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 とある中学生(複数名)から以下のような問題提起がされました。

日本国憲法43・44条から考えるに、全国区選挙が要請されるのでは?
現選挙(小選挙区)制度の憲法上の妥当性は公職選挙法と立法裁量権だけでは?


 確かに、43条1項では「全国民を代表する選挙された議員」と明記し、特定地域から選出される当選人はその地域の代表者でしかない状況とも言えます。事実、政治献金などで訴追される議員などは「地域の代表として」と地域的支持を議員辞職固辞の正当化に悪用する節もあります。

 更に、44条1項(14条)からも投票価値の平等・選挙区割りによる差別的状況(投票時間・立候補者)が発生していることは違憲性が指摘され、それらを全面的に解決する集団としては、唯一全国区選挙しか想定できません。

 昨今、「一票の格差(投票較差)」を通じて選挙制度の妥当性への嫌疑が提示されていますが、現選挙制度を法理論的に妥当と説明する手法が見つかりません。
 仮に説明するとしても、立法裁量権の限界射程についての説明を考えるとやはり、主権に関する政治決定で立法の不作為・無作為が続く状況は好ましくないなどの批判は尽きません。
(それを中学生が指摘するような水準です)

彼らにある程度の法理論的妥当を持って、現選挙制度を肯定させるような良い知恵はないでしょうか?
(現実問題として、私個人も中学生と同じ意見なのですが、日本国憲法99条を尊重する立場としては、むしろ、彼らの方が妥当に思えてなりません。)

 なお、このような問題に関して、政治的意見を述べれば日教組などと言われるので、持論を述べられません。

A 回答 (13件中1~10件)

 NO5,NO9のpoliteness です。

回答へのお礼ありがとうございました。

 質問者様の43条解釈は、文理上成立し得るものであることは十分に認識しており、一定の論理が伴っていることを否定しません。また、別の方はサイトの中で、representativeを「代理」と訳すべきであったと主張されていますが、「憲法典として国民に分かるような条文が求められる」という質問者様の的確な問題提起を共有するものであると理解しています。個人的には「代表」で問題ないと考えていますが。

 さて、市民革命と「全国民の代表」との関係についてもう少し補足させていただきます。私は市民革命によって直ちに「全国民の代表」概念が形成されたとは述べていません。むしろ私はNO9で「一般意思概念はイギリスで萌芽し、フランスでさらに強固なものへと発展しました。そしてこの概念を基礎として「全国民の代表」概念が形成されたものと理解しています」と述べていますが、この文から、市民革命(一般意思概念形成)と「全国民の代表」概念形成には、タイムラグが存在することを読み取れると思います。「全国民の代表」概念が形成されたのは比較的最近であるとされる質問者様の見解を否定する意図はありませんでした。ただし、引用文の「「全国民の代表」概念が形成された」の前に「後に」という文言を挿入しておけば、より正確に真意が伝わったものと反省しています。

 加えて、一連の問答から、市民革命と一般意思概念形成との関係についてもさらに言及する必要があると判断いたしました。ご存じのとおり市民革命とは、市民層が中心となって国王を中心とする専制的政治(絶対王政)を倒した革命のことです。絶対王政下を支える理論は、ルイ14世の「朕は国家なり」という発言にも表れていますように、国王を絶対化するものでした。市民革命はこうした思想を排除し、国王と対立した人民全体の意思が政治に反映されるべきであるという考え方に立脚するものでした。確かに当面は制限選挙制が採用されていましたが、国王と対立する国民の意思が強調されたという意味で、一般意思概念が「萌芽」「発展」したと表現して全く差し障りないと考えています。要するに、一般意思概念と選挙制度(普通選挙)を関連づける必要はないと考えています。

 繰り返しになって大変恐縮ですが、「一般意思」概念と「全国民の代表」概念は区別して論じるべきであるというのが私のスタンスです。

 重ねてお礼申し上げます。
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この回答へのお礼

 返答遅れまして、申し訳ありません、あわせて、丁寧な回答ありがとうございます

さて、「一般意思=全国民の代表」の見解については、私の稚拙な部分だと思います。
あくまでも学生への説明の都合上、簡略化させたので、概念的精査を怠っていたと思いますので、今後注意します。(少し粗野な思考でした)
 さて、詳細になりますが、少し検証を
”国王と対立する国民の意思が強調されたという意味で、一般意思概念が「萌芽」「発展」したと表現して全く差し障りない”に関しては、追加的に時代背景・信教の自由などの必要条件があるかと思いますが、概ねその通りだと思います。

