私は、歴史小説は少しは読みますがあまり詳しくありません。

まだ読みかけですが、前田慶次郎が主役の一夢庵風流記を読んでいます。
この中では前田さんと直江さんはけっこうな仲良しに思えます。

去年、大河ドラマで直江兼続が主役の天地人がやっていましたが、直江さんが主役なのに前田慶次郎が出てこないのが疑問でした。
また、童門冬二さんの『直江兼続』でも前田さんはちょこっとしか出てきませんでした。
このお二人、実際はそんなに仲はよくなかったのでしょうか?

A 回答 (8件)

前田利益は秀吉の前で猿芸をして成敗されませんでしたので、


大老の利家の縁者としてそれなりの扱いを受けていたのでしょう。
兼次と親交があった可能性はあると思います。

前田家の記録なのか上杉家なのか、他の大名家の記録なのかわかりませんが
こんな逸話があるそうです。

慶次郎(利益)が京都にいた時分、豊臣秀吉が伏見城(あるいは大坂城)にてあるとき諸国から
名だたる大名を招き、一夕盛宴が開かれた。元来無遠慮な慶次郎はどこをどう紛れ込んだか、
この席の一員として連なっていた。宴まさにたけなわ、慶次郎は末座の方から猿面をつけ
手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊りながら一座の前へ
踊り出て並んでいる大名たちの膝の上に次々と腰掛け、主人の顔色をうかがった。
もとより、猿真似の猿舞の座興であるため、誰一人として咎める者もなく、怒り出す者もいなかった。
ところが上杉景勝の前へ来ると、ひょいと景勝を避け、次の人の膝の上へと乗っていった。
後に慶次郎が語るには「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて
外にあるまい」景勝の前へ出ると
威風凛然として侵すべからずものがあったのでどうしてもその膝に乗ることができなかった、との事だった
    • good
    • 0
この回答へのお礼

あの前田さんが景勝さんのことを主としてみていたんですね。
それもやはり直江さんとの交流の中で景勝さんの人となりを見たからでしょうか。
前田さんにそんなセリフを言わせるなんて、やっぱり景勝さんも素敵なお方ですね♪

秀吉の前での猿芸は小説にも出てきましたが、実話だったんですか・・・すごいな、前田さん!!

お礼日時:2010/02/26 09:20

前田慶次の書状で現在、唯一内容が伝わっているものが直江家臣の倉賀野左衛門五郎(統基か)に送ったものです。


「兼続様から貞観政要を借りたままだが、腫れものがひどくて動けず、返せないままになっている」という内容です。

また、慶長七年に直江や弟の大国実頼、安田能元らが亀岡文殊堂で詩歌を奉納していますが、慶次も出席しています。
『上杉将士書上』などには、両人の仲はよく、慶次が直江宅で論語や源氏物語の講釈をしていた、『名将言行録』
(明治のものですが)では一緒に史記に注釈を入れたとの記述があります(直江が所蔵していた現在国宝の史記は
二人の注釈ではありません)。

慶次は京都で歌を通じ、細川幽斎ら大名や公家と交流していたので、その中で直江と知り合った可能性もあります。
二人とも五山の高僧南化の弟子だったと記述しているものもあります。
会津移封後の慶長3年の直江の書状に「北国へ迎えをやったとのこともっともだ」というのがありますが、慶次の
召し抱えの時のものという説もあります。

ちなみにトークショーの内容をネットにレポートしているのを見た限りでは、天地人では脚本には出ていたものの、
プロデューサーが「中途半端な形では出せない」と判断して削ったそうです。
    • good
    • 1

前田慶次は前田利家の兄の子で、本来なら家督を継げる立場でした。


しかし、ご存知のとおり前田家の家督は利家が相続し、現代にまで至っています。前田家には多くの歴史資料が存在し、名門の地位を築きあげていますので、歴史に関わる人間は前田家の不評を買うような行為は避けたがる傾向にあります。

