人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

こんにちは。

(下記は、断定した文章や説明が断片的な書き方をしておりますが
 説明しやすさを優先しておりますので
 異論反論あるかと思いますが、ある程度ご容赦ください)

秀吉は天下統一後、残念ながら豊臣家を磐石な体制にする事ができずに
家康にその覇権をゆずり、
その後300年という磐石な体制を築きました。

この二人の執り行った体制の違いはどういう点にあるのでしょうか。
家康は征夷大将軍になり幕府を開きましたが、秀吉は行わなかった。
その差なのでしょうか(もちろんその差だけではないでしょうが、大きな要素として)

なぜ秀吉は幕府を開かなかったのか。

また、秀吉は五大老・五奉行という体制をとりましたが、
結果(色々異論はあるでしょうが)対立構造を生んでしまいました。
これがまずかったのでしょうか。
それとも、正当な後継者が(適正なタイミングで)存在しなかったことが原因の一要素としても
あるのでしょうか。
(秀次や早死した子供の事もあるでしょうが、子供に恵まれなかったというイレギュラーな
事だけだったのか。徳川家は、幕府という体制をしいておきながら
そのような子供に恵まれなかった場合も、綻びが生じる可能性があったのか)

…色々疑問文ばかりで恐縮ですが
自分は個人的に秀吉が好きなのですが、天下統一まで圧倒的だった秀吉が
何故磐石の態勢を築けなかったのか。
(おそらく秀吉は、「このような体制で問題ないだろう」とは思っていたとは思いますが、
 死の間際「誓書」を書かせたことなど、死後を心配していた事、何かしら
 懸念はしていたと想像してます。
 その点、家康は自分の死後、秀吉ほどまで懸念しながら死の床についてはいなかったのでは
 ないでしょうか。体制が磐石だったと思いますので。…単なる憶測ですが)
家康との差はなんだったのか、家康はあそこまで磐石な徳川体制を敷けた理由は
どういうところにあるのか。

みなさまの考える論拠をお聞かせください。
よろしくお願いいたします。

願わくばその考えに行き着いた思考のプロセスを詳細に
教えていただけると助かります。

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A 回答 (7件)

興味深い議題ですね。


自分の見解としては、生まれ育った環境も大きな一因かと
思っています。

生まれながらにして大名(といっても傀儡ですが)だった家康と
一平卒から成り上がった秀吉。生まれ持った価値観と、天下を
手に入れた後の処置の仕方、大きく違うと思います。

まず、秀吉からですが、彼は非常に優秀な武将だったことは
周知の事実です。また、一平卒から天下人になるという、今まで
の日本史至上の出世をした奇跡の人でもあります。
成り上がることにかけては、何もいうことないのですが、現状を
維持する能力に欠けていたと思います。
常に自分が何かを求めていたので、全てを手に入れてしまった
後は、どう平定すれば良いのかが分からなかったのでしょう。
一番の失策は朝鮮への出兵で、明確なビジョンもなく、ただ部下に
土地を上げたいがために起こした、一方的な戦です。
これにより、西国の大名は軍事力を大きく削がれ、関が原の敗因
の一因にもあげられています。


それを反面教師にしたのが、まさに家康ですね。
子供の頃から、大名の子でありながら不遇な体験をし続け、様々な
裏切りに会い、親も子供も親族も亡くしています。
ここで養われたのが、猜疑心かと思います。人を信じることができ
ないからこそ、磐石な体制が敷けたと考えられます。
秀吉が死去してから、禁止されていた大名同士の婚礼を次々に
行い、有力大名との絆を深めていきます。まだ、自身も70になっても
子作りに専念し、分家(御三家)という体制を作ります。
彼の目的は、日本中を徳川家にしたかったのかと思うぐらい、自分の
血筋の入った者を他家に入れ込みます。


