次の二つの理由で あらためて問います。
新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。
たたき台は つぎのようです。
1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。
2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。
3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。
4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。
かつての質問は つぎです。
【Q:究極の悪とは――存在について――】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html
【Q:悪は 存在しない】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html
No.13ベストアンサー
- 回答日時:
こんばんは。
興味深いトピで見入ってしまいました。
悪は存在しない。
私もそう思いますね。
そもそも何をして悪と呼ぶのか?
人道的な事に反していない限り(※人殺し:盗み)それは悪ではない。
元々悪とは、自分で作るものではなく相手がそう受け取るものであるのだから。
例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。
嫌い=悪 でも無いんですがね(笑)
反対に正しさとは何かといえば、結局これもまた誰かに決められたりするものでもないんですよ。
だって今ある自分の正しさは「生きてきた結果」としての価値基準としてあらわれているわけで。
そうすると、時々その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする人もいるけれど、それはその人本人の「生」を否定することになる。
だから誰も間違ってはない(悪ではない)
正義も悪も紙一重ですから、結論トピ主様が行きつかれた答えにたどりつくんじゃないのかなと。
きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって
当たり前のことだと思います。
人により、
人により、
何が正しくて何が悪なのかなんてわかりませんのですから。
人に人は裁けない。
万能な人もいない。
だからこそ悪だの正義だの言う前に、
まずは「相手を受け入れる」こと。
それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。
青二才が失礼しました。
おおっ。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人に人は裁けない。
万能な人もいない。
だからこそ悪だの正義だの言う前に、
まずは「相手を受け入れる」こと。
それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 一歩すすめてもらいましたね。
hamaki1978 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって
当たり前のことだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここも いいですね。ひとの《自然本性》なんだから ああたらこうたら講釈をつける前にすでに わたしたちは自由に生きている。
★ だから誰も間違ってはない(悪ではない)
☆ ここから出発するのでなくっちゃ。ね。そのあとでなら ただし
★ その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする
☆ のではなく その人の具体的な考えについて 反対意見を持つなら 大いにこれも自由に批判をもしつつ話し合っていけばよい。相手を受け容れたゆえに 考えの妥当性を互いに問い求め 自由な批判を大いにおこなっていく。ならば互いにさらにいい考えにたどり着けるでしょう。人びとの知恵というのも捨てたものではないでしょう。偉い人だから 正しいとも限らないですし。・・・
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。
嫌い=悪 でも無いんですがね(笑)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここんところを 互いにそして広く一般にも 考え合い考えなおして行くとよいでしょうね。
批判しあって 議論がかみ合うと けっこう互いに楽しいものですよ。そこから和を以って貴しと為すが生きてくるのではないですか?
ありがとうございました。これからも自由なご批判をお待ちしております。
No.30
- 回答日時:
私の回答の方こそ取り留めのない形だったのですが、丁寧に補足して頂きありがとうございます。
おかげでまた多くの考えるきっかけを頂きました。今回は回答というよりも感想に近いですので根拠はありませんし、また思い違いが多々あるかと思いますが、何かの考えのお役に立てればと思います。
失礼ながら、以下の文でbragelonneさんの引用の方法を使わせていただきます。
★1.そうですね。こう考えて来て 案外 はじめの基準つまり《主観それも感性だ》という判断基準は生きているようにも思いますね。これに逆らったなら それとして――つまり多少の悪を交えるかたちとして――仕事の成功や失敗が結果として出てくる。このように見て それほど問題もないように思いますが どうでしょう?
☆1.私もそれで問題は無いと思います。複数の人の間、または一人の人の中に矛盾する価値観が存在したら、どちらをとってもどちらかには反してしまいます。でも人間は矛盾を嫌い、心の防衛機能を働かせると思います。どちらの価値観もとらなかったり、二つの価値観以上に大切な価値観を見つけたり、どちらかには反するが仕方ないことと割り切ってどちらかをとったり、その時の情況や価値観の重要さによってその行動は様々でしょう。それに善悪が決められても、善悪にも程度がありますし必ず善だけではいけないわけではないと思いますから。
★2.もう心の完全な死に行き着いていて よみがえることの出来ない悪を究極のそれだと定義したいと思っておりますが いかがでしょう?
