こんにちは。質問はタイトル通りです。以下、補足です。
 中華人民共和国は昔は「清」でした。清はヨーロッパの国々と同じ大陸に存在します。また、シルクロードと呼ばれる道があって東西交流も盛んだったそうです。では、何故清は欧米列強に攻め込まれたのでしょうか。例えば清は攻め込まれる前に事前に欧米列強の情報や武器を入手しても良いと思うのですが……。清の前身の「元」の時代には元は多大な影響力を持っていました。言い方は悪いですが何故「落ちぶれて」しまったのでしょうか。
 皆様の力をお貸しください。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

中国って不思議な国ですよね。

貴方がおっしゃる清や元よりずっと前の1300年頃の永楽帝の時代にも、強大な海軍力を持ち、鄭和という人が世界制覇を成し遂げております。

私は仕事で何度も上海や北京はもとより、四川省や福建省などにも出かけておりました。その経験から、中国が欧米列強に侵食されたのは、国土が大きすぎて、手が回らなかったというのが実際かと思います。また他の国を侵略して寄せ集めた多民族国家ですから、一度内乱が起こるとそれに乗じて他国から攻められました。更に、知恵が有るようで政策がアホで、欧米のしたたかな外交政策に負けたと思います。"北京の55日"という映画がありましたが、あれなんぞを見ると、自滅しています。
黄河文明発祥から5000年の歴史があり、火薬、紙、羅針盤を発明しているのに、没落する期間が何度もあるんですね。

今の中国も、共産党の国で真の意味の中国ではありません。チベットや辺境の地の民族が暴動を起し、内乱になる可能性が全く無いとは言えません。チベット自治区で独立の暴動が拡大したら、共産党の軍である人民軍は確実に同胞に向けて原爆を使うでしょう。このへんも中国人の体質ですね。今年になって、犬と猫を食うなという条例が出来ましたが、こんな条例をつくるということは、犬や猫も食べる国民です。

是非この本を読んでみて下さいませ。
「清は何故弱かったのでしょうか。」の回答画像1
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この回答へのお礼

 こんばんは。
 詳しい説明に驚きました。感動すら覚えました。現在の中国周辺はかつて多民族国家であっとことは知りませんでした。世界制覇を成し遂げたことも知りませんでした。国土が広すぎるというのもありますね。
 参考になる本を写真に載せてくださり、本当にありがとうございます。
 とても参考になりました。

お礼日時:2010/02/04 17:10

 イギリスが膨大な量のアヘンを中国に持ち込み、中国の経済力をガタガタにしてしまったからです。



 清の最盛期は乾隆帝の時代です。
乾隆帝(在位1735年 - 1795年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E9%9A%86% …

 その全盛期から50年経った、1840年には、悪名高いアヘン戦争が起きて敗北し、清の国運は転落していきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85
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この回答へのお礼

 こんばんは。
 アヘン戦争ですね。1840年に起こったそうです。覚え方は「嫌よアヘンを吸うのは」と教わりました。ウィキペディアのURLも載せていただき、本当にありがとうございました。
 とても参考になりました。

お礼日時:2010/02/04 17:12

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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q陶器製のビーズをさがしています

陶器でできたビーズで、漢字が書いてあるものをさがしてます
「富」とか「貴」とか・・・
通信販売で購入できるサイトなどあれば教えてください

Aベストアンサー

チャイナビーズ、中国ビーズ、陶器ビーズとか言われていますね。

私の知っているサイトを張りますが、漢字はあったと思いますが、
お探しの文字があるかはちょっと判りません。

見つかると良いですね。

http://www.hello-space.jp/beads/CH/

参考URL:http://chi.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=21651&csid=5&sort=n

Q何故、欧米列強は日本・中国を植民地化しなかったのか

近代において、欧米の列強は、アフリカなどを植民地としていきましたが――
日本や中国に対しては、不平等条約の締結や土地の租借程度に済ませました。

それは半ば植民地と同等の扱いではありますが、逆に言えば、形式的ながら日本や中国を国として認めているわけですよね?

