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何を指針にして生きていけばいいのか。

法律は善悪の基準じゃない
虚構の世界を認識の出発点にした宗教は信じたくないし、信じられない


僕らは無意識のうちに無数の価値を信仰している。
一回それらをすべてとっぱらって、何もないところから出発したい。

A 回答 (12件中1~10件)

自分自身を捕まえて、向き直って問うて見れば、きっと答えは自ずと生じる。

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「無神論」イコール「無宗教」ではないので


質問から、少し外れますが、回答させてください。

私の勉強した範囲内で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。

(私事で恐縮ですが・・・)

私は、「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。
これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した結論です。

全ては自身の生命の内に備わっていて、「どこかに、神様や仏様がいる」という考えを否定している、無神論の教えです。
(自身の中の仏界を引出すことが重要で、外にではなく、生命に内在しています)
前半は、外道(キリスト教や神道などの有神論)と、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、
後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門(無神論)にたどりつきました。

そして、邪宗や占い師など、(もちろんカルトも)信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。

10年かけて、しっかり宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。

詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかるので、簡単に説明させていただきます。一度でいいので、最後まで読んでみてください。


仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。

釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(現在の真言・浄土宗など法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして、釈迦自身が否定し、「法華経28品(後半14品が重要で、「法華経本門」といいます)」を説きます。

しかし、その「法華経本門」も、釈迦の死後2000年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。

そして、釈迦が「文底秘沈」した(明らかにしなかった)「法華経文底独一本門」(無神論)が末法で信仰すべき仏法だと教えています。

仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。死後、命は、「霊魂」として、ふわふわ存在するのではなく、死時は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。肉体と魂は別々ではないのですが、「肉体」イコール「魂」でもないです。

簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。

過去世の生命境涯や行いにより、現世の生命境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、「定業」と「不定業」があり、自身の内の境涯変換(仏界涌現により)、定業(決定している宿業)でも「宿業(宿命)転換」が可能です。

また「成仏(仏)」とは「仏界をひらく」ということで、死んだ人のことではありません。
(もし、死んで仏になれるのなら、早く死んだ方がいいということになってしまいます)

また、「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。
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「完全」には不老不死が含まれます。

覚りも。イエスがノーでノーがイエスです。死は生と理解できれば永遠で、死が最後ではないと理解で来ます。死が最後と誤解しているから永遠が理解できないのです。

永遠が理解できれば不老不死です。
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>一回それらをすべてとっぱらって、何もないところから出発したい。



それで良いのであると思います。常にそのようであるならば、いつも新鮮でいられる。邪なものに流されなくてすむ。行き先は明るい。 希望もっていい
素直な心で歩けばいつかは
今から歩けばついには
他者の姿に真実を見れば其のとき
自らの過ちを知って
きよらになるよ
どんな人でも
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誰とも関わらないで生きていけるのであれば、その選択は可能です。

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見て聞いて、貴方が選びとったものが指針です。


貴方が選んだものが、貴方の指針になります。
人が選んだものは、貴方の指針にはなりません。
決めるのはご自身でしょう。

夢に向かって指針を決められるというのは幸せな事だと思います。
ですが、夢のない人生の指針はと問われれば・・・
夢が見つかるまで、今の旅をつづけるしかない・・・としか答えようがありません。
じっくりと時間をかけて夢を見つけるのもいいのではないでしょうか。
夢を見つける旅も悪くはないのでは・・・。
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>何もないところから出発したい。


何もないところにおいて、この世界は素晴らしいのでしょうか?
何もないところにおいて、出発する自分は素晴らしいのでしょうか?

旅の夢は、旅立つ人だけが知っています
夢が壊れないうちに旅に出ましょう
見たもの、聞いたものすべてが旅の指針になります。

この回答への補足

何もないところっていうのは価値がないってこと。
今ある価値をすべてカッコでくくってしまって、世界を見て新しく価値を生み出すということ

補足日時:2010/02/15 06:31
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それは「完全を目指すこと」です。

注意してほしいのは「完全」ではなく「完全を目指すこと」にある点です。

東洋ではその「完全を目指すこと」を擬人化して「仏」または「本仏」と言います。

この回答への補足

完全?
完全でも死ぬんでしょ?