☆2.なるほど、「心の完全な死」ですか。ちなみに私はとりあえず「心を失くす≒価値観・感情を失くす」と考えています。人間はただ動物的に生きるだけでなく、価値観を持ち、良い生き方・真実の探求をすることなど精神性の充実(活きること)を求めます。そうするとその「心の完全な死」の状態は、「人間が人間らしく生きることが善い」という否定できない価値観において悪であり、その状態を善しとすることはできない(心の完全な死を受け入れることは人間であることを諦めて、動物としてのヒトとして、ただ生きることだと思います)ので、確かに究極の悪と呼べると思います。
ところで、この「心の完全な死」の状態は私が前の回答の例えで述べた「闇」の状態に似ていると思いました。例えは「光(善)=ある価値観で善しとされること」、「影(善でないという意味での悪)=その価値観で善しとされないこと」、「闇=価値観(心)の無い状態」です。光と影は同時発生するものであり、光も影も無い状態が闇です。これを用いて闇に行き着くまでの過程について私が以前思ったことを以下に述べたいと思います。
いくつかの光のある中で、一つだけあまりにも強い光がありました。その光は絶対に揺らぐことは無くその光は容赦なく周りを自分の色に照らします。そうすると弱い光は強い光の影になってしまい、周りからやましいもの(影・悪)だと罵られます。弱い光はそれに耐えることが出来ずに、光の無い闇の世界に来ます。そこでは自分をやましいものとして罵るものもいないけど、自分自身の光も無いので活きる喜びも無い。つまり、強いものからの自己防衛機能(逃避)として闇に逃げ込むのです。
こんな考えを思い出すと、究極の善(光)の存在がそれ以外のものを究極の悪(闇)へと追いやるのかな、なんて思いました。
この回答への補足
ご回答をありがとうございます。
そうですね。
★☆(要約) 価値観の位置づけ そして 究極の悪(闇)へと追いやられる問題
☆ このふたつについて それぞれ別の見方もあるんぢゃないかというかたちで述べてお応えとします。
○ 価値観は 知性人(ホモ・サピエンス)として人間が勝ち得た花であり実であると思うのですが やはりその幹や根は 身体の神経組織――それが精神や知性に直結するということでしょうが――としての感性である。のではないか。
☆ この視点をゆるがせにしたくはないという気持ちがあります。まぁ 幹は精神の記憶という秩序作用やものを考えるところの知性であるかも知れませんが。
だから teneburun さんのお考えがいけないとか言うものではなく そういう観点をつけ加えて欲しいという思いがあります。(これは lu-mu- さんにもお伝えしたかと思います)。
《心の完全な死》としての《闇》の問題。《光(明)と影(暗)》というのではなく 暗闇の問題。
お名前とつながりがあるような無いようなで うかつなことは言えないとも感じるのですが 別の見方も成り立つ余地があるのではないか。これも こういうかたちの物言いになります。
○ 闇であれば きわめて強烈な光でなければその海底に届かないという側面も考えられます。
★ その光は絶対に揺らぐことは無くその光は容赦なく周りを自分の色に照らします。そうすると弱い光は強い光の影になってしまい、周りからやましいもの(影・悪)だと罵られます。
☆ ここについても別の見方があり得ます。《弱い光は強い光の影になる》というのは よほどの場合ではないかと思うのですが? むしろ照らされてさらに光を強め〔られ〕るのではないかと思うのです ふつうは。心強く思うのではないでしょうか?
もしそれでも
★ ・・・周りからやましいもの(影・悪)だと罵られます。弱い光はそれに耐えることが出来ずに、光の無い闇の世界に来ます。
☆ というのでしたら どうなんでしょう そういう事態が起こることは 《強い光》のせいなのでしょうか?
《弱い光》が 強い光と比べられて《やましいもの(影・悪)だと罵られる》とすれば そのように《罵る》周りの者たちも そこでしっかりと《強い光》を見ています。見ることができています。そのほうが 大事な現実であるように思えるのです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
どちらの価値観もとらなかったり、二つの価値観以上に大切な価値観を見つけたり、どちらかには反するが仕方ないことと割り切ってどちらかをとったり、その時の情況や価値観の重要さによってその行動は様々でしょう。それに善悪が決められても、善悪にも程度がありますし・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というような対処の仕方をわれわれは知っています。《光の強さにも程度がある》ことを知っています。われわれの知恵は捨てたものではないと思うのです。
★ そこ(闇の世界)では自分をやましいものとして罵るものもいないけど、自分自身の光も無いので活きる喜びも無い。つまり、強いものからの自己防衛機能(逃避)として闇に逃げ込むのです。
☆ これも緊急避難として捉えたらどうでしょう? 逃げ込んだ人たちに光の世界への手を差し伸べることは出来るのではないでしょうか?
