いた者の立場から語られています。

こういう人をすごい人とかいうふうにも形容できません。

ただただ純粋だからです。

彼は私にこう書いてきました。「あなたは、まだ天眼を知らない」 

でも、それは 私自身が 聖書の「盲人が盲人の手を引いても両方とも穴に落ちるだけだ」という言葉に悩み続けたところの 盲人だと思っていますので、 それは言われなくても解かっているとも思えるところ、

しかしながら、 そこで盲人なりに得たものは大きいのです。

彼が忙しくなければ もっと多くを聞きたかったところです。

bragelonne様の場合は、 どこまでも議論が出来ます^^。

がbragelonne様の場合は、 悟った人と逆です。

悟った人は、 もはや、不純な心の世界をすっかり忘れています。

弱い心の世界や、苦悩の世界、 生物として苦しみもだえる世界を 記憶のかなたには覚えているかのようでも、どうみても実感としては忘れすぎています。

と、実際にこの社会での “《今在る》《今 あり続けている》苦しみの世界に対応する力は ” あまり無いです。  その情熱も、薄いです。

それはそれでいいのですが、 ならば 私自身は悟りたくないと思いました。

bragelonne様の場合は その逆です。

最初びっくりしましたが、 怒ってみせるとかではなく、本気で怒ってしまうこともあり、そのへんは怒るとかは「見つめていられる(めちゃくちゃな時には おなかが痛くなるのですよ、それは苦しいです。でも見つめてるので 寝転がってはいられたりするのです^^)」強さを持っていたりする私よりも弱いのかもしれません、  つまり、 弱い人の気持や苦しみを 徹底的に理解することもできる人です。

にもかかわらず、 なんらかのキリストに関する信仰体験から その純粋さとゆるぎなさ、 言われていることのそのへんの整合性とかは まるで悟った人に似ています。

私には難しい言葉に思え、よく解からないでいるのですが、それが《無思考の信仰》ということなのでしょう。

であれば、 その信仰と関ることに どこまでも こだわることは誠実さそのものを意味しbragelonne様らしい生き様であり、それは当然の「らしい」姿勢だと思います。

どんな誤解を受けても まずその点については関るなら 必ず話さないではいられなくなってしまうのも もっとも人間的な人間性の1つと言えるでしょう。

そこを 私は またしても キリストの言葉を書きつつ、 私の結論を述べてしまったのですから、  話が そのへんに進んでもしかたないところでしょう。

こちらも誤解を覚悟で 言葉を綴るならば、

私は 企業戦士のように、最後まで 1つ1つをクリアーにしつつ 1つ1つを整理しつつ、 最後まで、寄添った人に 赦しと幸せへの道への責任を負い続ける気持があります。(その、それだけの責任感をいつしか感じるようにもなっていたということです)

(普通企業戦士というと 利己的なところが私とは合いませんので、ほんとうは誤解して欲しくないのですが、 簡単に書くために、 上記のように略して書きました)

上記からお解かりのように、 「信じる」とい言葉を あの時点では あくまで相対的な意味で使っていました。

同じに絶対的な何かでも 悟った人よりも、bragelonne様の純粋さのほうが人間としての価値は大きいと私は思います。(これは うまく言えてないかもしれないですね)

ともかく 女性の母性は 私が感じるところでは、ものすごい「大きな」世界ですが、 それに似たものを理論家でありつつ持ち合わせているところがあるのです。 ある意味 奇跡のようなものと思います。

それを 得たのがキリストによるものであるのならば、 私はあまりにも不用意にキリストの言葉と《信じる》という言葉とを一緒に使ってしまったと思います。

この信仰の意味合いについても、 これからは きちっと話し合いましょう。

しかし、ここは、別な意味合いの回答であったことを理解してください。

マシュマロ2さんがおっしゃってくださった意味合いで《信じる》という言葉も使っていたわけです。

前から思っていたのですが、《表象》という概念も 私とbragelonne様とはすれ違っているのかもしれません。

でも似ているし同じ言葉であるため、 そこで、最後に《表象ではとらえられない》ものとしての信仰の世界が 今一つかめていないのかもしれません。 

信仰の世界についても、いずれ おっしゃられるとおりに、》しっかりと《 話し合いましょう。

が、 わたしの考える《表象》の世界を越えた世界と この一歩一歩、最後まで責任を取るという意味での その精一杯さを 意味する相手をどこまでも信じて進むという時の《信じる》は 矛盾しないのです。

《信仰》のことは、 ここではおいておいて、 それでは、 bragelonne様は この相対世界が「表象の世界を越えた世界と矛盾無く結びついている」とする 私の上記の考えを どう捕らえられますでしょうか?

