マンガでよめる痔のこと・薬のこと

朝廷は明治以降どうなっているのでしょうか?

明治になって王政復古という事で、朝廷に仕えている公家を職員?などの立場にして宮内省に変わったという扱いですか? それとも朝廷は存在していないのでしょうか?

また、現在も宮内庁で働いている侍従や職員の中には、代々朝廷に仕えている一族というのもいるのでしょうか?

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A 回答 (3件)

んーと、朝廷=明治以降の宮内省 ということでは


ないと思います。

日本には江戸時代
江戸の幕府 と京都の朝廷
という二つの政府があり、今で言う地方官庁は
ほぼ江戸幕府に属していました 
(朝廷の地方官制度は江戸時代には形式だけ)
ということになるかと。

明治時代になって
江戸幕府と付属の従来の地方官庁
は、解体され、京都の朝廷の組織を
改組することから新政府は始まった ということになると思います。

明治以降の「宮内省」(主に天皇とその一族のお世話をする)の役割を持ってたのは
それ以前は
「中務省」「宮内省」「蔵人所」「後宮」の一部(内侍司など)など
が相当するかと思います。

現在も宮内庁には古くから天皇家にお仕えしている、という方々が
いらっしゃると思います。
具体的にお名前が出てこないですが、かつての上流貴族のなかにも
いらっしゃると思いますし

*宮内庁式部職楽部
現在は民間からの楽士の採用がありますが
かつては
東儀家・園家・上家の出身のみが楽士として
宮中等におつかえしていたようです。
有名な「東儀秀樹」さんもこのお家ですね・・

*掌典職
天皇家の三種の神器を守り、天皇家の神々に仕える
神職。
掌典(一般にいう神主)や内掌典(一般に言うところの巫女)と
いった方々は宮中の古式を守っていらっしゃる方々のようですし
社家(いわゆる神社のお家)のご出身が多いようですので
先祖代々朝廷に・・という方も多くいらっしゃると思います。

調べたらほかにもいらっしゃるかもしれません
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>朝廷に仕えている公家を職員?などの立場にして


そもそも、公家は公家です。明治になっても明治18年までは太政官制は続いていましたので、三条実美や岩倉具視といった公家は明治に入っても役職についています。公家はのちに華族になっております。

参考までにwikipedia【冷泉家】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%86%B7% …

参考までにwikipedia【侍従】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D%E5%BE%93

家柄等も考慮されて侍従長は選ばれていたでしょうが、公家出身の場合もあり、薩長出身の場合もあります。

石川小五郎は元・長州藩士です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

う~ん、ちょっと分からないですが、維新により旧身分制度がなくなり、天皇家宮家に仕える者も公家・上位家格でなくともよくなったんでしょうか。
そう仮定して、それでも今でも仕えている公家出身の人はいないのでしょうかね。

お礼日時:2010/02/03 20:03

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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q質問です。「朝廷」という名称は何時なくなり、明治「政府」という名称がで

質問です。「朝廷」という名称は何時なくなり、明治「政府」という名称ができたのか、また1868年まで律令制度は残っていたのでしょうか(律令制度下のいろいろな法令は残っていたのでしょうか)

Aベストアンサー

Wikipedia [朝廷] の項は既にお読みになられたでしょうか。あそこにヒントになるようなことが書かれていました。
→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%BB%B7

すなわち、慶応3年(1867年)に大政奉還と王政復古がなり、朝廷は太政官制をしきました。
そして明治18年(1885年)太政官制が廃止されて内閣制度に移行したために、朝廷という政治機構が消滅するに至った、ということが書かれています。

また、律令制度についてですが、これは形のみの形骸化したものではあったとしても、上記の太政官制の廃止されるまでは残っていた、ということが下記のサイトなどには書かれていますので、参照なさって下さい。
→ http://www2.odn.ne.jp/~rekisinotobira/contents014.html

Q日本の歴史で朝廷はなぜ残り続けたのですか?

学説や細かい歴史について詳しくないため、中学社会の延長での本当に基本的なご回答で構いません。宜しくお願い致します。

諸説あるかと思いますが、もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られたかと思います。
その後、武家社会や戦国時代など1000年以上も力の強い者が弱い者を支配する世の中が続き、支配者も二転三転したにも関わらず、直接的に軍事力が高かったわけではない天皇(朝廷)が残り続け、影響力を保ち続けた(王政復古まで)のはどうしてなのでしょうか?