そう言えば この究極の悪つまり闇の世界〔としての思惟および行為の形式〕が 光の世界へ復帰することが出来るか? というのはわたしの相談事項でした。できるのではないかと勝手に いま自分で言ってしまいました。どうなんですかねぇ。そこのところを みなさんともども 問い求めていきたいと思うのですが?
またまた論旨があっちへ言ったりこっちへ来たりになりましたが。・・・
No.29
- 回答日時:
私なりの意見ですので、見当違いの場合はご容赦下さい。
1,2,3に関して、まず悪に限らず善もまた存在はしないと思います。善はそれぞれの人の持つ価値観によって違います。そしてその善の価値観に反することを悪といいます。そうすると「善と悪」の関係は「光と影」のように同時発生的なものと考えられます。但し必ず善が先に定義されるものです。悪の定義は、善の定義の排他(否定)だからです。善悪に関して何も価値観を持たない状態が闇(光も影もない状態)です。善の価値観のあり方には私が大きく分けると二種類あります。
一つは「Aだけが善い」とする価値観。これに反するものは「A以外は全て悪」です。この時の善悪の量的関係は善の価値観が増える(減る)程、悪が減る(増える)。
他方は「Aは善い」とする価値観。これに反するものは「Aに反するものだけは悪」です。但し「Aと,Aに反するもの」以外に関しては中立。この時の善と悪の量的関係はどちらも同じ数になります。善が増えれば(減れば)、悪も増える(減る)。
また、善悪が実体化されるのは、ある行為について善悪の価値観を持っているものが二人以上いてその二人以上がお互いを認識できるところで、誰かがその行為を起こした時です。つまり誰かの行動が他者の価値観で判断された時、行為(現象)は善(悪)とされます。その行為自体は善も悪も無く、人間の価値観が善悪の要素を生むのだと思います。
4.に関して、私が考える人間の善悪の判断基準は、とりあえず以下の三つあります。
I.動物としての善悪 (「生きる」が善、「死ぬ」が悪。)
II.道徳としての善悪 (理想の自分像、自分にとっての善悪)
III.IIの理想に近づくための成長機能としての善悪 (理想に近づこうとすることが善)
私は上のIとIIIに関しては問題ないと思います。Iは同じ人間同士なら同じ価値観のはずですから。しかし、IIに関しては多少問題があると思います。理想の自分像、自分にとっての善悪は他者に判断されることがありません。自分は善だと思っていても、他者にとっては悪であるなどの場合があるため、絶対的なものではないということです。極論だとIに反して「人間を殺すことが自分にとっての善だ」などと言うことがあるかも知れません。
最後に参考までに、絶対的な悪としていえる行為があるなら、それは「裏切り」だと思います。他者にあることを約束した上でそれに反する行為をするわけですから、悪の定義とほぼ同義ではないでしょうか。
この回答への補足
teneburun さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
そうですね。
直前(No.30)の lu-mu- さんのご回答で 悪とはどういうふうに定義するかの第一ステージが 念押しのかたちで 確かめられたと思っています。
具体的な事例が必要だと言いましょうか あるいは 念押しに念押しをする作業もやはり必要だと言いましょうか そこは哲学ということで うかうかとしてはいられないようにも感じられるといったところでしょうか。
これまでの定義の大枠に沿って述べてもらったので そして teneburun さんご自身に合った全体的なデザインのかたちで再定義されたので それ自体には直接触れずに 個別の小主題や課題についてわたしの考えるところを交えるという恰好で述べたいと思います。
★ 絶対的な悪としていえる行為があるなら、それは「裏切り」だと思います。他者にあることを約束した上でそれに反する行為をするわけですから、悪の定義とほぼ同義ではないでしょうか。
☆ いきなりですが ここは 《絶対的な・究極の悪》については 定義が 別様にもあります。つまり その悪じたいに関してはおっしゃるとおりなのですが 《裏切り》もまだそこから善(ふつうの人間の心)を回復することができるという意味で《究極》とは わたしの場合 見ないのです。
もう心の完全な死に行き着いていて よみがえることの出来ない悪を究極のそれだと定義したいと思っておりますが いかがでしょう?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
理想の自分像、自分にとっての善悪は他者に判断されることがありません。自分は善だと思っていても、他者にとっては悪であるなどの場合があるため、絶対的なものではないということです。極論だとIに反して「人間を殺すことが自分にとっての善だ」などと言うことがあるかも知れません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これまででは 判断の基準を (1)《わたし》の主観 しかも(2)そこでやましさを感じるかどうかという感性に置いて来ましたが 《他者》の判断という要素を入れてみるとどうなるか?
