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大政奉還についてお尋ねします。

大政奉還で徳川幕府の将軍徳川慶喜は明治政府に江戸城を明け渡します。

しかし、現在の皇居を見ると、明け渡したと言うより、むしろ迎え入れたような感がします。

革命的に敵を倒して入場した勢力が、旧勢力の敷地で心休まるとは思えません。場所を占領しても大規模な破壊や改修はあるのが普通の歴史ではないでしょうか。

質問1. 江戸城明け渡しの時、徳川幕府の官僚たち(旗本・与力・同心たち)は、そのまま居残って天皇に仕えたのでしょうか。それとも、京都から天皇が公家を率いて江戸城に入場して、幕府の役人たちは追い出されたのでしょうか。

質問2.もし、100%の居残りとか追い出しがなかったとすれば、大政奉還の直後の皇居には、どれくらい徳川幕府の侍が残っていたのでしょうか。パーセントで示していただけませんか。個人的見解でかまいません。

質問3.明治初期、宮内庁に相当する政府の部門はありましたか。あったとすれば、その規模(予算・人員)はどのくらいだったのでしょうか。はっきりしない場合は、今日との比較でもかまいません(例えば、今日の宮内庁よりも政府内での相対的規模は大きかった。など。)

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

#2さんと#3さんの指摘に加えて、もう一つ混乱が在るようです。

大政奉還と、江戸城明け渡しと、江戸遷都は皆それぞれ違った出来事です。江戸城を明け渡したからと言って、天皇が江戸に遷都する計画がはじめから在ったわけではありません。

勝海舟自身が書いた本の中で彼はこの経緯を以下のように説明しております。今手元に彼の本がないので、どの本だったかは忘れましたが、彼の本はそんなに沢山ないので、質問者さんがご自分で簡単に調べることが出来るはずです。大阪はもともと商人の町でしたので、政治的に何があっても自立して存在できる。ところが、江戸は政治の町として人工的に出来た町です。したがって、江戸が政治の中心地ではなくなってしまうと、この町は自立できない。あれだけ多くの人口を抱えた町の連中が職を失うことになってしまったら、その結果出てくる不満分子が新しい政府の脅威になってしまう。京都に集まった新政府の要人達はその解決法が見付からず、頭を抱えたそうです。そんな時に、公家の中で唯一抜きん出た政治家であった岩倉具視が、途轍もないアイデアを出した。その当時は当然再び京都を政治の中心とするものと皆が決めつけていたのですが、彼が江戸への遷都を提案した。その結果、江戸は今まで通り政治の中心となり、上から下までそれに群がって生きていた連中達のほとんどが職を失わずに済む。したがって、不満分子の出現を最小限に抑えることが出来ることになったのです。そんな経緯が在ったので、江戸城をわざわざ取り壊したり、江戸の町を大改革したりするはずがなく、出来るだけ前の状態との連続性を保とうとするのが筋ですね。

勝海舟は西郷隆盛も褒めておりましたが、岩倉具視のこの政治手腕も大変高く評価しておりました。
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質問1、2についてはみなさんが説明してるとおりです。

大久保は最初は大阪を考えていたようですが。

質問3については、明治2年に太政官制が復活して、律令による宮内省が置かれました。徳大寺実則が初代宮内卿です。2代目は伊藤博文。1985年に内閣制がしかれてからは、宮内省は内閣から独立した存在とされ、特異な権限を持ちます。初代は初代内閣総理大臣の伊藤が兼務。

戦前、内大臣(=宮内卿)は政府から独立(=天皇が指名)していたため、政府の公文書などには署名がありませんが、政治的な権威はそうとうでした。次期総理の選任におおきな影響力をもっていました。現在の宮内庁などとはまったく別物です。
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>大政奉還で徳川幕府の将軍徳川慶喜は明治政府に江戸城を明け渡します



ここが混乱の元ですね。#2さんも指摘しているように、このふたつは全くの別物です。
大政奉還は、乱暴にいえば徳川家が与党から野党へ下野するということです。その意図は京都の公家衆が政治に口出ししてなんやかやとうるさいのでいっぺん下野してエラソーなことをいっている公家や薩長にいっぺん政権運営をやらせてみいということです。どうせ力不足で混乱させるのがオチなので、そうなったら徳川家の実力で政権を回復させようというものです。これが慶応三年のこと。
一方、江戸城明け渡しは徳川家との読みが外れて薩長は錦の御旗を手に入れて戊辰戦争となり江戸市内に迫ったので、勝てる戦力を持たなかった勝海舟は徳川家の総本山である江戸城と江戸市内を無血開城したことです。これは慶応四年のできごとです。

おっしゃるとおりに通常であれば軍隊が入城すると破壊や改修がつきものですが、まず江戸市内でのあらゆる破壊行為は勝海舟が絶対に許しませんでした。勝海舟は江戸市内の町火消しやヤクザ衆に顔が効いたので、もし薩長軍が江戸市内で破壊行為をしたらゲリラ活動をする手はずを整えていました。西郷隆盛はそれを知っていたので部下の狼藉を一切許しませんでした。
また改修については簡単な話です。入城直後は人の城に手をつける金がどこにもなかったからです。そもそも薩長軍(新政府軍)は軍資金不足が悩みで、江戸城中にある金銀財宝をアテにしていたほどです。それがどこにもないので勝海舟に「どこに隠しやがった!」と迫ったのですが、海舟先生の答えは「そんな金があったらそもそも戦さに負けてねぇわ。金がなくなったから徳川は負けたのさ」というものでした。
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あなたが聞きたいのは大政奉還ですか?江戸城明け渡しですか?



大政奉還と江戸城明け渡しは別物です。

大政奉還は、征夷大将軍の地位を天皇に返還したことです。政治は実質的に慶喜たちがやっていました。

江戸城明け渡しは、戊辰戦争中に薩摩軍の江戸進駐に際して無抵抗で開城したことです。
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幕府は、天皇から任命されていた臨時政府という意味合いだから、解散したあと将軍家の直臣は、慶喜について駿府に退きあげた。

  リストラですが、能力を買われたものは新政権に雇用された。

元々幕府の上層部は各藩のトップで自領があるので帰藩しただけです。
その後、廃藩置県で公職を離れた。

明治天皇は東京に御幸して客死したので、京都人は今でも天皇が京都にお帰りになると思っている。
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