http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5744144.htmlにおいて、
存在は、絶対的ではなく、量子的な不確定性に基づいていそうなことは
解ったような気になっています。
多くの人間のそれぞれの宇宙が独立して存在することになるはずが、
自分は他者の宇宙を決して知ることはできないので、
他者にとって他者の宇宙が存在するに違いないという認識も
自分の宇宙の一部以外のなにものでもないと言うことなのでしょうか?
はたして私はいったい誰にこの質問をしているのでしょうか?
A 回答 (10件)
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No.10
- 回答日時:
こんにちは。
★ 他者の宇宙は他者の宇宙があるはずという仮定なのか
☆ 《仮定》だけではなく 《想定》しています。そうであると見なしているということでしょうね。
★ 多くの人間のそれぞれの宇宙が独立して存在することになるはずが、
☆ 上に想定した限りでの現実は 個人である《わたし》が 《独立して存在している》と想定していますが その想定において同時に――同時にです――《社会的に他者と関係して存在している》とも想定しています。《わたし》は 孤独であるが 孤独どうしとして関係し合っているというわけです。
★ 自分は他者の宇宙を決して知ることはできないので、
☆ たぶん そうだと思います。独立性・個人であること・つまりは自由意志の持ち主である《わたし》という存在なのだということ――これは 宇宙という喩えのほかには 広く深く水をたたえた大海であるとも言えそうだと考えます。海面における心理の現象については見えるわけですが 海の中はまづ見えず分かりません。
わたし自身にも分からないところがあると思われます。それは 意志の自由という条件から来ています。この自由がどこから来ているのか人間には分からないからです。自由でなければ 動物のごとく本能のみで生きるだけです。その場合は 分かろうとも思わないわけです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
他者にとって他者の宇宙が存在するに違いないという認識も
自分の宇宙の一部以外のなにものでもないと言うことなのでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは違います。想定の上でですが 《わたし》たちが《関係し合う》のは 互いに《独立しつつ》です。もし互いの《わたしの宇宙》がそれぞれ重なり合うと見るとすれば それは ニュートリノのようにかどうか知りませんがしかも《全体として》――ひとには分からないように・目に見えないかたちで――自由に重なり合っているとでも捉えたほうがよいのではないでしょうか?
《一部》としてであっても また《認識》の問題に限るのであっても 《他者の宇宙》をわたしが形象としてまたその内容として捉えたと思う必要はないと考えます。言いかえると 互いに自己表現をおこない意志疎通を図ればよいという意味です。
これは 海の表面に波風が立つというその単なる心理の動きだけの問題ではありません。ぎゃくに確かに海の底のこころの思いであるというわけでもありません。こちらは人にはなかなか分かりません。しかも この思いを ことばという代理(手段)をつうじて 表現します。
このコミュニケーションという人間の社会的交通という現実が 《独立しつつ関係し合う》という人間の存在にかんする条件です。
★ はたして私はいったい誰にこの質問をしているのでしょうか?
☆ 《自分》にだという側面もたしかにあるのでしょうね。《わたしは分かりたい》と言っているということでしょう。
でもそれは 上のコミュニケーションの過程として まったくふつうのことだと考えます。誰にとっても同じ事態であるはずです。ということは まわりまわって互いが 《自分として知りたい》として努めていることなのだと思われます。
でもこのことは ひとは それぞれひとりだが かかわり合っており世の中においてまじわり 話し合いつつ仕事をおこなってともに生きるという日常の生活を言っているのみですよ。
No.9
- 回答日時:
わたしはいま、ちらっと提示の質疑を覗いて
逆立ちして脳に血を送ってみましたが、
解ったような気になどとてもなれませんでした。
一因は、時間について考えることがたいへん難しいためであり、
時間を微分的に眺めることのうちに多くの問題が含まれるためです。
物質が、偶然のような必然また必然のような偶然のもとに、
その時そこに在るということにしておいてよいかもしれないという
微分的なタイミングを、
時間の圧縮ということがあることにしておいてよいかもしれないという
積分的な操作で、
空間に詰め込んでしまうとしたら、
なんとなく前提となった仮定が怪しいままでよいのかということを持ち越して、
充満度から言って疎密ができるかどうかの大いなる新しい謎が拓けてくるので、
せっせと圧縮し、もっと積分し、もっと詰め込んでしまおう。。。すると過疎も過密もない均質の一様性が、
空間的にあるということにしておこうという演算的状態で得られるのだが、
その、端から空間隷属的な微分概念において把握された物質が、自己認識体である場合、
自己とは、自己を含む関係にある総括的な全体を同時に認識してのみその関係において自己を認識することが出来るので、
かりに微分的なタイミングの積分的な圧縮による疎密の無い空間的全体性を認識した自己というのは、
自己の絶対無を認識するほかないというもので、
なにしろ自己の範囲が浮き彫りにならぬのだから
あるのはタイミングだけということになるやもしれず、
微分的な空間隷属から始めた話が、同じ話に終わるから、
逆立ちしすぎて目が回っているだけということになる。。。
さて、ひとの自己統覚は、他者の自己統覚のうちに含まれません。
ところが、同じ時間に属しており、同じタイミングに属していることによって、
種々の観測を許す、きわめて複雑な全体の機構が成り立つと言えそうでもあり、
その時間やタイミングの支配的機構は、
宇宙と深ーく関係がありそうな機構であるとわたしは思います。
これは、数学と物理学のあつかう領域で、精神医学の領域ではないことは確かです。
No.8
- 回答日時:
カブクラ症候群ってご存知でしょうか?