基本的には やはりその他者の《主観》であり《感性》であるのですが 要するに見解が異なった場合 どうであるか? もし
★ その行為自体は善も悪も無く、人間の価値観が善悪の要素を生むのだと思います。
☆ という場合が実際に起こるとすれば これは感性の問題を超えて 理論の問題になるかと思われます。
やはり基本的には 互いに議論し推論の妥当性を互いに問い求めればいいと思いますが そのときの注意点などはどうか? つまり《行為じたいは善でも悪でもない》けれど 互いに意見が異なるという場合などです。
ううーん。あまりいい例を思いつかなかったのですが こういう場合は どうでしょう?
大学時代からの友だちで ライワ゛ル会社にそれぞれが就職して ちょうど互いに競合するかたちで或る会社のプロジェクトを請け負いたいという情況になったときです。互いに正々堂々と自社の持てる力を発揮して競争しようと誓い合ったのですが 上司からの要請で多少とも相手を《裏切ってでもよいから》出し抜いて仕事を取れということになった。
もうここからは 互いに議論をして妥当な考えを共有するというわけには行かなくなります。あるいは 別の一面では 自分がおのれの心に問うてやましさのない行動をつらぬいたとしても 仕事を取れないならばそれは どういうことになるか? それでよいのか? 多少とも情況に合わせて行動すべきか?
そうですね。こう考えて来て 案外 はじめの基準つまり《主観それも感性だ》という判断基準は生きているようにも思いますね。これに逆らったなら それとして――つまり多少の悪を交えるかたちとして――仕事の成功や失敗が結果として出てくる。このように見て それほど問題もないように思いますが どうでしょう?
とりとめのないかたちになりました。取りあえずこのようにお応えしたいと思います。いかがでしょう?
No.28
- 回答日時:
ようやくわかりました。
私なりにまとめるとこうなります。
でも私好みに修正(加筆?)加えちゃったので(大変失礼ですが)、もしそこは違うというところがあったら言ってください。
bragelonneさんの善悪の定義
善の定義
善とは、人間である。
その「人間」という言葉が含むものは以下の通りである。
1)人間という存在そのもの。
2)人間が生まれながらに持っている感性、欲求などの生にとって必要な能力
3)後述する「悪」を伴わずに後天的に得た価値観
これらを善として認める理由は、我々人間は、人間を至上の価値とすべきだからである。なぜなら、この宇宙に絶対の価値観はそもそも存在せず、あらゆる価値は生命から生まれたからである。そのあらゆる価値の根源である生命(人間)を至上の価値とせずに、それを損なう価値観は誤りである。また人間の本質は生であるから、その生に必要な諸能力は肯定されなければならない。それに加え、人間の生のために生まれた価値観も肯定されるべきである。
悪の定義
悪とは、善(人間)を損なうことである。
1)の善を損なうとは、人間を損なうことである。人間を傷つけたり、殺したりすることなどがそれである。
2)の善を損なうとは、生に必要な能力を損なうことである。自感じるままのことを欺いたりして、本来持っている生のための能力が鈍ってしまうことなどがそれである。
3)の善を損なうとは、生にとってよい価値観を否定したり、また生にとって悪い価値観を生み出すことである。
まとめ終わって気づいたのですが、自説を取り入れちゃってbragelonneさんのとは違う感じになってしまいましたが、けっこうスマートになったのではないかと思います。
これは私の説ではないということでしたら言ってください。
なあんだ お分かりぢゃないですか。
ご回答をありがとうございます。
たぶんこのデザインと性能の車で運転されれば 快適なのではないかと思いますよ。
というわけで わたしの色合いをも添えさせてください。
善悪観は いわば交通法規に当たりますが いまクルマに喩えたように――そして人間が主体であり基本ですけれど あえてクルマで言ってみるならば―― 交通法規をみづからに備えたクルマになると思います。
それで 燃料を何にするかやら運転の癖やらで色合いが違ってきますが わたしの色合いは つぎのことがらにあります。
(あ) 感性を 知性よりも基本的な判断力であるとみる。
(い) 知覚(これは ひらめきでもよい)や感性は 何がおのれの心であるか・つまり何が善であり悪であるかを知らないわけではない。
(う) 愛は 理論家である。愛が 何を愛すべきかをほんとうに知らないということはあり得ない。ただ その自覚どおりにことを行なえるかどうかは また別であるというのみである。
