明治23年の12月31日に夏目漱石が、正岡子規宛に書いた
「故に小生の考にては文壇の立て赤幟を万世に…」
の書簡で、夏目漱石が具体的に正岡子規にどうせよ
と言っているかを知りたいのですが、「漱石・子規往復書簡集」
には現代語訳は載っているのでしょうか。

載っていなければ、載っている本をお教え頂ければ幸いです。

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A 回答 (1件)

意味を知りたい部分を書かれたら、その意味をご教示下さる方がおられるかもしれません。


ネットで検索した限りでは、その文の全体が分りませんでした。
「まずは思想を涵養することが大事だ」といってるようではありますが、一部しか分らないので・・・
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この回答へのお礼

上記の書簡の全文の現代語訳が知りたくて質問をさせて
頂いたのですが、確かに全文がないといくら日付が
あってもどの本に載っているとかそういうことも教示
しづらいですよね。
ご指摘、有難う御座いました。
とりあえず、この質問は締め切らせていただいて、
再度、質問させていただきます。

お礼日時:2009/12/29 21:23

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五木とどういう繋がりがあるのでしょうか?
(五木寛之氏の「五木」への強い思い入れがある?)

わたしの調べた範囲では、これらのことに触れた資料は見当たりませんでした。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

Wikipediaの記事がどこまで信用できるのか、そもそも出典が書かれていないので分からないのですが。Wikipediaによれば、「奥様の親戚筋の名前である五木姓を名乗っている」というような記述があります。

また五木ひろしの名付け親についても、「五木寛之氏の名前からプロデューサーが付けた」とあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9C%A8%E5%AF%9B%E4%B9%8B

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以下、日国オンライン(日本国語大辞典のWeb版)の
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はい‐く【俳句】
〔名〕(「俳諧の句」の略)

もと俳諧連歌の第一句(発句)が独立してできたもの。元来は俳諧連歌の発句および連句の句をさしていっていたが、明治にはいって正岡子規が発句のみを意味する語として使うようになってから一般化されるようになった。五七五の三句一七文字で完結する日本独特の短詩で、季(き)を入れるならわしであるが、季語の撤廃や定型を破った自由律の主張などもみられる。

*俳諧・虚栗〔1683〕序「翻手作雲覆手雨 粉々俳句何須数」
*浮世草子・新竹斎〔1687〕一・一「さいつ比富尾何がし此所にて俳句(ハイク)あり 浄蔵ありや昼にかたぶく八坂の花」
*随筆・胆大小心録〔1808〕六一「唐人を二度見た事をとし忘れといふ俳句があったが」
*筆まかせ〔1884~92〕〈正岡子規〉一・哲学の発足「俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」
*吾輩は猫である〔1905~06〕〈夏目漱石〉一「俳句をやってほととぎすへ投書をしたり」

日本国語大辞典はかなり信用に足る辞書なので
概ね上記のような事情なのだと思います。
ちなみに日本国語大辞典は、
用例を最も古いものから載せるという方針なので、
俳諧・虚栗〔1683〕序が、一番古い例となるようです。
この頃から意味は違えど、俳句という語が使用されていたようですね。

以下、日国オンライン(日本国語大辞典のWeb版)の
俳句の項を引用しておきます。

はい‐く【俳句】
〔名〕(「俳諧の句」の略)

もと俳諧連歌の第一句(発句)が独立してできたもの。元来は俳諧連歌の発句および連句の句をさしていっていたが、明治にはいって正岡子規が発句のみを意味する語として使うようになってから一般化されるようになった。五七五の三句一七文字で完結する日本独特の短詩で、季(き)を入れるならわしであるが、季語の撤廃や定型を破った自由律の主張などもみられる。

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漱石の「文学論」、「文学評論」いずれも英国留学の成果です。
ですから、漱石の英国留学について書かれた、「夏目金之助ロンドンに狂せり」(末延芳晴著)など読まれたらいかがでしょうか?
また、文学論については、漱石全集の編集にたずさわっていた秋山豊の著書「漱石の森を歩く」にそのさわりが書いてあるので、読んでみても面白いと思います。
小泉八雲と漱石の関係については、漫画ですが、「坊ちゃんの時代」などに触れられていて、わかりやすいと思います。
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宜しくお願い致します。

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まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて、全体を窺ふ事かたく候得共(そうらえども)、当世の文人中にては先づ一角ある者と存居(ぞんじおり)候ひし、試みに彼が作を評し候はんに、結構を泰西に得、思想を其学問に得、行文(こうぶん)は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚(あつま)つて、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候。(八月二十三日付け:引用は江藤淳『漱石とその時代』第一部から)
--------

