親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?
以前から気に入っていたのですが、その着物の名称も分からず、調べようも無いまま今まで来てしまいました。
知っている方がいらしたら、是非教えてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?

普通に「寝巻き」で良いのですよ。
また、「寝衣(しんい)」とも呼びます。

なお、良く菱形のような白い透けた柄がありますが、
「工事繋ぎ(こうじつなぎ)」や「紗綾形(さやがた)」多く用いられました。

紗綾形:
http://haruusagi.gozaru.jp/NewFiles/photoshop-pa …

この回答への補足

すみません、No.2も同じ方の投稿と勘違いをしてしまい、誤ったお礼を投稿してしまいました。申し訳ありませんでした。

補足日時:2009/12/06 18:43
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この回答へのお礼

丁寧な説明をありがとうございました。
寝間着ですか。おっしゃるように地模様が入っていたりした上等なものなので、もっと別の名前があるのかと思っていました。
夜着の説明もありがとうございました。大変参考になりました。

お礼日時:2009/12/06 18:38

ひとつ付け加えますと、「夜着(よぎ)」というのは寝間着の総称ではなく


当時の江戸その他で一般的だった「袖のついた掛け布団」のことです。
寝るときは掛け布団として、また夜中に厠へ立つときはそのまま袖に腕を通して上着として使います。
    • good
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この回答へのお礼

夜着というのは、夜着るものの名前ではなかったのですね。すっかり勘違いをしていました。教えてくださり、ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/06 18:46

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Q寝る時に着る着物の名前を教えてください

こんにちは。

質問なのですが、時代劇で登場人物が寝る時に着ている白い着物の名前を教えて下さい。
あと時代劇ほど昔ではないけど、昭和初期?とかのTVドラマで
女の人が寝る時に着ている着物の名前も教えてやって下さい。

質問文が解りづらかったらすみません(汗
どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

たとえば将軍やその奥方など位の高い人が寝所で着ている着物のことでしょうかね。
それなら絹の白生地で仕立てられたもので、名称としては「寝間着」ですね。
のちに単に寝る時に着る物を総称して「寝間着」→「寝巻き」になり庶民が着る木綿の柄物でもそうよぶようになりました。
旅館の浴衣は要するに「寝巻き」です。
浴衣は湯上がり等に夕方以降、部屋着として着られた木綿の着物で、寝巻きとあまり区別されずに「浴衣」と言ったり「寝巻き」と言ったりしました。
ちなみに浴衣は元来身分の高い人が風呂に入る時に着られたものがルーツです。
共通するのはどちらも人前で着るものではなく、家のなか、部屋のなかでのみ着られたことですね。

Q昔の人が寝る時に着てるもの

私の妹が忍たま乱太郎にはまっていて忍者装束や着物を着たりしたいと言っています。

でもそんな姿で外に出られては恥ずかしいので困っていたら丁度テレビで乱太郎達の寝巻き姿?が映っていて妹に
「こうゆうのだったらいいよ」と言ったら大喜びで今度の誕生日に買ってあげることになりました。

でも乱太郎達が着ていたものの名前が良く分からず探してもなかなか出てきません。
浴衣が真っ白くなったようなものなのですが、正しい名称をご存知の方教えてください!
またそうゆうものの買い方等も教えていただけるとうれしいです。
よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

忍たま乱太郎の時代設定は室町時代(戦国時代)ですね。
乱太郎達が着ていた寝巻き(または当時の小袖)と似たようなもので神社の神主さんや巫女さんが着ている白衣があります。
これは現在の着物とまったく別のもので、どちらかというと江戸時代以前の小袖の主流を保っています。
現在の着物と大きな違いは女性も男性の着物と同じ着付けで着る点です。(「襟を抜かない」「おはしょりしない(つまり長襦袢みたいに対丈に仕立ます)」「帯が伊達締めや男物の帯のように幅が小さい」等)
また、白衣の下に着る襦袢は長襦袢でなく半襦袢という二部式襦袢の上のようなもので乱太郎達の時代は袖の無い半襦袢を着て下を腰巻のような布で覆っていたものです。
それと現在でも神主さんは合宿などではこの白衣を寝巻きがわりに使ったりしています。(袴と足袋を脱げばそのまま寝巻きになります。)

一応ここで購入することは出来ます
http://www.yusoku.com/(巫女装束の中にあります)