(え) あやまちを冒すことのある自由な人間語としての市民スサノヲ語を 概念整理され価値観としてもまとめられた人格語としての公民アマテラス語よりも 重く見る。
(お) スサノヲ人間語のほうが アマテラス人格語よりも 自由で人間的である。後者は つねにマニュアル化・自動機械化の弊害にさらされている。
(か) 《なんぢ ころすなかれ・ぬすむなかれ》という規範アマテラス語よりも 自然・自由・柔軟な野生児スサノヲ語によってこそ その《ころさない・ぬすまない》という共生の基礎が実現されうると思われる。
(き) ただ スサノヲ語は 互いに胸を心を人間を開かなければならない。全開にしなければいけない。鎖国政策では 自由と自然が泣く。
(く) 胸を開き腹を割って話し合うのなら そこでいくらけんかをしても構わない。アマテラス語ですましていてはだめである。
(け) なぜなら アマテラス語の規範に盛り込まれた善は スサノヲ人間語という根から出た善である。
(こ) 世界のスサノヲイスト こころをひとつにしよう。クルマのデザインはおのおのである。
No.27
- 回答日時:
オコリザルです。
bragelonneさんは、ミラーニューロン(さかしま)と言う言葉を表現に取り入れられていますよね。
それならば悪意はそっとしておいていいんじゃないですか。
ご回答をありがとうございます。
そうですね。
わたしが ミラーニューロン現象という場合は 《アース現象》に限って言っています。
脳科学が広く捉えているのでしょうけれど わたしの用法は特殊な場合に限っています。
一般に権限を持って地位が上にある相手から その意図や欲求の内容をほとんどそのまま受け容れざるを得ない情況にあると自認し この言わば上司の意識の排泄を みづからの身に受けるというアース役の場合です。
したがって 一般にみづからこのミラーニューロン現象を身に引き受けているということです。ですから ゴミ処理工場であるとか ゴミ再活性化工場だとかと喩えています。
ただ このアースの引き受け役の荷が重い場合も なかには あります。そういう場合には 休息を必要とするような症状を呈することも出てくるかも知れない。ここまでのことを捉えています。
★ それならば悪意はそっとしておいていいんじゃないですか。
☆ この場合 意識の排泄というからには 上司はおおむね言いたいことを言い アース役に対しおこなって欲しいことを要求していますから たしかに《悪意》があります。アース役はどうなっても構わないというようなちゃらんぽらんなところがあるからです。
で その悪意を《そっとしておいていいんぢゃないか》とのことですが まづアース役を引き受けているということは ほぼやりたいようにやらせています。つまり 《そっとしておいて》やっていると言えると思います。
ただ もしそれだけに終わらないとすれば それは そのゴミ処理を終えて さらにリサイクルがうまく行って始まろうとするなら その再生を何らかのかたちで アース役は上司に要求するでしょうね。かたちでどういう表現になるか その中身としては実質的に言って 《人間たれ》と迫るでしょうね。つまり そのときには《そっとしておいて》やらないでしょう。
これらはぜんぶ互いに自由意志においておこなわれています。したがって 自由に批判をすればいいわけです。《そっとしておいてくれないとは 何事だ!? これこれこういう問題がある。だからきみの考えとやり方は間違っている。どうだ?》というように批判すればいいのです。
むろんアース役も 批判し返すでしょう。そういう対話の問題だと考えます。
No.26
- 回答日時:
ふつうの人は
○ 存在(=善) ≧ 自然本性(=善) > 意志という行為能力(=善)
これらが善だと言われても、対象物である悪がどのようなものか全くイメージできないのではないかと思いますが、どう思われますか?
私にとってのその理由は、善を確信を持ってイメージできないからです。
bragelonneさんの言葉はどれも抽象的すぎます。
これは議論を要することですが、抽象的な言葉ばかりでは論理的に正しい答えは出せないのではないでしょうか?
例えば自然本性という言葉ひとつとっても、それがどういうものであるか明確に説明できていませんし、ご自分でもよくわかっていらっしゃらないのではないでしょうか。
私が前に哲学ではないと言ったのは、善悪とは何かという議題ではなくて、議論の進め方についてです。抽象的な言葉で書いた命題に対して真偽を出すのは危険だと思います。
あと別の質問なのですがbragelonneは外国の方ですか?
