ゆとり教育ってどういう経緯で取り入れられてるんでしょうか。
学力低下が著しく、問題をおこす少年少女が激増しているのも、そこに一因があると思うのです。
だいたい、戦後日本は教育レベル・勤勉さで経済成長を支えてきていたのであって、それで上手くやってきたわけですよね。なぜ、変える必要があったのでしょうか。
競争が良くないとの事ですが、社会は自由競争の上に成り立ってるのであって、今後、社会に適応できない人間を増やしていくばかりのように思えて、とても恐ろしい気がします。元に戻すべきではないですか。
できれば教育者の方のご意見を伺いたいのです。宜しくお願いします。

A 回答 (6件)

文部省(文部科学省)のいう「ゆとり」がどこから出ているのか、私には理解できないのですが、授業時間をヨーロッパとくらべると、たとえ来年から土曜休業が完全実施されてもまだ多い。

その長い授業時間で子ども達の実力がついているかというと、決してそうではありません。(共通テストなどで比較する結果はいろいろですが、根本的な学力はヨーロッパのほうが上でしょう。)
 したがって、本当に「ゆとり」がイコール学力低下になるとは思わないのですが、現実は惨憺たるものがあります。(高校野球でも、進学校が片手間にやりながら甲子園に出場して、たまに常連の強豪に勝ったりすることがあります。一方で、体育会系の監督が毎日おそくまでしごいても予選敗退もあります)
 
 経済発展によって、ものがあまってきたため、生産より消費に力を入れなくてはいけない。消費を増やすにはいらない物を買わせるしかない。そのためには遊ぶ時間が必要だ。じゃあ、勉強の時間を減らせ。そういう単純な発想ではないでしょうか。
 だいたい、文部大臣も、教育に命をかける人がやるのでなく、当選回数と派閥のわりあてで、それも下のランクで選ばれているみたいです。(大臣が高校入試問題で何点取れるか。まあ、有馬さんならともかく・・)

 教育学も発達しているのだから、20年まえより合理的、効果的な授業方法が開発、実践されていいはずですが、相変わらず、暗記主義が中心です。少子化によって高校の門が広くなったら、受験対策がいらないので勉強しない。高校に入れさえすれば中学校の責任はないから、学力がついてなくても平気。子供も親も学校も、何のために勉強するか、考えようとしないでいるのです。学力でなく学歴なのですね。
 本当は勉強はおもしろいことです。知らなかったことがわかるほど、楽しいことはないはずだから。「教えてgoo」で、しょうもない質問(私も出しますが)にまじめに答えてくださる方がたは、そういう楽しみを知っているんでしょうね。それがピラミッドの底をひろげ、頂上も高くなることに繋がると思います。

 「平等」と「区別」は次元が違うものです。道路工事をする人も、できた道路をベンツで走る人も平等です。しかし、ベンツで走る人が道路工事をする人より「偉い」と思っているから、「偉い」やつが「偉くない」やつをいじめて平気なのです。いじめられないために勉強して官僚をめざそう、などという考えで勉強がおもしろいわけがない。
 
 教育レベルについていえば、江戸時代の日本は世界でトップの教育先進国でした。庶民が字を読み書きできるだけでもすごい時代です。それからくらべると、高度成長までの日本が、教育でどれだけ先進だったか疑問です。単に、他のことを切り捨てて経済成長にかけただけで(「産めよ増やせよ」世代が老後を安心してくらせるだけの先行投資もせずに)、それを「上手くやってきた」といえるのかどうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/03/31 09:03

もともとの質問というか問題提起が複雑なことを取り扱おうとしていますので


それらについて答えきるというわけにはいかないと思いますが・・
朝一番に書きこみまして、半日たって、他の方の書き込みもあり、始めに質問
なされたdamdamdam5656さんの補足やお礼もついた所でもう一度書かせていた
だきます。(議論を積み重ねることで説明などしやすくなります。)

まず、基本的に私の立場を述べておきますと、「ゆとり教育」という名の「教
育内容の削減」を求めたのは誤りであろう、ということです。しかし、当時の
人々にとっては「教育にゆとり」を求めたのはある種切実な要求であったこと
を理解していただきたいのです。
始めの回答で述べた「時代が変わった」というのは、当時をまったく知らない
世代が育っているのだなぁという感懐を表現したものです。

「教育にゆとり」を求める場合に方法は2つあります。一つは、例えばクラスの
人数を減らすなどして、教員が力を発揮しやすくする方法と、もう一つはクラ
スなどはそのままにして内容を減らす方法です。文部官僚は「ゆとり教育」
を後者の意味に曲解して現在の趨勢が作られてきたとも言えます。

