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10億光年の彼方から来た光について

星の話をしていて「あそこの見える星は10億光年遠方にある」とか「いま見えているあの星は10億年まえの姿だ」とか聞きます。

私はいつも分かったようで分からない点が残るのです。そこで、いくつか質問させてください。

――「10奥光年」は「距離」なんだろうか。たとえば「メートルに換算できるのだろうか」。距離=光速×時間とすとしても、「10億光年かかって地球に着いたなら、そのかかった時間分だけ、さらに遠ざかっているのではないのだろうか」という疑問がわいてきます。
 そもそも動いている物どうしで「距離」をいうことに矛盾がないのだろうか。

――「10億年昔のものを今見ている」という場合、「そこにある光」「私たちの望遠鏡なり網膜なりに来着しているモノ」、その「モノ(光?)」は「現在のモノ」なのか「10億年まえのモノ」なのか。もし後者だとするなら、私たちは「過去のモノにタッチ(触手)できてしまう」というSF的な矛盾を起こしてしまうのではないか。
――そうなると「今」とはいったい何かと思うのです。

A 回答 (10件)

光年は距離です。


星の相対的位置関係は光速に程遠いスピードで動いてますので、大体の数字としては合うでしょう。
動いているもの同士でも距離は測れます。車間距離と同じでしょう。

ものと言うか、観測されているのは常に今です。
発生したのが10億年前ということです。

どこにも矛盾はありませんが、好きなように楽しめばいい次元だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「いま」中心なのですね。
「10億年まえの光」に向かって「きみには『10億光年』という名前をあげよう」というふうに理解すればいいのでしょうか。
ここで「きみが来たその出身地は、もっと先のほうにあるんだよ」ということになるような気がするのです。
あるいは「その先という実体」を考えるのがそもそも「おかしい」のかもしれません。
「車間距離」というのは一定速度で走行している場合に有効で、相手が一定加速で遠ざかって行く場合、距離はどんどん大きくなるばかりですから、その距離の増加率を指標にするしかありません、それを「距離」といえるのだろうかと、疑問がつきません。

お礼日時:2010/03/14 13:07

10億光年は宇宙的規模の距離を現すときに用いられる距離の単位(目安)です。



大よそのメートル換算は可能です。

約30万キロ×3600秒×24時間×約365.3日×10億で計算できます。

その時に掛かった時間の分だけ遠ざかっている場合と、あまり遠ざかっていない場合が有ります。

同一方向に動いている場合と、真反対の方向動いている場合と、そのどちらでもない斜め方向や横方向に動いている場合によって距離のズレはバラバラになります。
(同一方向に動いている場合でも宇宙の中心からより遠い銀河の方が速度が速いと考えられています)

ただし、人間のサイズと寿命、人間が現在の科学力で到達できる最高速度などを考慮して考えた場合は、その程度の誤差は殆んど無関係なのではないかと思います。

「そこにある光」は10億年前の物になります、したがって私達が現在みているものは、その星の10億年前の姿です。

特に矛盾は無くて、それがアインシュタイ博士の相対性理論と結びつきます。

時間と空間から構成される四次元の世界に住んでいると考えられている私達の世界では、その世界の時間の流れは、その世界の最速の光の速度で流れているので、その世界の時間の尺度は光の速度となる。

私達の住んでいる世界(次元)の壁を越えるには(少しニュワンスが違うけど)、光の速度を超えて移動することが必要となり、高速を超えて移動する事が出来れば人間は時間の壁を越えて過去や未来へも行く事が可能である。

しかし、私達凡人の脳ミソでは原理が良く分からず、やっぱりSFチックなお話にしか聞こえないのも事実ですが、どうやら物理学的な理論では可能だと考えられているらしい。

アインシュタインの相対性理論に付いては、大学や大学院などの講義でも普通に教えられていますが、教えている側の大学教授達も実は殆んどの人が相対性理論を正しく理解できていないと言われています。