今は、 こちらの方に 議論を移していただけないでしょうか。

今回は以上です。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 企業戦士という言葉を出したのは 大げさでしたが わたしの定義する《信じる》とは別だという意味を取り立てるために使っています。
 まづ この質問への回答としては 信仰では意味を成さないというわけを説明します。
 しかも単純です。その企業戦士という語の意味合いを薄めてかつ《利己的》なところを別として 今回おっしゃるような趣旨でしたら わたしの言う信仰とは別だと分かるからです。
 ★ 私は 企業戦士のように、最後まで 1つ1つをクリアーにしつつ 1つ1つを整理しつつ、 最後まで、寄添った人に 赦しと幸せへの道への責任を負い続ける気持があります。(その、それだけの責任感をいつしか感じるようにもなっていたということです)
 ☆ つまりそのように努力するという意味であり そういうご回答です。これを その人の信仰において行なうと言ってしまえば 人間の努力なのか それを超える力のはたらきなのか まるで何にも分からなくなる。これゆえです。

 ではその信仰とは どういう現実か?
 ★ 《無思考の信仰》
 ☆ ではありません。ここはげんみつに行きます。
 ○ 非思考においてあたかも心に窓が開いたかのようにして心が伸びる。そういう感じがする。そしてこのことを受け容れたと――これははっきりと みづからの意志行為として――確かめる。これが 信じるという非思考の受け身かつ能動の行為です。これの持続が 信仰です。
 ☆ 《無思考》と言えば 思考がない状態・思考していない状態を言うはずです。《非思考》とは 経験的な思考を超えているという意味です。考えても分かるか分からないかが分からない領域を それとして想定するものです。
 これに対峙するときひとは あたかも心の明けもしくは伸びを持つかに感じる。それを受け容れたというとき 信仰が始まります。そして あくまでどこまでも 非思考です。

 ただし この非思考であるにもかかわらずひとは この心の明けから何がしかの経験的なものごととして意味のある事柄をあたかも得るようです。これを 言葉にしてみるようです。たとえば その領域とわたしの関係は――あくまでそういう想定のもとにということですが―― ちょうど《愛》という力のはたらきを感じるといった表明です。
 《神は愛なり》。
 といったように 非思考・非経験の信仰から 経験的な思考の問題としての言葉が得られるというようです。そしてそれは あくまで想定のもとに得られるというものです。言いかえれば その言葉は 仮りのものです。なぜなら 《神》も《神は愛なり》もその言葉じたいが 神ではないからです。信仰から仮りに得られた言葉であるに過ぎないからです。

 ですから たとえばこの《神の愛》において ひとは ひとのあやまちを赦すことができるとか 悪人にも最後まで寄り添ってその隣り人になるとか言えば あくまで仮りの答えにしか成らない。こういう意味です。
 むろん 信教・良心の自由をとうとびますから その発言を否定しようとか ないがしろにしようとかいうことではありません。仮りの言葉では・つまり非思考の領域のことでは 一般には分からない。こういうふうに決まります。

 この《仮りの言葉》というのが 《表象し得ぬ領域を 仮りに表わしたもの》です。
 《絶対世界》を仮りに《相対世界》における人間の言葉で表わそうとすることもあるのだと思われます。これを表現の自由と 人間の世界では 言う。そういう問題だと考えます。

 ですから わたしの見るかぎり 《信じる》をこの相対世界のものごとに対して当てはめることは 矛盾であると考えます。もしくは それは 《考える・想像する・表象する・信頼を置く・信用する・強く妥当だと考える・熱心に思う》という経験的な意志行為のことを 誇張して 信じるという場合がある。これは特に文学的表現としてありうる。こういう事情だと考えます。どうでしょう?

補足日時:2009/12/01 23:02
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 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。



> ★佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」
 ☆ まづ残念ながら レヰ゛ューを読んでも 《自閉症》の具体的な状態が分からず 従って その《罪と罰》のあり方もよく分かりませんでした。

 この本の主旨は、自閉症一家(妹は健常者ですが、末期癌という状況です)に、社会福祉等からの手の差し伸べがあれば、かような事件は生まれなかったのですないか。というものでございます。

 申し訳ございませんが、以下のスペースをお借りいたします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 mashumaro2様にご質問させていただきます。

以下は、佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」からのそのままの引用でございますが、「私もジャーナリズムというのは、すごくそういう役割(世の中をよくしようという役割)があると思う。しかし、大半は、世の中をよくしようなんて考えてねえ、ただの野次馬だろ。姉の家も、マスコミに囲まれて、出入りができないほどやられた。Mちゃん(被害者)はほんとうに気の毒だった。どんな思いをして亡くなっていったか、考えて余りある。けれどもマスコミに対する腹立たしさ、これもまた同じくらい強いんだ。マスコミ不信どころの話ではない。だからあなたの取材も、できれば避けたかった」
私は一言もなかった。

