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事物の性質は、事物より具体的であると言えるでしょうか。

A 回答 (8件)

事物は全て内性と外形から成り立っています。


内性の属性である性質は一定の指向性や方向性や目的生を持っていますが、形状化されない部分であり、よって無形です。
対して、外形は、有形の物質や構成要素から成り立っていますので、その如く有形です。
よって、具体化される外形部分は具体的であるといえますが、性質が具体的であるとは言えませんね。
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「事物より具体的である」とも言えますが、それを観察する側の都合で、その性質は異なってきます。

「色」でさえ、人(認識体)によって作られていますから、絶対的な事物の性質はない、とも言えます。
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この回答へのお礼

回答していただき、ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/19 21:10

それらの事物を観察する側にとって~なら


事実より性質さらに理解の方向でより具体的なハズですが

事物が思考する場合→当の事物にとっては
観察者の理解より己の性質さらに事物当体がより具体かと
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具体的であることは、全的に把握されていることです。


事物は、全的な存在であるとはいえない一方、
事物の性質は、一面的な存在であるということができます。
これは重要な違いで、
事物は全的な把握へ近づくことはないが、事物の性質は全的な把握へ近づくことができる、ということを意味しています。

事物の性質は、つねに抽象的です。
しかも、捨象にさらされています。

この作業を、度かさねて、多角的に行うことによって
その事物と他の事物や事象との「関連」が浮き彫りにされます。
そうした諸関連を検証して構成する認識は、
「具体的にとらえる」という触知的な知覚の、限界にあたいします。

事物の性質は、事物とは比較にならないことをふまえたうえで、
抽象的であるけれども、それゆえに、
具体的にとらえることを限界まで可能にしている、
と言えます。

面白い質問でした。
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この回答へのお礼

回答していただき、ありがとうございます。性質は、事物よりも抽象的であり、捨象を繰り返すことで、本質に近づいていく。本質とは、その事物の独自の性質であるから、それによって他の事物との相違が明確になる。

私なりの解釈ですが、こういうことでよろしいでしょうか。


一つ分からないのが、具体的が全的であるという点です。具体的であるというのは、捨象を行う前の段階であり、むしろ個別的(一面的)であると思うのですが、いかがでしょうか。


それとも、全的な把握が、無限に具体化を可能にする、という意味でしょうか。

お礼日時:2010/01/19 21:00

認識というの例えば「赤い花」といった具合に「主語ー述語」形式をとるのではないのかな。



とすれば我々は属性(性質)によって事物を区別し関連付けていると言えるでしょう。

いくら質量を分析しても形態(性質)を構成することはできません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。


その通りだと思います。

お礼日時:2010/01/19 21:07

すいません。


質量は質料の間違いです。
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「具体」という表現はビミョーですが、量子論的に


観察者から独立した外的存在や絶対時空が否定された今、
事物(=対象)と性質(=相互作用)のどちらが本質的
かといえば、後者でしょう。

極限的には、全ての存在は認識体の感受表面における
量子相互作用に還元されます。
その「相互作用」のパターンに対して、対象は想像
されているに過ぎません。
(五感の相関した相互作用の蓄積により、情報的作用
(光・音)に対して、生理的作用を関係づける=直感的
予測が、空間的広がりの本質)
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4です。


> 性質は、事物よりも抽象的であり、捨象を繰り返すことで、本質に近づいていく。本質とは、その事物の独自の性質であるから、それによって他の事物との相違が明確になる。

抽象と捨象はセットでおこなわれて心象群を構成しています。象徴作用の扶けを借りなければ、わたしたちは認識ができないからです。

事物の性質について、わたしたちは、いろいろな情報を関連付けによって追加します。ほかの事物との参照比較もそのつどおこなっています。
この追加や参照比較は、無限に為すことができるでしょう。
その果てにあるものとして仮定の状態にありつづけるのが、事物です。
こうした事物への接近に、本質という言葉がふさわしいとはいえません。
じつは接近さえしていなくて、手続きを踏んだ認識がぐるぐると遠巻きに周って、据え置きや決定の延期をしているだけといった感じです。

> 具体的であるというのは、捨象を行う前の段階であり、むしろ個別的(一面的)であると思うのですが、いかがでしょうか。
> それとも、全的な把握が、無限に具体化を可能にする、という意味でしょうか。

何らかの性質を抽き出しつつ同時に何らかの性質を棄却している前の段階に、すでに事物があると考えれば、
それは把握不可能な状態のものなので、わたしたちの認識やコミュニケーションにとって、具体的であるとはいえません。
わたしは精神療法と周辺を研究する専門上、そのような立場を取ります。
全的な把握は、抽象的な把握の無数の集合と構成なので、その増大と複層化に従って、具体化を限りなく可能にするのですが、
あくまでも可能性にとどまると考えるのです。

実社会のコミュニケーションでは、ある程度の情報を構成した把握が約束されて、記号や言語となっているので、
事物の可能性≒事物として弊害がありません。
しかし、脳や精神の疾患者の場合、健常者と同じ抽象も、その集合も、構成も、容易に成立しないことがあります。
事物は事物として「ある」にもかかわらず、具体すなわち実質を具有するとみなすことのできる認識へ、到達しないのです。
CDが、CDだとわからないわけです。
わたしたちの通常のコミュニケーションでは、CDについての全的な把握は約束にすぎず、具体性も約束にすぎません。
全的な把握の可能性はある、というところに安住して、わたしたちは具体的なものと仮定される記号のやりとりができます。
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