前田家には
・信長と特別な関係にあった利家が家督を継いだこと
・賤ヶ嶽の合戦で利敵行為ととられかねない行動をとった事
・秀吉の死後、徳川方につき、豊臣家滅亡の一因になった
など「現代の価値観から見れば」好ましくない事例がいくつかあります。ドラマなどでこういった場面は大抵省くか美化されています。
前田慶次に対する冷遇もその一環と捉えられるのではないでしょうか。
(ちなみに私は前田利家とその一族がとった行動は、当時の価値基準では非難されるような事ではないと考えています)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど。
でも、前田利家は『利家とまつ』でドラマ化されてますよね。
私は見てませんが・・・。
利家のいい側面と、まつとの夫婦愛?を中心に利家の生涯を描いたドラマなのでしょうか。

前田さんをドラマに出すとしたら、あくまでも前田さんを主役にしたストーリーじゃないと描きにくいのかもしれませんね。

お礼日時:2010/02/27 18:03

私も前田慶次郎がいつ登場するんだろうかと期待していましたが、出番が無かったですね。


前田慶次郎という人物に関しては、他の回答にあるように実はほとんど資料が残っていない人物のようです。
わずかに残っている情報(資料)を基に、作家の隆慶一郎氏が天下の傾奇者として前田慶次郎を主人公にした小説が『一夢庵風流記』です。
この小説自体はあくまでもフィクションですから、前田慶次郎という人物の本当の姿(交友関係)は現在では解っていない為、大河ドラマでも登場させなかったということでしょう。

ちなみに隆慶一郎氏の『一夢庵風流記』を読まれたのでしたら、ぜひとも『影武者 徳川家康』や『死ぬことと見つけたり』等も読んでみて下さい。
隆慶一郎氏の小説は事実かどうかはともかくも、非常に面白いですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

前田さんの交友関係はわかっていないんですか?
交流があったのは事実にせよ、直江さんとの実際の仲はどの程度だったのか、はっきりしていないってことですよね。

今までは司馬遼太郎さんの本ばかり読んでいて、今回初めて隆さんの本を読んでみたんです。
隆さんも読みやすいし、引き込まれますね。
上にあげていただいた2冊もぜひ読んでみます!!

お礼日時:2010/02/26 09:25

関が原の直前に京で上杉家に仕官したわけだから、当然直江兼続と面識はあったかと思いますし関係も良好だったでしょう。


当時の新規召抱え組みのなかでは一番の厚遇を受けています。
ただ武人としての前田利益を評価しても、個人的に付き合いがあったかと言われると、おそらく身分が違いすぎますので無いかと思います。

ただ1000石で雇われたよそ者が、負け戦・大幅減封後に3000石を半ば隠居領として賜るとは超破格の待遇で、相当な武功をたてたものと推測されますが、あるいはこれが直江兼続と懇意にしていると疑われた原因かもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>ただ1000石で雇われたよそ者が、負け戦・大幅減封後に3000石を半ば隠居領として賜るとは超破格の待遇で、相当な武功をたてたものと推測されますが、あるいはこれが直江兼>続と懇意にしていると疑われた原因かもしれません
なるほど。
たしかに、負けて財政が苦しい時に3倍になっちゃうなんて周りから見ればえ~~~っっ!?って感じですよね。
身分が違いすぎる・・・たしかにそうですよね。

お礼日時:2010/02/26 09:14

小説も大河ドラマも史実ではないので全てを信用しないように。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

小説は面白くするために創作や架空の人物が出てくることが多いというのは知っています。
ただ、前田さんと直江さんの仲は実際に良かったのか、それほどでもなかったのかを知りたくて質問しました。

お礼日時:2010/02/26 09:11

大河ドラマで前田慶次が出てこなかったのは、単に脚本家が慶次が嫌いだったという個人的な理由のようです。



そもそも前田慶次という人物は、余り脚光を浴びるような人物ではなく、隆慶一郎の小説において、広く知られるようになったというのが実際でしょう。

実際には慶次は米沢で客死していますし、家老である直江と仲が悪かったなら、財政の苦しい上杉に迎えられることなど無かったのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

脚本家の方が前田さん嫌いだったんですか!?
きっと、直江さんが主役と聞いて前田さんの登場を今か今かと待ち望んでいたファンも多いでしょうに・・・(><)

>家老である直江と仲が悪かったなら、財政の苦しい上杉に迎えられることなど無かったのではないでしょうか
たしかに、そうですね!