「こういう事件があって、誰が自分たちのことを本当に考えていてくれるか、改めてよく分かった。野次馬は、電話をかけてくる。今度の事件のあの子、あんたのところのなんとかだろう、そう電話で確かめてる人間もいる。私らのことを考えてくれている人は、なにも言わない。黙って、そっとしておいてくれる。いまだから笑い話になるけれど、事件のあと、店がしばらく暇だった。いつも来てくれていたお客さんも、ばったりと来なくなった。後で聞いたら、かける言葉はないし、とてもじゃないが足を運ぶことができなかった、そう言う。そうした人はほんとうにあるがたかった。」  (p.306から307)

 つまり、彼ら(被害者、加害者)とは全く関係のない、また近隣に住む方でもない場合、どうして、かような“野次馬”なるものが発生するとお考えでしょうか?
 これは、愚見ではございますが、そもそもこういった情報というものは、旧友等は別として、一般的にはメディアを通して得られることが多いと思うのです。bragelonne様のような、マスコミがどうの世間がこうのという問題にはかかわらない方は別としまして、実際、関わってくる方もそれなりにいるかと考えております(いわゆる“野次馬”です)。彼らは、珍しさといった理由もあるのでしょうが、心の中に何か“ルサンチマン”みたいなものがあるように思われるのです(社会の閉塞感みたいなものが起因しているかと)。そもそも、彼ら“野次馬”は元来事件には何ら関係のない人たちです。どうして部外者にもかかわらず、こんな面倒なことにまで首をつっこんでくるのかは、ある意味不思議なのです。

 さらにでございますが、もし、mashumaro2様が彼らコミュニティの一員であった場合(加害者のコミュニティの一員としてくださいませ)、どのような行動をお取りになれるでしょうか。

 そして最後なのですが、mashumaro2様には、お子様がいらっしゃるということですので、次の質問をさせていただきます。参考URLの箇所に各小学校と網走刑務所の給食の写真を載せておりますが、どのような感想をお持ちでしょうか?これらの給食の質素化(?)は(S市がひどいですが)、給食費の未納が主な原因と考えられます。また、この現状を“よし”としますでしょうか?それとも何らかの対策を考えるでしょうか?

 駄文を長々と綴ってきましたが、お暇な折にでも、ご返答いただければ幸いでございます。

 それでは、ご一読いただきまして、皆様方に厚くお礼申し上げます。

参考URL:http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/0/e/0 …
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん。もし関心をお持ちになるようでしたら つぎの情報に当たってみてください。

 【Q:ポルノと言う存在。】   
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4533194.html
 ☆ これは 性犯罪の問題をあつかうもので じつは mashumaro2 さんも参加されています。arayata333 さんもです。
 そこでわたしが いわゆるレイプについて つぎのように発言していることが取り上げられているのです。

  ☆☆ (回答No.47) ○ それは 蚊が刺しただけです。

 ほかに関連の質問をかかげます。
 【Q:蚊論争について。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4670999.html
 上とおなじ yukkinn66 さんの設問です。
 その回答No.3にわたしは 《ベルギーのその種の被害者であるサビーヌ・ダルデンヌさん》の発言などを出しています。

 その後 次のようなやり取りが arayata333 さんとわたしと の間に起きました。
 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html
 ☆☆ (No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★★( arayata333 さん) 蚊に刺されたようなものです。
  ☆☆( bragelonne ) 蚊が刺しただけです。
 
  ☆ これら二つは まったくと言っていいほど 違います。
  後者では 《蚊が刺しただけ》が 歴史事実です。前者では なにかが別に歴史事実としてあって それが《蚊が刺した》ことに喩えられると言っています。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ arayata333 さんのご発言の詳細です。
 ◆ (【Q:ポルノと言う存在。】回答No.48 ) ~~~~~~~~~~
 ・・・じわっとした感じで あるいはごく普通の大地に足を踏みしめた感じで、  人を愛せれば その時どんなゾゾゾゾゾゾゾ体験もそれごと、笑って抱きしめられるよ、 ということが解かります。

 レイプトラウマは、その時 何もかもが 何もかもがですが 消えているはずです。 蚊に刺されたようなものです^^/。(〔* bragelonne とは〕喧嘩してる最中なのに 結論がまったく一緒だった? なぜだああああ。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いまも引き続いている感じがありますので お伝えしようと思いました。

お礼日時:2009/12/02 14:53

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