そこで疑問なのですが、何故、列強は、日本や中国を侵略して、植民地化しなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

 時代が明記されていないのでぼんやりとした回答にならざるを得ませんが、コストパフォーマンスと国力の限界が主因と考えます。
 東アジアは欧州からすれば最も離れた土地であり、そこへまとまった兵力を送り込み、かつその戦力を維持するには膨大なコストが必要です。

 中国は中世末期は世界一の先進国でしたし、国土も広く人口も多いため強国とみられています。アヘン戦争に敗れてからはその評価は一気に低下しますが、それでもあれほどの広大な国土と膨大な人口を有し、かつ一応近代的な兵器を持った軍隊を有する以上、中国を占領するにはどれだけ少なく見積もっても数十万の陸上戦力を送り込まねばなりません。

 日本も欧州にその存在が具体的に知られたのは戦国時代に入ってからであり、当時の日本は毎年国内で戦闘を繰り返しながら経済成長を続け(経済成長云々は欧州と交流が出来てから以降に限定しての話です)、群雄割拠の時代にあって一人の武将だけで二十万もの常備軍を有し、しかも小さな島国の癖に短期間で世界一の鉄砲保有国(当時の欧州全土にある鉄砲の数より日本一国が持つ鉄砲の数の方が多かったと言われています)になった・・・当時の欧州の常識からは考えられない、まるで悪魔のような側面を持つ国です。
 その後、幕府という統一政権の支配が確立してからは鎖国し、その実力は低下の一途をたどります。しかし戦国時代の日本の状況を想定すれば、この島国を植民地支配するためには少なく見積もっても数十万もの陸上戦力を送り込まねばなりません。

 地球の反対側に数十万もの兵力を送り込み、そしてその戦力を支えるための海上補給線も含めて戦力を維持するコストと、植民地化した中国や日本から得られるであろう利益は到底吊り合いません。
 欧米が植民地化できた地域は少ない戦力で支配可能な地域に限られています。
 欧州は欧州で互いに戦争もありましたし、アメリカも隣国との戦争や内戦を繰り返しています。新たな植民地獲得に乗り出せるほどの強大な戦力の余裕などそもそもありません。
 もしも中国や日本に侵攻できるほどの戦力に余裕が出来たら、隣国とのミリタリーバランスが明らかに崩れてしまいますから軍拡競争が始まって結局侵攻できなくなるか、先に隣国との戦争が始まってしまいます。
 だから、最小のコストで最大の利益を享受するためには、不平等条約や土地の租借程度しか出来なかったのです。

 時代が明記されていないのでぼんやりとした回答にならざるを得ませんが、コストパフォーマンスと国力の限界が主因と考えます。
 東アジアは欧州からすれば最も離れた土地であり、そこへまとまった兵力を送り込み、かつその戦力を維持するには膨大なコストが必要です。

 中国は中世末期は世界一の先進国でしたし、国土も広く人口も多いため強国とみられています。アヘン戦争に敗れてからはその評価は一気に低下しますが、それでもあれほどの広大な国土と膨大な人口を有し、かつ一応近代的な兵器を持った軍隊を...続きを読む

Q陶器のカビ・・・?

陶器に黒いカビがついてしまいました。
とる方法があったら教えて下さい。

Aベストアンサー

仕事上、実際に行う方法ですが…。
1、よく洗う。
2、太陽の日にあてる。
3、熱湯にキッチンハイターを多めに入れて、器を漂白する。
4、ガスの火に直接あてる。

4、はおすすめできません。材質にもよって結果が違い、危険な場合もあります。大抵は、3で解消できるかと…

Q欧米列強の手口と日本

日本は日米和親条約結んで開国し、尊王攘夷運動が起こるなど猛烈な抵抗運動が起きました。
開港するとか、内地雑居いう偽善が当時から悪であると思われていたのだと思います。
欧米列強の植民地化の手順、手口と、大日本帝国でどこまで植民地化が進みやばかったのか知りたいです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

