はじめての親子ハイキングに挑戦!! >>

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 神はヨブが試されることを悪魔に許した。
 ヨブは試された。
 悪魔は困惑させられた。

 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。

 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。

 ヨブは言っております。

   主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
   主の御名はほむべきかな。(1:21)

 と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )
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 これを哲学のことばで表わして欲しい。
 いまわたしに思い浮かんだのは 
 ○ 能天気
 ○ 聖なる甘え
 ☆ このふたつです。
 ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。

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A 回答 (51件中21~30件)

心の中の凝り固まったものがある象徴として精錬された時に出現するものを”金”ととらえれば


金と玉の心の状態に明確な境界ができる。

数直線の切断点における点の所在がどちらに属するか
愛と慈悲の違いとしての境界
境界は慈悲に属する
救われるもの
彼岸

この回答への補足

 ここでは
 ★ 愛と慈悲
 ☆ それぞれと甘えとの関係を知りたいと思います。

 むかし次の質問をしています。たたき台になると思いますので かかげます。
 ○ 【Q:慈悲は 経験現実か】 ~~~~~~~~~~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html

 わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。
 《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって(=スサノヲ人間( S )語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの(=アマテラス普遍( A )語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。

 ▲ (ヰキペの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、
 【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、
 【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。
 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。

 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は
 【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き(うめき)」にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。
 【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。

 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。

 (一) 衆生縁とは 
    衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救
   うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の
   苦を抜き、楽を与えようとする心である。
    ☆ (これは =【S語】か?)

 (二) 法縁(ほうえん)とは、  
    すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、
   ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をい
   う。
      ☆ (これは ≒【S語】か?)

 (三) 無縁とは  
    慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしか
   ない心であるという。
    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)

 この三縁の慈悲とは、
 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にある者の起こす心、
 第三は 仏の哀愍の心であると言える。
 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
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 Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。
 Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。
 Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ こうしてなお 《愛》とは何か? が来ますね。厄介ですね。
 できましたら 《甘え》を基軸として捉えたらどうなるのか? このように踏み出してもらえるとさいわいです。

補足日時:2010/02/21 13:59
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今置かれた環境の中でできることから

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この回答へのお礼

 これもまったくそのとおりだと考えます。
 これまで身をおいてきたその道において その場の中から あたらしい出会いなり何なりがあって しかもその場その道をまづは歩く。ということだと思います。

 そのときの人間関係に焦点をあてて ではその関係に 自然の感情としての一体感つまり甘えはなかったのか? あったのか? それがどう影響したかしなかったか? となります。

お礼日時:2010/02/21 13:44

それが表す象徴的意味としての行動として





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他律ではなく自律的にパンを集め配るという行為を通して

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この回答へのお礼

 たしかにそういうことだと思います。
 そして いまわたしの問い求めは そういうふうな考えに到るのは どのような道を通ってなのか? です。
 そしてそのとき 甘えはかかわらないのか? です。

お礼日時:2010/02/21 13:39

ただ


一旦金が露わにされてしまえば
たとえばアンデルセンの童話にあるように
小鳥が自分の踏んづけたパンの分を集めて配るという行為によって
口先だけではないことの証明という観点と
今までの自己チュウの生を補完してくれていた世界を現実に体感するという行動療法を通して
かつての自己中の自分に引き返す必要のない世界を認識し脱皮していく可能性があるということだと思います。

この回答への補足

 おそらくおっしゃるとおりなのだろうと思います。
 だろうとか 思いますとかともったいぶって あるいは偉そうに つけ加えるのは やはり不満も残るからです。

 わたしの感覚ということなのですが ひとの話す言葉について スサノヲ語とアマテラス語とを区別しています。
 まったく自由であやまちやすく人間臭い人間語が スサノヲ人間語です。
 よく整理した概念を用いて合理的に表現した文章が アマテラス科学語です。あるいは人間の思惟や行為につきよく練った規範にまでたどり着きこれを表明するアマテラス人格語もあります。