どういうものかというと、自分の親を自分の親だと認識できなくなる障害。
声を聞くと親だとちゃんとわかるのですが、顔を見ると「親そっくりの他人」としか認識できない。
大勢の人が「この人は確かに20年以上おつきあいしているご近所の山田さんに間違いないです。」って証言しても、その息子だけは「違う偽者だ」ってなるんです。
どっちが嘘をついているとかの次元じゃないんです。
この障害を持った息子にとっては「親そっくりな偽者が親になりすまして家にいる」でしかないんです。
どっちが真実か。どっちも真実なんです。
二つもこの世があるはずがないだろう?
あるんです 人の数だけ、生き物の数だけ、この世はあるんです。
左半側空間無視というもの。
左側が無いんです。
例えば目の前にケーキがあったとします。
右側しか食べません。
それで「左側にまだ残っているよ」って教えると、その人はぐるっと一回転して、一瞬ケーキの左側が右側に来た瞬間、「まだ残っている」ってわかるんです。
化粧も右側しか塗りません。
左側という概念が無いから。
左側が無いこの世が普通なんです。
手が麻痺している人の中には、自分の左手が麻痺などしていない世界に住んでいる人がいる。
手が動かないということを言いたくなくて嘘をついているんじゃないんです。
本当に動く世界に住んでいるんです。
「手をたたいてみてください」と言ったとき、動かないとわかっていながら、それを認められない人は、「今はやりたくない」とか言うんです。
でも自分の手に何の問題も無いという世界に住んでいる人は「今なにしてますか?」と聞かれると「手を叩いてますけど あなたが叩けっていったから」って答えるんです。
もちろん手は動いてなどいません。
でも、相手にしてみれば、言われた通り手を叩いている世界になっているんです。
この人の耳に水を入れると、泣き出します。
どうしたのかというと「手が動かない」って言う。
いつから動かないかと聞いたら、「病院に運ばれたときから」と正しいことを言う。
だけど、数時間たつと、その人はまた手になんの問題も無い世界に戻るんです。
人の数以上 生き物の数以上にこの世はあるんです。
どれもその生き物にとっては二つとない唯一の世界なんです。
ただし、認識が変わると世界も変わる。
どんどん更新されているので、真実も更新されていくんです。
No.7
- 回答日時:
質問者様の質問は、内容的に成り立っていると考えます。
わからない部分・
わかりにくい部分をもう一度把握しようとしている。
交通法規についての仮定ですが、
コミュニケーションプラットフォームも、
ある意味、交通法規の既定を受ける
対象となります。
質問者を歩行者にひきつけて、
回答者をドライバーにひきつけて
考えてみてください。
正しい意味のある質問をする質問者が、普通の質問者です。
質問者のことを考え、適合した形で回答もしくは回答を得る為の示唆を与えるのが
普通の回答者です。回答できる人が、回答をするものです。
哲学するにも、当然最低限のマナーと基礎知識が必要です。
このことは、
言葉の交通という事を考えると、
束縛と自由という対立概念について、
具体的に理解できます。
「おれの師匠は、最速マッハさまだ!
おれの暴走が気にいらねえのなら、無視しろ!」
という立場は、交通法規に照らし、正しい考えなのでしょうか?
No.6
- 回答日時:
ここは質問サイトであって、回答が気に入らなければ流せば良い。
1つの結論を得るための討論サイトではないのです。
>私はいったい誰にこの質問をしているのでしょうか?
単なる荒らしです。
意味深い御回答ありがとうございます。
私は、psytexさんの御回答や御思想に敬服しております。
私が何の目的で誰の荒らしを行っているとpsytexさんが
お考えであるか知ることはできませんがその御説を
鵜呑みとし一切の反論を致しません。
ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
結論といいますと?
