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行為功利と規則功利、よく対立概念のように語られますが、
コミュニティ(国でも可)を形成する上で規則は不可欠(合理的)
なわけですよね?行為功利なんてものは規則功利に行き着くまえの
未熟な考えでしかなく、行為功利でコミュニティなんて形成できない
と思うのですが、何故この二つが同等扱い(2項対立で語られる)されてるのでしょうか??

A 回答 (3件)

> この二つが同等扱い(2項対立で語られる)されてるのでしょうか



少し誤解があるように思います。
規則功利主義というのは功利主義の修正案であって、「同等扱い」ではありません。

> 行為功利なんてものは規則功利に行き着くまえの
> 未熟な考えでしかなく、行為功利でコミュニティなんて形成できない

まず、行為功利主義と規則功利主義について、定義を押さえておく必要があります。重要なのは、「功利計算」という点です。

功利主義の掲げる「最大多数の最大幸福」という原理は、多くの人が認めるところでしょう。けれども、不可避的に「幸福というのは量として計算できるのか」という疑問が起こってきます。

そこでこの功利計算に関しては、さまざまな解決策が模索されてきました。「規則功利主義」というのもそこから出てきた考え方です。

功利計算を、個々の具体的行為に対して適用するのが「行為功利主義」で、これは従来の功利主義全般を指します。

その上で、従来の功利主義を修正した「規則功利主義」においては、功利計算を、その行為が参照する規則に対して適用するのです。

もう少し具体的に考えてみます。

行為功利主義では単純に、行為Aが産み出す善と、それと反する行為Bが産み出す善の量を比較しようとします。そうしてA>Bとなった場合、行為Aが正しいと考えます。

それに対して、規則功利主義が問題にするのは、行為A、行為B……といった個々の行為ではなく、その行為が善いか悪いかを判断する道徳規則の方です。具体的にいうと、「うそをつくな」「盗むな」「殺すな」などのように、わたしたちの社会の大多数の成人が、その道徳原理に賛同し、ただちに賛否を決することができるような道徳規則です。

このように考えていくと、わたしたちは行為をする前に、いちいち「この行為はどれだけの善を産み出すだろうか」と悩むかわりに、「自分の行為は規則の認める範囲に含まれるかどうか」だけを考えればすみます。

さらに、一般的な道徳規則がある場面においてバッティングする場合において、規則功利主義は有効となっていきます。

・「盗むな」という道徳規則に従えば、子供を「殺す」ことになってしまい、子供を「殺すな」という道徳規則に従えば、「盗むな」という道徳規則に反することになってしまうようなケースです。

こうした場合には、「盗まない」という道徳規則より「子供を助ける」という道徳規則の方が、より大きな善をもたらす、と考える。ような道徳規則に従うことを正しいとする。これが規則功利主義の基本的な考え方です。

> コミュニティ(国でも可)を形成する上で規則は不可欠(合理的)

あらゆる合理的な「規則」というのは、もとをたどっていけばいくつかの道徳規則に行き着きます。ブラントらが問題にしたのは、「最大多数の人びとに最大幸福をもたらすような道徳規則にもとづいて、行為功利主義から規則功利主義へと転換を図っていこう」ということです。

ただ、善と幸福の計算不可能性については、たとえ規則功利主義を採用したとしても、問題は依然として残っていくのですが。
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自分の子供のために食べ物を盗んで食べさせるのが行為功利になると言うのは皮相的な行為功利ですね。



 順序としては

 皮相的な行為功利⇒規則功利⇒本質的な行為功利と進んでいくのでしょう。

 つまり、自分の子供を餓えさせないために食べ物を盗むのは根本的には自分のためにならない=自分のためにも社会と世界のためにもならない。 

 ということを知れば、本当の行為功利主義によって真に実りある人間関係と、それによる豊かな世界が実現されると考えます。

 単純に「目の前にあるものを盗めば利益になるから盗めば良い。」と言うのは、皮相的な行為功利ですね。

 子供⇒大人⇒人間 という順序になるわけです。
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同等ではなく、対立概念として提示されているんじゃないでしょうか?
例えば

「大人」と「子供」

の様に・・・
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