オランダお七について何でもいいので教えてください。
お七で検索すると「八百屋お七」がでてきますが
それとはおそらく違うと思います。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

オランダ○○という名前で思い出すのはシーボルトのオランダおイネなんですけど。


間違ってたらごめんなさい。
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この回答へのお礼

オランダおイネであることがわかったおかげで
あとは色々な検索でわかりました
ありがとうございました。

お礼日時:2001/03/26 19:11

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Q「八百屋お七」の物語はどこまで歴史的事実ですか?

八百屋お七は、お寺の小姓会いたさに、放火をしたということで有名です。
ところでこれはどこまでが事実なのでしょうか?
火事になったとして、その犯人を探し出すのは大変なことです。
本人が自主しないかぎり、迷宮入りでしょう。
動機が、お寺の小姓に会いたかったからというのも、信じにくいところです。
会いたかったら、会いにゆけばいいのです。
手紙を送るという方法もあります。
16歳の女性が、火事になったら好きな人に会えるなどという荒唐無稽なことを考えつくでしょうか?
論理的に飛躍しすぎています。
7,8歳の少女ならいざしらず、もう立派な大人です。
現代の視点からみると「ありえない」です。

また、処刑されたのは事実なのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

実際にあった話ですよ。それを元に物語化したんですね。
火事で焼け出された時、逃げた先の寺で小姓と恋に落ち火付けの後、
処刑まで事実です。

お七のお墓が実際に文京区の円乗寺というお寺にあります。
円乗寺はお七一家の菩提寺だったそうでお七が恋した小姓は
実はこの円乗寺の小姓だったんです。名は本当は佐兵衛とか庄之助とか
という名だったという説がありますがここでは劇中の吉三郎としましょう。

お七一家は丸山本妙寺前に自宅を新築し、円乗寺を引き上げたのですが
恋焦がれるあまりお七は抑うつ状態になってしまい、
「また火事になれば円乗寺に避難してに吉三郎に会える」と思い込み
お七は自宅に放火しますが火を放った後、怖くなりお七は自分で半鐘を鳴らし
そこを取り押さえられた事で放火犯と分かったとの事だったかな?
大火になったと言う説もありますが、実際にはボヤ程度だったらしいです。
しかしお七は火付けの大罪を犯したとして、奉行所の取り調べを受けますが、
奉行はお七が若く、幼い恋心が故に起こした行為にいたく同情し、
本来ならば放火犯は火あぶりの刑ですが、15歳以下の年少者は罪一等を
減じるという規定を使いたいと思いますが、お七はそれに対して自分は確かに
16歳であると主張し、生まれた時のお宮参りの記録を見てくれとまで言った
そうです。結局、刑は執行されお七は火あぶりで処刑となったわけです。
15歳と言えば刑を免れたかもしれないのにお七はそれを拒否したんですよね。
それ考えると大変強情で芯の強い女性だったように思われますが。

お七は母親に吉三郎に会う事を禁じられていたようです。
行動も見張られて外出もままならかったようですよ。
その当時は社会通念も常識も違いましたから、結婚前の娘が外の男にうつつを
抜かすとろくな事がない、と思われたでしょうね。江戸時代の女性の地位と
言うのはまだまだ低くて、女性は政治と家のための道具だった訳で。
手紙を出したり会いに行くのも未婚の若い女性の身から行動をおこすのは
婦女子のたしなみから外れる事で恥ずかしい事だったはずです。
それこそ本当に好きな人と恋愛し結ばれる人はまだまだ珍しかったと思いますよ。
たいていは親か地域の顔役さんの持ってきた縁談で結婚し貰って下さって
ありがとう、という時代でした。

逃げた先の寺小姓と恋仲なんてその時代ではスキャンダラスでハレンチな事
でしょう。抑圧されすぎて思いが募ってしまった結果だと思います。
それに比べると今はいい時代ですね。メールで告白したりも出来るし、
簡単に会いにもいけるし。ちなみにお七が火付けまでして恋い慕った
相手は西運という僧で、お七のこともあって厳しい修行を積み、
のちにたいへん偉い坊さんになったと言われています。

実際にあった話ですよ。それを元に物語化したんですね。
火事で焼け出された時、逃げた先の寺で小姓と恋に落ち火付けの後、
処刑まで事実です。

お七のお墓が実際に文京区の円乗寺というお寺にあります。
円乗寺はお七一家の菩提寺だったそうでお七が恋した小姓は
実はこの円乗寺の小姓だったんです。名は本当は佐兵衛とか庄之助とか
という名だったという説がありますがここでは劇中の吉三郎としましょう。

お七一家は丸山本妙寺前に自宅を新築し、円乗寺を引き上げたのですが
恋焦がれるあまりお七...続きを読む

Q八百屋お七を裁いた奉行は誰

八百屋お七を裁いたさい、実際には16歳であったお七に
あなたは、15歳でしょ?といって罪を軽くしようとした、
奉行は誰でしょうか?私の直感では南町奉行、松平忠冬では
ないかとおもいますが、江戸の歴史に詳しいかたよろしく
お願いします、