 2012522 さん あなたは総じて言って アマテラス語を用いてお話になる。もちろんわるいわけはありません。しかも まだなお隔靴掻痒と言いますか 聞いていると緊張で足がしびれてくると言いますか そういう感じがぬぐえません。立派すぎるというのも 欠点と言えば欠点です。
 と言いますか 要するに さらに噛み砕いて表わしてくださいませんか? というお願いになります。わたしのほかの人たちは 歓迎しておられるかも分かりません。そのほうが威厳があってよいと考えておられるかも分かりません。

 ★ 今までの自己チュウの生を補完してくれていた世界を現実に体感するという行動療法を通して
 ☆ 《補完してくれていた》という見方は すでに空観を得てさとった境地にあります。ということは このさとりを得るその瞬間 あるいは その回転のあり方 これがなまなましくあたかも実況中継のごとく表現されるといいのかも知れません。わたしの感覚ですが。
 そうでないと 方程式を示しましたよという形の説明になります。

 ★ かつての自己中の自分に引き返す必要のない世界を認識し脱皮していく可能性があるということだと思います。
 ☆ まったくこのとおりだと同感します。と同時に 縁起の悪循環の世界から好循環の世界へと どう転換したのか? この実況中継がのぞましいように思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえばアンデルセンの童話にあるように
 小鳥が自分の踏んづけたパンの分を集めて配るという行為によって
 口先だけではないことの証明という観点
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なのですが――まったくそのとおりだと思います。なのですが―― ピンポイントとしては 《自分の踏んづけたパンを拾い集める》という行為にそのひとが いつどういう情況においてどういうきっかけで そう成ったか? 頭がどのようにして切り替わったのか? それには 家族や友だちとの甘えの関係 あるいは甘えでない関係が どのように絡まっていたと見るか?
 こういった点なのですが どうでしょう?

補足日時:2010/02/21 13:27
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私利私欲を離れ


平和の道具として機能するための通過儀礼


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この回答へのお礼

 これは 例の《悩みや苦しみから 逃れる あるいは 免れる》問題ですね。
 縁起論では 《空》は いわばそのひとの境地のことであり 世界を見る見方を言っているとわたしは理解しています。
 たとえ《私利私欲》にあふれていても それは欲動や欲求のうごめくにまかせておいて 全体としてのわたしは 世界が見えている。その世界のすすみに沿って しかもうわべの姿とは異なっていてもそのわたしに見えているところに従って 自己表現を推し進めて行く。
 《空観》として見たところにわたしは従う。それが世間に容れられなければ わび・さびの世界へとわたしは押しやられる。それでもなおわたしは行く。

 たぶん もしこれが妥当な解釈であったとしても その空観にみちびかれるのは やはり試練に遭ってこれを経つつであるでしょうし。
 しかもこの経験ははじめの意図や思わくとは違って ふとどこか途中でちょうど迷い込んだようなところで かえって出くわすことになった《通過儀礼》であるようにも思っておりますが いかがでしょうか?

お礼日時:2010/02/21 13:04

錬金術の観点からは



生における死と再生
稲藁が燃え尽きたとき
欲に拘っている心が露わになる象徴が金であり
灰だけになって
何物にもこだわらなくなった空なる心だけになり
今までの生における欲を離れた時
すべてがこれからの生に活かされる智慧となり金剛石を結晶化させる
象徴としての賢者の石
それぞれの色彩を放つ玉が出現する。

これが献金術の意味
真の魂の精錬の目的であると観ています。
結果的に心に金がこびりついていたとしても
日々是好日
玉への精錬の可能性は生きている限り機会はあるといえます。