補足日時:2010/02/15 06:53
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新世紀エヴァンゲリオンで、シンジ(神の子)は人の命令に従うという処世術で生きてきた。


人の言うなりになった方が、人から気に入られ、生きやすいから。

だけど、そういう彼だって、モラルってものがあり、仲間は殺したくないわけです。
その仲間は敵に取り込まれ、自分の集団を破滅させようと襲ってきたとき、上司の命令は「殺せ」なのですが、取り込まれても本体は自分の友人である以上、自分が死んでもいい、仲間は殺せないと戦おうとしなかった。

結局、回路を切断されて、擬似プログラムを作動させられ、身体が勝手に動いて仲間の使徒を倒させられてしまった。

怒ったシンジは、ドグマを攻撃して、「だだっ子にはつきあっていられない」と回路をすべて切断されちゃた。


で、すったもんだあって、生きる価値を失ったシンジは廃人同然になってしまった。
最終的に人類の最大の敵は人間だったわけで、人類は3人のチルドレンを殺そうとしてきたわけです。

アスカは猛烈に自分の個を守るために人類が作り出した使徒と戦うわけです。
「あんたたちなんかに負けていられないのよぉ 馬鹿シンジがいなくたって」ってモリモリ戦っている中、シンジは膝を抱え縮こまって動こうとしなかった。

その廃人同然になったシンジをひきずって、アスカはドグマのコアの部分の手前まで連れて行く。


リンクを直接貼ると削除されるので、、、

youtubeで<エヴァンゲリオンを1.5倍ぐらい楽しくする動画 Part7>をみてみてください。

シンジのリピドーとデストルドーが戦い、デストルドーが勝利し、すべては始まりに戻った。


自分という<個>が存在する必須条件は、自分とは違う考えをする<他人>が存在すること。
そうなると、他人と自分の考えは違うので衝突する。
それが怖くて他人の言いなりになると、自分という個を曖昧にしか感じられなくなる。
他人と考えが違う、他人が自分と考えが違う そのことを許せない場合、他人を殺すか自分を殺すしかなくなる。
究極的には、ですが。


で、シンジは最終的に、自分という個を存在させるために、自分とは違う他人の存在を認めたんです。
そうすると、また諍いが起こるが、それでもいい と決意した。
自分と違う考えをする人を傷つけてしまうし、自分も傷つけられる その世界を受容したことで、無に戻った世界から自分を出現させたわけです。
自分を出現させるってことは、他人も同時に出現したわけです。


他人が自分に対して、あるいは自分が他人に対して攻撃するのは、その本心は平和な世界を望むから かも。
だから同意して欲しいと願うが、その気持ちがあまりにも強くなると、「みんなしんじゃえ」と殺意が出現する。


孤独に相当強くないと、孤独になることを恐れるあまりに、わかってもらえないと怒りが出現する。
それか、孤独を恐れ、自分とは違う考えに納得しないまま従うことになる。

<価値が欲しい、ゆらぎの無い価値が欲しい。> 
そうシンジも人類も望んでいたわけですが、ゆらぎの無い価値など無い。


youtubeでもう一つ<劇場版EVA  珠玉の9分間>もみてみてください。

何故<新世紀>エヴァンゲリオン なのか。

エヴァンゲリオンとは<福音>で、<善い知らせ> <ハッピーニュース>です。
キリスト教は、違う考えを認めない。
全人類がたった一つになることを求めているんです。
他人のいない世界が至福だとしているんです。

他人がいない=自分もいない世界。 
それがキリスト教 およびゼーレの求めている世界なんです。
それは死です。
だからある中世の聖職者は、至福にいたるには全人類が死ぬしか無いって言ってたわけです。
だからキリスト教は異文化を破壊するという歴史を歩んできたわけです。


新世紀エヴァンゲリオンの思想は違います。
他人を殺さなくても、自分を消滅させなくてもいい。 です。
最高の至福を求めること自体が大間違い。
他人に全部をわかってもらおうとしなくていい、他人に全部わかってもらおうとしなくていい。
自分という個があっていい。 あるべきなんです。
孤独を恐れ、他人の考えに無理に融合しようとしなくていい。 

この回答への補足

エヴァってそういう話なんだ
なんかセリフが小賢しいのが多いし、登場人物に似たような人間が多いから敬遠してたんだけど、少しだけ見てみます

補足日時:2010/02/15 08:32
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本質(≒先験)的に、普遍的な“目的”などありません。


しかし、無いがゆえに、現象的に絶対的な目的が生じる、という事もあるのです。

物質に「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

お金は、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
何かを信じる前に、自己の本質を知ればそこに全ての答えはあるのに、弱い人間は、周りに求めたり信じたり、楽をしようとするのです。

この回答への補足

物質の目的は安定することじゃないか?

補足日時:2010/02/15 06:52
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