アインシュタインの相対性理論を理解できている学者は世界でも数人しかいないと言われています。
(普通の天才レベルでは理解できない奥深い物らしいです)

なので、宇宙の中では芥子粒にも満たない私達の感覚で考えた場合は、やはり理解不能のSF的なものだと思っていても良いのかも知れません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
矛盾を感じるかどうかは、どのレベルで話をするかといことなのかもしれません。
アインシュタインが出てくると、もうお手上げです。
「時間」とか「空間」もたぶん「定義」の問題になって、たとえば「股間の始まりと終わり」などいう素朴な疑問は封じられてしまうのだろうかと思ったりもしますが、それもはっきりとは分かりません。
なんでも分からないの連発では芸もないので自分で勉強してみます。
またお知恵拝借することがありましたら、宜しくお願いします。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/14 16:41

コメントいただいたので補足します。



距離と言うのはある時刻で定義されるものです。
なので10億光年の距離にあり、なおかつ光が届くのに10億光年かかるということは、
暗に10億年の間に相対的な距離は億光年単位では変化していないと言う事を言っています。

ものが今のものか昔のものかというのは定義に寄りますが、
10億年前に発生した光が進んだ結果現在地球で観測されるということです。

10円玉で言えば造幣局で出来た時のモノだとして、今現在使ってても
なんら矛盾は無いですよね、それと同じことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
もしかしてひどい愚問かもと思うとやりきれないのですが、ご説明には感謝しております。

光年という単位の「比較性」という点での補足に、少し胸のつかえがとれました。

「そこにある光」が「10億光年」かけて到着したのだったら、それは「その光にとっては常に永遠の現在として10億年かけた」のでしょうが「10億年たっているのも事実」でそれだけ「おばあちゃんなっている」のも事実のように思えるのです。「10億年まえの光」ではなく「10億年過ぎた光」ではないのでしょうか。
「10円玉」でいえば「だいぶ擦りきれた10円玉」ということになりますね。
たしかに、それでいいのかもしれません。
「過去」の姿を「いま」見ているという表現にどうしても「矛盾」を感じてしまいます。
しつこくてすみません。
「たしかに10億年たってはいるけど、それは、10億年まえの事実を表現していると言うことが、科学的には可能だ、誤差の範囲だ、たしかに厳密には10億年まえとうり二つとは言わないが、それを言ってどうする?」というふうに理解していいものかどうか。

お礼日時:2010/03/14 14:44

>「過去」の姿を「いま」見ているという表現にどうしても「矛盾」を感じてしまいます。



何と何が矛盾しているのか明示して下さい。
日本語とか感覚の問題として表現されると答えようが無いです。
一旦考えを整理して、何に違和感があるのか教えて下さい。

10億年前に、その星の近くにいれば見ることが出来た姿があり、
減衰などはあれ、それと同じ光が今地球で観測できます。
それを10億年前の姿としているのでしょう。
確かに10億年前存在した状態で観測されます。

過去の姿を今見ていますが、それに矛盾はありません。
届くのに10億年かかっただけです。
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この回答へのお礼

すみません。
「10億年まえの」「事象ならば」何億年かかっても「同一」といっても矛盾はないかもしれません。
わたしがひっかているのは「その事象を表示している物質としての光」が「10億年経過して同一」であるだろうかということなのです。物質であればこそ、何億年かかろうが、消滅せずに、とにかくここに到着した以上、それは10億年まえの光だということになります、ですが、物質であればこそ、やはり10億年まえと同一とは言いきれない部分がある→「10億年まえをそっくりそのまま見ていると言えるのか」という懐疑になります(同じことをいってばかりで質問を明晰にしていないかもしれません)。


「いま見ることができる」のは「いまの姿」(過去の姿が変形に変形を重ねていまの姿になった)と言うならば矛盾はかんじません。では「10億年まえのほんとうの(?)姿はどこへ行ったか」といえば「その星の間近にいるしか、それを見る手段はない」というふうに思えるのです。
あるいは「10億年まえ」と「いま」では、宇宙そのものが同一ではないとも考えるならば、「宇宙という環境」に「変化」があったのに、その星の「10億年まえ」だけが同一でいられるでしょうか?

