文系文章 

とは一体何なのでしょうか。ある程度ネットで文系文章という言葉に関して調べてみましたが、どうもしっかり定義されている訳でもない、なんとなくのニュアンスで使われているような言葉に思えます。ですが、検索してみればある程度使用されており、どうも文系文章(そして理系文章)という形で、文章体型に傾向がある様に思えます。

また、頭が悪い文系文章

といえばどういうものになるのでしょうか?文系文章自体がどうも曖昧で分からないのに、それに頭が悪いと言う、これもまた今一つハッキリしない形容詞をつけられているので尚更混乱しています。

どなたか、言葉の意味を教えてください。

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北海道大学 数学」に関するQ&A: 北海道大学の水産学部を受験予定です。 数学は基礎問題精講→緑チャート→標準問題精講→センター、2次過

A 回答 (6件)

 


 名ばかり造語 ~ 実態のない概念に関する草稿 ~
 
 1.起
 
 もとは、大学入試の難易度を、国公私立の理系学部と文系学部に分類
したのが始まりです。偏差値と人気と競争率に絞って、国立大学医学部
を頂点に、私立大学文学部を底辺とする、受験産業の序列です。
 
 つぎに、これを推進する人々が「理系能力は、文系能力にまさる」と
唱えはじめ「自然科学は人文科学にまさる」と考えるようになりました。
 しかし、官僚などの出世ぶりは、文系の秀才が独占しているのです。
 
 その結果、理系の博士号をとるのに、30歳まで大学院に残った人が、
かならずしも望んだとおりの人生を約束されないことも分ってきました。
 おそらく経営陣が、ほとんど文系的発想の持主だったからでしょう。
 
 2.承
 
 漢字の四字熟語は、古来どのようにでも造語できます。
 誰かが提唱して、ピンと来なければ、それきりの価値しかありません。
 あなたの人生に、重大な影響をもたらす人の発言ならともかく……。
 
 日本語の占拠率は、全世界のネット環境では、わずか1パーセントに
すぎません。ほとんど英字でやりとりされているので、あたらしい概念
が出現すれば、かならずアルファベットで表記されるはずです。
 
 したがって、自動翻訳ソフトがどのように解読するか、試してみれば、
それが価値ある概念かどうか、おのずから判明します。
http://honyaku.yahoo.co.jp/transtext
 
 文系文章 → A faculty of liberal arts sentence
 ↓
 教養学科文の能力 ⇔ The ability of the liberal arts sentence
 
 理系文章 → A physical science sentence
 ↓
 自然科学文 ⇔ A natural science sentence
 
 なお、自動翻訳ソフトを軽蔑する達人たち(ネイティブ原理主義者)
は、われわれの日本語が、もし英語圏の人々に読まれる機会があっても、
それにまさる手段がないことに、なぜか言及しません。
 
 3.転
 
── シリコンバレーへ続く高速道路に、グーグルの求人広告が出てい
る。そこには自然対数と素数に関する問題が書いてあり、解答をインタ
ーネットに数字で入れて最後にドットコムをつけるとウェブサイトに行
き着く。そこではつぎの問題が待っている。それも解き明かして、解答
をパスワードとして人れ、正解であれば、あるメールアドレスを手にで
きる。そのアドレスに自分の履歴書を送って、やっと就職活動が始まる。
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4569 …
── 竹内 一正《グーグルが日本を破壊する 20080416 PHP新書》P43
 
 4.結
 
 いちばんの誤解は「なにより科学的な立証が優先する」という迷信で、
「科学では証明できない現象がある」と主張する人々を説得できません。
 最近は「民主主義は多数決に縛られる」という難問に直面しています。
 
 古典学では「雄弁術や論理学で人々を説得できる」と考えられたのに、
ルネサンス以後に、ゆらぎはじめたのです。
 それが存在するかどうか、確認してから名づけても遅くはありません。
 

この回答への補足

なるほど、確かに文系文章だとか理系文章だとかというものがあるかどうかも不確かですよね。いや、あるとしても、それはただの傾向に過ぎないかもしれないし、その傾向は、理系や文系などと言う枠組みよりも、個人の資質によるところが大きいかもしれませんよね。

そう考えると、存在自体が不確かな言葉に悩む事が、十分価値あることなのだろうか?という疑問がわいてきます。

インターネットという世界で、多くの人に自分の創作物を見て貰えることは非常にありがたいですし、色々なコメントが貰えて嬉しいのですが、何度かそういうやり取りをしていると、一つ心しなくてはいけないなぁっと思うことがあります。