文章をスペースで区切っているのでなんとなくそう思ったのですが。
そうですね。
これまでの説明――それは 次の要約にだいたい明らかだと思いますが――で理解できないと言われれば もはや仕方ないと考えます。致しかたありません。
☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
たたき台は つぎのようです。
1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。
2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。
3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。
4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。
☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ふたつ おぎないつつ仮説を補強します。
( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。
( b ) 善悪から自由な場合がある。たとえば 食べるのに箸でかフォークでか手でかは 一般に――という意味は 手であっても 衛生上まずくなければ―― 善悪の判断から離れています。自由に選択するでしょうし それぞれは等価です。
くるまが右側を走るか左かは 善悪の判断とは別であるようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.25
- 回答日時:
善≒自然本性という言葉の定義が不明確です。
不明確な言葉を使って仮説を作ってもその仮説は何の意味もなしません。
あなたの定義した自然本性という言葉に非常によく似た言葉で本能というものがあります。これは生命が生まれながらにして持っている能力、欲求であり、また生命は本来利己的な存在であるため、本能も利己的です。
利己的という言葉は、自分本位ということですから、社会の信頼関係とは対にあたるものです。
まず、あなたの自然本性が本能とどのように違うのかを示してください。
自然本性というのが本能をまるごと含むのか、一部含むのか、全く別のものであるのか。一部含むのなら、それは本能の何を含むのか。
あなたの定義する自然本性というのは、まるごと善だということですね。
そして人間は本来自然本性のみの存在であるから善の塊であるが、いずれ善が壊れ、へそを曲げて嘘をつくようになり、それを悪と呼ぶということでした。
つまりあなたの場合の「悪」はある行為ではなくて、単に「自分の心に嘘をつくこと」という心の中の現象のみを指すことになります。
そうだとすると、あなたの定義では殺人を悪だとできませんし、復讐も悪だとできません。
失礼ですが、私には哲学というより、言語ゲームをしているだけのような気がします。
この回答への補足
さらに補足要求のようですね。分かりました。
★ 善≒自然本性という言葉の定義が不明確です。
☆☆ (No.25補足欄) ○ このように悪は 善≒《自然本性としての意志という行為能力》≒存在から来ていますから・・・
☆ というように使ったところです。今回 《 》もつけました。
ほとんど三つは イコールでもよかったのです。
きちんと述べるなら こうです。
○ 存在(=善) ≧ 自然本性(=善) > 意志という行為能力(=善)
○ つまり 自然本性は 意志のほかにも記憶や知解の能力を持っていますから しかもその中でもやはり自由意志が中核を占めると思われるので 近似値(≒)の記号を使ってしまったというところです。
そうして このわれわれ人間の社会では われわれの使う言語に習慣のようなものがあって そこでは 善および悪という言葉をおよそ日常生活においてもふつうに用いています。
この用法について交通整理をしておこうという意味合いにもなります。
★ つまりあなたの場合の「悪」はある行為ではなくて、単に「自分の心に嘘をつくこと」という心の中の現象のみを指すことになります。
そうだとすると、あなたの定義では殺人を悪だとできませんし、復讐も悪だとできません。
☆☆ (趣旨説明) 4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・また ≫この善を減らすこと≪ これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。
☆ ≫ ≪の記号でくくったところが 《行為》をも表わしています。たしかにこの言い方では 《へそを曲げる》という行為のみを指すとも採れますが まぁ一般的に言って そのとき実際に行なう行為――つまり たとえば文字通り《ウソをつく》行為でしたら そのウソを実際に言うという行為――をも含んでいます。殺人もその種の復讐行為も とうぜん含みます。
言いかえると そういう実際の行為を伴なわないのであれば それはただ心の中でへそを曲げた・つまり曲げようかなと思っただけのことになります。
★ 本能
☆ の問題はややこしいですね。そんなものは他の動物にこそあれ 人間にはないのだ・つまり人間では壊れているのだという見方もあります。
本能は 自然本性の内 感性あるいはさらに細かく言って身体の知覚に現われる欲求や衝動を ひとがどのように処理するかその処理の仕方にかかわります。
こう見たあとは すでに大まかに述べますが 二つの場合に分かれます。
いかに自然の欲求であっても 意志の自由に任される場合は――という意味は たとえば性欲は一生のあいだその欲求にあらがい拒むことも出来るかも知れませんから そのように自由意志のちからが及ぶ範囲においては―― その意志行為としての善さもなければその欠けとしての悪という捉え方が そのまま当てはまります。
★ 利己的ないし自分本位
☆ というのも いまの場合は 意志による判断が効くと見るわけですから それなのに情況を把握できず自分の利益のみのために行動することは 善にさからう悪だと言えると思います。
食欲は どのくらいその欲求を拒むことが出来るか分かりませんが(――また 拒み続けて餓死することは やはり善なる存在の損傷ですから 悪になりますので――) そのとき意志による判断が効く範囲と効かなかった場合とに分かれるかも知れません。
もし意志のちからが及ばなかったという場合には それは 人間の手に負えないものごとだという理解になるかと考えます。いたわり合うといったところだと思います。(そのとき取った行為じたいとしては 善を損傷させていないかどうかで いちおう善か悪かが決まります)。
こんなところでしょうか。
哲学の根幹ですよ。
No.24
- 回答日時:
その「へそを曲げる」というのも自然本性の現象なのですか?