常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのようにして築かれてきたのです。
日本の統治は天皇家を頂点とした天皇家由来の支配者とその他の豪族(家臣)によって構成されています。そして平氏滅亡後は支配者は基本的に源氏の家系が治めるようになりました。
地方豪族もより天皇家に近い血筋を持ちたいと、当初は血縁によって、後には家系の売買さえ行なわれるようになりました。
秀吉が関白の地位を得るために家系を創った事は有名な逸話ですし、信長の祖先が平氏を名乗り、信長自身も藤氏であるため、源氏系である家康を厚遇したという説もあります。
更に武士の頂点である幕府を開く資格も、基本的には源氏の流れを持つものに限られました。幕府を開く許可を与えるのは天皇であり、幕府は本来天皇を守護する武士団の長ですから、第一に天皇家安泰を考えるのは当然です。
武士の世界といえど、武士は天皇擁護のための組織である事は日本国中の武士が自覚しており、天皇を排斥しようとする者は排斥されるし、戦っても他の武士の助力を得られない事になるのです。
歴史のなかでは度々天皇家に対抗したり、懐柔しようとする者が現れましたが、徳川家でさえ完全な全武士団の賛同と助力を取り付けることは出来ず、中途半端に終わっています。
最後に天皇を担ぎ出したのは薩長軍で、当初は天皇家の許しを得られなかったものの、勝手に天皇家の御旗を掲げて幕府軍を朝的として討伐しました。戦況の有利を得て、天皇も正式に薩長軍を認めたのです。とは言ってもこれは、朝廷の貴族が押したために天皇も認めざるを得なかったのでしょう。
これも、武士が天皇の臣下である事を武士社会全体が自覚していたから成し得たのです。

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
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Q公家とは?

武家は武士の家ですよね?
公家は何の家なのでしょうか?
小学生でもわかるレベルで教えてください。ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

武家はお侍さんたちです。ちょんまげで刀持って、どちらかと言うと「ござる」な感じの人達です。どちらかと言うと、幕府側の人たちになると思います。

公家は、天皇や天皇に近い人達などです。「~でおじゃる」なんかを使ってたりします。朝廷側の人たちですね。

Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Qお公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住

お公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住の四条家や京都在住の冷泉家は裕福そうですが、旧五摂家や他の旧公家はどうでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

私の知人は藤原北家隆家流の堂上家で、ご本家は明治維新後は子爵でしたが、曾祖父の代で傍流になり、祖父が変な修験道に凝って土地を切り売りして没落、父親はそれでも一流企業の役員として悠々自適の生活でしたが、子ども(私の知人ですけど)の代で相続争いで残った資産も散逸し、現在は何とか暮らしているという状況です。

別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

両方ともご本家ではなく、傍流ですけど、ご本家は神社関係の仕事をしています。

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q中華人民共和国と中華民国は全く違う国ですか?

1.台湾は国の名前ではなく中華民国の県みたいなものですか?
2.中華人民共和国と中華民国は全く違う国ですか?
3.台湾と今の中国(中華人民共和国)は全く別の国ですか?

Aベストアンサー

>「中華民国を国として認めている国にとっては違う国になりますし、国と認めていない国にとっては、同じ国の1地域になります」ということはいまでもはっきりせずもめている状態ということですか?

 そのとおりです。先日も、元中華民国(台湾)の総統の来日を認めるかどうかで、日本と中華人民共和国でひと悶着在りましたね。

>そして世界の多くの国(日本を含め)は台湾は中国の一部だと認識しているということでしょうか?

 そのとおりです。ですから、国際的なスポーツ大会では中華民国ではなく「チャイニーズ・タイペイ」という折衷案みたいな国名で参加しています。

>パスポートは中国とは違うものになるのですよね?

 はい、違います。

Q山梨県は関東地方?中部地方?

すいません、タイトルの通りです^^;

以前山梨県の友人と議論になったことがあって、
その友人は「山梨県は関東地方」と言っていました。
私は山梨県は中部地方だと思っていたんですが、
実際のところどうなんでしょうか?

といっても、いろいろな観点からの区別があると
思いますので、いろいろな意見お待ちしてます。

Aベストアンサー

 一般的には中部地方でしょう。学校の社会科でも中部地方として習うはずです。ただ、首都圏との結びつきが強いので、状況によって関東と一緒に扱うこともあります。たとえば、NHKの放送でも、「関東甲信越」といって、関東地方の1都6県に加えて山梨、長野、新潟もワンセットにして取り扱うことがよくありますし、企業でも、関東の営業所の管轄になることがめずらしくありません。
 ただ、「関東甲信越」というくらいですから、やっぱり一般的には関東ではありませんよね。もし、山梨県(甲斐)が関東に含まれるなら、「関東『甲』信越」と甲を付け加える必要はないはずですから。

 俗説なのかどうか知りませんが、関東というというのは関所の東を意味するわけで、この場合の関所とは箱根の関所を意味するとも言われています。つまり、都のある畿内から見て、箱根の関所を超えた先…関東平野部が関東ということです。
 昔は関八州などとも言いましたが、八州というと、常陸、上野、下野、下総、上総、安房、武蔵、相模のことだと思うので、やっぱり甲斐は含まれません。

 おそらく、山梨県を関東と一緒に扱うようになってきたのは、山梨県が首都圏への通勤圏となってきた近年のことだと思います。

 一般的には中部地方でしょう。学校の社会科でも中部地方として習うはずです。ただ、首都圏との結びつきが強いので、状況によって関東と一緒に扱うこともあります。たとえば、NHKの放送でも、「関東甲信越」といって、関東地方の1都6県に加えて山梨、長野、新潟もワンセットにして取り扱うことがよくありますし、企業でも、関東の営業所の管轄になることがめずらしくありません。
 ただ、「関東甲信越」というくらいですから、やっぱり一般的には関東ではありませんよね。もし、山梨県(甲斐)が関東に含まれる...続きを読む

Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む


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