ここからは歴史の細論になりますので、本論とは離れますが
私が愚考しますに、王権などの対立軸から派生した「市民革命」史観は西欧における一般的説明ですが、これが世界規模になると聊か暴論のように思えてなりません。
 例えば、中央集権国家の発展が未熟な中欧・東欧などのキリスト教国では王権ではなく、有力商人(本義の意味の「市民」)・聖職者・世俗化した地方豪族と国民の対立軸によって市民革命を見出す余地があり、それらは新しい近代国家像として更に中央集権国家を作り出します。その後、その創出した王権との対立なく近代化を成し遂げる市民革命などの説明が出来なくなります。(日本・タイ・ロシア・イタリアの近代化の事例)
一般意思に関しては、むしろJJ・ルソーは都市国家ジュネーブからエッセンスを見ている節もありますし、既存の市民革命観については、西欧中心史観の産物として奇異に思っています。もちろん、それを以てても、市民革命に王権との対立項があったことは否定できませんが・・・

 重ね重ね、こちらの強引かつ拙速な私見につき合わせてしまいまして申し訳ありませんでした。
まだ学生との討論会の機会も残されていますので、本件(一般意思と全国民の代表)の分離は、社会契約論の特化のさいに訂正説明しようと思っております。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/27 23:51

戦後の文脈に関係なく、「後で」というのを前提条件としか読めない貧困さ……。

ま、これも受け手の力量を測れなかった私の書き方が悪かったのでしょうから仕方がないですね。

さて。

>> 指摘の必要もなく、選挙の実態は「全国民」を対象にしていないことは当然として、「国会に召集された聖俗貴族および「庶民」の名前で行われていること(第1項)」が全国民の代表を担保するとは言い切れないでしょう。実態を見ればそれも明らかな話です。<<

まぁ、根拠もなくそういわれましてもね……というのが感想です。少なくとも「なぜ明らかなのか」は典拠を示していただきませんと質問者の単なる情緒に過ぎないことになりますから。「当時の国民感」というのも含めて、是非引用可能な資料をお示しいただきたいものです。

また合衆国についてのご意見もいろいろ指摘したいことはありますが、

>>なお、アメリカ上院議員身分は合衆国憲法上では選挙の必要性がないことはご存知ですか?<<

では合衆国下院が人口3万人に1人の割合を超えない範囲で各州人民が選出する議員で組織されること、と定められていることもご存じですよね?(1条2節)。合衆国憲法の本質が徹底した権力分散にあることが理解されていれば、州代表の上院と人民代表の下院という役割分担による権力分散もこの規定から明確なのですから、ことさら上院だけ取り上げるやり方はされないと思いますがね。

>>ドイツ議会を始め、議員身分は「全国民の代表」と明確に規定する議会ばかりではないからです。<<

えっと、もともとのご質問は日本国憲法における「全国民の代表」というお話でしたよね。外国の例を私が引用しているのは、日本国憲法のそれが歴史的な由来によるものを示すため、その範囲で言及しているつもりですが、ご質問は何かそれ以上に及んでいるのですか? 
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この回答へのお礼

お礼遅れて申し訳ありません。
回答ありがとうございました

お礼日時:2012/02/26 14:43

質問者の意図することは、


 43条条文を素直に読む限りは、現選挙制度では「全国民の代表」にはなりえない、の指摘だと思いますが、逆に全国区選挙区であっても「全国民の代表」が保障されない問題が指摘できると思います。
実態的に、全国民の代表になりえるのは大統領・獲得投票率100%の当選人だけとも

 そもそも、43条の意味する「全国民の代表」は、politenessさんの述べた”治者と被治者の意思の連続性を要求する規定”と考えます。
 憲法訴訟上で憲法43条について意見を調べますと条文は「国会議員に対する選挙区からの拘束を否定し、独立に政治的意思を形成し国民全体のために政治に関与する」(自由性委任)と解するが通説と考えます。
 強制委任を排除する明確な論拠はありませんので、今後の解釈次第と言えるものですが強制委任は強引すぎると思います。
 44条問題に関しては、質問者の意見する全国区の妥当性は否定できません。個人的には、投票較差も当倍のみが合憲と考えますが、憲法改正の後に地方分権を強く意識した参議院を設立するなどの抜本的な議会改革・選挙改革で対応するべきと考えます。
 私は改憲派としては、43の1項・44条は削除し、43条2項だけ残すべきと考えています。