どうも説明がへたですみません。素人の知恵ではこんな感じです。

お礼日時:2010/03/14 16:27

まず、光は物質ではありません。


電磁波ですので波です。

結論からいうと、本当の姿を見ることは近くでも出来ません。
電磁波は何かしらの物質にあたり吸収も変調もされます。
それは近くても遠くても同じことです。

近くであれば何かしらの事象を観測するのにすぐ分かります。
遠くであれば伝わるまでに時間がかかります。
遠ければ情報は失われますが、基本的に伝わることには変わりありません。
情報が無くなることで真の姿で無くなるというのであればそれはそうかもしれません。でも、それは近くでも同じですし、見えることには変わりありません。

本当の姿を見ることができると言う事は厳密に言えば誤りです。
私たちが見ているのはただの像でしかありません。

私がお願いしているのは、感覚的に理解できないことと、矛盾と言う言葉を混同しないで欲しいのです。

何と何が矛盾していると感じるのかを言ってもらわないと説明できません。

近くであれば本当の姿を見ることが出来るが、遠くでは出来ないはずだ。
と思っているのであれば、それは勘違いです。

大事なのは、減衰等を無視すれば、
「昔直近で見られたであろう電磁波を、今観測できる」と言うことです。
これがすなわち10億年前の姿を見る、と言う事の意味でしょう。
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この回答へのお礼

なんどもお手数かけてすみません。
そこにある「電磁波」は10億年かけてやってきた。10億年たっているけど、それは「同一」のものとみなせる、ということと理解します。
10億年だって、無限の時間から見れば「ほんの瞬き」みたいなものですし。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/15 11:22

相対論効果によって、光速で運動するものは時間が過ぎません。


つまり、光子に限らず、光速で彼方からやって来たものについて、
「過去のものに触れる」のは、何の矛盾でもありません。

時間と空間のダイナミックなつながりを正しく把握しないと、
宇宙の構造を正しく認識できません。
「宇宙の果て」が『果て』なのは、そこが137億年の歴史を持つ
宇宙の、137億光年先=137億年前の姿だからです。
そこはビッグバン開始時の点であり、実際、強烈な輻射が
(光速に近い後退速度で間延びして)観測されています。
その『果て』からこちらを見れば、こちらが137億光年前の、
ビッグバン当時の姿=果てなのです。
すなわち、宇宙のどの地点においても、必ず観察者を中心に
宇宙年齢光年の半径の宇宙が見えるのです。

その爆発によって噴き出した宇宙の一番「端っこ」は、あなたのいる所です。
また、その137億光年向こうに立って見ると、あなたの立っている所が、
137億年前の姿=「爆発の輻射」の壁の一部に見えるのです。
その「自分を中心とした半径137億光年の球面」は、ビッグバン開始時の
点であり、「ここ」も含まれているのです。

「こっち側」は、時間的に収束していますが、「むこう側」は、空間的に収束し、
両端で点に収束していて、そんな葉っぱのような形を張り合わせて地球儀を
作るように、この宇宙も球の表面(ただし四次元空間における三次元球面)
のように果てはないのです。

本来、ビッグバンの慣性で膨張しているのであれば、重力によって
減速して、その「宇宙寿命光年先のビッグバン当時の輻射」は、
晴れ上がってもいいのですが、ずっと見えている不思議に対して、
「加速している」とか「ビッグバン初期に超光速で飛散した」とか、
諸説が唱えられています。
しかし量子論的に考えると、認識によって宇宙が生じる=自己
(現在/感受/光速)から過去(記憶/時間/超光速)と
未来(予測/空間/光速下)が対発生していると考えれば、その基底
としての時空が広がる(時間経過=空間膨張)のは当然のことです。