この回答への補足

 ひきつづきわたしの反応ですけれど 述べてまいります。

 ふたつあります。
 ★ 欲に拘っている心が露わになる象徴が金であり
 ☆ まづこの思想は さすがアジア的と言いますか むしろ質素あるいは質実剛健を旨とするということですね。金閣寺は嫌いであると。あるいは わび・さびの境地なのだと。
 わびることは詫びるけれど もはやわたしに落ち度は探しても見つからないほどだ。すべて反省している。けれどもなお 探し出してわびる。侘しいけれども またもうすでに心は錆びつき凍りついているけれども このさびの中からでもわがまことを貫きたい。不死鳥ではないが 灰の中からでもわたしは もっともわたしであるわたし またすでにわたしではないわたしをよみがえらせたい。
 こういうお心でしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 灰だけになって
 ≫何物にもこだわらなくなった≪ 空なる心だけになり
 今までの生における ≫欲を離れた≪ 時
 すべてがこれからの生に活かされる智慧となり金剛石を結晶化させる
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 括弧をつけた語句について もしそれらが《悩みや苦しみから 逃れる あるいは 免れる》というのでしたら わたしはすでに次のように述べています。それとの突き合わせをお願いしたいところです。

 ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ぢゃあ わたしはその真ん中に立つことにします。
 悩みや苦しみから《免れる》というわけには行かないと思うのです。なまみの人間なら。
 さりとて 《逃れる》というのでは 何だかおしまいまで鬼ごっこをしているような感じをも受けてしまいます。かくれんぼでもないでしょうから 苦しみをそれとして受ける 受けつつこれに影響されることはあっても もはや時として 左右されることは無くなる。と こういうふうですが どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どうでしょう? これは
 ★ 空なる心
 ☆ とは何ぞや?という問題にもなります。

 ★ 魂の精錬 / 玉への精錬
 ☆ これは ひとが志向しなければ成らないというものなのか?
 意志行為であるのは全般的なことでしょうが 意図的に言わば修行を積むという出で立ちであるのか?
 そうではなく 親子や兄弟・親友の関係に 自然な甘えが垣間見られたときに ふと一気に一挙に得られるとさえ言えるものなのか?

 ★ 象徴としての賢者の石 / それぞれの色彩を放つ玉が出現する。
 ☆ これも まづ一つには 生活日常のあゆみとして捉えてよいのか? 
 能天気や甘えとの兼ね合いは どうなのか? つまり自然の感情や いわゆる共同体としての《情感の共同性》といったことと どうつながると見ているのか?

 こんなことを質問者としては――司会進行役としてのごとく―― 尋ねてみたいですね。どうですか?

補足日時:2010/02/21 12:50
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おはようございます



> 聖なる甘えを拡大すれば
 別にヨブの主張する社会でもいいのです。
 ただ経済破綻するだろうというだけ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはまだわたしにはっきりしないのです。
 (1) 《聖なる甘え》が 言いだしっぺなのにまだ うまく展開し得ません。



まず
高次元の
能天気
聖なる甘えとは
肉を切らせて骨を断つ
このまま中印を巻き込んだ”地球規模の”という意味において
これは自然界の破綻を意味し
これはこれで人類の意識を覚醒させるという意味を持ちうる。
次に
低次元の
能天気
聖なる甘え
今意識の俎上に上っている低次元のヨブのいう高福祉高負担という幻想が生み出す裏の意味がわかっていない。
まともの働いている人や経営者ならその意味するところが明確に解かるでしょう。
確実に経済破綻を起こす。

自然は
国家に置き換えられ
会社に置き換えられ
親に置き換えられる。
餓鬼による
骨の髄までしゃぶる脛かじり社会ができるだけ。

能天気
聖なる甘えが自然界を破綻させるように
国家が経済破綻し
会社が経済破綻し
親が経済破綻する
そして最終的にヨブ自身の身に経済破綻が降りかかる。
そうなれば働くだろうというのでは
人一人が生まれてから死んで行くまでの生涯設計の集積からなる親の躾、会社から学ぶもの、国家のその運営に確実に切断の問題が起こる。
有形無形に関わらず自然から国家から会社から親から引き継ぎ受け継ぐべきものは確実にあるはずである。