話は質問外ですが、市民革命と「全国民の代表」との関係性は極めて重要な問題提起だと思い、初めてアンサーしました。
 個人的には、質問者の意見が正しいと考えます。
「全国民の代表」の発想はイギリスにその萌芽を見るのが一般的ですが実態的には、限定された主権委譲に過ぎなく、全国民とは到底言い難いものでしょう。
 近代憲法で確認される初めての「全国民の代表」と認めらえるのがワイマル憲法でしょう。
 私見に過ぎませんが、諸外国の政治制度として
”議会”に全国民の代表性を求めることがあっても、議員個人にそれを求めるのは一般的ではないと思います。
 議員は政党・地域代表として選出されるわけで、最終的に議会・議院が全国民の民意を汲み取れることが重要と考えますが、どうでしょうか?
 質問者のブログ記事を見たところ『一票の格差』について強い懸念を抱いているようですが、現憲法の条文の限界と考えることをお奨めします。
 手元に諸外国の憲法典の邦訳本がありますが、「全国民の代表」と同じような憲法は、少ない(見当たらい)のが現実です。(下級法に規定してるかも)
 なお、以下の国の憲法典に関して議会議員身分が「全国民の代表」に近いニュアンスの憲法はありません。
アメリカ・イタリア・インド・オーストラリア・オーストリア・スウェーデン・スペイン・韓国・ドイツ・フィリピン・フランス・ポーランド・ロシア
 例外として、カナダ・ベルギーが意思的に「選出をなしたものの代表ではない」と規定する特殊さがあります。
 ところで「全国民の代表」は立法府議員ではなく行政首長が担うべきと考えますが、質問者はどう考えるのでしょうか?
あわせて、「全国民の代表」の内実を問う意見を考えるに、最低投票率・最低得票率まで導き出す考えまであるのでしょうか?
 逆質問になってしまいますが、回答してください。
 
中学生相手に「全国民の代表」の意味を教えるのは簡単なことではないと思うのですが、あまり煮詰めた議論にならないように軽く考えさせるのが好ましいと思います。そして、生徒さんの自主性を尊重して43条・44条・選挙制度の見解を形成させるように指導してほしいと思います。
 もしかして99条から憲法違反に近い制度を肯定できない、なんて拘りが?(苦笑)
国連海洋法の記事と共に楽しみにしております。駄回答失礼しやした。

参考URL:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E6%B0%91 …
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この回答へのお礼

お礼遅れて申し訳ありません。
回答ありがとうございました

お礼日時:2012/02/26 14:43

くどくどと申し述べてもいいのですが、一つ。



>>そもそも、国民国家は「全国民の代表」を前提とする国家であるとは言い切れません。<<
>>以上のことから、すでに、国民国家=国民全体の代表、という発想が理解できません。<<

とあります。私は、「国民国家」という用語を、あなたの

>>ちなみに、「全国民の代表」なる概念がイギリス発祥というのは根拠は見当たりませんが、どこかにある話でしょうか?マグナカルタを初めとして、そのような認知が発生しえるとすれば、国民国家概念の発生なくば説明できないと思われますが?<<

を受けて初めて使ったんですけど。また絶対王政が国民国家の前提条件とも言っていませんよ。相互に矛盾するととられかねない言葉遣いで盛り上がるのは勝手ですが、私の言っていないことまで先走って書かれるのは心外です。ご注意ください。


さて、質問者の国民国家(Nation-state)に対する考え方を斜めに読んで(まともに読むのは苦痛でしたので悪しからず)、質問者の「全国民の代表」(憲法43条)に対する理解は、要するに国民全体から選ばれればよいのだというごくシンプルなものだと了解しました。それは、「選挙制度において過剰に有権者制限される状態ならば、到底「全国民の代表」とは言えないでしょう。例えば、普通選挙が実施されない選挙で、「全国民の代表」の選挙と言えましょうか?」とのご発言からもうかがうことができます(違っていたらご指摘下さい)。
「では未成年者が選挙に参加できない現状、全国区にしても全国民の代表といえないのではないか」といった軽い突っ込みはとりあえず脇に置いておきます。