何かコメントをするとき、あるいはそれを見る時、その言葉にグッと目を凝らして、睨みつけてみて、何かふらふらするような言葉、あるいは所属が不確かな言葉、そして良識に反する言葉と言葉使いは、触れないようにした方がいいのではないか。

今回お答え頂けた皆様の言葉は確かなものですから、これをのみこんで糧としないといけないなと思います。

お答え頂きありがとうございます。

補足日時:2009/12/25 19:40
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 理系の系脈 ~ 過去質問と過去回答から ~
 
 cyototu さんが漱石を引用されたので、寺田寅彦を思いだしました。
 《吾輩は猫である》に登場する風変りな理学士・寒月のモデルであり、
さらにその門下生もまた、いわば理系随筆家として知られています。
 
── 文系と理系の融合を試みた随筆 ──(Wikipedia)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2560753.html
 茶道の物理学 ~ 茶道と物理学に詳しい方に質問です ~
 
<PRE>
 夏目 漱石  作家  18670209 江戸 19161209 49 /慶応 3.0105~《吾輩は猫である》
 寺田 寅彦  物理学 18781128 東京 19351231 57 /筆名=吉村 冬彦~《茶碗の湯》
 中谷 宇吉郎 物理学 19000704 石川 19620411 61 /北海道大学教授~《雪は天からの手紙》
────────────────────────────────
 大西 巨人  作家  19190820 福岡 /元毎日新聞記者~《神聖喜劇 1960-1980》
</PRE>
 
 出典不明ですが「数学者は、ひとこと云うために原稿用紙で数十枚も
書かなくてはならない」という述懐が印象的でした。
 もちろん文学者も、数十分の記憶を数十年かけて述べた例があります。
 
 しかし、なんといっても衝撃的だったのは、つぎの発言でした。
http://q.hatena.ne.jp/1172190396/75725/#i75725
 最後の授業 ~ 勇退する十二人の男たち ~
 
── そこで利根川教授は、すこぶる興味ある事実を述べた。
「わたしの研究室では、来年の課題を“文学”と決めることもできます」
 これには、作家とノンフィクション作家も、黙りこんでしまった。
 利根川教授は、ノーベル文学賞作家が“化学”というテーマでは小説
を書けないことを、ずばり指摘してしまったのです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4149869.html
 理系文学待望論 ~ さらば、余りに文系的な文学談義 ~
 
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一般の使い方かどうかは自信がありませんが、私が理解している区別を書いてみます。

同じ人が、文系文章と理系文章を共に上手に使いこなすことが出来ますので、その例を見れば、この分類の意味が自ずと判ると思います。

先ず文系文書の一つの典型として、夏目漱石の『硝子戸の中』の出だしの文章です:
  硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。

この文章は「窓の外を眺めていると何本かの木と電柱が立っていた」と言っているだけで、何を言いたいのかまるで判らないのですが、けだるい雰囲気は巧く伝わって来る。


一方、理系文章の典型は、同じく夏目漱石の、今度は『草枕』の出だしの文章です:

山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

理路整然として、何が言いたいのかはっきりと読者に伝わって来る。そして、芸術家とは何かを大変巧く言い当てておりすね。
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記憶が鮮明でありませんが、1年くらい前、役所とくに中央官庁で使われる独特の表現をそのように言うとテレビで聞いたような気がします。

以下は、その薄ぼんやりした記憶を掘り起こしての記述です。

一般社会では使われないけれども、役所の仲間内では良く知られていることを思い出させるような言い回しを含めた文章、ではないでしょうか。つまり、その「仲間内では良く知られていること」を知らない人が読んでも意味の無い文章だが、分かっている人が読むと、価値のある文章となるようなものではないでしょうか。
事例としてちょっと変かもしれませんが、例えば「日本は非核三原則、つまり核兵器は作らず、持たず、持ち込ませずの方針」も文系文章のような気がします。

そのまま読むと、持込みもさせないのだなと、理解されます。ところが、アメリカは核兵器のありかを公表しない立場だそうですから「持ち込ませず」は原潜に積んであったとしても確認しようがないもの、したがって、原潜に積んで持ち込んでいたとしても、非核三原則は守られるという理解をする。

理系文章で言うならば(どこかで聞いたように思いますが)非核2.5原則となるように思います。つまり、作らず、持たずの2原則と、持ち込まずは確認しようが無いから1つの原則とは言えず、0.5の原則とする、という立場。
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理系文章を定義し、そうでない文章を文系文章としたほうがいいかも。



中公新書の「理科系の作文技術」(初版:1981年)という本に、理系文書の定義(というか特徴)が 書かれています。
理系文書は論理的ですが、論理的とは、「別の意味にとれる可能性が無い文章」を意味します。