さて、天下を略奪した暁には、秀吉とは異なり非常な仕打ちをします。
自分の親族には大きな土地を、昔から味方だった優秀な家臣には
そこそこの土地を、降伏した大名には、どうでもいい土地を分け与えます。
しかし、感謝の念よりも、これからは徳川に尽くす政策を強行します。
まずは、金山などの独占権を横行し、経済を牛耳ります。
天皇家よりも、徳川家が偉いと決め、大名との付き合いを一切もたせなく
します(毛利家など例外はありましたが)。
更に、一国に対して城は一つ。高さ制限、広さ制限もします。改修するには
幕府にいちいち許可が必要です。国力を一気に削いでいきます。
もちろん、大名同士の勝手な婚礼も禁止です。
あれだけ尽くしてきたのに、こんな仕打ちかい!と西国を中心とした大名は
大いに反発。ほんのちょーーーーーっとだけ反発(勝手に城を修繕したとか)
しだだけで、お家取り潰しされ、徳川の領土になった。
当初に、どうでもいい国を与えたのも後々没収する名目であったことも
伺える。没収した後は、小さな国でもいいので、他家へのにらみになる。
極め付けが参勤交代という人質制度。このように大名は次々に牙を抜かれ、
外国の圧力がかかるまでは、徳川の天下が謳歌できたと思います。


人とのつながりを大事にし、絆を深め大きく恩賞を取らせ、人身掌握で
天下を取った秀吉。天下人になった後も、いかに部下が自分を信奉する
かに力を尽くした結果、裏切られることに。。。

不遇な幼少期、青年期を過ごし、自分の上に立つものに対して猜疑心の
塊だった家康。天下人になった暁には、今まで温厚だった家康とうって
代わり、恐怖・恐喝・恫喝政治をして、徳川三代かけて根底をしっかりと
作った結果、260年という太平な日本を築けた。
〈四代目以降からは、考えられないぐらいガタガタになるが、すでに
徳川家が神格化されていたので、天下転覆を考える輩はいなかった)
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・生きているうちに将軍職を世襲だと示す事ができたこと。


信長は自分も息子たちも朝廷の役職についていなかったため、秀吉が下克上できた。
(これは信長がこれまでの権力機構を否定するための計画とも言われているので、失敗かどうかは分からない)
秀吉の死後、秀頼は朝廷の役職がなく、内大臣の家康がトップだった。
このため徳川家が天下を取るチャンスが生まれた。

・徹底的に人を信用しなかったこと
親族だろうが家臣だろうが、誰が謀反を起こしても大丈夫なようにした。
具体的には、将軍の直轄領が非常に大きく、次いで御三家、譜代の家臣の石高はかなり低い、
江戸の町は防御に適した作りにした、など。

家康のやり方が信長より温厚とかいうのは真っ赤なウソ。
むしろ秀吉や光秀に大きな領地を与えていた信長の方がよほど優しいと言える。
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家康の偉さは天下を握ったのち、内政に全力を注ぎ、前者の失敗から学び経営のシステム化に成功しました。


秀吉は天下を取ってからも、外征のみ考え足元を固めませんでした。
偉業とされる太閤検地も内政のためでなく、朝鮮出兵の準備、と見られています。
五大老、五奉行制も機能せず、実権は 秀吉ー三成ラインにあり、独裁的で恨みを買いやすく、また秀吉子飼いの大名達の結束が出来ず秀頼政権を守れませんでした。    
家康は室町幕府で大大名が管領として、実権をにぎったため、その争いから国が乱れ、将軍が何人も殺され、崩壊したことから、政治は普代の小大名の中から能力のあるものが、世襲でなく交代、合議制で政務をとる良法を採りました。
大大名は外様はもとより、親藩、御三家でも直接は政治にタッチさせませんでした。
大大名の謀反はもとより、徳川家の身内の争いも崩壊につながると警戒しました。
厳しかった信長の失敗から、信玄の「情けは味方、仇は敵」を信条としました。    関ヶ原ののち東軍についたため、領地没収や減封になった大名の復権もかなりあります。    それも秀吉ほど甘くなく、警戒すべき相手には許さない用心深さです。    秀吉、家康の違いは勉強の差です。  
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秀吉というのは典型的な「カリスマタイプ」だと思います。

秀吉に心酔していた人たちは皆な、「秀吉」という個人に心酔していたのだと思います。だからこそ秀吉はあの身分から天下人まで成り上がれたのだと思います。
しかしだからこそ彼が死んでしまうとその求心力となる存在がないゆえに組織が存続しえなくなってしまったのだと思います。
これは企業でもよくあると思います。「名物社長」が亡くなってしまうと後継問題などでお家騒動が起こり、そうこうするうちに顧客も「先代の社長だから」とお付き合いしていたのが付き合いがなくなり、そして倒産してしまいます。
つまり、豊臣政権というのはあくまで「秀吉のもの」であったのだと思います。