私の調べた内容でお答えします。
1番目、西欧列強の行っていた植民地政策は愚民政策と言われるもので、例えばインドは
綿花の生産地であり、その材を加工した製品の消費地(つまりイギリスの製品の消費地)
であった。もちろん、反乱できる知識・教育なとは皆無の状態に置かれていた。
 しかし、日本は西欧列強のアジア侵略が華やかなりし18-19世紀には、江戸幕府の
封建制度の鎖国時代であったが、武士道精神(外夷に対から自藩を守る意識)は盛んで
あった。
西欧はやはり封建制度が発展した国々であり、西欧諸国は西アジア・アジア(トルコ帝国・
ムガール帝国)等諸国では、侵略に対して日本のような抵抗を受けなかった。しかも
清国はまだ眠れる獅子の状態であった。ライシャワー博士の言葉!
 19世紀中葉、侵略の手を日本に伸ばした西欧列強は、はじめてアジア諸国とは別の
精神構造を持つ日本の武士道にぶち当たる。これは、薩摩に対しては薩英戦争であり
長州に対しては、馬関戦争である。薩摩藩も長州藩も、実力では散々ながら戦う意思
を持っていた。(当時のアジア諸国には、戦う意思すらなかった)

2番目:戦後のマインドコントロールを受けているみなさんには、ウソに聞こえる
かもしれませんが、 大東亜戦争(そう変えさせられた名前:太平洋戦争)で
日本軍は 自衛のための戦争を 行った。しかも、アメリカから先に手を出すような
ワナに嵌められた。歴史的事実を踏まえると、中国にも特に共産党に嵌められた
戦争(日中戦争:通州事件等参照 前記アドレス内)しかも東京裁判(国際法違反
勝者の裁き 未だにアメリカの戦争犯罪については裁かれていない!!前記参照)
インドネシア・インド・フィリピン・ビルマ・台湾・朝鮮・中国等の国々に
行ったのは、大東亜共栄圏構想を実現のため、現地人をまず読み書きできる
教育を施し、正規軍隊として武器の使い方を指導し、植民地から彼ら自身の
独立国となれる補助をしていたのです。
 それまでの白人の愚民政策ではなく、19世紀末のアジア地図と現在のアジア
地図を見比べれば、自明のようにアジア解放戦争が大東亜戦争の実態なのです!
共栄圏とは、日本の侵略を意味するものではありません。共に栄える地域を
作ることが、日本の目標だったのです。前記アドレスのブログには、インドの
インパール作戦(日本軍人の方がたくさん死者を出しています)・・・
たくさんのブログのなかから探してみて下さい。満州国は日本の植民地では
有りませんでした。(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』)
すいません。たくさん思うままにかいてしまったです。
よろしくお願いします。実際の歴史は、学校では教えてくれません。
なんせ、教科書は反日思想の人々が作ったウソツキ教科書だからです。
先生方も、左巻きの反日の日教組だからです。真実を見誤るなよ!!

私の調べた内容でお答えします。
1番目、西欧列強の行っていた植民地政策は愚民政策と言われるもので、例えばインドは
綿花の生産地であり、その材を加工した製品の消費地(つまりイギリスの製品の消費地)
であった。もちろん、反乱できる知識・教育なとは皆無の状態に置かれていた。
 しかし、日本は西欧列強のアジア侵略が華やかなりし18-19世紀には、江戸幕府の
封建制度の鎖国時代であったが、武士道精神(外夷に対から自藩を守る意識)は盛んで
あった。
西欧はやはり封建制度が発展した国々であり...続きを読む

Q陶器製の石焼ビビンバボウル

石焼ビビンバを家庭で作りたいと考えています。
石でできたものより陶器製石焼ビビンバボウルが軽いのでそれを購入しようと思いますが、使い勝手はどうでしょうか。
もうひとつ、コンロでボウルをあぶる時間はどのくらいでしょうか。

Aベストアンサー

石製を持っています。
陶器製は自分で使ったことはなく、
レストランで食べただけですが
使い勝手はよいと思いますが、
すぐに冷めてしまうし、
焦げ目もつきづらそうでした。
やはり石の物のほうががおいしくできますが、
熱いうちに水をかけたりするとひびが入りやすいですし、重くて洗うのも大変です。
おいしさを重視するなら、絶対石だと思います。
あぶる時間は先に3分くらい、ご飯と具を入れて
中火で5-6分です。最後に1分強火にすると
焦げ目ができておいしいです。

Q欧米列強の植民地の取り方

アフリカ、南米、アジアとよくもまあ白人は植民地にして行ったもんだと思います。歴史の授業であまり教えてもらわなかったのですが欧米列強はどのように有色人種の国家を制服していったのですか? いきなり戦争を吹っかけて取っている訳ではないですよね? 例えば英国、フランスはどのように入り込んだのか教えて頂きたいです。もちろん植民地化した地域により違ったアプローチをしたと思いますが、例えばどの国の場合と紹介して頂ければ勉強になります。 宜しく御願いします!