お礼日時:2010/02/26 09:09

前田利益に関する史書ってほとんどないんですよね(^^;



一応関が原の戦いのときに、長谷堂城の戦いに出陣しています
のち西軍が敗退し上杉が減封され米沢に移ります そのときに米沢に隠居します
隠居後は直江とともに史記に注釈をいれたりいわゆる悠々自適な生活を送ったとされています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

米沢には3回くらい行ったことはあるのですが、その頃はまだ前田さんのことは知らず、上杉神社をお参りしただけでした。(直江さんのことも知りませんでした・・・涙)
その時に知っていれば前田さんの供養塔なども行きたかったです。

お礼日時:2010/02/26 09:06

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q大河ドラマの主人公直江兼続

上杉謙信が死去する頃以前の直江兼続についての詳しい経緯を記している史料があまり無いと聞いたのですが、それでは今回の大河ドラマの直江兼続の幼少期や若年期のストーリーは全くの空想ということになるのでしょうか。

Aベストアンサー

様々な人の様々なエピソードが後世に伝えられていますが
それをどこまで信じるかということになると
それは話を聞いた人次第ということにになります。

例えば、秀吉の城の普請のエピソードや墨俣一夜城の話なんかも
どこまでが本当でどこからがフィクションなのかは
受け取る人次第なところがありますから

Q前田利家と前田慶次郎

どちらも槍の名手ですが どちらが槍使いに長けていたのでしょうか?

義理の叔父と甥の関係で血縁関係は無かったので両者の槍の上手さはたまたま偶然だったと思いますが
利家は 槍の又佐とか 堤の上の槍 と呼ばれたほどの名手だし
慶次郎もそのかぶき者ぶりと槍裁きに秀吉が惚れて100万石で家臣にしようとした程です

甲乙つけがたいとは思いますが どちらがすぐれていたのか教えてください

Aベストアンサー

前田利家は赤母衣衆として働き実際に槍により武功をあげたわけですが、慶次郎利益の武功は関ヶ原時であり60前後ですよね?それ以前も前田家の一員として当然戦場に出たわけですが、ほとんど個人としての記録はないわけで、戦場で実際に槍を振るって強かったと我々が判断するのは無理があります。
おそらく歌舞伎者として、演武のごとく人前で槍を振り回すのは強かったが戦場でとなると人並みだったのではないでしょうか?

ただし武将としては没落後の上杉家でも厚遇で召し抱えられたのですから、かなりのものだったのでしょう。

Q直江兼続の馬名を教えてください。

直江兼続の馬名を教えてください。

直江兼続の愛馬(確か白毛)の名称・呼称をご存知の方がいらっしゃたら教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

黒雲(と名があるので白ではなさそう)
戦場で戦うので一匹(一頭)とは限りませんが。

「匹」
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP334JP336&q=%e9%a6%ac%e3%80%80%e4%b8%80%e5%8c%b9
「頭」
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP334JP336&q=%e9%a6%ac%e3%80%80%e4%b8%80%e9%a0%ad

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Playtown/2647/kanetugu.html

Q前田慶次郎の前田家出奔のエピソードについて

真冬のある日、前田利家が前田慶次郎がに風呂をすすめられ湯殿に入ると湯船には冷水が浸っていた。激怒する利家を後目に慶次郎はそのまま前田家を飛び出してしまった。
と、有名なエピソードがあります。
さて、これは実話なのでしょうか?
実話でしたらその出典は何処に残されているのか?
創作でしたらいつ頃誰が流したものなのか?
ご存じの方、いらっしゃいますでしょうか?