その上で、質問者の程度に応じて、文献というより実定法的な根拠をお示ししておきます。
たとえばイギリスにおいては、「大司教、司教、バロン、裁判官、荘官……」などの要求に対して示されたマグナ・カルタ(1215年)と異なり、権利の請願(1628年)が国会に召集された聖俗貴族および「庶民」の名前で行われていること(第1項)に、「封建的身分制度」を離れた国民代表概念を見ることができます(いうまでもなく、このときは制限選挙の時代です)。こうした考え方は、1911年国会法前文において「人民を基礎にして構成された第2院を現在の貴族院に代替することは直ちに実施することができない」との文言があり、その反対解釈として、庶民院が国民を代表した第1院であるとの認識がもたれていることからも確認できます(この法律は普通選挙を定めた1918年国民代表法より前のものであることに留意せよ)。また慣習により、議員が国会内の発言や表決の責任を問われることのない点も、選出母体(この場合は選挙区。市民革命以前には貴族、僧侶などの身分階層)の意思を離れた行動が許されている国民代表と表裏の関係にあるものです。

アメリカにおける独立宣言は「これら植民地の善良なる人民」の名において行われ、これを元に「人民」が合衆国憲法を確定しています(合衆国憲法前文。「諸州」でないことに留意せよ)。フランスにおいては争いはないようですから省略しますが、

>>市民革命の立法議会議員は「全国民の代表」を前提にした形跡もありません<<

などと言い切られても、こうした「形跡」ははっきりと歴史文書や現在有効な法律に残っているのですけどね。その点、「歴史で飯を食っている」お立場としてどう理解されているのかは是非うかがいたいところではあります。

もちろん、こうした「庶民」や「人民」は所詮幅広い国民でなくブルジョワ市民を代表しているに過ぎないではないか、という批判は一面でその通りですが、もともとのご質問に対して繰り返し述べているとおり、「だから全国区でなければ全国民の代表に値しない」というのは違います。それは論拠を示すまでもなく、諸国が多様な選挙制度を取っていることからも当然に理解されるはずのものです。

いわゆる市民革命の形態をとってはいないドイツについて、質問者は以前「制度的にアメリカ・ドイツ上院のような地方分権を首座にした議会・選挙制度は実在します」と述べておられますが、そのドイツ憲法(基本法)が38条で、ドイツ連邦議会の議員を全国民の代表者と定めていることを知らないわけではないでしょう? 国民代表の概念は市民革命により発展した、とは言いましたが、革命がなければ誕生しないなどといった覚えはありませんし、法体系の継受というのは、明治維新直後の日本の例を見るまでもなく、どこの国でもあるものです。そうした事実を知ってか知らずか、典拠を示さないご自分の主張を展開されるのは構いませんが、「私個人は、当人の思い込みに近い政治認識で論じる根拠の希薄な反論と読めてしまうのですが」など一連の非礼な「お礼」は、学究の徒であるならばおやめになった方がよろしいかと思いますけどね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
誤解されているようですが、国民国家の概念=全国民の代表などは述べた立場ではありませんし、市民革命の認識について説明した内容の不適切さいついては全く異論がない、としか判断できないのですが、何が不満なのでしょうか?
 そもそも、私が反論するのは市民革命によって「全国民の代表」とする選挙制度が確立するとする認識であって、国民国家は別問題です。
 さて、明確に間違いと指摘できる部分について説明しますt
「また絶対王政が国民国家の前提条件とも言っていませんよ。相互に矛盾するととられかねない言葉遣いで盛り上がるのは勝手ですが、私の言っていないことまで先走って書かれるのは心外です。ご注意ください。」と仰っていますが残念ながら、ご自分で説明された見解です。
辞書の国民国家の説明に関してご自分で要約した後に以下のように文章化されています
”すなわち、絶対王政の後で成立した、意識や経済活動などの面で国民としての一体性を持った国家”
これは、lequeosさんの発言を引用したもので間違っても私が作った話ではありません。ご自分で述べたことですので、事実関係をご確認ください。
 従って、私から言わせれば、自分で述べたことも忘れていた上に、他人に責任転嫁するようでは如何なものでしょうか?と疑いたくなるのが本音です。
 ちなみに、国民国家を持ち出したのも、国民国家が形成されない時点で全国民の概念すら生まれえないと言えることを指摘しているわけです。本論は、市民革命=全国民の代表という安易な発想の論拠を問うものでし、それは当初から提示している話です。
 次にイギリス議会についての論説は、それが全国民の代表と解釈してえる実定法とは到底言えないと言えるでしょう。 
 指摘の必要もなく、選挙の実態は「全国民」を対象にしていないことは当然として、「国会に召集された聖俗貴族および「庶民」の名前で行われていること(第1項)」が全国民の代表を担保するとは言い切れないでしょう。実態を見ればそれも明らかな話です。
 私からすれば、当時の国民観を知らずして都合よく「全国民の代表」と解釈誘導しているとしか言えません。
 なお、「議員が国会内の発言や表決の責任を問われることのない点」が国民代表と表裏の関係とは論理的な妥当性が理解できません。憲法51条に置換して考えれば、免責特権の本質は”議員の言論活動を保障し、国会意思の形成における国会の機能を十二分に発揮させる”意図が指摘できることでしょう。なお、地方議会議員の免責特権の制限は「地方公共団体そのものが国から委任されている存在である」ことから説明されることです。
 更に当時のイギリス議会は、スコットランド・アイルランドを実態的にも併呑していないにも関わらず、当地の政治支配権があるような体裁を整え、当地の民意を立法府において無視してきた経緯があることも見逃せません。
 次にアメリカ連邦議会については”「人民」が合衆国憲法を確定しています”とは形式論に過ぎないこと言うまでもありません。合衆国憲法の制定には州権の追認が大前提と指摘されています。(7条)
 人民・庶民が即時「全国民」と考えるのはあまりにも安易な発想と思われても仕方ありません。
ちなみに、英文原文は「We the people of the United States」は、王党派は排除され、憲法批准に関わった各州の代表者で選挙で選出されていない人がいるのも事実です。
 仮に英文として”全ての人民は”(アメリカ独立宣言)であれば全国民と考える余地はありましょう。”all people”であれば・・・しかし、前文のweはそれこそアメリカの一部市民であったことはアメリカの歴史でも分かることでしょう。(奴隷、ファーストアメリカン・白人奉公人ETC)
なお、アメリカ上院議員身分は合衆国憲法上では選挙の必要性がないことはご存知ですか?(1条3節)
事実、修正17項成立(1913年)までは、上院議員は議会選出です。