事実としては、
おそらく、物理学・社会経済学エキスパートの意見として、お邪魔折衷プランはこれまでどおり、哲学カテで展開されていくことでしょう。
ということです。
存在論に立ち返ります。
結論としては、
自己を弱者として捉える立場と
自己は可能性という立場から見ると充全円満であるという立場が今後、葛藤をつづけていくであろうということです。
回答4を参考に、どういう思考及び存在論が背景となっているかと検討したいと思います。
シキモウと言う概念は、法的にみてグレーゾーンです。思考を整理する為、視覚障害ということでかんがえたいと思います。
例)No4からの引用をもとに構成
仮定1)宇宙が真に存在しているとは言えないのではなく、、、、
この世をどうとらえているかは、その人次第ってことです・・・(1)
(1)は、典型的相対論です。オジャマ折衷プランのなかでは、その根幹をなす定義です。
回答者No.4さまは、それでも存在自体を捉えることは出来るというのは問題ではないと仮定している。
獄一般的な「普通の思考」に属します。
仮定内論証事例1)
視覚障害の人に「あぶないじゃないか 信号は赤だぞ 気をつけろばーか」と運転手が怒鳴る。
運転手は、「通行人が、視覚障害えをもつ」と知らなかった可能性があります。ばかの内容は、「おそれおおくも、路上で行脚なさっておられる(プラットフォームを利用する)ところのあなたさまに関し、私といたしましては、通常の認識が出来ないとようであるという認識にいたるわけでございます。」という意味がこめられています。
言語的存在論的には、例証内の運転手に関し、「馬鹿は存在する」と信じているということです。
仮定内論証事例2)
視覚障害の人は、「なんだ 通行人優先じゃないか ドライバーの方こそ気をつけるべきだ」と怒鳴り返すわけです。
存在するのは、色の識別が出来ない「通行人」です。
私が優先であるというのは、慣習法がもとです。実際問題として交通法規の弱者優先は、イギリスがその起源です。通行人は自分が弱いものであるという認識があります。視覚障害です。目は見えません。しかし、交通に歩行者として参加するのはやむをえない当然のことです。横断歩道を渡っていたとさえ推測できるでしょう。
仮定2)
両方とも交通ルールについて話を進めている。
大事な仮定です。
仮定3)
仮定2より、捉える世界が違うので、お互い捉える世界をもって主張するしかないわけです。
仮定3 部分仮定 人は主張するしかない。論証として、「ねばならない」に順ずる助動詞表現であり、必然性を強調しています。自由と束縛という観点から見ると、束縛はあるという立場です。束縛の具体的内容は、交通法規であり、運転手の認識であり、歩行者が、色の判定が出来ない弱いということでしょう。
おたま折衷プランの根幹は、認識に関して言えば、我々は何らかの形で障害を持っているので、存在はあるといえばある+ないといえばないという考えです。物理学・数学こそ最高の教えであり、ぶつ入り学の丹後を詠唱できる素晴らしい人間にとって、哲学=交通ルールは無視してよいという立場です。
交通ルールの例示に戻ります。視覚障害の方に関し、交通手段を考えると、どういうものが可能性として浮かび上がるのでしょうか?
分を知るということが、だいじです。車に乗るにしても、障害をカバーするような手段をとるべきでしょう。
しかし、お玉折衷プランにとっては、障害が武器であるという認識に至ります。
お玉折衷プランでは、全部相対的なのだから俺たちは何でも主張できるというたちばです。
認識は出来ないはずなのに「俺には全てがわかる」といいたい放題主張をし、
彼かのいう全部というのが、理論としては、レポート用紙3枚以下の落第回答であるというのは理解しません。
Q&Aプラットフォームに関してみると、得意分野であるはずの物理学・社会(その他社会)という項目があるにもかかわらず、そこには出没しない。自分たちは哲学者であるという認識があります。ひとという人は、みな認識が出来ないはずなのにです。
普通の質問が出来ない。その理由は感謝の心がないということです。
われわれは、ばかである!だからお前も馬鹿!ばかどもけっそくせよ!革命だという意見です。おいらが命令してやる!ていうww意見です(「 という」のゴキです すみませんww)
ものをもらっても感謝が出来ていない。世界を救う利他的なおいらが、ものをもらうのは、当然であるという考えです。
「存在はあるといえばある・ないといえばない」
「血液型性格判断も科学的であるといえば科学的である。」
「社会は助け合い。俺は金をもらって当然!よこせといいたい!」ていうw
No.4
- 回答日時:
宇宙が真に存在しているとは言えないのではなく、、、、
この世をどうとらえているかは、その人次第ってことです。
その人がサンタクロースや宇宙人や異世界人や未来からやってきたロボットやら超能力者が存在すると思っていたら、<その人>に<とって>はそういう世になるんです。
例えば物には色など無い。
だけど、人間は赤とか青とか光の波長を色として認識します。
これを他の動物にもっていっても「赤」「青」とか認識しません。
人間の機能とは違う機能をもって光の波長を捉えるから。
イルカは物の存在を振動で認識します。
他に波動を発射して、獲物を倒すものもいます。
生き物によってこの世の捉え方は違うし、色盲の人に「あぶないじゃないか 信号は赤だぞ 気をすけろばーか」と運転手が怒鳴るが、色盲の人は「なんだ 通行人優先じゃないか ドライバーの方こそ気をつけるべきだ」と怒鳴り返すわけです。
両方とも交通ルールを言っているわけだが、捉える世界が違うので、お互い捉える世界をもって主張するしかないわけです。
果たしてわたしはいったい誰にこの質問をしているのか?