一方、家康には「徳川家のために」働く家臣を持っていました。彼らはあくまで「徳川家のため」に働いているのであって「家康のため」ではありません。しかし彼らは松平家以来の苦楽を共にしたせいか、異常なまでに結束力が固いという長所がありました。
そこで家康は特に政権奪取後は官僚制度を整えることに苦心しています。そして官僚によって徳川政権が支えられるシステムを作りました。つまり、御輿をかつぐ人間がしっかりしていれば、御輿に乗る奴がどんなにバカでもちゃんと目的地に着ける体制を作ったといえると思います。
家康のすごいところは、徳川政権の中枢にいる老中クラスを小藩の藩主から選ぶシステムを作ったところです。権力の中心にいる人は、権力そのものはありますが、裏づけとなる実力がありません。だから、例えば老中がクーデターを起こそうと思ってもそれだけの兵力を持つことができないという巧妙なシステムを作りました。徳川政権を支える権力者は、自分たちが権力者であるためには徳川政権を支えないとならないように作ったのです。水野忠邦は老中になるためにわざわざ小さい藩に鞍替えしたほどです。
だから、家康が死んでも、誰が将軍になっても幕府のやり方は変わらないようになっていたのです。これは戦後の日本の官僚・政治システムがそうであったと思います。戦後政治では誰が首相になっても国の方針に大きなブレが出ないようになっていました。なぜなら、日本の政策は官僚が作るようになっているからです。政治家はあくまで官僚の上に乗っているだけですし、時には官僚を支える存在でもありました。だから、誰が首相になっても政治的に安定していたのです。
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家康信奉者です。

対比すると秀吉は独創の人、家康は温故知新の人といえると思います。秀吉は天才なので城攻めにせよ政治にせよ自分で考えた方法を推し進め、それで成功してきたわけですが、独創だけに万一失敗すると収拾がつかない脆さもはらんでいたのでしょう。対して家康はひらめき能力に欠ける凡人なので、歴史をよく研究しており、やることは全て優れた先人の真似(主に軍事は武田信玄、政治は源頼朝)です。ですから面白みはありませんが堅実といえるでしょう。江戸幕府の政治体制を作るにあたって、かなり鎌倉幕府の研究をした形跡がありますので、その辺りの勉強成果が三百年の平和なのだと思います。

さて、徳川政権の具体的な豊臣政権との違いですが、まずは朝鮮出兵のような外国との戦争がなかったことが大きいと思います。小説などではあれは耄碌した秀吉の誇大妄想などと片付けられていることが多いですが、そうではなくて、実際には日本が統一されて平和になったために、戦で手柄を立てることによる領土欲の矛先がなくなった武士を救済するための公共事業ともいうべきものです。徳川政権では少しでも法に違反した大名は領地没収していた(これも鎌倉幕府と同じ)ので、その領地を手柄を立てたものに与えることができ、武士たちの領土欲を巧く満たすことができたのです。
後は朝廷対策をしっかりやったことでしょうか。歴史をみると、栄華を誇った勢力は最後には朝廷を奉ずる勢力によって滅ぼされたパターンが多いので(江戸幕府も最後にはそうですが)。

ちなみに、
>家康は自分の死後、秀吉ほどまで懸念しながら死の床についてはいなかったのではないでしょうか。
に関して、家康は死の床で秀忠に「わしが死んだ後も天下は安泰と思うか」と聞き、「いや、乱れると思います」という返事を聞いて、秀忠に油断がないことを知って安心したそうです。

さらに、なぜ秀吉は幕府を開かなかったのかですが、秀吉は室町幕府16代将軍になるために足利義昭の養子になろうとしたのですが、断られたので、その時たまたま空位だった関白に就いたという経緯があります。関白は将軍より上の位ですから、秀吉は満足したでしょう。
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秀吉が茶会を開いてお客を招きました。


伊達政宗、佐竹親子、最上義光、蒲生氏郷、上杉景勝、直江兼続など。
江戸時代にこんな面子の交流会は出来ません。
良いも悪いもこれが秀吉政権であり、そんな交流は禁止したのが家康。