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、
「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の
感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験
(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的
広がりは発生しているのです。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
つめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの
中に、仮想的な認識体の断面を切ると、その認識体にとって、
相補的不確定性を伴う存在による宇宙が見えます。
しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じる
もの(自我仮説に対する相補)で、根源的に絶対化しようとすると、
元の無限不確定性に発散します。

実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対に
よってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの
収束の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、
認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説
=宇宙を認識します。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として
生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、
存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。(「世界」とは疑問自体)
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この回答へのお礼

ご高説に感謝します。
勉強不足ですみません。
わたしの悩みは「同一性」というこなのかもしれません。
10年まえの私と今の私は、ものの本によれば、すべて細胞が入れ替わっているのに「同一」に私であるというのには矛盾を感じません(関係性ということなんだと思われるので)(もっとも遺伝子は同一ですかね)(遺伝子がたとえ変化しても同一であることに矛盾は感じません)。
時間(t-1)にあるAと時間(t-2)にあるAとが「同一」としなければ「科学」もなにも始まらないということなのかもしれません。
目の前にりんごがある、それは私がいなくても、りんごでありつづける(だれかがそのりんごを食べてしまわないかぎり)、というのが真実であるというレベルでの胸のつかえでしたから、もったいないご説明には恐縮するばかりです。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/16 11:32

始めの--のところですが、距離と移動と時間を絡めて???なようですが、


ここで言ってることは、私たちの日常でも似たようなことが....
空を飛ぶ飛行機を目視し、しばらくするとその爆音を聞くって事ありませんか?
聞いた時にはその聞こえる音のする方向 つまり音の発生した場所にはいない。
それでも、刻々と変わる飛行機の位置に対して、あなたの位置から飛行機までの距離は常に存在し、飛行機の移動と共に変化している。
何も矛盾を感じたことがないと思います。
光と星だって同じです。 距離をあらわす言葉に光の速さを基準とした単位が使われていて、光が出てから到着までの時間が長いだけです。
--2つ目話ですが、移動して来たものに対して、どちらも正解です。
東京発大阪行きの新幹線を考えてください。東京を出た時刻が数時間前だから大阪のプラットホームでその電車を待つ人にとって今そこにある新幹線です。
それと同時に確かに東京で数時間前に出発した新幹線です。
何も矛盾もありません。 この新幹線を数時間前のもの? 今のもの?と悩むことはないと思いますが....
最後の--は 答えなくても良くなっていると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ここにヒモがあって、ここからあの星までヒモを伸ばして目盛りを測ることができないということへの復讐心が疑問の正体なのかもしれません。

「いま見えているあの星の電磁波(A)は10億年かかって地球まで来たのよ」
もとよりここに矛盾はありません。
ここで「A」が「何を指示しているか」なんだと思います。
「A」を見るというのは「いまここにある電磁波」を見ること、つまり「10億年まえに発生した電磁波が10億年かかってやってたきたもの」を見ることですよね。「10億年たったものを」見ているのであって「10億年まえを」見ているわけでないと思えるわけです(進展がなくてすみません)。

東京を出た新幹線をいま大阪でみる、大阪では「東京を出て大阪にやってきた新幹線」を見ることはできても、「東京にいた新幹線」を見ることは「原理的に」できないというのが質問の始まりだったような気もします。
あまりにも固着した考えでみなさんのご迷惑になってはなんですから、しばらく頭を冷やします。
丁寧なご説明に感謝しております。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/16 12:13

10億光年とは距離です。


従って、光が10億光年かかる距離なので
望遠鏡で観測するその星の姿は10億年前の姿になり
現在の姿ではありません。

現在、その星はもっと遠くへ膨張していると考えています。
矛盾はどこにもありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
どうせ行ける距離ではないのに、どこかで行けるものとかかっているのがけないのかみしれません。
この単位が「何に使われて、どうじっさいに役に立っているか」が分かればそれで問いは終息するようにも思えます。