「教育にゆとり」を求めた人々は「ゆとり教育」という言葉でだまされてきた
とも言えるのです。

それはさておき、以下の補足について
>就職もせずフリーターを気取る若者。(1)
>電車の床に座りパンをかじったり化粧に夢中な少年少女。(2)
>これらはすべて社会が要請して生まれたものなのでしょうか。
(1)も(2)も「ゆとり教育」の結果でてきたものではありません。
それは社会が豊かになり、生活に困らなくなったから生じてきた、と私は
考えます。社会全体が貧しいとき、就職もせずブラブラするだけの若者を
養うことは不可能です。職がなければ食べて行けない状況の中では就職し
て自力で生活することは当然でした。また、(2)にしても、化粧するなど
ということは職に就くか、あるいは特別な場合(お見合い、結婚式、就職
面接など人生の折り目となるとき)に限って行うことでした。現在では女
性ばかりでなく男性も化粧する時代ですが、化粧品に費やす余分な収入が
ない場合の方が多かったのです。つまり、これを「社会の要請」と取るの
は誤り(というか私はそういう風には書いていないつもりです)ですが、
豊かになった現代社会が「容認している」ことでしょう。
(特に(1)については親が認めなければ不可能でしょう。)

>学級崩壊などという現象は少なくとも20年前には考えられませんでした。
まったくその通りです。自分の家を出たら、そこは社会であり、自分の思う
通りにはいかないものである、という社会常識が生きていたからです。また
「教員は偉い」という建前を守っていこうという共通認識が親の方にもあっ
たと思います。この両者が、豊かになるに連れて失われていきました。「人
は自由に自分の思うがままに生きるべき」という幻想が支持され、自分の家
さらには自分の部屋(これ自体、豊かさの産物です)での振る舞いを社会の
場においてもするようになっています。言わば、内と外の区別がなくなって
しまったといっても良いのではないでしょうか。
では、それはいわゆる「ゆとり教育」のせいでしょうか。私は違うと思いま
す。

>教育界でも実際は疑問を持っている人がいても(中略)
>誰も異を唱えられないというような事はないのでしょうね。
公立学校の教員については不明ですが、私立学校はその存在自体を含めて
異議を唱えているようなものです。何もも東大合格者の数が多ければ良い
というものではないですが、現在、多数の東大合格者を出しているのは大
半が私立学校であることは事実です。これはmiharinさんへの補足中の
>やる気のある子の権利を侵害していると思うのですが。
の答えでもあります。やる気がある子供に対して、それだけのことをなし
ているから、そのような結果が出ているのではないかと思えませんか。
ただし、このことは公立学校や官僚たちにとっては「目の上のたんこぶ」
でもあります。何しろ、私立学校の教育課程は必ずしも文部省に従ってい
るわけではありませんから。

結論として言えば、昨今、現象として生じていることの原因は「ゆとり教
育」ではありません。どちらかというと、豊かな社会になったこと、それ
が生む社会のゆとりがこうした弊害を生み出しているのだと思います。
はじめの回答にも書きましたが、2つが平行して起こってきたために、
「ゆとり教育」がその原因であると誤解されています。

他にも論点があり、書きたいこともあるのですが、長くなってきているので
また、反応を見て書いていきたいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/03/31 09:04

 2002年から再度教育内容に変化(正しくは削減)が生じますが、


もう文部省のしていることは日本という「国」を破壊しようとしている
にも等しい蛮行ですね。「人間は皆平等だ」というスローガンは
どこかの政党が掲げていましたっけ?(もしそうなら彼らの罪は軽くはない)
 人間は能力に違いがあります。あって当たり前です。よく言われるように、
皆が皆官僚になったら、だれが道路工事をしてくれるのでしょう。
勉強のできない(嫌いな)子に無理して高校や大学に行かせようと
するからおかしなことになってくるのです。
 そりゃあ、できることなら学問を身につけたほうがいいと皆思うでしょう。
でもそれは学問に向いている人なら、の話であって、
そちら方面に向いていない子まで無理して上の学校にやらせる
必要はないのです。

