関ヶ原の合戦で東軍が勝利したおかげで、その15年後には大阪の陣で豊臣家は滅ぼされました。関ヶ原の合戦時に淀殿が西軍に豊臣家の正規軍であることを認め、家康を逆賊としていたなら、関ヶ原の合戦で西軍は負けなかったのではないかと思います。加藤清正、福島正則らも東軍に加担できなかったのではないかと思うのですが、なぜ淀殿は西軍に加担しなかったのでしょうか。
1.家康が片桐勝元らを使って、うまく淀殿の動きを封じた。
2.西軍が負けたらどうなるか。淀殿には先が読めなかった。
3.北の政所が反対した。
真実はどうなのでしょうか。僕はこの点で淀殿はまんまと家康にだまされたと思うのですがどうでしょうか。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
関が原で西軍に加担しなかった理由は加担したくても加担出来なかったと思います。
まず名目上は
関が原の戦いの前の会津征伐を家康が強引に実行していますが、最終的には豊臣家が
許可をして会津征伐軍に金2万両と兵糧2万石を与えています。
この軍費の支給により会津征伐は家臣同士の戦や家康の暴走ではなく豊臣家に対する謀反人
を征伐する戦となり征伐軍は官軍となりました。
豊臣家が家康の専横を良く思っていなかった事は東軍諸将もわかっていますが
どんな理由(家康の専横に対する弾劾状)があるにしても会津征伐軍の留守の城を
攻めた石田三成らに非があり主人がこれに加担するのは対面上難しいと思います。
自ら惣無事令にて家臣同士の私闘を禁じておいて違反した者に加担は出来ません。
豊臣家が家康を排除したいのであれば正々堂々蟄居なり改易を沙汰致し、従わない場合征伐
する必要があると思います。
次に実際の理由ですが
加担した所ではっきり勝てる賞賛がなかった為加担せず、静観に留め、自分に掛かるであろう被害
を回避し、あわよくば西軍の勝利を望んでいたと思います。
秀吉の死後、次の天下人は家康との思いが各大名にあり、年賀の挨拶は秀頼より家康を先にした大名も
少なくなかった様で、豊臣家は家康を先にした大名と秀頼を先にした大名を観察、記録し家康謀反の際に
どの大名が家康に付くか分析していたと思います。
また、家康が秀吉の命に背き、無断で大名との婚姻を実施しましたが詰問の使者はあしらわれていますが
その際に憤慨する武将、憤慨しない武将を把握して緻密に家康を排除しようとした際の両勢力に
付いて分析してはっきりとした勝てる賞賛がなかったと思います。
結果論ですが関が原以前に、蟄居なり改易の沙汰をしていない事から豊臣家が家康の強大な力を
認識していたと想像出来ます。
会津征伐を承認せざるを得ないぐらい、家康の力は大きかったということでしょうか。たしかに、そうであれば西軍に加担できないですね。家康の横暴にも抵抗できなかった。もはやその時点で勝負ありですね。ありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
なぜ味方をしなかったかと、現代の人間の倫理とその後を知っている現代人なら色んな憶測を持ってしまうものだと思いますが、当時の感覚ではどうでしょう。
これから起こることも分からないですし、電話もテレビも車も電車もない時代で、遠くにいる家臣等とまるで今の上司と部下のように意思疎通なんてできません。
また、状況から考えて、悪いのは石田三成です。
秀頼の名において上杉を攻めに行く大老筆頭をいきなり挟み討ちにしようと挙兵したのですから正真正銘の謀反です。
だから、正確には関ヶ原の戦いは石田vs徳川ではなく、石田vs豊臣です。そこで淀殿が石田の見方をするのも変な話です。
開戦後は淀殿は北政局と連署で石田三成に停戦の要請を数度出しています。あくまでも要請です。
淀殿は後の小説やドラマのイメージでキャラが作られていますが、実際には北政局と仲が悪いと言える資料も一斉ありません。
政治面でもある程度の影響を与える事は可能ですが実際は女性ですので何を言っても正式な見解として成り立たないのです。
そして、石田三成にしても実際は豊臣の為に挙兵したか心の内はわかりません。石田三成も大義名分が欲しいがために豊臣の為と言っていたかもしれません。
後の歴史を知っている現代人なら徳川が天下を奪う為に戦ったと言うふうに解釈もできるでしょうが、その時代の当事者では無理な話です。
全て後の歴史から推測してドラマや小説として面白くなるように作られたものです。
結論を言えば、『石田三成に味方する理由がない』ただそれだけです。
余談ですが、徳川家康にしても関ヶ原の戦い後になって『これは天下取れるぞ!』と初めて思ったのではないでしょうか。
はじめから天下簒奪を狙ったわけではないと私はおもっていますがいかがでしょうか?