この客を見れば分かるように地位はバラバラ、信仰もバラバラ。
これが秀吉の強みでもあり弱みでもありました。
こんな状態では誓書を書くのもうなずけると思います。

差は無いと思いますよ。
時代の流れがどちらを求めていたのか?と言う程度だと思います。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

秀吉・・・私も好きな人物の一人です。

私の浅学で、
やはり、「血族」がいなかった・・・ことが一番だと考えています。
次に考えられることとしては、秀頼が生まれたことにより、国政よりも自己権力の存続に没頭してしまった。
などが考えられます。

秀吉には晩年まで子どもができなかった。
(1)姉の子どもの、通称「孫七郎」(まごしちろう)を養子とし、関白職を譲るも、秀頼が生まれてから、急に、「醜聞」を口実として切腹までさせてしまい、身内でも「容赦の無い」異常な行動をするようになった。
(2)秀吉には、頼る家臣がいなかった。
そこで、弟の秀長を抜擢する。そして、ねねの発案とも言われていますが、子飼いの武将を育てた。
加藤清正、福島正則、小早川秀秋などなど。
(3)しかし、秀長は早くに死亡。
そして、関が原の戦いでは、子飼いの武将の一人であった小早川秀秋は徳川に「寝返り」をしてしまった。
この要因が基で、西軍は敗れた・・・と、言われていますよね。
(4)秀吉は5大老、5奉行を置いたが、結局のところ、自分の子どもである「秀頼」の後見役であって、本来の「国政」での大事は何一つなかった。
まあ、「刀狩り」とか「太閤検地」とかはありましたが・・・。

徳川の行動:
(1)家康は男子だけでも9人の子どもを残し、自分の健在なうちに、早くも3男の秀忠に将軍職を譲る。
そして、「尾張家」「紀州家」「水戸家」と言う「本家」から世継ぎができない場合の予備軍を作った。
秀吉も、秀頼が幼少であっても、関白職を譲っていたら、歴史は変わったかも知れませんね。
(2)さらに、8代吉宗の時、子どもに御三卿「田安家」「一橋家」「清水家」を興させ、二重三重の将軍後継者の絶えない体制を作った。
(ただし、「清水家」は吉宗の孫の重好が興した)
(3)家康は三河(新田)の弱小大名ではあったが、古くからの家臣団が形成されていた。
(4)家康は幕府を開くと同時に、「譜代」「外様」などの大名の区分けをして、「譜代」をして「外様」の監視役とした。

つまりは、秀吉の家臣団は、秀吉が出世するにしたがって形成された、言ってみれば「寄せ集め集団」であり、家康のように古豪の家臣団はいなかった。
また、秀吉の設置した5大老にしても、いずれも、極端に言えば、秀吉よりも力や領土のある大名であり、結束力は無かった。

>>なぜ秀吉は幕府を開かなかったのか。

異説もありますが、幕府を開くには「源氏」の流れをくんでいなければなれませんでした。
従って、成り上がり者の秀吉は「将軍」にはなれなかった。
では、家康は・・・家系図を偽造した・・・とも言われていますが、「源氏」の流れを汲む者として、将軍になれた。

あなたの言われるように、「異論」「異説」もあるでしょうから、他の方のご意見も聞いてみてください。
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Q豊臣秀吉が貫高制を廃して石高制に統一した理由

 信長は両者を併用していましたが、それは何故でしょうか?
 秀吉が石高制を採用したのは、貫高制より優位性があったからでしょうが、つまりそれは何なのか、端的具体的に教えていただきたいのです。

Aベストアンサー

貫高制は土地から得られる収益を銭に換算し金納させる制度ですが銭そのものの普及率が低く、絶対量が不足しており実際には米納と併用でした。

領主が家臣に課す軍役や負担は貫高によって決められていました。
貨幣の品質、数量もまちまちなので基準も同一に成りにくかったのです。

秀吉は太閤検地を全国規模で同一の基準で行いましたから全国の収益を把握出来たのです。  貨幣の供給量の不足は改善されなかったので米納に切り替え軍役の負担も石高によると定めたのが石高制です。

Q日本での金貨と銀貨の質の違い

通貨制度が整備されてきた近世で、銀貨は重さで、金貨は額面で取引するというシステムを作ったのは、どういう理由なのでしょうか?金のほうは、悪貨発行の余地を残すということでしょうか?