これは「差別」か? いえいえ差別などではありません。
単なる「区別」です。この「区別」を日本人はつい「差別」
と誤解してしまう嫌いがあります。何故でしょう? 
島国根性の消え切らない故の「ひがみ・やっかみ」なのでしょうか。
 つい何年か前に文部省は「偏差値」を追い出しましたが、
追い出した後に、あれほどギャーギャーと
ヒステリックに騒ぎ立てて追い出すに値するほどの、
何か有効な、価値ある教育効果を生んだでしょうか? 
泰山鳴動して鼠一匹、というのが私の実感です。
(これに関しては今細かい議論をしている暇はありません。後日改めて)
 根本的に現在の教育体制そのもののシステムの改革に着手しない限り、
いずれ近い将来、またぞろ履修範囲の先送り、削減という「愚」
を重ねかねません。
 勉強が苦手なら勉強以外のことに道を探す方が余程賢明なのです。
どうして This is a pen. も理解できていない子を
高校へ送り出さなければならないのですか? 
また受け入れる高校を作るのですか? 
何がそんなに彼ら、並びに彼らの保護者にプレッシャーを
かけているのですか? 
こうしたことの一つ一つを教育に携わる人間のみならず、
全ての日本人が考えなくてはならないと思っています。
そうでなければ文部省の頭のいい官僚たちは、
したい放題のことをして日本を潰滅させかねません(いえ、
私はシャレで言っているのではありません。真剣です)。
 みんなと同じでなければ気が済まない日本人。
みんなと少しでも違っていたらそれをいじめのネタにしてしまう日本人。
「ゆとりが大切だ」って? そんなこと、お上に
言われなくたって百も承知だ! 「だから教える内容を少し削りたい」って? 
それよりももっと教え方の上手な先生を採用しなさい。
教える技術を日々磨くよう、先生たちを強力に指導しなさい。
それでも理解できない子は理解できない? 
当たり前でしょう、人間に得手不得手はつきものなのですから…。
だったらその違いをはっきり認めて、もっと前向きな、
大きな価値観を国家として打ち出しなさい。教育は国家百年の大計。
その場凌ぎの、安直で小賢しい改革ばかりしていると、
日本は本当に滅んでしまいますよ。
尤も、それがあなた方の最終的な目標だとすれば話は別ですが…。

 damdamdam5656さん、申し訳ありません。意見というより、
ほとんど私の個人的な「愚痴」になってしまいました。
ここまで書いてきて余程送信をやめようかと思ったのですが、
次回はもう少しまともな意見文を書き込みますので、
今回はこれでご容赦下さい。ではまた。 
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この回答へのお礼

私が思うには、学校の先生の社会的地位が下がってしまった事を第一に改善すべきだと思います。
昔の先生は、多少暴力的で独善的なところがあったかもしれませんが、教育に対する熱意のようなものは今のサラリーマン先生の比ではなかったように思います。
社会の羨望の的となるような教師の地位を確立し、給料を大幅アップして、優秀な人材を大量増員するのです。
そして教育の現場でゆとりをもたせ、より中身の充実した教育を施す事こそ、日本の将来には欠かせないと思います。
日本は資源がありません。技術レベルが低下したら、この国には何も残らないことを政治家は理解しているのでしょうか。

お礼日時:2001/03/31 08:57

明治維新以降、日本政府は教育が国を救うという真実に気付き、教育を徹底的に勧めました。

最高で国家予算の30%を教育関係に費やすほどだったのです。その結果、日本は世界のトップクラスの教育先進国となることができたのです。
教育の推進はそのまま、続けられてきましたが、昭和45年頃に受験戦争の過熱、偏差値教育の是非が問題となり、ゆとり教育を行おうということが言われ始め、実行されだしたのですネ。
丁度、その頃にはじめられたゆとり教育の結果が今の乱れた社会だと考えるのですが‥
その頃に作られた原案に基づいて、日本の教育レベルを下げ、世界での日本の地位を低くし、競争力をなくし、優秀な人材は海外へ流出させ、将来は経済も政治も教育も3流国にしてしまおうという、馬鹿げたものであるとしか言いようがありませんネ。
別の国の意図で行われるのであれば、どこかの敵対国を滅亡させるための非常に素晴らしい方法と言えるでしょう。
不必要になったダムの建設と同じで、一度決定したものは亡霊のように後の世に現れてくるという官僚主義の弊害がもろにでたものであると思います。
日本の将来は‥灰色どころか、真っ暗ですネ。
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

私も全く同感。
kawakawaさんのおっしゃる通り、もし経済発展の基礎体力をそぐ為、某A国が外圧をかけてやらせているのなら納得がいくのです。
真剣に日本の将来を考え、ゆとり教育が必要だとあくまで主張するのなら、10年、20年後に日本がろくでもない国になってしまった場合、その人たちは厳しい責任が問われるべきだと思います。

お礼日時:2001/03/24 20:17

わたしも、「ゆとり教育」なるものに大きな疑問を持つ一人ですが、そんな言葉が生まれてきたことについての理解は、しているつもりですので…。



教育とはもともと、その時代その時代に国が求める人間を育てるものであると言っても過言ではありません。特に「公教育」と呼ばれるものは。
戦時中の「国のために命を捧げましょう」などという教育が、その顕著な例でしょう。