ありがとうございました。それにしてもただ傍観していたのでは勝利者に天下が奪われるということが分からなかったのでしょうか。三成逆臣なりといって、背後から家康を応援するということでもしていれば、まだ豊臣家存続の可能性もあったと思うのですが。家康の一人勝ちにしてしまったのはまずいと思いました。
No.6
- 回答日時:
#5様ので殆どですね。
秀次事件でおかしくなったと言えます。
秀吉はもうおかしい。もしもの時は内府様に頼むしかない。
これは事実であったと思われます。
その後、慶長の役。
三成襲撃事件でその不満がどれだけ大きいかが伺えます。
これで奉行職を降りている訳ですから、明らかに謀反です。
大阪城の人質と言い、伏見城の人質による恐喝と言い
とても武将の行いとは言い難いです。
関が原に入る前、
島津義久の元へ脱藩して個人の金子で駆けつけた島津兵達を
見殺しにして撤退する策を建てるなど、
初期に島津の怒りは頂点に達していたと考えられます。
また、真田昌幸は、挙兵する前になぜ文を出さないのかと不思議がったとも言われています。
これが西に付くか、東に付くかです。
奉行は三成挙兵を家康に通報しています。
いきなりの事であり、傍観するしか無かったと考えます。
また、秀頼の出陣を拒否したのは、本意で無かったのだと思います。
少なくとも、
5大老の協議制を守り、総大将として豊臣秀頼の名の下に
討伐令を下していれば十分勝てた問題でもあったはずです。
こうせず、暗殺的に消し去ろうと考えたのが間違いの元だと考えます。
No.4
- 回答日時:
関ヶ原一発で決着がつくなんて、誰も思っていなかったから。
ならば、武力的に弱者である豊臣家としたら二股かけるのが正解。
歴戦の策謀家である黒田勘兵衛の行動は、数年続く、つまりすぐには決着がつかないものと思っていた。
伊達政宗の遅延な行動も、黒田同様に、長期戦、つまりすぐには決着がつかないものと思っていたと考えると納得が行く。
上杉が徳川を追撃なかったのも、短期決戦なんて生じないと思っていたとすると納得がいく。
自分の寿命を考えて、乾坤一擲の勝負をかけることのできた人間が徳川家康だけだったということではなかろうか。
関ヶ原の戦いが長期に及んでいたら、両方の和睦のとりまとめをできるのは豊臣家しかなくなりますね。たしかに二股かけたほうが正解ですね。ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
関ヶ原の戦いの結果が徳川の天下につながるというのは、後世の我々だから知りうる事であって、
その当時においてはあくまで豊臣の臣下同士の争いに過ぎなかったのです。
西軍が官軍で東軍が反乱軍というわけではないのですから、主の秀頼や淀がどちらかに肩入れするわけにはいきません。
そもそも時点では秀吉亡き後の豊臣を支えてくれるのは家康の力しかないという認識だったのですから、
その家康を排除するような行動を秀頼や淀が自らするはずもありません。
家康の力を頼るしか豊臣家の存続はなかったということでしょうか。その時点で豊臣家の滅亡は決まっていたのですね。ありがとうございました。
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