古今和歌集巻第17の863 業平の朝臣の歌で

わがうへに露ぞおくなるあまの川、とわたるふねのかいのしずくか

宜しくお願い致します。

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A 回答 (3件)

新日本古典文学大系版(小島憲之/新井栄蔵校注)の訳では、


「わたくしの上に露が置いているようだ。天の川の通い路を彦星が渡っているその舟の櫂から垂れるしずくなのか」
となっています。

二句切れの歌なので、読点は「あまの川、とわたる」ではなく「露ぞおくなる。あまの川」と切るほうが適切でしょう。
「露ぞおくなる」の「ぞ」は係結び、
「なる」は「~であるようだ」という推定の意味をあらわす助動詞「なり」です。
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この回答へのお礼

有難うございました。よく解りました。
「マスターに推薦」致します。
沢山本を読んで勉強したいと思います。

お礼日時:2001/03/24 13:55

ご質問の歌は,古今集では「よみ人知らず」とされています。

『伊勢物語』59段に同じ歌が採られているので業平と書いておいでなのだと思いますが,『伊勢』に採られているからといって業平の歌とは言えません。

「このゆふべ降り雨は彦星のとわたる船のかいのしづくか」というほぼ同じ歌が『新古今集』314にありますが,こちらでは作者は「山部赤人」となっています。

大意はsesameさんのおっしゃるとおりでいいと思います。彦星はもちろん織り姫に会いに行くわけですね。「とわたる」の「と」は,川や海峡の狭いところで,百人一首の「由良のとをわたる船人」と同じです。

『伊勢』の文脈では,主人公が病気で気を失ったときに顔に水をかけられて詠んだ歌ですが,文脈なしで読めば,たなばたの夜に狐の嫁入りでも降ってきた(夜に狐の嫁入り,は変か?)という心でしょうか。

なお,「しずく」でなく「しづく」ですので,書かれる際はご注意を。

以上,つけたしでした。
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詳しくは解りませんがこんな感じでしょうか。


「私の上に天の川からが落ちてきました これはあの川を渡る船の櫂からおちたしずくなのだろうか?」
といったかんじでは?
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この回答へのお礼

早速にありがとう御座いました。
書の展覧会にと思い訳もわからず書くのは
抵抗があったので、お聞きしましたが
露ぞおくなる天の川はちょっと違うのでは?、
ごめんなさい。

お礼日時:2001/03/24 09:12

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Q~五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今和歌集:夏の歌)~について

回答者の皆様には、いつもお世話になっております。

 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

上記は『古今和歌集』の夏の部に収められている非常に有名な和歌です。かつての恋人への切ない想いを爽やかな橘の香によせて率直に歌い上げているこの歌はいにしえの人々に大層愛され、私自身も大好きな一首なのですが・・・先日『伊勢物語』を読んでいたところ、この歌を主題にした段に目が留まりました。その段とは

むかし、おとこ有けり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどに家刀自、まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。このおとこ、宇佐の使にていきけるに、ある国の祗承(しぞう)の官人の妻にてなむあると聞きて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」といひければ、かはらけとりて出したりけるに、さかななりける橘をとりて、

五月まつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする

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実は私はお恥ずかしいことにこの段をじっくり読んだことがなく、今回改めて読み直してある疑問を覚えました。
それは「さかななりける橘」という部分です。
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 もしそうだとすれば、古今集の撰者がこの歌を<夏の部>に入れたのは何故なのでしょうか?「五月待つ花橘」とは「五月を待って咲く花橘」ではなく「今はまだ九月だから花を咲かすことが出来る五月を待っている花橘」という意味ではないのか・・・。「実」のほうは「花」のようなあの独特の香が薫ることはないと思います。歌った男はたまたま肴に出された「実」があったので、「花」を想像して歌を聞いてよね、という気持ちだったのでしょうか?男のそういう気持ちを選者も汲んで、まあ秋に詠まれた歌だけど五月という言葉もあるし、せっかくだから<夏の部>に入れよっか~という結果なのでしょうか???

ものすごく今更な疑問なのですが、考えたらとまらなくなってしまいましたので、どうか回答いただければ幸いです。

回答者の皆様には、いつもお世話になっております。

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Aベストアンサー

『古今集』や『伊勢物語』は、読めば読むほど、汲めども汲めども尽きない深みや奥行きを感じさせてくれますよね。
で、今回の疑問点については、以下のような説明で解消されないでしょうか。

まず、「さかななりける橘」についてですが、「橘」は日本固有種の「柑子ミカン」の古名でもありますから、ここでは、「橘は橘でも『花』ではなく食される方の『実』を指している」のではなく、常識的に考える限り、柑子ミカンを指していたのではないでしょうか。