Aベストアンサー

 確かにいきなり大軍を送り込み征服するのでは

支配する側も犠牲が多く効率は悪いですね。

大きく2つのパターンがあります。

古い方から、

(1) スペインが中南米を植民地にしたやり方
 
 スペインとポルトガルは欧州の中で先駆けて

植民地作りをしていきました。この2国は重商主義

と言って商業(貿易)利益で大国になります。どこ

そこの資源をどこそこに売って差額でもうけるわけ。

 有名な話しですが、インカ帝国(現代のチリなど)

の神話に「東の海から白い顔をした神がやってくる」

というのがあったらしくてスペイン人がその通り、

来航、インカ帝国は喜んで歓迎した。ところが、記録

によるとスペイン人が驚くことに金・銀がとても豊富。

さっそくその資源を手にいれるために大軍を送り、

虐殺と占領をしたそうです。これも有名ですが、インカ

帝国は一部の技術文化はヨーロッパより進んでいたが、

致命的な弱点は武器がほぼない、鉄砲と大砲で武装した

スペイン軍にはたちうちできなかった。

 ちなみに中南米ではブラジルだけが旧ポルトガル領

アジアではフィリピンだけが旧スペイン領。世界がほぼ

この2国で分割された頃、争いをさけるためにローマ法王

の前で2国がお互いに相手の植民地から1つずつ選んで、

交換し合ったそうです。真偽はよく知らないのでごめん。


(2) 次はイギリス・フランス・オランダに代表される

 自国の産業を発達させて、世界中から集めた資源で、

製品をつくり支配する地域にその製品を売りつけていく

やりかた。少し具体例で

イギリスです。ちょうど日本で江戸時代が始まるころ、

英国はインドに「東インド会社」という国策会社を作り

ました。当初はインドから綿織物を買い付けて、本国に

送り売ってもうけるというやりかたでした。インドは

世界最大の綿織物手工業国でしたから、しかしこれでは

イギリスはインドにお金を払います。国同士で考えると

イギリスが赤字。そこでイギリスは産業革命という時期

自動織機を発明し、機械による綿織物生産に成功。

そうなるとインドの手工業が邪魔。軍隊の力でインドの

職人の手首を切り落とすという野蛮なこともするのですが

経済的にはインドから綿花を輸入、インドの手工業製品

よりも安価にできる英国産綿織物をインドに売りつける。

このやりかたでインドを衰えさせ、イギリスはついに、

ムガール帝国を滅ぼし「インド帝国」なる植民地を作り

ました。東インド会社から「インド帝国」創建までじわ

じわと時間をかけ徐々に植民地化をなしとげます。

 ちなみにこの関係でもインドから綿花を買うので銀は

支払います。そこでイギリスが考えたのは、インドで

アヘンを作らせてそれを中国の民衆に売りつける。もう

けた金(銀)でインドから綿花を買うとイギリスは只で

綿花を手に入れ、綿織物を売れるので美味しい。これに

中国が怒り、入港していたイギリス船のアヘンを海に

捨てると賠償と謝罪を要求したイギリスが中国に戦争を

しかけるという理不尽な行動に。これがアヘン戦争。

アヘン戦争を自分の目で見た長州藩の高杉晋作らが、

欧米を追い返すことなど不可能と知り、なおかつ欧米は

日本をも植民地にするは明らかと、開国方針にきりかえる。

※ 世間的にはあまり知られていないが、英仏はアフリカ

各地を植民地にするに当たってはコンゴ王国やマリ王国

などいくつもの王国を滅ぼして支配。そして本国では、

アフリカには文明などなに一つ無い「暗黒大陸」と紹介。

学校教育で暗黒のアフリカに自分たちの手で文化を伝えて

あげようと洗脳した。これが植民地という言葉の由来。

つまり文化のすすんだ自国民が文化のない遅れた地域に

住み着いて文化の開花してあげよう。それがアフリカ黒人の

幸せになる、だって彼らはチンパンジーとかわらないのだか

ら。その代わりその土地の資源や黒人を奴隷として売るぐら

いは当然だよね、という感覚でした。

 アフリカ諸国は1960年代に続々と独立、とても若い。

しかも経済的にはまだまだ英仏両国の結びつきが強く、

利益を吸われている。近年やっと一部の国々で経済発展が

見られ初めて来ました。



 