あなたと同じ認識をしないあなた以外の人。
御回答ありがとうございます。
>宇宙が真に存在しているとは言えないのではなく、、、、
>この世をどうとらえているかは、その人次第ってことです。
宇宙が真に存在しているなら、その人がとらえた宇宙は間違っていることになりますね。人間は幻の中に生きているということでしょうか。
>果たしてわたしはいったい誰にこの質問をしているのか?
>あなたと同じ認識をしないあなた以外の人。
私と同じ認識をしない幻に生きている人とは、本当は誰でしょうか。
No.3
- 回答日時:
質問者様の問いに即して、論を進めます。
序)
仮定1)指と手のひらが、つながっており、血の通っている状態で、「手」として、存在すると仮定します。
仮定2)指と手のひらを切り離してみると仮定します。
仮定3)血の通いについて学術的な本があると仮定します。
まず、この3つの仮定のもと推論を進めましょう。
以上3つの仮定のもと、少しだけ議論してみたいことがあります。
存在という事に目を向けてみましょう。
仮定1に即して考えると、存在するのは、指と手のひらが、つながったものです。状態は、血が通っているというプロセスの内容です。
血が通っているというのは、状態ですから、どのようにつながっているのかを考えることが出来ます。
手のひらと指の「血の通い」について、本で調べ確認してみました。
本論)
ここで
質問があります。
質問1)存在するのは、事象として数え上げると、いくつになるのでしょう。
意見が分かれるところです。
自然言語として、基本的には、仮定1/3より、「手」と「本」が存在すると考えられます。
手が、存在するということの根拠は、具体的に何でしょうか?
答えは、当然、仮定です。
質問者様の視点が、正しいものであることがわかります。
さて、参考にさるべき意見として、存在するというプロセス(動詞的表現の内容)は、明確なのでしょうか。
実のところニセ物理学者は、存在という言葉にさえ理解を示しません。
存在は、絶対的ではなく、量子的な不確定性に基づいていると主張しているのは誰か?
一番簡単な答えは、他者仮説などという愚かな考えを「いつ」そして「誰」が主張しているのか?ということを追跡していくことです。
「はず」は、助動詞として、文章の何処の部分にかかり、意味はどういうことか?ということです。
結論)
「手」の例示に戻りもうひとつ質問があります。
質問2)たとえば、手の構造とくに「血の通い」について勉強したことがあるということは、
手が存在するということの根拠となりえるのでしょうか?
答えはノーです。
しかし、この上で仮定された手が、私の手であると考えると、実際に存在するということになります。
「私の手が、存在する」ということの根拠は、「私がここにいて手を動かすことが出来る」という私の知識です。
量子論に基づき、血流のダイナミズムを超微細な見地から物理学として把握できる日が来るかもしれません。しかしどんな学問を持ってしても、私の手が存在するということを証明することは、出来ないでしょう。
学問は、もともと仮定することしか出来ないのです。学問という行為が、仮定するということなのです。存在という概念が、学問の一部であり、仮定に含まれるということが、存在論の理由だからです。
仮定は、思考によって行われる言語的行為です。使用されている言葉は、日本語という自然言語です。学実所に書かれている文章及び学術用語は、どれも自然言語に含まれます。
言語で書かれた学術書には、仮定概念が、主張のかたちで書かれており、存在証明については、本によってなされるということが、ないのです。
ブータンの住民から笑いものにされているやせ蛙の空論です。恥ずかしいことです。
御回答ありがとうございます。
nananisseさんの仰る通りでしょう。
そのお立場だと質問への御結論はどの様になりますでしょうか。
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