Aベストアンサー

銀本位制度では、外国への支払いは、銀貨で行うのが普通だったからです。実際には、おっしゃる通り、金銀複本位制です。

また、通貨は重さで交換されるのが慣例でしたので、
1ドル銀貨=一分銀程度の長崎貿易は、
1ドル銀貨の重さ=一分銀3枚へと変わります。

>金貨は額面で取引
日本では、金貨を本位貨幣と決定します。
金1.5gを1円と定めます。
金本位制度(兌換制度)であったらしいです。

一分銀は実質の価値の1/3程度の重さであったらしいです。

1両小判とは、小判の中に1両分の金がある。
こう言う意味なのですが、
金貨は慶長小判の金の含有率は84%です。
幕末の小判では重さは慶長小判の1/5。含有率50%程度になります。
実質は、経済崩壊寸前であったようです。
明治政府が大きな銀貨を作成したのは対外貿易の為です。
銀(金)本位制度→管理通貨制度へと移行します。

Q秀吉最大の失策:家康の関東移封で大盤振る舞い

北条氏討伐後、家康の関東移封が大盤振る舞いすぎたのではないでしょうか。
250万石に及ぶ大領でなくとも、武蔵相模下総3か国120万石程度でもよかったのではないでしょうか。もちろん長年の領主を失った関東を治めるのは大変なことであり、家康の統治力もあって250万石を盤石にした面もありますが、結果ライバルをより強大化させてしまいました。
120万石程度であれば、秀吉の死後家康が突出することもなかったと思います。

Aベストアンサー

う~ん、失策ですか。

個人的には、秀吉としては三河など5ヶ国から家康を追い出したかったんじゃ?と言う気がしなくもありません。大坂や京都により遠い関東に家康を追い出すことで、豊臣政権の中心地を"距離の防御壁"のようなもので守ろうとしたんじゃないかなーと。

その証拠、ではありませんが旧・徳川領には豊臣派的な大名を詰め込んでますし。家康に調略を面倒にするためか、かなり細切れに配置してますよね。まー配置された大名は関ヶ原ではほぼ家康方になるわけですが、そこは秀吉を責めちゃいけない気がします。


というわけで、家康を関東に移封すれば上方の安全確保に繋がる、と秀吉が考えた場合、なんとかこの実力者のヘソを曲げることなく引っ越してもらうには、大盤振る舞いも止む無しではないでしょうか。本拠地移転やそれに伴う家康の家臣への言い訳?の為にも。


>結果ライバルをより強大化させてしまいました。
豊臣政権の繁栄、まではいかなくても存続を最優先にした場合、家康なんか肥らせとけばよかったんです。いくら肥ろうと大坂城の西の丸に入ろうが、ほっときゃよかったんです。あんな挑発をしている内は「豊臣家の筆頭大老」でしかなく、豊臣家の実力者ではあっても日本のトップには登れなかったんだから。

寧ろ挑発に乗った方々こそ、家康に日本のトップになるチャンスを進呈した方々。結果から見れば挑発に乗りやすい面子を除けなかったことが、秀吉の失策な気がしますが。

結果論でしかないのは重々。長文失礼。

う~ん、失策ですか。

個人的には、秀吉としては三河など5ヶ国から家康を追い出したかったんじゃ?と言う気がしなくもありません。大坂や京都により遠い関東に家康を追い出すことで、豊臣政権の中心地を"距離の防御壁"のようなもので守ろうとしたんじゃないかなーと。

その証拠、ではありませんが旧・徳川領には豊臣派的な大名を詰め込んでますし。家康に調略を面倒にするためか、かなり細切れに配置してますよね。まー配置された大名は関ヶ原ではほぼ家康方になるわけですが、そこは秀吉を責めちゃいけない気が...続きを読む

Q家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

Aベストアンサー

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の...続きを読む

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Q「たそがれ清兵衛」の50石取りとは

映画「たそがれ清兵衛」を観ました。(時代は幕末です)
この中で何度もでてくる50石取りの身分(給与)とはいかほどのものなのでしょうか?
貧しいということはわかりますが、具体的にどれくらいの経済状況なのでしょうか?