Aベストアンサー

このあたりのページは参考になりますでしょうか?
http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.rekitan-22.html

甲斐庄飛騨守正親 。延宝8(1680)年から~元禄3(1690)年まで南町奉行を務めました。事件は1683年に起きてます。

参考URL:http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.rekitan-22.html

Qオランダでは、日本が鎖国中でもオランダと交易していたということは、義務

オランダでは、日本が鎖国中でもオランダと交易していたということは、義務教育で習いますか。ポルトガルでは、ポルトガル人が日本に鉄砲をつたえたということを、義務教育で習いますか。

Aベストアンサー

 (推測にすぎませんが)習いません。
 そもそも、鉄砲伝来は、ポルトガル人によるものと言われていますが、
漂着した舟は、中国船籍で、伝えたのは、中華系ポルトガル人で、ポルトガルの政府との関係も希薄で、当事国における影響力も希薄です。
つまり、ポルトガルの歴史にとっては、重要ではありませんから、教科書レベルで教える必要性がありません。
 そんな瑣末な歴史よりは、当時のポルトガルの黄金期に関する重要な歴史が優先されるのは、火を見るより明かです。


 冷静に考えれば、当然の話で
アユタヤ王朝で大活躍した日本人の山田長政を日本ではあまり習わないように、自国に与えた影響が大きくなり限りは、教えることはありませんし、そんなものです。

 世界的な偉業を成し遂げた『後藤新平』は専門筋には高い評価されていますが、
東北出身だったことから今も評価されていない日本は、歴史評価が歪んでいる傾向もありますので、比較していい話でもないでしょうが・・・・

 

Q武蔵七党丹党とは?

栃木、茨城等、北関東の大名について調べています。

そのなかで、発祥に”武蔵七党丹党の出”という記述が出てきます。

この”武蔵七党丹党”についての解説をお願いします。

また、桓武平氏大掾流についても教えていただければ、幸いです。

 

Aベストアンサー

歴史の先生ではないので、雑誌などで仕入れた雑学知識からですが…

「武蔵七党」とは、武蔵の国の土着豪族たちによって組織されていた七つの同族集団のことです。
丹党のほかに猪俣党・西党・村山党・私市党・児玉党・横山党があります。
(野与党、綴党、私市党が含められる場合もあります。)

「丹党」は、宣化天皇の末裔であり、多治比(丹比・丹治)氏の流れを汲む言われています。
多治比一族は「多治比文子」がかの有名な「菅原道真」の乳母をしていたりして
ちょくちょく歴史に顔をのぞかせている、奈良時代以前から続く名家です。

竹取物語で「仏の御石の鉢」を持ってくるようをかぐや姫に言われた「石作りの皇子」も、
火明命を祖とする多治比王の子の「多治比真人嶋」がモデルであると言われています。

時はかわって708年、武蔵国で自然銅が見つかったことから日本最古の貨幣である和同開珎鋳造が始まります。
この責任者に命じられたのが、先ほどの「多治比真人嶋」の兄弟にあたる「多治比真人三宅麻呂」です。
平安時代以降、彼らはこの武蔵国に渡り、国司として勢力を築いてゆきます。

貴族の時代から武士の時代に移ると、多治比一族は完全に武蔵野国に土着し、「丹党首」と名乗り、
嫡流を中村氏として、安保氏、薄氏、白鳥氏、勅使河原氏などに分かれて北関東で勢力を強めます。
これが後に「丹党」と呼ばれることになります。
なお、最終的には鎌倉時代に合戦などで活躍し、本領とは別に播磨国の守護職を戴くなど功績をあげた
安保氏の勢力が最も強かったようです。

この安保氏ですが、戦国時代には北条家(鎌倉幕府とは異なる、北条早雲に端を発する後北条です)に仕えていたようです。
しかし、後北条の滅亡とともに安保氏の名は途絶え、丹党の名も歴史上から消えることとなります。

さすがに全部ここに書き切れないので、このへんで失礼します。
よろしければご参考になさってください。

歴史の先生ではないので、雑誌などで仕入れた雑学知識からですが…

「武蔵七党」とは、武蔵の国の土着豪族たちによって組織されていた七つの同族集団のことです。
丹党のほかに猪俣党・西党・村山党・私市党・児玉党・横山党があります。
(野与党、綴党、私市党が含められる場合もあります。)

「丹党」は、宣化天皇の末裔であり、多治比(丹比・丹治)氏の流れを汲む言われています。
多治比一族は「多治比文子」がかの有名な「菅原道真」の乳母をしていたりして
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古代ローマの修道生活について興味があり調べているのですがあまり資料がないので教えてください

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修道生活って、キリスト教の話でしょうか?それともそれ以前の古代ローマの宗教的な話?
キリスト教の修道院ってもはや中世の話だと思います。
何世紀頃の話のことなのか書かないと知ってる人でも答えられないと思います。

古代ローマというと紀元前8世紀の建国から1世紀の帝政開始までか長く見ても4世紀のゲルマン人侵入と東西分裂あたりまでだと思います。多神教時代での修道って確かに聞いたこと無いですね。


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