 憲法学でも分かるように”われら”などの主語について精査するべきであって、その精査がない実定法認識には説得力は感じられません。
 「諸国が多様な選挙制度を取っていることからも当然に理解されるはずのもの」ではありません。
ドイツ議会を始め、議員身分は「全国民の代表」と明確に規定する議会ばかりではないからです。
おそらく日本の議会制度のイメージに思考停止しているからこそ、諸外国の議員も日本と同じように「全国民の代表」と思っているかと思いますが、指摘するよう強引な類推ではない実定法での説明が必要であると考えます。
 しかし質問者である私は、あなたの間違いの責任を負う立場なのでしょうか?自分で言ったことを言っいてないと述べるのはさすが閉口します。

  

お礼日時:2010/03/22 22:52

 NO5です。

回答へのお礼ありがとうございました。まず私の回答に関して補足させていただきます。法(憲法)解釈には様々なメソッドが存在することは十分承知していますが、43条に関してはこれらの手法のうち、説明上都合の良い原意的アプローチを試みたものにすぎず(この手法そのものは一般に否定されていません)、各種選択肢を排除するニュアンスとしての原意主義を正当化する意図はありませんでした。

 また、文は通常主語を伴うものであり、主語が文の構造に大きな影響を与えることが少なくないことも承知しています。43条の「両議院は」という文言は無視できない位置づけにあると考えますが、この主語が存在することを当然の前提としつつ、ここで一番問題になっている「全国民の代表」という文言をあえて抽出させていただきました。

 ところで質問者様は別の回答のお礼で、「市民革命から全国民の利益(一般意思)が大前提であったとは言い難いと思われます」と述べておられますが、この点について主に言及させていただきます。

 市民政府二論を著したロック(イギリス)は、人間は本来自由であり、自分の生命を他人からみだりに危険にさらされたり、自由や財産を支配されることは決してありえず、それは人間が生まれながらに持っている当然の権利(自然権)であると主張しました。そしてロックは市民(国民)は互いに自然権の保障を契約し、そのための手段として国家をつくるという考えを提唱しました。したがって、ロックの説によると、国家が自然権を侵害すれば、国民には政府を代える権利(革命権・抵抗権)があるということになります。国家は目的のための手段にすぎないからです。このようにしてロックは国民国家という概念を形成し、この思想は名誉革命を正当化する基盤となりました。