多くの小説やコミックでは、利家が湯船に浸かると冷水だったので慌てて飛び出した様な描写で描かれているものも少なくありません。
ですが、真冬に湯気も熱気もたっていない湯船に手なり足なり浸かるとは思えません。
実話にしろ創作にしろ、初出ではどう書かれているのでしょうか?
差し迫った問題ではないのですが、気になりましたので投稿いたしました。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

18世紀前半、備前岡山藩士湯浅常山が著した「常山紀談」にこの話があります。この本は随筆集で当時民間に伝わっていた14~16世紀にかけてのいろいろな話を集めたものです。該当部分は巻16の「前田慶次が事」にあります。その中の記載は次の通りです(原文を現代仮名遣いで)。
 「利大(慶次郎のこと)は文学を嗜み、さまざま芸にも達せり。滑稽にして世を玩び、人を軽んじけるゆえ、利家、教訓せらるること、たびたびに及べり。利大、大息ついて、たとえ万戸侯たりとも、心に任せぬことあれば、匹夫も同じ、出奔せんと独り言せしが、ある時利家に茶奉るべき由いいしかば、悦びて慶次が許に来られしに慶次、水風呂に水を十分にたたえてかくし置き、湯風呂の候、入り給わんやと横山山城守長知をもていえば利家よかりなんとて浴所に至る。慶次自ら湯を試みて、よく候といえば、利家、何の心もなく風呂に行かれしに寒水をたたえたり。利家、馬鹿者に欺かれしよ引き来れといわれしに、慶次谷風という逸物の馬を裏門に引き立てさせて置きたりしに打ち乗り、出奔しけるとぞ。」とあります。また、大日本人名辞書(明治19年発刊の人名辞典)の前田利太(ママ)の項に同じような話(ここでは馬の名前が松風となっています)があり、出典は翁草とあります。翁草(京都の町奉行所の与力を退職した神沢杜口が表わした歴史見聞録)も湯浅常山と同時代の人の著作ですので、割合世に知られていた話と思います。

18世紀前半、備前岡山藩士湯浅常山が著した「常山紀談」にこの話があります。この本は随筆集で当時民間に伝わっていた14~16世紀にかけてのいろいろな話を集めたものです。該当部分は巻16の「前田慶次が事」にあります。その中の記載は次の通りです(原文を現代仮名遣いで)。
 「利大(慶次郎のこと)は文学を嗜み、さまざま芸にも達せり。滑稽にして世を玩び、人を軽んじけるゆえ、利家、教訓せらるること、たびたびに及べり。利大、大息ついて、たとえ万戸侯たりとも、心に任せぬことあれば、匹夫も...続きを読む

Q豊臣秀吉が直江兼続を引き抜こうとしたが、他にも引き抜きをしていたのですか。

天地人で、豊臣秀吉が直江兼続を直接の家臣にしようと砂金をばらまいたり、刀を振りかざしたシーンがありました。あのシーンはドラマの演出としても、実際、一代の成り上がりで譜代の家臣を持たないので引き抜きはあったのだと思います。

さて、同様な引き抜きは他にどんなのがあったんでしょうか。おしえてください。

・徳川家康の石川数正のそうでしょうか。「出奔」というくらいだから引き抜きというより、ケンカわかれしたのを拾ったという印象ですが。
・毛利は、本家輝元のほか、安国寺えけいや毛利秀包、小早川隆景を別家でとりたてていますが、これも直江兼続同様に引き抜きで成功した例ですか。
 逆に引き抜きできなかったほかに例はありますか。
・伊達政宗の片倉小十郎も引き抜こうとしたのですか。

Aベストアンサー

立花宗茂
引き抜きというか独立の大名になりましたね。

島津兄弟
兄の義久が薩摩、弟の義弘が大隅とそれぞれ所領安堵されている。結果として義弘の息子が兄の義久の養子になったので統一されているが、義久に実子がいれば、別家扱いになっていたかもしれません。