戦後の日本は確かに、教育レベルの高さと勤勉さで、経済成長を支えてきました。
しかし、そこには、現在と全く違った社会背景があったとは思いませんか。
敗戦後の「経済復興」、それを支えるための「科学技術の進歩」この大きな国家課題が、教育に与えられました。

そして、これが成し遂げられた最も大きな要因の一つ目は、
その教育を受ける国民の願いも、同じだったという点です。
つまり、「貧しさからの脱却」です。

もう一つは「困難に立ち向かえる精神力」という点です。
食料さえも満足になく、兄弟の数は多く、父母は働きづめ、そんな環境で育った、当時の子どもたちの精神力と、物がゆたかで兄弟も少なく大人がいつでも甘やかしてくれる、という環境で育った今の子どもとの精神力は、比較にならないものでし
ょう。

つまり、何事においても努力したり、わがままを我慢したり、
たとえ、高等教育を受けなくても生活のために一生懸命働く、
そんな時代にはできた教育が、今の時代にはできないのです。

「すぐあきらめる」「努力しない」
そんな子どもたちに対して、親の方も豊かな生活を送っているので、危機感を持ちません。ましてや、今の状況を続けていったら、日本がどうなるかなどと言うことも、平和ボケしている日本人の大多数は(もちろん全てではないです)…。

そして、生まれたのが今回の、教育改革という名の下での「ゆとり教育」。
これは、これまでの緩やかな流れとしての「学校にゆとりを」といったものとは、大きく違うものだと、私は捉えています。
2002年からの「ゆとり教育」それは、学習内容の削減、という国際社会に逆行した取り組みなのです。

こうまでしないと、「勉強はいやだ」「学校に行きたくない」などと甘ったれている今の子どもたちには、勉強してもらえないというのがその導入の理由です。
また、今は経済成長よりも、「少子・高齢化」「環境問題」「国際問題」などの「問題解決力」の育成を国が求め、「総合的な学習」が導入されるというのももう一つの側面です。自分で社会の問題点に気づき、解決するような人間を育てたい、というねらいうです。

というように、わたしは、学力の低下や青少年の問題行動の原因は、「教育」のみにあるのではなく、このような教育をしなければならない国全体の変化、社会の変化、人の変化にあると思っています。
今、国が「こんな国にしましょう」といって、
それに耳を傾け心から努力する人間は、どれだけいますか?
また、誰もが納得できる教育改革を行うことのできる政治家がいますか?

わたしは、今の子どもたちが、または、将来の日本がどうなっていくのか、本当に心配です。ぜひ、ご意見を伺いたいと思います。

この回答への補足

やらないからレベルを下げるというのはどうなんでしょう。
やる気のある子の権利を侵害していると思うのですが。
とにかく、ゆとり教育は即刻撤回されるべきだと思います。

補足日時:2001/03/24 20:17
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この質問を読みまして、確実に時代や社会は変化しているなぁと思いました。



ゆとり教育や受験戦争といわれる競争社会の緩和は昭和40年代ぐらいから、
社会の要請として求められてきたものです。で、これには背景があります。

どの程度書くべきか難しいものがありますが・・大雑把に
〇第二次大戦後の学制改革による大学(高校)進学希望者の増加
〇「平等」を求め、結果として競争を避けるという社会的な要請
の二つがからまりあってゆとり教育が求められてきました。
その結果として
〇大学(高校)生の増加による戦前と戦後の「大学卒」という学
 歴の価値の変化
が生じ、同時に経済成長があって、現在では身分的・経済的「平等」は
ほぼ達成されています。

今、現在に生じてきている問題から過去の批判をすることは簡単ですが
それを単一の原因に求めることは正しくはないと思います。私には、現
在の学力低下のの原因は、高等教育への進学者の増加、社会が豊か
になったことによる上昇志向の低下、などの要因によるもので、ゆとり
教育がその原因では無いと思っています。ただ、戦後社会の中で一貫して
追及されてきた「経済成長」と「ゆとり教育」は期を一にしていますから
そのような誤解が生まれても仕方がないのかな、とも思います。

短い文章ですから説明が足りない部分もありますが、もし必要ならば
また書かせていただきます。

この回答への補足

就職もせずフリーターを気取る若者。電車の床に座りパンをかじったり化粧に夢中な少年少女。これらはすべて社会が要請して生まれたものなのでしょうか。偏差値教育を否定し、より人間らしい教育を目指そうとする発想は良いと思いますが、既にその試みは失敗していると思います。学級崩壊などという現象は少なくとも20年前には考えられませんでした。
公共事業を推進する・しないでもめているように、教育界でも実際は疑問を持っている人がいても、国家プロジェクトとして話が進んでしまっているため、誰も異を唱えられないというような事はないのでしょうね。

補足日時:2001/03/24 19:46
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