 さらにルソー(フランス)は社会契約論(民約論)を主張しましたが、これは、社会(国家)は、自由で平等な個人の契約によって成り立ち、国の政治のありかたを最終的に決める権利(主権)は人民にあるという考え方です。ルソーはこの中で、一部の利益を代弁する意思と対置する人民全体の一致した意見(一般意思)が政治によって代弁されるべきことを強調し、政治の担い手は人民自身(国民全体)であるという人民主権の考え方を示しました。この思想が後のフランス革命に影響を及ぼしました。

 要するに、一般意思概念はイギリスで萌芽し、フランスでさらに強固なものへと発展しました。そしてこの概念を基礎として「全国民の代表」概念が形成されたものと理解しています。

 なお、質問者様は「一般意思であれば全会一致の原則から功利主義への流れへの説明の課題もあります」と指摘しておられますが、この点私も首肯できます。ただし、市民革命と功利主義を二律背反として対置するのではなく、両者を必然的関係(発展的関係)として位置づけるのが妥当であるとも考えます。

 参考文献は多数存在しますが、私が利用している文献を記しておきます。
 
 総合的研究社会(旺文社) P462-463「啓蒙思想家と社会契約説」
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
正直なところ、私の43条解釈(全国民の代表は、全国区でしか図れない)が幼稚すぎるとの批判が適切だと自認するものですが、憲法典として国民に分かるような条文が求められると考える上では、そのような幼稚な発想に適切に回答するためのロジック・セオリーが必要だと思っています。最終的には、持論の妥当性は44条に求められることになりますが、それについて、本稿では割愛させていだきます。
 さて、社会契約論における説明としての「全国民の代表」については指摘する部分は理解します。問題は市民革命と国民国家の形成の関係です。
 確かに、ロックの自然法・自然権概念・立憲主義から国民国家の概念を取り出すことは可能ですが、そこにある『国民』の実像が極めて排他的と言えるでしょう。
 一般意思の主体として想定されるのは、ルソーであっても成年男子のみ。ロックの時代であればいわゆるシビリアン(文民・市民)ではなく、ブルジョワの市民まででしょう。
 「主権者」と「国民」が(ほぼ)一致する時代は第二次世界大戦後ですし、二重基準の国があることは言うまでもありません。
 仮に市民革命が”女子選挙権を排斥しない”完全普通選挙制度を実現しているならば、選挙区に関わらず「全国民の代表」と考える余地はありますが、完全普通選挙の実施は1919年ドイツであり、市民革命の時代は終焉しています。
 市民革命当時において女性は”主権者ではないにしても国民であった”と考えられるわけです。ちなみに、国民国家概念の実質的発現は、ナポレオン帝政であって、市民革命は単なる「市民国家」(市民階層による政治主導の国家体制)樹立と捉える歴史認識です。
 当時の国民観を精査し、現代社会の主権・国民の現状を考える限りは、主権・国民の二重基準を無視した「国民国家」=「全国民の代表」、市民革命の経緯は国民国家の狭量な認識としか思えません。(オリエンタリズム的な国民国家理解とも)
 これに関しては別のお礼でも指摘させて貰っておりますので参照していただきたく思います。

 さて、「市民革命と功利主義を二律背反として対置するのではなく、両者を必然的関係(発展的関係)として位置づけるのが妥当」との見解に関しては、指摘を受けて再考しました結果、正論と考えます。
これに関しては、”発展的関係”との指摘が歴史過程としてもっとも妥当で説得力があると思うので、私の言説が適切ではなかったように思います。
 指導上では功利主義・市民革命の二律相反の視点で説明することはありませんが、個人的にはちょっと恣意的なものを見出している偏見があると自覚しておりますので、今後注意します。

 本論とは異なる枝葉の問題ですが、市民革命の歴史指導については私も意識するものでありますので、お礼させていただきました。
なお、本件に関しては、選挙観・主権観に資する問題で、本論との関連性が深いものと考えていますので、質問の埒外とは考えておりません。(私個人は)

丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/22 10:23

いずれも常識に属する話かと思っていましたが、根拠を示せということでしたら後ほど提示することは可能です。

その前に、

>>ちなみに、「全国民の代表」なる概念がイギリス発祥というのは根拠は見当たりませんが、どこかにある話でしょうか?マグナカルタを初めとして、そのような認知が発生しえるとすれば、国民国家概念の発生なくば説明できないと思われますが?<<