津軽為信
分離志向があったものを、太閤公認で別家

真田
ここも、信長死亡をうけてのどさくさで別家というか独立ですね。

Q前田慶次(花の慶次)について歴史の詳しい方・直江兼継ドラマ見てた方へ

花の慶次という漫画がとても好きで、それがきっかけで原作の本も読みましたし、戦国時代の歴史にとても興味ひかれるようになりました。
そこで前から疑問に思っていてふと今思い出したのでちょっと聞いてみようと思ったのですが、花の慶次の最後の方に関ヶ原の合戦後、上杉家から徳川家との和平交渉で上杉家より前田慶次が使者として徳川家に出向き和平成功させたと描かれているのですが、本当に前田慶次が使者として出向いたのかなと疑問に思っています。

歴史物を見ても大抵和平成立した時の会見の場はよく登場したりしますが、そこにいたるまでの過程はあまり登場する事は少なく当時難しかったであろう上杉・武田の和平の過程なんかもそういや知らないなと少々興味そそられるけどまた今度で良いかと今思ったりもするんですが、前田慶次の場合は大変感動的に描かれており涙した場面でしたので・・・

自分の中の直江兼継像を崩されるのが嫌で大河ドラマ見てなかったんですが、ひょっとしたら大河ドラマでそういう場面あったんじゃないかなと思い宜しければ教えてください。
書いてる途中で楽しくなってきて長文駄文になってしまってすみません(^^;)

花の慶次という漫画がとても好きで、それがきっかけで原作の本も読みましたし、戦国時代の歴史にとても興味ひかれるようになりました。
そこで前から疑問に思っていてふと今思い出したのでちょっと聞いてみようと思ったのですが、花の慶次の最後の方に関ヶ原の合戦後、上杉家から徳川家との和平交渉で上杉家より前田慶次が使者として徳川家に出向き和平成功させたと描かれているのですが、本当に前田慶次が使者として出向いたのかなと疑問に思っています。

歴史物を見ても大抵和平成立した時の会見の場はよく...続きを読む

Aベストアンサー

歴史はなんでもありで歴史読み物 小説 漫画 好きなように書いています 残念ながら創作でしょう 慶次の慶の字もありません やや当時としては グレ者らしく 喧嘩には強かったということでしょう 上杉景勝は関ヶ原の原因となった上杉征伐の張本人でしたから、徳川家康の難詰に対抗するため東北地方で伊達や最上ら奥羽諸大名と激戦を繰り広げました。九州では薩摩も家康を恫喝しているでしょう 兵力は温存してありますから脅かしにはなったようです。 西軍敗北後上杉の重臣千坂景親が本多正信がと親しかったこともあり、千坂を中心に謝罪活動に奔走しています。東軍の対上杉守備部隊総大将であった結城秀康の助けも得て景勝の減刑を画策したようですね。家康は当初上杉氏改易・景勝流罪を検討していましたが、結局 秀康・正信の周旋もあり米沢30万石への減封を勝ち取ったということです 

Q直江兼続と大一大万大吉

石田三成さんの旗印「大一大万大吉」ですが、プレステ2の某戦国ゲームの中では、友人の直江兼続からその言葉と意味を教わるシーンがあるそうです。
直江さんの思想の中にも同じような考えがあったのは何かで読んだことありますが、大一大万大吉という言葉を石田さんに教えたという説が実際にあるのでしょうか?

Aベストアンサー

三銃士のシーンですね。個人的にはゲーム中であの場面が一番好きなシーンです。
ご質問の件ですが、おそらく創作だと思います。wikiからの引用で恐縮ですが、“鎌倉時代の武将、「石田次郎為久」(中略)も使用”していたということですので、彼にちなんで使った(あるいは先祖)のではないでしょうか。
徳川家康との対決において、三成と兼続が共同作戦を取ったという話から二人(+真田幸村)の結びつきを強調するために挿入されたイベントではないでしょうか。
もしかしたら、そういう説話が存在するのかもしれませんが、私は聞いた事がないです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90

Q慶次郎と上杉家

前田利益が上杉家に仕えたきっかけは慶次郎が若い頃義父の利久(前田利家の兄)が信長に叱られたところを上杉景勝が取り成してくれたからだと言われていますが
そのときのエピソードを詳しく教えてくれませんか?