柑子ミカンは、もちろん現在の温州ミカンほど甘くはないですが、「さかななりける橘」が今で言うデザートのフルーツとして出されていたとすれば、『伊勢物語』中の「橘」とは、高貴な芳香を発しはしてもとても食えるような代物ではない「橘の実」ではなく、やはり「柑子ミカン」だったと考えられます。
ただ、たとえ柑子ミカンが橘の実よりも遅れて熟するにしても、そして冬の間ぐらいは保存が利いたにせよ、だからと言って、この歌が「五月待つ」頃に詠まれたと解するのは、やはり質問者さんご指摘のようにどう考えても無理ですよね。

なら、「古今集の撰者がこの歌を<夏の部>に入れたのは何故」かとなると、おそらく紀貫之をはじめとする編集委員会のメンバーが極端なまでにわがままな美意識、構成意識をもって編纂事業に従事したがために、結果的にこのような一種の椿事めいたことが生じたと考えられるのではないでしょうか。

試みに、古今集の編集の仕方、たとえば各部立ごとの歌の配列、前後の歌との相互的な連関等に注目すれば、編集者たちが平気で一首毎の歌が内包する個別的、自律的な歌世界を無視し、あくまでもそれらの有機的な結合を最優先することで、膨大な和歌を素材にした、一種の統合的な物語世界の創造を目論んでいたのではないかと臆測しないではいられません。

そのためにも、「五月待つ」の歌がいつ詠まれたかという事実レベルのことよりも、自分たちの構想する有機的な歌世界を実現することをこそ優先せざるを得なかったのではないでしょうか。
少なくとも、諧謔的、批評的精神が人一倍旺盛にしてわがままな唯美主義者の貫之でしたから、しかも彼が編集委員会を仕切っていたでしょうから、この程度に大胆な着想、意匠を彼が抱いていたとしても全然不思議ではないと思います。

>まあ秋に詠まれた歌だけど五月という言葉もあるし、せっかくだから<夏の部>に入れよっか~という結果なのでしょうか???

もうお分かりかと思いますが、あくまでも<夏の部>について、特に編集者たちの理想とする初夏の世界を実現するためにも、できるだけ歌相互間の連関性、有機性を最優先しようとして、敢えて「秋に詠まれた歌」という個別的事情を無視したのではないでしょうか。

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Q新古今和歌集の現代語訳付きの原文を探しています

初めまして。
よろしくお願いいたします。
新古今和歌集を読破したいと考えているのですが、
原文だけのものだと心もとないので、原文と現代語訳の両方が載っている書籍を探しています。
できれば、文庫がありがたいです。
もし、ご存知の方がおられれば、ぜひ、教えてください。

Aベストアンサー

補足を有難うございます、#1です。

そういえばあったような・・・と、昨晩、積読本をごそごそやっていたら、岩波文庫の「新訂 新古今和歌集」を見つけました。買ったはいいものの、どうもそそらないなぁ~と、開けてもいなかったのですが・・・パラパラめくってみると全巻掲載されていますし、注程度の語訳と注釈が載っています。先にオススメしたものに比べるとあっさりした内容になっていますが、その分「言葉」をしみじみ味わうにはこちらが良いかなぁ~と言う印象です。食わず嫌いして損したみたい(笑)私も今から読んでみたいと思います。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003010116/qid%3D1117590615/249-4204841-5405123

Q古今和歌集の歌の意味が知りたいのです。

古今和歌集11巻 548 
秋の田の ほのうえをてらす いなづまの 光のまにも 我やわするる 
(読み人しらず)    

の歌の意味を教えていただけませんでしょうか?
宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

「秋の田の稲穂を照らし出すいなびかりの光はほんの一瞬の間のものですが、その一瞬の短い間もわたくしがあの人への恋の思いを忘れましょうか」
(新古典文学大系版の校注による)

「我やわするる」は疑問の形をとった反語で、
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Q古今和歌集 315の歌について

古今和歌集に載っている
315 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬとおもえば
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緑の本、402ページに載っていると聞いたのですが、
どの本だったのか忘れてしまいました。
どの本かわかりますでしょうか?
またどの作品の何番の歌なのかわかれば教えていただきたいです。
宜しくお願い致します。

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 恐らくは岩波書店から刊行されている『新日本古典文学大系』の「古今和歌集」でしょう。「類歌」の問題に応えるのは質問者様御自身です。

Q新古今和歌集

こんにちは。現在高校生3年生です。
まずはじめの質問なのですが「体言止め」とはいったいなんでしょうか?辞書で調べると余韻、余情もたせると書いてあります。僕が聞きたいのはそれらを持たせることによってそ和歌がどうなるのか?ということです。(春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空とかです)

何個もしてすみません。次のは「あはれ」ということなのですがこれは平安時代の最高に美しいものに使うと聞きました。これは弱いものにも使ったと聞きました。なぜ弱いもの、儚いものにあはれを感じるのでしょうか?
長々と失礼いたしました。回答お願いします。

Aベストアンサー

「体言止め」については、

  http://members2.jcom.home.ne.jp/amei/nihongo/taigendome.html

を参考にしてみてください。それでも感じられなければ、深追いはやめましょう。

「あはれ」については

  http://www.norinaga.jp/009/index.html

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%AF%E3%82%8C


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