二十数年前の小学校の卒業記念で各々が作った、思い出写真集なるものを
ながめていましたら担任の先生直筆で「雲のように」とマジックで
書かれているのを発見しました。さて「雲のように」とは一体どういう意味
なのでしょう。大体の想像がつく方、あるいははっきりとした答えがわかる方、
ご回答お願いします。

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A 回答 (4件)

先生ではないのでその言葉の真意はわかりませんが私なら雲のように自由に空を


進んでいく、と言う意味に取るでしょうね。
雲って形を変えるしなんとなく空に浮かんで雄大に見えるでしょ?(私だけ?)
みんな自分の空を泳いでね、ってことじゃないのかな。
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この回答へのお礼

私がどうかしていました。皆さんの回答はもっともな意見です。近頃の私は、宇宙の中にポツンと浮かぶ地球をイメージしていました。だから「雲」と言えば、地球にまとわり付くように発生したり消滅したりするもの・・・というイメージから脱出できないでいました。私たち人間が生きている、この地上から見上げたもの・・・「あーそうか、そう言えば、あれも雲だったんだ。」ということだったわけです。「雲のように」という突然目に飛び込んできた言葉に対し、ピンと来なかった私は想像性に欠け、鈍感であったという反省もできるでしょう。が自分の思考論理がこうであったからピンと来なかったんだ、という自己認識を深める事にもつながり、当時の先生や回答してくれた皆さんの思考論理をについてもほんの少し知ることができました。「雲のように」という言葉を解釈できないほど「雲のように」生きなさい、とは言ってないぞ。という先生の言葉が聞こえてくる気がしました。

お礼日時:2001/03/28 08:08

先生はおそらくその言葉の意味を自分で考えて,自分なりの答えを出してほしいんじゃないでしょうか.


そんな意味の込められた言葉だと思います.
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この回答へのお礼

そうですね。二十数年の時を超えて自分なりの答えが出ました。悲しいような、嬉しいような感じです。

お礼日時:2001/03/28 08:32

「行雲流水」という言葉はあります。


gooの大辞林では「空行く雲や流れる水のように、一事に執着せず、自然にまかせて行動すること。」とありました。
行雲流水の如し、のように使いますが、漫画で言うと「浮浪雲」みたいなものをイメージしますが。
勝手に言ってしまえば、社会のいろいろなしがらみや細事にとらわれて身動きできなくなるより、あるがままを覚悟しながら、ひょうひょうと生きていくのには魅力を感じます。
上下関係や神経質な関係とは無関係に、キャラクター的に、あいつだからしょうがないか、と言われるような愛しき人に使いたい表現ですね。
参考になりました?
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この回答へのお礼

なるほど、どうもありがとうございます。参考になります。

お礼日時:2001/03/28 08:28

雲にもいろいろありますが、私は天気の良い日の雲のようにだと思います。


人生焦ったり不安になったりする時があるけど、
雲のようにのんびりと穏やかに生きていけということではないでしょうか。
流されるということではなく、風に身を任せるとゆう感じ。
そして、無限に広がる空を自由に泳いでいくといった感じですね。
天気のいい日は空を眺めてみてください。とても落ち着くし、
utahime35さんなりの答えがみつかるかもしれませんよ。
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この回答へのお礼

ご親切な回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/03/28 08:23

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以下の提案は「亀と漁師の無限と有限の話」に似て慢性的難病を直す薬になりますね。
「無双原理・・哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!つまり、無限とは、限りというものが、本来あるのだけれど、たまたま見えない、触れないなどの事情があって、無のように観察される状態。つまり無限とは、循環の繰り返しのような現象の回数に限りのないこと」
特に、無と空がいいですね。自然現象として無も空も存在しないのだけれど人間の単純な観察では表現の言葉として便利に使える言葉ということですね。言葉が独り歩きしてあたかもそのようなことが実際にあるかのごとく考えて慢性的難病になってしまうところが怖いとこなんですね。「無とは単純にないことの、たわいないことば。哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!」そういうことですね。
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まあ私も重い慢性的難病ですから、更に付け加えると、三次元宇宙・時空というのはたくさんあるのですね。朝。木々の葉についている水滴ですね。いくつもの水滴が木の葉についてますね。あの水滴の一つが三次元宇宙・時空なんですね。次の朝になると水滴の数が違っている。そんなようなものなんですね。
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「無双原理・・哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!つまり、無限とは、限りというものが、本来あるのだけれど、たまたま見えない、触れないなどの事情があって、無のように観察される状態。つまり無限とは、循環の繰り返しのような現象の回数に限りのないこと」
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Qわれわれは各々が ブッダであると何故言わないか

