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日本では、放送媒体で障害者ネタ(受け狙いなど)は受け入れられない雰囲気です。
ところが欧米では違って、私は何本か障害者を笑いのネタにする映画を観ました。真摯に向き合っている映画も観ました。で、これは、欧米が野蛮なわけではなくて、逆に障害者を差別していないと言う逆説的な表明だと感じるのです。
ところが日本にはこういう懐の大きさみたいなのはなくて、障害者は別枠で、丁寧に丁重に配慮に配慮を重ねて、間違っても笑いネタになどならないように、壊れ物に触るように、そして常に「頑張る障害者」とかプラスイメージでだけ採用しなければならない、というように思えます。
こういう硬直化した雰囲気と言うのは、何にでも事なかれ主義、穏便1番波立ては却下みたいなつまらない国民性によっているように思えるわけです。皇室スマイルなんていうのは典型じゃないですか。物言わぬおしとやかで高雅なお方たちというイメージを無理やり押し付け強要する(皇室の片のうつ病の理由もよくわかります)
こういう国の雰囲気どうです?このままでいいんでしょうか?

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A 回答 (7件)

日本人は肉体にしろ、ファッションセンスにしろ、思想にしろ、平均と少し違っていても、異端と思い背別意識が働くわけですね。



本来障害も個性と思えば差別意識も働かないわけですが、日本は島国で、農耕民族で共同作業を行っていたことも、差別、偏見、よそ者を寄せ付けないという意識が多きい要因になっているわけですね。

異端者は秩序を乱すという意識も働いていて、その最たる者が障害者と思う者もいるわけですね。

ですから日本では良いほうの出る杭も打たれるわけです。いい個性が伸びない、伸ばせないということですね。

もちろん堀江君や村上君などは良いほうではありませんがね。

障害者の中には、過去世で、悪行を行ったり、差別をしたりした人々が多いのは事実です。

自分の撒いた種は自分で刈り取らねばならぬという因果応報の法則ですね。

今度は差別さるる立場になって、自分が過去に行った行為を反省しなければならないということですが、
逆にこういう人々を差別したり、虐待したりした人々は、未来世で、障害者などの経験をさせられるということになるわけです。

江原啓之氏や五井昌久氏の書籍を参考にしてください。
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とある分科会で障害児の事である先生が「吉本新喜劇のギャグは自閉症と同じようなもの。

それを許せる空気がある」という事をおっしゃっていました。
 日本では2極に分けられているような状態です。出来る子、出来ない子。勝ち組、負け組。等々。
 昔なら受け止められていたはずなのに。いつしか分けられるようになった。その原因はわかりません。ただ助け合うと言うことが必要でなくなったのかもしれません。コンビニ、ネットなど一人でも何とかなる世界が出来てしまった。またそれを受け入れてしまったのではと。
 子供が居ますが、思いやりという事が非常に困難になっています。出来るだけ良い状態にとがんばっています。学童の指導員から、子供は遊びの中から学び取る物だと。でも、その遊びも大人によって取り上げられています。子供は学べないママなんでしょうね。
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障害者をネタとして取り扱う云々は論外であると思いますが、障害者を特別扱いする社会には問題があると思います。



お聞きした話ですが、お子さんの通う小学校に車椅子の同級生がおられたそうです。市内にも関わらず少子化で各学年2クラス程度の規模の学校でしたが、その子がどうすれば学校生活を楽しめるのかみんなで一生懸命考え、その子も自分がどう努力すれば学校生活を楽しめるのか一生懸命考えたそうです。運動会を見ていてもなんら違和感も無く、無邪気に楽しむ生徒たちがあったそうです。

傷害者のため特別施設を造り保護するのでは意味がありません。
人生を歩むためには、積極的に社会と関わって自分で努力していかねばなりません。
小さい頃から一緒に過ごすとにより障害者の生活を理解し、障害者自身も社会に適合すべく努力する。
それを当たり前のことだとして育った子供には、大人が心配するような偏見は少ないです。

今の教育では、ある意味保護を理由に隔離しているのと一緒です。 お互いどのように接したら良いのかさえ判らないから、ことなかれ主義→無関心な状況に陥るのだと思います。

「障害者をネタ」にでななく、おかしなことはおかしなこととしてわけ隔てなく「笑える」社会が必用なのだと思います。
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 私の見解も基本的には1の方の意見に近いのですが、



(1)真面目にこういった場を考える場はあってもいいと思う
(2)国民性にもとづくタブーと言うより、面倒くさがって放送媒体がこの種
   のネタを扱わない、という点に原因があるのでは?