失ってから気がつくでは遅いのです。
特に無形のものは
眼に観えないだけに
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この回答へのお礼

 かつて王には 道化というけっきょくのところ煮詰めて言えば王の諫め役がいました。
 的確な助言をあたえました。しかも お笑いの言葉で表現したのでしょうか。

 昔も今も 警世のことばは欠かせないものでしょう。
 たしかに人にはそれぞれの持ち場があるとも思います。

 一点不満を述べます。
 《甘え》の場合には 《遠慮》がありません。要りません。ですから そのときその場で たとえけんかになっても(と言っても 効果や結果を大事にすることも肝腎でしょうが) とことん話し合っていくものと思います。そうでなければ 甘えとは言わないと思います。

 今回も 直前の amaguappa さんへのわたしの応答をぜひ参照いただきたいと存じます。つながっていると思います。

お礼日時:2010/02/21 08:44

> わたしには この《非思考の窓》を持つこと このことが《金》にたとえられていると思えます。



ええ、普遍にして不変の《非思考の窓》にある霊のありようが、金にたとえられたのではないでしょうか。

> 特に《ユートピア的》という側面については いまひとつ現実的ではないように思います。
> 非思考のまどをそなえているというのは ひとの《自然本性》を言っているのですから 
> つまりまぼろしの内に現実であると言おうとしているのですから それは外から何かをつけ加えるのではなく 
> そうではなく すでに備えているという境地の問題だと考えます。《つかまえどころがない》とは言えると思いますが。

このユートピア、《無い場所》とよびあらわされる場所ですが、この咄嗟の表現はまさに窓のイメージなのです。
そして認識も対象化もできないであろう、ぽっかり空いたタブラ・ラサなのです。
一種の能天気の穴といえるのかもしれません。
垂直的思考(すでに非思考であるでしょうが)においてのみ、あらゆる文字の垢をはらって、お伽噺のように現れる。
錬金術がエジプト以来の魂の霊的精製の思想であるのを思いつつです。

キルケゴールに関して
> 《垂直的〈非思考〉》を 精神の内に捉えうると思って《垂直的〈思考〉》として経験世界の言葉と現実に
> 置き換えようとしたものだと考えます。《たとえ》であり たとえに過ぎないとわきまえていれば
> いいのかも知れませんが 総じて想像の産物だと考えます。

垂直的非思考によって主と同じ顔になるのが、いやだったんじゃないでしょうか。
想像というか自律的主体性の水平的思考の産物であることは間違いないと思いますが、
自由ということをどのように考えていたのかに通じるのではありませんか。わたしはキルケゴールの考えをよく知りません。

> 《第一の死》が死ぬと言われています。つまり単純に復活です。....
> ところが この第一の死が死ななくなる人間がいるとも言われたようなのです。
> これが第二の死であり永遠の火の中にいるという死だと言います。究極の悪とも言われますし。
> あるいは 自由意志にさからう自由を行使し尽くした成れの果てとでも言うのでしょうか。

死が死なないというのは恐ろしいイメージなのでしょうね。
仏教観のいう餓鬼畜生道に堕ちている魂はさぞ多いだろうと思いますけれど。
輪廻転生という考えを採用するとしたら、
第二の死を生きている真っ最中のひとびとときたら、復活のひとびとなのか究極の悪なる魂をそなえたひとびとなのか、
混在しているのがこの現世ということでしょう。見分けもつかない皮をかぶって。

この回答への補足

 amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 なかなかおもしろくたのしくなってまいりました。

 ★ ええ、普遍にして不変の《非思考の窓》にある霊のありようが、金にたとえられたのではないでしょうか。
 ☆ それか この霊に言わば守られたヨブのすがた――いわゆる《神の似像》としてのヒト――がでしょうね。