Aベストアンサー

他の方は、他の大名家の人物をとりなすことはないとお考えのようですが、私は可能性はあったと思います。複数の資料で他の大名が別の大名に家臣の執り成しをしています。

従って、前田利久が上杉景勝にとりなしてもらう可能性は0ではありません。
ところが、ちょっと年代があわないのです。前田利久が信長に叱責されたのが1569年ですが、
この時の上杉景勝は長尾顕景といっておりまして、まだ修行中の身でした。
こんな人にとりなしてもらっても余り効果が無いでしょう。
1575年に漸く上杉景勝と改め、官位ももらい上杉家の重臣になっていますので、この後なら
問題はないのですが、その頃の織田・上杉間は敵対していたはずですね。

おそらく、上杉謙信か、上杉家の重臣の誰かが前田利久を執り成したのかもしれませんが、真相は
よくわかりません。古い軍記物の類だと人物の名前が誤記されていることは往々にしてあります。
前田利益が上杉景勝に仕官した理由は、よくわからないはずです。

また、長谷堂城の戦いで前田利益が殿軍をした史料は複数あるようですね。
http://okibun.jp/maedakeiji/に、色々と書いてあります。

参考URL:http://okibun.jp/maedakeiji/

他の方は、他の大名家の人物をとりなすことはないとお考えのようですが、私は可能性はあったと思います。複数の資料で他の大名が別の大名に家臣の執り成しをしています。

従って、前田利久が上杉景勝にとりなしてもらう可能性は0ではありません。
ところが、ちょっと年代があわないのです。前田利久が信長に叱責されたのが1569年ですが、
この時の上杉景勝は長尾顕景といっておりまして、まだ修行中の身でした。
こんな人にとりなしてもらっても余り効果が無いでしょう。
1575年に漸く上杉景勝と改め、官位もも...続きを読む

Q直江兼続は恩のある豊臣家を何故滅ぼしたのですか?

関ヶ原の戦いが終わり敗者となった上杉。
その後家康に恭順し恩のある豊臣家を攻撃します。

どうして義の軍団の上杉が豊臣を攻撃したのでしょうか?

Aベストアンサー

そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

家康を五大老の筆頭にしたのは、秀吉ですが、上杉に会津120万石を与え、関東東北の要としたのも、秀吉です。豊臣家が、秀吉の政策を継続するなら、秀頼が「上杉の会津(佐渡、出羽)120万石はそのまま」っていえばよかったんです。
天地人でのせりふの「上杉を潰すな」くらいじゃ、全然だめです。

会社の東北支店長だったのに、解任されて、米沢出張所に飛ばされ、一生出世なしって待遇されたら、恨みますよね。首にしなかったから、恩を感じろなんて、めちゃくちゃじゃないですか?

上杉は、京都との交易による関銭が大きな収入源です。アメリカと貿易して関税でもうけるみたいなものです。北の関が原で、出羽に出兵したのは、直江津港に代わる、もらったばっかりの庄内の港を最上から守りたかったからです。

上杉が越後から出たのは、直江津港(当時は今浜)の代わりに佐渡の港と、庄内の港をもらえるからでした。それを、反故にされし、港の無い米沢に押し込められちゃったんですよ。豊臣家を恨みませんか?

そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

...続きを読む

Q直江兼続末裔

何してますか

Aベストアンサー

息子が早死にしたので、直江本家は断絶したが、
養子で、弟の娘を養女にし嫁がせた
本田政重は、加賀前田家の家老五万石となり、
直江家はじめ上杉からの浪人を多数召し抱えた。


政重の子孫の、本多正光さんは
石川県の藩老本多蔵品館館長として、
加賀前田藩の資料の保全研究を
されています。


人気Q&Aランキング