ただ問題は今では白衣(白小袖)は一般人から見ると死装束に見えてしまうという点です。

本人は何も感じなくても周りがみたらやっぱり・・・ちょっと・・・ですよね。
一番良いのは白衣に近い浴衣を利用するといいでしょう。
色と柄を室町時代に見えるような落ち着いたもので、裾を妹さんの身丈に合うように裾上げするか、対丈に仕立てて帯を細帯や伊達締めなど細めの帯で締めればそれらしく見えるはずです。
当時の庶民はほとんど着たきりでしたから問題はないと思います。

それと妹さんは当時の忍者や服装に憧れているんですよね。
忍者装束は他の回答者様が仰られるとおり作務衣なんかを着るとそれらしく見えます。
あとその他に金糸の入ったアンティーク着物(裄丈が短いので良い。)と細帯を使うことで当時のかぶき物と呼ばれた若者っぽく見えます。
コツとしてはおはしょりが帯に隠れるようにして、帯を片結びさせます。
これでしたら通常のおしゃれ着としても着られますのでオススメします。

忍たま乱太郎の時代設定は室町時代(戦国時代)ですね。
乱太郎達が着ていた寝巻き(または当時の小袖)と似たようなもので神社の神主さんや巫女さんが着ている白衣があります。
これは現在の着物とまったく別のもので、どちらかというと江戸時代以前の小袖の主流を保っています。
現在の着物と大きな違いは女性も男性の着物と同じ着付けで着る点です。(「襟を抜かない」「おはしょりしない(つまり長襦袢みたいに対丈に仕立ます)」「帯が伊達締めや男物の帯のように幅が小さい」等)
また、白衣の下に着る...続きを読む

Q戦国時代の服装

戦国時代~安土桃山時代の服飾に触れている資料を探しています。武士だけでなく、女性、庶民や僧侶などまで網羅しているものはないでしょうか

Aベストアンサー

やっぱり、このサイトじゃないでしょうか・・・
有名なので、もうご存知かも知れませんが・・・

http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000100

Q平安時代の貴人(女性)は、どのように寝ていたのですか?

平安時代の貴人(女性)は、どのように寝ていたのですか?
源氏物語などを読むと、女性貴人は御帳台で寝ていますが、そのとき、布団のようなものはかけていたのでしょうか?
寝るときの服装も、昼間とは別にあったと思いますが、どうなのでしょうか?
れきはくに行って御帳台は見ましたが、具体的にどのように寝ていたのか分からなかったので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

この当時、布団はまだなかったはず。
「ふすま(衾)」とよばれる長方形の布が「かけぶとん」の
先祖のように存在してはいますが、今のかけぶとんのように
羽や綿がふんだんに入っていたわけでもありませんし、一般的でも
なかったよう(新婚初夜には使用したようですが・・・)。

ふだんは自分の着ていた 衣をそのままかぶって寝ていました。
眠る時の服装も・・・女性の場合は 白小袖(着ていた時代であれば)に長袴、
で、ようするに十二単の一番下に着ていたものを寝間着としていたようです。

そして長い髪はじゃまにならないよう、「髪はこ」という漆塗りの平たい箱を
頭元において、そのなかにとぐろをまいて入れて、寝ていたようです。

Q昔の時間の単位を教えてください

昔(明治より前)、日本で使われていた時間の単位を教えてください。

例えば、今で言うところの「10分」とか「1分」に相當する時間はなんと言っていたのでしょうか。

まさか、無かったなんてことはないでしょうね。
そしたら「あと10分で仕事を終わりにしよう」なんて言えないですよね。

時間・分・秒は、明治以降ですよね。

Aベストアンサー

現在のような、分や秒を使った記録はないようです。
九つ、の0時は子の刻、午の刻、現在の子午線、日付変更の基準にしています。
12時を正午(正午の刻)など現代生活に使われている。
明け六つ、暮れ六つ、は簡単にいうと夏時間、冬時間のようである、時代劇ではいつも朝明け、日暮れ時である、これは時代劇の効果ではなく夜明け、日暮れにあわせたそうです。
基本的には、1刻は2時間、1時(とき)は1時間、以下は、半時は30分、四半時は15分、このような値より長いと思うときは半時余り、短いときは四半時足らず、などの表現で生活に支障がなかったようです。

Q昔の寝具についてー薄すぎませんかー

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられません。
そういうところに、タオルケットのような物一枚を敷いて、上にも、薄絹のようなものを掛けただけで休んだのでしょうか。
(もう少し時代が下がって、平安時代くらいの映像で、そのような寝具が良くでてきますので)
今より、ずっと冬は寒かっただろうと思うのですが。
夏以外は、とてもそういう状態では眠られないだろうと、他人事ながら気になっています。
高貴な人は畳一枚をベッドのように敷いて、その上に布を引いていたりしますが、それでも寒いと思いますし、寝苦しいと思います。
それとも、そういう形は時代劇の「お約束」のようなものでしょうか。
些事で、つまらない質問かもしれませんが、ご存知の方教えてください。