>そのあと この善から みづからの損傷として 悪が現われます。
そのあと、というのは生命が生まれた後ということでしょうか。
損傷というは自分の外の世界によって傷つけられるということですか?
それとも自分自身で傷つくということですか?
100%善の塊なら自分自身を傷つけることはないですよね?
なぜ善は傷ついてしまうのでしょうか。
自分自身を守る能力は持ち合わせていないからですか?
>善≒自然本性としての意志という行為能力
大切な人が殺されて相手に復讐心を抱くのも自然本性だと思うのですが、その意思も善ということでいいんですよね?
★ 善悪というカテゴリーと言葉が存在するのは事実なので
☆ という言語習慣と いまの仮説がなじまないとは思わないのですが どうでしょう?
質問者さんの定義ですと、ある行為についてそれが善なのか悪なのか判断がつきにくいと思います。どこからどこまでが自然本性なのかの線引きは明確なのですか?
この回答への補足
lu-mu- さん ご回答をありがとうございます。
まだ説明が足りなかったかも知れません。
まづ
○ 自然本性というのは 自然の感情を含むものです。
○ 良心あるいは 記憶行為や知解行為そして意志の行為といった精神またその能力 それらに感性を加えて 自然本性と言います。中では 自由意志と呼ばれる判断力が 中軸となると見ます。感性が 自然の感情ですね。
★ その「へそを曲げる」というのも自然本性の現象なのですか?
☆ はい そうなります。意志(またその意味で こころと言う場合もあると思います)が 自分の心にさからって何かをしようと決めること これはウソ偽りであり へそ曲がりであり 悪だと見ます。このとき 自分の心が 善です。善にさからうというかたちです。
意志行為をするようになってから こういう現象が起こるようになると言っていいのではないでしょうか?
★ 損傷というのは・・・自分自身で傷つくということですか?
☆ はい 自分の自由意志が 自分のへそを曲げますから そうなります。
★ 100%善の塊なら自分自身を傷つけることはないですよね?
☆ ところが この《善》は 移ろい行くもので 限りある能力です。相対的な善です。虫の居所が悪かったときには 心にさからって何か別のものごとを選ぼうとしますし ええい バチが当たるなら当たれとか言って 選びます。実行します。善は傷ついたでしょうね。
ひとつやふたつのウソくらいでは 善はだいじょうぶだとでも考えたかも知れません。このウソがくせになると やがてならわしとなって 善はみづからの内に悪を囲うことになります。
心の内に善と悪とがあるとなりますが げんみつに言えば 善である心にどこか穴が空いたその穴のことを悪というのだと見るわけです。善とは別の《悪というもの》が存在するとは見ないわけです。あるのは《善のマイナス》だという言い方もいいと思います。それを悪と呼ぶだけだというふうにです。
★ なぜ善は傷ついてしまうのでしょうか。 / 自分自身を守る能力は持ち合わせていないからですか?
☆ 《自由》なんでしょうね。へそを大幅に曲げることも自由だということなんでしょうね。自由なら いっぺんやってやれってな調子だと思います。はじめは です。
★ 大切な人が殺されて相手に復讐心を抱くのも自然本性だと思うのですが、その意思も善ということでいいんですよね?