 という点を補足したいと思います。
 あと、個人的には、「そんなに硬直化しているかなあ」と思ったりもするのですが、いかがでしょうか。私の周りだったら、「そこに何らかの芸術的価値があるとか、信念を持ってやっているんだった認めるけど、目立ちたいからそういう話題取り上げる、とかいうレベルのひくいものだった興ざめだよねえ~」という評価になるかと思います。私のケースは都会だから・・・ということでもないのでしょうが、最近のニュースなどをみるに、こうした話題に関しては地域格差が大きいようにも感じます。
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日本人は肉体にしろ、ファッションセンスにしろ、思想にしろ、平均と少し違っていても、異端と思い背別意識が働くわけですね。



本来障害も個性と思えば差別意識も働かないわけですが、日本は島国で、農耕民族で共同作業を行っていたことも、差別、偏見、よそ者を寄せ付けないという意識が多きい要因になっているわけですね。

異端者は秩序を乱すという意識も働いていて、その最たる者が障害者と思う者もいるわけですね。

ですから日本では良いほうの出る杭も打たれるわけです。いい個性が伸びない、伸ばせないということですね。

もちろん堀江君や村上君などは良いほうではありませんがね。

障害者の中には、過去世で、悪行を行ったり、差別をしたりした人々が多いのは事実です。

自分の撒いた種は自分で刈り取らねばならぬという因果応報の法則ですね。

今度は差別さるる立場になって、自分が過去に行った行為を反省しなければならないということですが、
逆にこういう人々を差別したり、虐待したりした人々は、未来世で、障害者などの経験をさせられるということになるわけです。

江原啓之氏や五井昌久氏の書籍を参考にしてください。
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この回答へのお礼

「差異」を認めない国民性がありますね。それは島国根性と徳川幕藩体制から培われたものであると考えます。異質文化との交流ということがあまりにも少なかった歴史がなした欠陥でしょうね。
過去生なんてあるのでしょうかね?何か偶然だけではないという気もします。

お礼日時:2010/02/12 20:43

私は身障者で、No1回答者の意見に基本的に賛成です。

ただ、私自身「びっこ」という言葉を平気で使っていたところ、差別用語として扱われるようになったと聞いて、驚いたことがあります。四本足の椅子の長さが違う時に、びっこというのと同じ意味合いで、両足の長さが違う場合もびっこという言葉を使っても良いと思っています(反論はあるでしょうが)。「障害者」という表現も、「害」という字のイメージが悪いからという理由で、「障がい者」と表示されるようになっていますが、平仮名の部分はイメージが湧かず、読みにくい感じもするので、寧ろ「障碍者」と表示する方がマシだと思います。
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障害者の問題の中に、突然皇室批判などを持ち出していますが、タブーをアナーキーに扱うことで気持ちよくなっているだけではありませんか。



障害者と健常者が同じフィールドで社会生活ができるようになれば、自然と笑いも生まれるでしょう。その基盤がもろく、まだ日本で障害者が健常者と同じフィールドに立てないから、こういった問題を笑いにできないのです。

つまり、国民性でどうにかなるのではなく、健常者側からの歩み寄り、そして物質的なバリアフリー、そして障害者側からの努力によって、双方の社会生活における隔たりがなくなれば、いくらでも障害をネタにして笑いをとっても、角は立たないのです。

根本的な問題を無視して、安易に障害者で笑いをとって逆説だの何だのという稚拙な精神、自国の国民性を否定し、他国の無神経な映画に諸手を挙げてバンザイする精神にはあきれかえるばかりです。
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この回答へのお礼

根本を無視しているわけではないのです。そのような歩み寄りがないというところに最も問題の根本を感じているわけで、そのことが欧米のスタンスと隔たりがあるのではないか、このままでいいはずがないという危機感を覚えますね。
おっしゃることは大変納得できますよ。

お礼日時:2010/02/12 20:39

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