例1
・青い目のきれいな女の子
目が青い? 女の子が青い?(青い服を着ている。)
目がきれい? 女の子がきれい?
どうとでもとれます。
・薬品Aと薬品Bを1グラム
1グラムづつなのか、合計して1グラムなのか? ついでに、A0.3グラム+B0.7グラムでもいいのか?
意味間違えたらかなりマズイですが、表記からは判別できません。
こういうのは、理系でも文系でも悪文でしょう。


例2
1つの論文(や、小説)内で同義語(たとえば、炭酸ガスと二酸化炭素)が混在
炭酸ガスと二酸化炭素を別のものと解釈される可能性があるから、こういうのはダメ。
炭酸ガスと二酸化炭素なら、まあ大丈夫としても、
「工兵隊」と「土木局」が混在したらアウトでしょう。(両方ともcorps of engineerの和訳であり同じ役所を指す。)
ですが、文学なら?
小説で、「ぼく」「僕」「小生」「オレ」「あたい]が、全部「私」だったら?
意味は通じるけれど味気ないのもいいところ。


例3
宮沢賢治の雨ニモマケズ
・雨ニモマケズ 風ニモマケズ 途中略 ソウイウ人に私ハナリタイ
最後まで読んで、初めて言いたいことがわかります。
理系的には、そりゃない。
理系のルールは、読んだ箇所までで意味が把握できる
(「別の意味にとれる可能性が無い文章」を敷衍すればこうなります。)
なので、
私ハ次ノヨウナ人ニナリタイ。ソノ人トハ.....
というような文章となり、とてもじゃないが文学作品とは言えなくなります。


で、文系文書が悪口の意味で使われるなら、
・論理的に書くべき内容の文章なのに論理的でない
ということ。文系文書そのものが悪いというわけではありません。
理系文書は、わかりやすさ(=誤解しにくい)を優先するために、冷たい文章であり感情が無い文章となりやすいという欠点があります。

この回答への補足

「別の意味にとれる可能性が無い文章」

なるほど、文系文章はこれ以外、とりわけ「色々な解釈が出来る文章」であるということですね。もちろん、その文章から漂う気品でしたり、嗅覚や聴覚に訴えかけるような衝撃、こういったものも文系文章の特徴となると思いますが、解釈の余地というのは、文系文章と理系文章をバッサリと分ける白線になると思います。非常に参考になります。

しかし、論理的に書くべき内容の文章なのに論理的ではない、ですか。うーん、なるほど。自分が死んでも良いから友達を守ろうとする少年の物語を論理的に書くべきだとは思いませんが、その心情や動機を説明する部分で、論理的に説明すること、詳細に説明することを怠っていたのかもしれません。冗長に過ぎては台無しですが、説明が不足していても今一つ感情移入出来ないでしょうし、難しいものです。

ご回答ありがとうございました。

補足日時:2009/12/25 19:23
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論理的な筋道がわかりにくい、あるいは筋道が無い、情緒的な文章



みたいな事を言うんでしょうね。
生れたばかりの若い言葉でしょう。

おっしゃる通り定義も無いコンセンサスもあやふやな、これを言う人の恣意に頼るばかりのこのような言葉で何かを言ってやった気分になれる、というのは文系理系に関係なくあまり賢い態度だとは思えません。

ただ、理系の研究者なんかが文系の人間が書く文章をまだるっこしいと感じるのは珍しいことでは無いようですね。


まあ、今のところは単なる罵倒語のひとつ、というあたりで深く考えることも無いように思います。

この回答への補足

理系文系の方が、違う畑の方の文章に納得がいかないということは、しばしばあるようですね。

仰る通りコンセンサスのない言葉で、しかも歴史もない、新しい言葉ですよね。これを使って人の文章を評価する、こういう方の言葉を真面目に受け取っても疲れるだけかな?と思い、そんなに気にしないでおこうとおもいます。

ちなみに私は、少しエログロのあるお話を書きまして、それに対して「頭の悪い文系文章にしか見えない」という評価をされる人がいたのです。
創作活動をはじめて一月ですし、批判は歓迎するところでしたので、抽象的で良くわかりません、定義があいまいですと言って詳細な説明を求めたら、「言葉通りで、定義の仕様がない」と返されました。

言葉通りなら、定義出来て当然ですよね。定義できないのに、言葉通りと使えるわけがない。こういう人の言葉なので、気にしないでおきます。

ご回答ありがとうございました。

補足日時:2009/12/25 19:16
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