お礼日時:2010/03/19 14:48

私たちが見ている光は、その星を出た瞬間の光であって10億年前の光ではありません。


何故なら光そのものは時間が停止しているからです。
10億光年の空間を電磁波となって振動しながら伝わってきたと言う考え方は間違っています。
光にとってどんな距離でも一瞬の現象なのです。

その星からの影響は、今私たちに届いているのであって、今現在その星がどうなっているかは私たちには知る手段はありませんし関係のないことです。
今見ている宇宙の姿が私たちに影響を与えている全てなのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
光が光速であり、光速では時間がたたないという(ここを分かったという自信はないのですが)視点が抜く落ちていました。
いま見ている光は「星を出た瞬間の光」ということは「時間がたたない以上そのとおり」だと思います。私たちに「とっては」10億年の時間であるが、星に「とっては」ゼロ時間である。私たちのほうが10億年年取ってしまったと考えなくてはならない。うー、ますますどうも理解不足ですみません。
たしかに「10億年まえ」の話をしたって仕様がないのは納得できました。過去には、どうしたって「指させない」のは道理というものです。「10億年まえのものがいまそこにある」という文がくせものなんです。

お礼日時:2010/03/19 15:09

最終的に言葉の定義に行き着きそうですが。


10億光年を旅した光だけを見てはいけません。
仮に花火を見ているとしましょう。
今貴方が立っている場所から打ち上げ場所までは2km、高い建物に登ってやっと見えるくらいでしょうか。
花火が打ちあがり、花火が花開くのが見えました。
このときの花火の音量、超至近距離での音量を10としましょう。
音が伝わるのには時間がかかりますから、この時点で貴方にはまだ音は聞こえてきません。
約6秒後、貴方は花火の音を聞くことになります。
もちろんこの時貴方が耳にする音の音量は10ではありません。
音も6秒間拡散しながら疾走するわけですから、貴方の耳に届くころには大分小さくなっています。
つまり貴方が聞く音は花開いてから6秒経ってますから、その点では過去でも何でもないかもしれません。
しかし、その音を聞いている瞬間、花火はどうなっているでしょうか。
恐らく散っているか、大分明るさを失っていると思います。
では、貴方の耳に届いている音(物体の本当の姿)と、貴方が見ているもの(同時刻における人間の見た目の物体)は同じ時間のものでしょうか。
この点においては物体の本当の姿よりも過去のものを、今見ていることになると思います。
今まさに散っている花火に、貴方が聞いている音を発生させることはできません。

今太陽が消滅しても、地球からその様子を確認できるのは約8分後です。

余談ですが、自分も似たようなことで悩んだことがあります。
極めて光速に近い速度で飛ぶロケットでは時間が進むのが極めて遅くなるとされてますが、光というのはもちろん光速の100パーセントで飛んでますから、光はいつまでたっても前に進めないはずではないか。と考えた事があります 笑
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
明晰なご説明に感謝いたします。
自分の悩みはどこに原因があるかわからないからこそ悩みなんだということまで分かりました。

「そこにあるものだけを見るな、あそこにある(だろう)ものをも見よ」

ここが肝なんですね。「あそこ」(消えた花火)から見れば「ここ」(いま光った!)はたしかに「過去」以外のなにものでもない。

「10億年もかなた」に視点を瞬間移動することへの「畏れ」が……。

「あそこ」から見れば「ここ」は「過去」である。
とすると、「あそこ」が「ここ」と呼ぶその当の「ここ」から「あそこ」を見れば「あそこ」は「過去」になって、そこから「ここ」を見てと循環するならば、「いま」とは何なんだというのが、わたしの第3の疑問だったのを思い出しました(笑い)。

「現在のフランス王は禿げである」「無がある」
など、ラッセル卿の論理分析がその矛盾を解いたのは100年ほどまえのこと。
それにならって「過去が現在である」という文の論理構造を分析してみようかと思っていた矢先でした。

「目の前のものだけを見るな」

を肝に銘じます。ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/22 08:52

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