1石とは米の単位だと思いますが、そもそもお米で給与をもらっていたのでしょうか?
それとも現金ですか?
映画の中で病気の妻の医療費が毎月1両4分かかったとありました。
この金額を石高にするとどれくらいになりますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

なかなか感動的な映画でしたね。
一石は下記のようです。
10斗=2.5俵(=100升=1000合)約150キロ
50石ですと、125俵、約7.5トンです。
安房守伝記を見ますと、
幕末のころは一石は25万円相当と書かれていますので、125万円ですね。
幕末のころは、一両が5000円程度ですから
清兵衛は年収125万円(月給10万5000円程度)
妻の医療費(毎月1両4分)は7000円かかる計算です。
使用人もいますから、かなり厳しい生活ですね。

参考URL:http://bakumatu.727.net/iroha/mame-kome.htm,http://www.asyura2.com/0306/tyu2/msg/314.html

Q江戸時代はなぜ260年も続いたの?

社会の宿題でこの答えを明日朝までに出さないといけませんが、厳しい決まりが多くて、辛い人も多かったはずなのになぜ長続きしたのか、納得できません。意見を聞かせて下さい。

Aベストアンサー

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗じての侵略意図はありましたが本国の遥か彼方の日本への遠征軍を派遣する力がありませんでした。
国内では関ヶ原に勝利した徳川家に対する反感はあったようですが、多くの大名は領国を移動させられています。この状態で戦争を起しても足元の農民と敵の徳川家に挟み打ちの形になっていしまい勝負にさえなりません。当時の農民は大名の統治が気に食わなければ平気で他国へ逃げ出して税収を悪化させたり一揆の形で武力行使する油断のならない人々です。

2相互監視制度と諜報活動の発達
この二つは関連しています。まずは前者なんですが、これは地域行政と幕府・諸藩の政治体制に深く入り込んでいます。集落では数世帯で一つの班を作り相互扶助(災害・冠婚葬祭等)と犯罪取締りに役立てています。相互扶助はまだしも犯罪の方は連帯責任なので周囲で監視することで相当に抑えられます。政治体制では目付け(公認のスパイ)を常時放つ事で反乱等を事前に潰す事と幕府が諸藩に密偵を放つことで二重に管理しています。今でも御庭番といえば単なる園芸管理の職ではない事は知れ渡っていますし、薩摩飛脚は特に幕府が薩摩に放ったスパイとして知られています。もっとも方言やその他の理由で薩摩飛脚は成功例が少なかった様ですが・・・

3国内貿易・農業の発達。
これは幕府が主導したと必ずしも言えませんが、北陸や三陸沖などの航路の開拓により国内貿易が盛んになっています。それからこれも意図したわけではありませんが幕府が諸藩の財政を圧迫するために江戸城などの建設や諸国の水利事業などの土木作業によって水害が減り農地が豊かになった事。それから諸藩が干拓事業を盛んに行い財政再建の努力もあります。例えば倒幕勢力となった長州藩は一応は三十数万石の収入だったのが幕末までに実質百万石に達したという説もあります。人間は生活が安定すれば力ではなく秩序や言論で問題解決を図る傾向にあるためこれらの施策は有効だったのでしょう。勿論国内貿易での商品開発も見逃せません。やはり外貨獲得の為とは言え現在の日本各地の名産物(伝統工芸・農産物等)の多くはこの時代に育成された物が多くを占めている事実はその証拠です。

4身分制度
ここでは士農工商での差別は取り扱いません。ここではそのしたの身分であるエタ・非人についてや身分間の流動性についてです。
まず下の二つは身分制度の負の方向でのガス抜き効果です。人は悲しい生き物で、自分が恵まれなくても自分より下の立場の人間を見つけて優越感に浸ったり差別する事で現在の境遇の不遇を紛らわせる性質があります。次に身分間の流動性です。百姓(本来は英語でピープルの意味ですがここでは農民とします)や町民でも学問や武術に秀でれば武士に取り立てられる事は実例は少なくてもままありました。人は実現するかはさて置き希望さえ持てればその立場でベストを尽くそうとするものです。それこそが現在の不遇な境遇を打開する手段ならば尚更の事。実際に医者や学者に剣術家で著名人は武士出身以外の身分の人は多いのです。他には俗な事ですが遊郭の存在です。ここでは金さえあれば一晩は大名並みの扱いがなされます。元々の大名でも無一文からの出世人でもここでの基準は金次第です。ここでも不満と言う名のガス抜きがなされた様です。

以上の飴と鞭が260年の理由の一つだと個人的に思います。

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗...続きを読む

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。


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