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられませ...続きを読む

Aベストアンサー

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    そこで莚をたたんで重ねた畳が作られました。    いぐさ莚を表に萱を芯にした上等なものも作られました。      畳の上の褥(しとね)という敷物の上で寝ました。    始めは草を編んだものが、芯に真綿を入れた高級品も使われました。
平安時代から衾(ふすま)と呼ばれる掛け具が使われ始めました。  伏す裳(も)寝る時に着る意味です。     衣服と異なり長方形の布で中に真綿を入れるようになりました。
布団と夜着の寝具になるのは、木綿の生産が進んだ、室町以降と言われています。     もっとも戦国の武将たちは板敷きの床の上にそのまま寝ていたようです。     戦場では土の上のごろ寝ですから。
一方庶民の方は菰、莚、茣蓙の時代が永く続いたと云われています。    昔の人は貴賤とも寒さには鍛えられ、強かった事は確かです。    幼児の方は耐えられず、夭折が多かったのは止むを得ません。  

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    ...続きを読む

Q江戸時代の武家の女性装束について

江戸時代の武家の女性の装束ですが、庶民とはTVなどで異なるようです。ネットで画像を検索しているのですが中々、ヒットしません。
髪型や衣などについて詳しく解説されているサイトがあったら教えてください。髪形も武家は違うのですね。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBMQsAQwAA
島田髷の由来は、東海道島田宿の遊女が結ったのが名の起こりです。

衣服について。
武家も大商人たちもそうでしたが、女の元服19歳までは「振袖」で、結婚したり、元服を過ぎると「留袖」を着ました。
現代は、「留袖」と言うと「冠婚葬祭用」を言いますが、昔は、「振袖」に対して、袖が短い・・・という意味でした。
http://www.weblio.jp/content/%E7%95%99%E8%A2%96

また、一般的には「小袖(こそで)」といって、「留袖」よりは気軽な服装でした。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B0%8F%E8%A2%96&um=1&ie=UTF-8&ei=cE76SoXGOMuSkAW4vojDCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBwQsAQwAA

また、高貴な武家の奥方になると、その上に「打掛」を着ていました。
http://wedding-gyao.usen.com/glossary/word/006044002

この「打掛」も今では、結婚式の花嫁の衣装と思われがちですが、江戸時代は、身分の高い武家などでは一般的に羽織っていました。

写真を添付します。
解説には、
上流の女の装い
中央の武家の奥方は「打掛」(小袖の上に着る小袖)姿。
左右にいる祐筆と御側女中は半模様の小袖。
とあります。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=...続きを読む

Q江戸時代の人はどうやって寒さをしのいだ?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんで...続きを読む

Q昔の性交の実態

現代社会では、モラル的な圧力で、第2次性徴が来てもまだ性交適齢期でないとか社会的に未成熟とか言う理由で抑圧しますが、昔はもっと自然に、子供が生める体になったら交わり始める、と言う感じだったのですよね?
でも、女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ、お産については、大変な苦労があったと思います。出産の最中に死亡したり、産後の日だちが悪くて死亡したり、また、生まれて来る子どもも未熟児ですぐに死亡したり、と、苦労?も多かったのが実際でしょうね。