とありますが、国民国家(nation-state)の意味はご存じですよね?(この認識が共有されていないと根拠を示したところで意味はないので) 例えば手元の辞書(大辞林)を引きますと、「封建制の身分制的枠組みを破り国民的同一性を基礎として成立した近代的中央集権国家。近代国家。民族国家」とあります。すなわち、絶対王政の後で成立した、意識や経済活動などの面で国民としての一体性を持った国家、のことであり、イギリスやフランスの市民革命の後にこれが成立していないとする根拠が私にはよく分かりません(それこそ歴史家でしたら根拠を示していただかないと(笑))。国民国家の発生に地方分権の様態などは関係ありませんよね。その点、ご理解をうかがった上で次回回答したいと思います。
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この回答へのお礼

 『国民国家』はフランス革命を契機にした概念と理解しております、
近代社会の概念としては「国民主権を形式的基盤とする国家体制」でしかなく、中世身分制などの問題は、欧米中心主義の歴史観として狭量と断定できるでしょう。形式的に言えば、「国民(民族)単位を基調とする国家体制」
 そもそも、国民国家は「全国民の代表」を前提とする国家であるとは言い切れません。
アメリカ連邦法を始め、市民革命の立法議会議員は「全国民の代表」を前提にした形跡もありませんし、市民革命によって成立した議会は、シビリアンではなく、ブルジョワ市民の階層代表に過ぎません。(マルクス的な見方には一定の妥当性があるでしょう)
 仮に、普通選挙制度が出来上がった上でならば「全国民の代表」と見なす余地はあるでしょうが、市民革命当初の選挙権は極めて限定的です。
 簡単にいえば、国民と有権者のダブルスタンダードが市民革命の現実ですし、その二重の市民基準が残っている国家もあります。
 国民国家=「全国民の代表」が、あまりにも安易な考えというのが批判の論拠です。
辞書の『国民国家』の規定が極めて怪しいですし、その要約も極めて不適切と言えるでしょう。
 個別に検証させてもらうと
「絶対王政の後で成立した、意識や経済活動などの面で国民としての一体性を持った国家」
”絶対王政”を前提条件にする必要性がないのは、日本を始め、諸外国でも分かることです。むしろ、西欧の中央集権国家の事例だけで国民国家を考えているのは、狭量と言えるでしょう。それとも、名の知れない絶対王政を経過しない国々は国民国家ではないと言うのでしょうか?(民族主義的過程で成立した国民国家の方が圧倒的に多いのも現実)
 次に”意識・経済活動などの面で国民としての一体性を持った国家”は必要ありません。
例えばバチカン市国は国民としての一体性を持った国家ですが、国民国家と解する人はいませんし、北朝鮮も権力による強制によって国民の一体性を持った国ですが国民国家とは言われません。仮に国民意識がバラバラに近くても形式的に国民主権・人権保障などの近代国家の基本原則を満たせば国民国家と看做すことが可能でしょう。スイス・スウェーデンなどの特異な国家は国民意識がバラバラであっても国家体制において妥協的一致を見ていることから国民国家と看做されることからも説明可能でしょう。
 歴史的には、その<国民の一体性の内実>が国民国家の要諦と考えるのが妥当で、その遡上で、民主主義・全体主義などのイデオロギーの説明が行われることでしょう。

 以上のことから、すでに、国民国家=国民全体の代表、という発想が理解できません。
仮に国民国家になったとしても、選挙制度において過剰に有権者制限される状態ならば、到底「全国民の代表」とは言えないでしょう。
例えば、普通選挙が実施されない選挙で、「全国民の代表」の選挙と言えましょうか?
女性の(被)選挙権は第二次大戦後にやっと認められる傾向ですが、それ以前の国家が国民国家であるにしても「全国民の代表」などと評するのは、妥当とは到底思えません。
 むしろ、個人的には、国民国家=「全国民の代表」という論理、同時に市民革命における市民が一般庶民・労働者・農村社会を代表せずに、市民(ブルジョワ)代表で留まった事実を知らない意見から、市民革命=全国民の代表・という発想が生まれてきたと考えます。


 満足ゆく回答とは思いませんが、私の歴史観について以上のように説明しておきます。
国民国家と市民革命はセットにするものではありませんし、「全国民の代表」もそれらとセットにしていい実体があるとは判断できません。
 ちなみに、”イギリスやフランスの市民革命の後にこれが成立していないとする根拠”を求められても、存在しないものを立証できません。存在すると主張する側の立証責任の問題です。
 もっとも、成立してないと看做せる根拠は、市民革命において成立した議会の実態を見れば分かるでしょう。当時の圧倒的多数であった農村・労働者の国民の意見を代弁するような議会が発生するのは、市民革命以後のお話です。イギリスでいえば、チャーチスト運動こそが「全国民代表の選挙」と基調とする政治運動と言えるでしょうし、類似的な政治運動は、普通選挙運動・公民権運動と考えられます。
 ちなみに、市民革命の定義に関しては、富裕層・新興商人の参政権運動と大雑把に捉えるもので、それは決して、”全国民”ではない、という回答も歴史観としてマルクスを代表にして提示されうるものでしょう。