 確かにいきなり大軍を送り込み征服するのでは

支配する側も犠牲が多く効率は悪いですね。

大きく2つのパターンがあります。

古い方から、

(1) スペインが中南米を植民地にしたやり方
 
 スペインとポルトガルは欧州の中で先駆けて

植民地作りをしていきました。この2国は重商主義

と言って商業(貿易)利益で大国になります。どこ

そこの資源をどこそこに売って差額でもうけるわけ。

 有名な話しですが、インカ帝国(現代のチリなど)

の神話に「東の海から白い顔をした神がやってくる」

というのが...続きを読む

Q[東京・神奈川周辺]沖縄陶器・琉球ガラスのお店

東京・神奈川周辺で沖縄陶器や琉球ガラスを豊富に販売しているお店がありましたら教えて下さい。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
沖縄県物産公社が運営する店「わしたショップ」に行けば確実にありますよ。

首都圏で一番大きいのが、銀座(有楽町)にある
「銀座わしたショップ」
http://www.washita.co.jp/info/shop/ginza/index.html

ほかにも
神奈川県内には、川崎・大和・横須賀にもあるようですが
品揃えは銀座が一番だと思います。
(上記のサイトをみれば、各店舗の地図も載っています。ご参考に)

Q欧米列強と日本

日本は欧化を進めて不平等条約を改正することに成功しましたが、45年に敗戦を迎える迄、日本という国は欧米列強からどのように見られていたのでしょうか?
有色人種の国でも一応は対応な相手と考えられていたのでしょうか。

攘夷が失敗しているように、欧米がその気になれば日本を植民地化することもできたと思うのですが(江戸をはじめ沿岸部の都市は艦砲射撃で壊滅できたはず)、なぜ日本は野蛮国から対等に同盟を結ぶに値する国際法主体性のある国へとなれたのでしょうか。

素人の質問ですみませんが、ご教示頂ければ幸甚です。

Aベストアンサー

幕末から終戦までとなると時間的に長大で、また列国にもいろいろあり、どこを切り口にするかによって説明は様々でしょうが、日英同盟の少し前、日本が「極東の憲兵」として国力を認められ始めたあたりの背景を、イギリスを主に述べてみます。

明治初期の条約改正交渉では、アメリカ以外の列国は冷淡でした。ところが、日清戦争のころになるとイギリスの態度が軟化してきます。当時シベリア鉄道の建設が進み、ヨーロッパから陸路による極東への道が開かれようとしていた時期で、トルコ、ペルシャ、アフガニスタンでロシアと対立していたイギリスは、東アジアでのロシアとの衝突を極力避ける必要がありました。そこで国力を上げてきた日本を抱き込むために歩み寄りの姿勢を示してきたのです。(日英条約改正の調印は明治二十七年の七月。税権回復はさらにあと)

その後の日清戦争や北清事変でさらに軍事力を認められた日本は、明治三十五年、今度は対等のパートナーとして認識されるに至ります。日英同盟です。
当時、イギリスの外交方針は「栄光ある孤立」でした。しかし、ボーア戦争での疲弊で、北清事変を機に満洲に居座ったロシアに単独で対峙する余力がありませんでした。
そこでイギリス同様、ロシアの南下に警戒感を募らせていた日本に目をつけたのです。
(なお、このころから「大英帝国」の国力が徐々に傾き始める時期でもあります)

日本が条約改正に成功し、パートナーとして認められたのは、日本側から言えば、「富国強兵の成果」、イギリス側から言えば「日本の軍事力に利用価値を見出した」ということになりましょうか。

少し補足します。
列国、とりわけイギリスの清国における権益は大きく、内乱でも起こると経済活動に支障をきたすことになります。居留民保護の必要もあります。日清戦争がそうであるように、内乱から戦争に発展することもあります。事があったときの治安回復のためには軍隊が必要になりますが、まとまった軍隊を短時日に北京に送り込める国は、当時、日本とロシアしかありませんでした。