 〔★ 錬金術がエジプト以来の魂の霊的精製の思想であるのを思いつつです。
 ☆ あぁ それでしたら歴史を踏まえて現代の視点でまとめるかたちで捉えることができるかも知れません。〕

 この《霊》が あなたのおっしゃる意味で《ユートピア的》であるにせよその対極の《トポス》であるにせよ――要するに 無神論か有神論かいづれかとして―― 一人ひとりのわれわれによって 父親なら父親としてのごとく母親なら母親としてのごとく《甘えられている》なら 生きているということでしょうね。
 試練に遭っても 藁のごとく燃やされるのではなかった。金のごとくであって 不純物が除かれこそすれ 灰にはならしめられ得なかった。

 ただ《甘え》と言いきってしまっても 語弊があるのでしょうね。Hidocchi さんが このあたりを考えてくださっているようですが みなさんにも このあたりをめぐる特に表現の仕方ですね これについてお知恵を拝借とまいりたいと思っています。
 《能天気》にあっては 《こころの窓・非思考のユートピア・霊なるまぼろし》のことをおぼえているのだろうかという点が問われて来ます。意識していなくてもよいと考えますが いちど自覚するといったことが必要なのかどうか。

 キルケゴールは――わたしもその読書の途中で逃げて来た口ですが―― どうもこの《甘え》の問題で 茶の木畑に入って行っているように感じます。
 ★ 垂直的非思考によって主と同じ顔になるのが、いやだったんじゃないでしょうか。
 ☆ もしそうだとしたら えらく感受性のつよい・するどい人だったのでしょうか。

 《まど》について
 ★ ぽっかり空いたタブラ・ラサなのです。 / 一種の能天気の穴といえるのかもしれません。
 ☆ それでしたら いま考えたのですが タブラの文字を消すべきは消すことのできる消しゴムにたとえてもよいかも知れないと思いました。イレイザーあるいはレイザー。あれっ ひげ剃りになってしまいますか。
 心なるタブラに世界の縁起を受け止めて書いたところの《文字(コギトでしょうか)》について 一つにはすべてその値打ちは相対的なものだと気づかせ もう一つには消してもよいものはすべからく消してしまう。消してくれる。・・・
 これは 《はからひ無きこと》をまづ思うことから来るのか? いやいやそもそも《甘えていること》ことから もたらされるのか? たぶん こういうふうにすでに呻きながら喘ぐようにでも問い求めるこころによって理性をはたらかせてもよいのでしょうが たぶん理性によっては問い求め得られないのではないか?・・・

 第二の死については 問い求め中でいます。
 自由意志を使い果たした末の究極の悪という状態 この蝉の抜け殻も 死が死なないとは言え 人間という存在でありつづけると言えるのか? 言えるとしたら 死ななくなった死も死なしめられ得るか? 復活は――むろんこれは今 現実世界におけるそれを扱おうとしていますが―― あるのか? (輪廻転生にまでは 広げていないのですけれど)。

 不謹慎にも聞こえるかも知れませんが たいへんおもしろくなってまいりました。
 ▲ 試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 ☆ これを 生活日常のことばでどう表現するかです。理性を超えていると思います。じんるいの知恵が だれから言い出されるか? 
 このことが 腑に落ちるかたちで言い表わされるなら そしてすなおに受け止められるなら 世界はあたらしい舞台に躍り出るのではないでしょうか? そのときには いわゆるキリスト教もそのほかの宗教もぶったまげて腰を抜かすことでしょう。(あぁ 何たる大ほら吹き!)

補足日時:2010/02/21 08:14
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兵仗化おめでとうございます。



少し元気を出して下さい。

反省しています。ごめんなさい。

おじじさま
いといろとありがとう。
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この回答へのお礼

 つまり 今回は わたしひとりだけの問題ではないんだ。

 勝手に複雑にしてしまっているのだから もうわたしひとりだけの手には負えないんだ。

 と返すほかないというところさ。

お礼日時:2010/02/21 18:07

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