☆ これは いくつかの側面(または観点)があると思います。
大切な人を守るという善の側面が ひとつです。すでに殺された場合には あたかもそのような善なる存在の抹殺を もういちど元に戻そうとさえ思う自然の感情は ひとのこころだと思います。
と同時に もしそれが復讐心となって そこから実際に復讐するという場合 つまり殺した犯人に何らかのかたちで危害を加えようとする場合 これは それが誰であれ人間としての《存在つまり善を傷つける》ことですから やはり悪です。
ふたつの側面があると思います。
★ 質問者さんの定義ですと、ある行為についてそれが善なのか悪なのか判断がつきにくいと思います。どこからどこまでが自然本性なのかの線引きは明確なのですか?
☆ これは 飽くまでおのおの《わたし》の主観です。感性と知性とによる判断によります。みづからの心に聞いてみるということです。
ただその相手なり情況なりをぜんぶしっかりと考慮に入れないと 心が納得しない場合があるかと思います。ということは 三人寄れば文殊の知恵ですから ひとりだけの主観によるのではなく みんなで善悪を考えていくのがよいと思います。
もし《線引きが明確でない》場合には とことんみんなで考え合うということになると思います。
たぶんこの仮説にかんして おおまかなところでは だいたい合っているといまは思っていますが たとえば究極の悪とは何か? これについては やはりみんなで考えていくのがよいのではないでしょうか?
いちばん基本となる線引きは 《わたし》の心がやましさを感じるかどうかの感性によるものです。情況を把握した上で判断したなら たいていは 人びとにも共通の判断結果が出ると思うのです。どうでしょう?
No.23
- 回答日時:
たぶん質問者さんの質問は、善悪のカテゴリーを作ってそれぞれのカテゴリーの中にあるものが「形あるモノ」なのか「現象」なのかということだと思います。
そういった条件のもとで、前者なら存在すると言えるが、後者なら存在するとは言えないということじゃないですか?ただ善悪というカテゴリーと言葉が存在するのは事実なので、それでいろいろとごっちゃになっていたのではないかと思います。
悪人と呼ばれる人はいますけど悪はないんじゃないでしょうか。
オバマさんなんかは「悪は存在する」って言いきっちゃってますけど、アメコミとハリウッド映画の中で育ってきたならしょうがないですね
この回答への補足
lu-mu- さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
そうですね。
★ 「形あるモノ」なのか「現象」なのか
☆ という分け方が もうひとつ分からないのです。現象は モノではない(あまりモノとは言わない)でしょうが 《形ある》ことですね。(このとき 《形ある》ものですね という言い方はしますね)。
ですから 趣旨説明にありますが
○ 善は 自然本性と言いますか ひととして生まれてきたその存在のことであり その能力一般のことを言います。生命と言ってもいいかも知れません。
(善悪の価値判断にかかわらせたくないときには そのまま《本来の性質》とか《ふつうの状態》とかと言えばいいと思います)。
○ この《わたし》という存在とその知性や意志の行為能力は 《現象》としても捉えられますが 一般には 《生まれた あるいは 存在している》という現実を言っています。そこから来ています。
それが 《善》です。そういうふうに名づけるという意味です。(ふつうの言語習慣と特に違っているということはないと思います。生命の尊厳と言いますし ひとはそれぞれが掛け替えのない存在だと言ったりしますから)。
○ そのあと この善から みづからの損傷として 悪が現われます。この自然本性としての善は 相対的な善だからです。へそを曲げることが起こるという意味です。へそを曲げることじたいをも――それは 善を曲げ傷つけることですから―― 悪と呼びます。
○ このように悪は 善≒自然本性としての意志という行為能力≒存在から来ていますから 初めにこの自然本性の内に 善とはちがった《悪》としてあったとは考えないのですし じっさい考えられないのではないでしょうか? という問いになっています。
☆ まづはそのこと――悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるだけだ――について 問うています。
あとで 究極の悪についても問おうとしています。
★ 善悪というカテゴリーと言葉が存在するのは事実なので
☆ という言語習慣と いまの仮説がなじまないとは思わないのですが どうでしょう?
★ 悪人と呼ばれる人はいますけど悪はないんじゃないでしょうか。
☆ 悪は存在していない。ただし現象として悪の行為や状態がある。その悪をさかんに行なうひとは 悪人と呼ばれるでしょうね。
★ オバマさんなんかは「悪は存在する」って言いきっちゃってますけど、
☆ したがいまして この質問の仮説にもとづけば 《悪という現象は 存在する》という意味に解します。悪魔がいてひとに悪を吹きこみその結果 悪をおこなうとは見ないわけです。自分の善の中から そのウソ偽りとして 悪が現われると見るわけです。
善に悪は従属している。というふうにも言えるのではないか。といったところです。
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