鴎外は明治二十三年一月、『舞姫』を、同年八月『うたかたの記』、明治二十四年一月に『文づかひ』を発表しています。

後の漱石、当時はまだ金之助であった彼が読んだ「二短篇」がなんであったかは明らかではありませんが、この冒頭から、二作品を読んで高く評価した漱石に対して、子規が、それはおかしい、と反論した背景があったことがうかがえます。

江藤淳は『漱石とその時代(第一部)』(新潮全書)のなかで、鴎外の作品は、前年に帝大の英文科に入学してからの漱石の状況を考えながら、この手紙を以下のように解釈しています。

-----(p.202から引用)-----
「洋書に心酔」し、しかもそれを意志的・知的に理解しようと努力するうちに、いつの間にか虐待されつづけていた金之助の感受性を覚醒させずにはおかないものであった。つまり鴎外の小説の「結構は泰西」に仰がれていたが、そこにはまごうかたなき旧い日本――金之助が英文学専攻を決意して以来置き去りにして来た「日本」があったのである。

……『舞姫』に描かれた才子佳人の恋は、舞台こそ独都ベルリンに求められていたが、ほかならぬ晋唐小説の伝統を「文明開化」の時代に復活させた恋である。金之助が鴎外の「二短篇」に見たものは、いわば崩壊しつつある旧い世界像の残照であった。その光を浴びた彼の衝撃がいかに深かったかということは、のちに金之助が英国留学から帰国して発表した小説、『幻影の盾』と『薤露行』に痕跡をとどめている。この二短篇の雅文体の背後には、ほぼ確実に『舞姫』や『文づかひ』の鴎外がいる
------

つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。


後年、両者はそれぞれに、当時の文壇から離れた場所で、それぞれに仕事をするようになります。

このことを中村光夫はこのように指摘しています(『中村光夫全集』第三巻)。ここで「彼等」というのは、漱石と鴎外の両者を指しています。

-----「鴎外と漱石」p.160-----
おそらく彼等が表面冷やかな無関心を装ひながら内心激しい憤怒に燃えてゐたのは当時の文壇といふやうな狭い世界ではなく、むしろこの文壇をひとつの象徴とする或る社会風潮であつた。いはば彼等の誇り高い教養と抜群の見識とは、当時の我国民が無意識のうちに徐々に陥つて行つた或る根深い精神の頽廃を鋭く直観した。そしてこの抗ひ難い社会の風潮に対して勝つ見込のない敵意を燃やしてゐた。…

では彼等がここで生涯を賭して闘つた敵は何かと云へば、それは一口に云つて、近代欧米文明の一面的な輸入の結果たる所謂文明開化の時潮であったと僕は信じてゐる。…明治大正を通じて我国が存立の必要から強ひられて来た欧州文明の物質的側面の急激な輸入と、その結果として我国民の精神の深所に徐々に食ひ入つた或る微妙な歪みを指すのである。
-------

当時のふたりがなぜ交友をもたなかったのかは、さまざまな事情があったことと思います。

なによりも、漱石が専業作家として活動したのは、わずか十年であったことを忘れてはなりません。成熟するまでに時間がかかり、一人前になってからわずかな時間しか与えられなかった漱石は、自分の生命を削り取って作品に結実させていった、といっても過言ではありません。

二葉亭四迷没後、一時期は同じ職場に籍を置きながら、実質的には交遊がなかった二葉亭に対して、『長谷川君と余』(『思い出す事など』所収 岩波文庫)のように、実に心情にあふれた追悼文を残した漱石ですから、たとえば鴎外が自分より先に亡くなってでもいたら、間違いなく、何らかの追悼文を残したでしょう。

こういう位置にあった鴎外と漱石が、たとえ表面的には交遊がなかったにせよ、互いに反目したり、あるいは嫉妬したり、排斥したりということは、非常に考えにくいと思います。
漱石の弟子宛ての書簡にも、鴎外の名は散見されます。
ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄に...続きを読む

Q正岡子規の詩なのですが

新聞の編集手帳に藤野古白の自殺に正岡子規の哀悼の詩として
『何故汝は世を捨てし
 浮世は汝を捨てざるに
 我等は汝を捨てざるに
 汝は我を捨てにけり
    ・・・    』
というものがのっていました。
この詩を全部読んでみたいので、知っておられる方がおられましたら、教えてください。
またこの詩について載っているサイトや書がありましたら教えてください。

Aベストアンサー

直接知っているわけではないのですが、
サイト検索をしたら、下記のメールマガジンがヒットしました。
(全文は載っていません。)

「古白の墓に詣づ」という詩の一部だそうです。
昭和51年に講談社より出版された『子規全集 第8巻 漢詩 新体詩』に収録されているようですので、図書館で探してみては?

参考URL:http://blog.mag2.com/m/log/0000030940/46192367


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