(よもやま話)
(1)ある大名家(判ってはいますが、ここではあえて伏せます)の嫡男15歳に政略結婚で7歳の少女が嫁ぎました。初夜の時に、乳母や女中連中が少女の股を無理やり、押さえつけて、開かせ、姦通させた、という話が残っています。(明らかに「幼女姦」)。
(2)また、男女が共に7~8歳前後で結婚した場合は、夫婦とは名ばかりで、10歳位になるまでは、遊び友だちでした。
(3)江戸の商家の娘になると、自由恋愛は全くと言って良いほどできませんでした。また、商家の娘は「箱入り娘」と呼ばれたように、自由に街中を歩くことさえできませんでした。
(4)現代のようにウインドショッピングを楽しむ場所もありませんでしたから、たまに、小物が欲しいと、街へ出ても、乳母や女中がお供をして出歩きましたので、自由にどこでも行くことは許されませんでした。
(5)では、着物や櫛(くし)、簪(かんざし)などが欲しいというと、大店の丁稚がそうした店へ使いに走り、店からの出張販売でした。
(6)江戸時代を例にとると、儒教の精神が上は将軍家から、下は町人まで、
「男女7歳にして席を同じゅうせず」
でしたので、武家はもちろん商家でも、双方の家柄や財産などを基に、親同士が決めた「許婚(いいなずけ)制度」で、特に、父親の権限が強く、父親の許可なしには結婚できませんでした。
(6)江戸の街には「分一(ぶいち)」と呼ばれる「仲人専門」の職業の人がいました。これは、結納金の十分の一が謝礼として貰えることから、そう呼ばれました。
(7)適齢期の男女を物色し、商家へ縁談を持ち込む。ただし、男は40歳前後まで、女は20歳まででした。となると裏をかえせば、10歳前後の結婚もあった、と言うことでしょう。
(8)「十分一(じゅうぶいち)取るにおろかな舌はなし」
と、狂歌にもよまれたように、「口先三寸」のやり手でした。
(9)また、逆に、将軍家や大名家の大奥では30歳になると「おしとね御免」と言って、夜の相手ができなくなる話はご存じだと思いますが、30歳位で妊娠すると、今度は、医療技術がお粗末だったため、高齢出産となり、母体の安全から子どもを作ることはできませんでした。ただし、町人などは、側室などいませんから、子どもを生むこともありました。
現代でも40歳以上になると、やはり、高齢出産と位置づけられますよね。江戸時代から400年余り過ぎても、医療技術が進歩したとはいえ10歳しか「上限」が上がっていない。
(10)ここには、主に、江戸時代で江戸の街を中心に述べていますが、地方(田舎)も似たり寄ったりでしょう。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ...続きを読む

Q小袖と着物の違いは?

タイトルそのまんまです。小袖という単語がでる文献に出会ったのですが、着物と何が違うのか気になり、質問させて頂きます。
また、浅い知識で申し訳ないのですが模様を「織り込む」のと「刺繍する」のでは種類が異なるらしいと読んだのですが確証が得られていません。ご存知の方がいらっしゃいましたらお教え下さい。

違いが比較できる文献、書籍などもお教えいただけると助かります。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

『小袖』という言葉を詳しく説明しようとすると大変長くなります。
検索すれば出ますのでご自分なりにお調べください。
大雑把に言うと小袖の大元は平安時代頃の公家や貴族の装束の下着です。
十二単に代表されるようにこの時代の上流階級では豪華な着物を何枚も重ねて着るのが流行りました。
上に着る着物は袖幅が大きく袖口も全部開いたもので、下に着る着物はそれに対し袖幅も小さく袖口は手を通す部分だけが開いた形でした。
その形状から『小袖』という名がついたと思われます。

室町時代になると華美に着飾るのを禁じる贅沢禁止令が出たり、次第に戦国の世へと移るなかで着物も身軽で簡略化された形へ変わって行きました。
この頃に下着であった「小袖』が上着として扱われるようになります。
現代の『着物』に近い扱いになったのです。

そして江戸時代にも様々な衣装の変遷があり、下着であったはずの『小袖』は豪華で華美なものへと発展します。
袖を長くした振袖が現れたりで『小袖』という名がそぐわなくなり、次第に単に『着物』とか和服とか言うようになったものと思われます。
なので『小袖』と『着物』は同義語であり、強いて言うなら時代が違うということです。

文様を表す技法としての「織り」や「刺繍」について。
刺繍は布に色糸を針で刺して表現するのに対し、織りは布を織る段階、つまり機にかけた状態で模様を表現するのでより手がかかり、高価なのは織り表現の方になります。
ただしジャカード機の普及により安価な織り物もできるようになりました。
機械織り製品よりは手刺繍の方が高価、そしてさらに手織り製品が高価と言えます。
代表的なのは西陣織りで、錦(にしき)唐織り(からおり)緞子(どんす)綴(つづれ)すくい、等の技法があります。
刺繍の方は日本刺繍のほか相良刺繍、蘇州刺繍、仙頭(スワトウ)刺繍が有名です。

『小袖』という言葉を詳しく説明しようとすると大変長くなります。
検索すれば出ますのでご自分なりにお調べください。
大雑把に言うと小袖の大元は平安時代頃の公家や貴族の装束の下着です。
十二単に代表されるようにこの時代の上流階級では豪華な着物を何枚も重ねて着るのが流行りました。
上に着る着物は袖幅が大きく袖口も全部開いたもので、下に着る着物はそれに対し袖幅も小さく袖口は手を通す部分だけが開いた形でした。
その形状から『小袖』という名がついたと思われます。

室町時代になると華美に着飾...続きを読む


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