さらに補足します。
「イギリスの政治の特徴には、・・伝統を固守して変更を肯んじないと共に、一般現実の問題に対しては臨機応変に彌縫策を講じてその場を切り抜けて行くという風があり」(『外交と国際政治』内山正熊)その老獪な現実主義はヨーロッパ諸国から「不信な英国」と警戒されていました。これは、日英同盟に反対した日露協商派(栗野慎一郎など)の反対理由の一つでもありました。上記の日本への歩み寄りなどは、その現実主義の一典型でしょう。
当時は国家利害が外交の前面に押し出された時代です。有色人種や異教徒としての偏見よりも優先すべきものが、イギリスにはあったのです。(イギリスに限らず、また現在でも、外交の第一問題は国益でしょうが)


話は変ります。
『謎とき日本近現代史』野島博之著に「なぜ日本は植民地にならなかったか」という章がありますので、簡単に要点を紹介します。

幕末当時、イギリスの資本主義は絶頂期で世界中にイギリスの商品が輸出されていました。
その商品を輸出する際、相手国に高い関税をかけられないように、強力な軍事力を背景に自由貿易を強いていました。イギリスにとって、貿易に干渉してこない相手政府なら植民地にしたりする必要は低下します。
江戸幕府は、攘夷の世論に押されてイギリス製品のボイコットを積極的に指揮したりせず、明治政府も不平等条約を受け継ぎ、国際法を遵守する姿勢を示しました。イギリスが武力に訴える必要はなかったのです。

もう一つは、日本のシーレーン(ある国の商船や客船が安全に通航できる航路。対馬海峡など)の問題です。1861年にロシアが対馬を占拠したとき、イギリスは阻止しましたが、代わり占拠しようとはしませんでした。日本のシーレーンをロシアと奪い合うのは、コストが高いと考えました。日本を活用してシーレーンを確保させるほうが得策と判断したのです。


野島氏は主にこの二項を取り上げています。これだけみると棚ぼた式の独立のように聞こえますが、けっしてそんなことはありません。
開国から1881年までのあいだに海外に流失した金銀は、現在の価格で三百億ドルほどだそうです。たいへんな額です。中国やペルシャは、列国の「簒奪」からの赤字を補填するため、各種の利権を売りに出して半植民地に転落していったわけですから、明治人の苦労を思いやるべきでしょう。

幕末から終戦までとなると時間的に長大で、また列国にもいろいろあり、どこを切り口にするかによって説明は様々でしょうが、日英同盟の少し前、日本が「極東の憲兵」として国力を認められ始めたあたりの背景を、イギリスを主に述べてみます。

明治初期の条約改正交渉では、アメリカ以外の列国は冷淡でした。ところが、日清戦争のころになるとイギリスの態度が軟化してきます。当時シベリア鉄道の建設が進み、ヨーロッパから陸路による極東への道が開かれようとしていた時期で、トルコ、ペルシャ、アフガニスタ...続きを読む

Q陶器やガラスのリサイクルってあるのでしょうか?

こんばんわ。
家では使わなくなった食器が結構あります。
中古ですし、このさい資源として有効活用してくれる方がいたら、送料当方負担で寄付しようかとかんがえております。

どなたか、陶器やガラスを資源として再利用する団体等をご存じでしたら、教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

送料を負担されるくらいなら、その金額くらいでフリーマーケットに出店されるのはどうでしょうか?
ついでに不用品も売ってしまいましょう。
うまくいけば、豪華な夕食が食べれるかも?

Q大半の列強諸国は日清戦争で、日本と清、どちらが勝利すると予想していたの

大半の列強諸国は日清戦争で、日本と清、どちらが勝利すると予想していたのですか?
また、当時の日本国民や日本政府は正直な所、自国が大国の清に勝利すると思っていたのですか?
ご回答、お願いします。

Aベストアンサー

漫談です。

当の大日本帝国は、この時大本営を広島に置きました。理由は簡単で、

もし大陸で負けて半島から日本に逆上陸されたら、広島に大本営があると防衛軍の指揮が執りやすい

からです。この位用心して、日本は戦争をしました。


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