 あらためて問います。
 資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。

 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80

 § 2 仏陀の範囲

 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、

 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。

 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F

 § 1 概要

 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。
 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。
 ~~~~~~~~~~

 問いのかたちで考えてまいります。

 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?
 
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 (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?

 (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?

 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・

 (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?

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 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

 あらためて問います。
 資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。

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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80

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 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、

 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含ま...続きを読む

Aベストアンサー

はっきり言って、自分が覚ったかどうかと、釈尊がモノホンかどうかはあまり関係無いですよ。各自の事柄ですよ。ブッダにへつらう必要なんてない。相手が本物か偽物かなんて増して関係ない。

余談になりますが、偽物語というアニメに、偽物の方が本物よりも優れていると言うペテン師が登場します。その理由は、偽物が本物になろうとすることこそが尊いから、と言うものでした。
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だから私は、自分をブッダであるとは言いません。ブッダでないからといって、ブッダと対等ではないとはならないからです。

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こんにちは、12月も始まったばかりで、まだまだ、秋の季語である、うろこ雲等が見える日々ですね、

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B3%E6%88%BF%E9%9B%B2

ズバリ、乳房雲とは、いやらしい名前でしょうか? それとも神聖なる母性を象徴する名称でしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

いつも興味深い質問を立てられていらっしゃいますね。
初めまして。

どんな「表現」もそうだと思うのですが、
一度発信者の元を離れたら(=表現したら)、「自由」です。
>いやらしい名前
>神聖なる母性を象徴する名称
どちらにもなります。

表現そのものに意志が備わっているのか?と思う程「自由な存在」です。
変幻自在。自由奔放。

乳房。
男性を視覚的、触覚的に扇情するもの。
小さな命を育む為の器官。
子どもの安心を象徴するもの。
女性自身の性自認を支えるもの。。。。

乳房そのものに、多種多様な役割がありますから、
そのうちのどれを注視するか?によって、乳房雲と言う名称も受け取り方が変わって来ます。


最後に、
質問から逸れますが、
>神聖なる母性
これ、もしかしたら単なる「幻想」かも知れませんよ?^^

Q雲帰碧洞

 個人のノートに“雲帰碧洞”ということばが残っておりました。
 恐れ入りますが、このことばがどこにあるものなのかどうかお教えください。
 まったく記憶が呼び起こせなのです。
 なにからとって書き留めたのか。
 (国語のカテでも質問をだしたのですが、直接のご回答はありませんでした。)
  よろしくお願い申しあげます。

Aベストアンサー

元々が誰の言葉なのかまでは分かりませんでしたが、禅宗で用いられる言葉のようです。

「雲歸碧洞露滴蘭叢」または「雲歸碧洞露滴蘭聚」がひとまとまりの句のようです。

雲は碧洞に帰り、露は蘭叢(蘭聚)に滴つ。
(くもはへきどうにかえり、つゆはらんそう〈らんじゅ〉にしたつ)

と読むのだと思います。
「碧洞」「蘭叢」が具体的な場所や“事柄”を表わすのか、単に「緑の生い茂った洞」や「蘭の密生している場所」を指すのか分かりませんが、禅の言葉であれば、なにがしかを象徴しているような気はします。

前回の国語のカテも見ましたが、回答の文面から推測するに、お茶席の床に掛けられていた言葉のようですので、お茶に縁の深い大徳寺関係の方の言葉かもしれませんね。

もう少し出典を調べて、もし分かりましたらまた回答します。

Q昔の人は雲を・・・・

どう思っていたんでしょうか?なんか漠然としすぎてますが、昔ドラえもんがなんかのび太に説明とかしてたんですけど思い出せないくて(><)
東洋的でも西洋的な思想でも結構です!

Aベストアンサー

こんにちは。こんなの見つけました。

http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/koto-b-21.html

↓3枚目の絵の下の文章
http://www.fitweb.or.jp/~entity/seisho/fushinoseitotachi2.html

↓下のほう。なかなか興味深いです。
http://www.tiu.ac.jp/~kuwabara/kotodama1.htm

余談ですが、昔の人は、「星」を、天を覆った黒い幕に小さな穴があいていて、そこから太陽の光がもれている…と思っていたと、何かの本で読んだことがあります。どこの国のいつごろの人の考えなのかは、忘れました。

探せばもっとありそうな気がしますね。


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