お礼日時:2010/03/22 09:52

私はご質問に即して答えたつもりでしたが、



>>現実に有権者・当選人とも選挙区内の政治の拘る傾向であることは、43条の精神性が蔑ろになっているという意味では問題提起されて然るべきでしょう<<

という記述から拝察するに、どうやら制度や憲法の条文の趣旨の説明ではなく「あるべき論」を求められたと言うことですね。それならば学生さんたちと自由に議論されたら結構であって、お求めであろう理想の選挙制度や政治制度がいまだこの地上にはないことを考えると、ある特定の「答え=解決」を求める「教えてgoo」の趣旨には反するのでお答えしかねますが、お礼について何点か。

>>本当に「全国民を代表する」ならば全国区選挙であって然るべき、という理屈にも妥当性はあると思われます。<<

そうではありません。全国1区なら全国民を代表するというのはあまりに単純な発想ですよね。
たとえば全国1区で定数10の国会があるとします。欧米ではこの場合有権者は10票を投じる権利がある(一つの投票用紙に印刷された候補者のうち10人に丸をつける権利がある)と考えます。議員を10人選ぶのだから当然です。そして仮に民主党支持者が自民党支持者より1%でも多かった場合には、当選者は10人全員が民主党候補になるはずです。ではこれは正しく全国民を代表しているでしょうか?逆に日本がかつてそうだったように有権者が1票だけ投じるとしても、著名人候補が一人で99%の得票をしたら、後は多数の支持を得られたとは言えない人が当選してしまうことになります。いずれにしても「代表性」はゆがんでしまいます。
もちろん全国1区の選挙の場合には、1票の格差の問題は生じないというメリットはありますが、こうした代表性のゆがみは選挙区の大小にかかわらず必ず生じます。代表性のゆがみは、選挙区の大小ではなく選挙方法そのものによって生じるからです。

>>なお、市民革命の議会政治の発想に関しては、特段にそのような理解は判然としていないと思われます。<<

これはそれこそ憲法学の教科書をご覧いただきたいのですが、そもそも「全国民の代表」という概念が生まれたのはイギリスにおいてですし(イギリス下院は一時期をのぞき完全な小選挙区ですが、議員は当初から院内での完全な投票の自由を有していた)、フランス革命では身分ごとに分かれた三部会をこわすことから革命が始まりました。アメリカ独立戦争はそもそも、新大陸を代表していない英本国議会が新大陸の意思に反して課税をしようとしたことが発端でした。いずれもすこぶる国民全体としての主権的意思表示の問題であって、

>>アメリカは地方分権国家としての出発から考えれば、「全国民の代表」というよりは、特定地域の代表という素地が強いと考えるべきでしょう。同じことは、緩やかな地方分権社会の近世イギリスにも通じるものでしょう。<<

というのは、理解が少々足りないというべきです。ルソーによる一般意思はむしろ前回お答えした「命令的委任」の根拠となる考え方であり、国民代表の基本とはむしろ異なるものです。

>>主権の根幹である選挙制度を立法裁量権に大きく委ねることは、主権の自滅と看做す余地もあろうことは言うまでもありません。<<

選挙制度は主権的な決定であり、それをなしうるのは議会をおいてほかにありません。ゲリマンダーなどというのはご承知のはずですが「政府による」恣意的な選挙区設定であって、立法の裁量権の問題ではありません。

>>次に、小選挙区が違憲であるとは明確化されませんが、制度的妥当性に関してはその嫌疑は投票較差の問題を含めて課題となるでしょう。<<

繰り返しになりますが、この「制度的妥当性」というのは憲法の問題ではなく、政治的な意思決定の問題です。
具体的に言うと、もし「国民の多様な意思を正確に議会において表現する」ということを目標とするならば、全国1区の比例代表制が最もそれに近いことになるでしょう。一方で「特定の争点に白黒をはっきりつける」こと、つまり重要政策における世論の反映を最重要視するならば、小選挙区は最も妥当な制度になります(郵政選挙の時、自民党と民主党の得票数自体には決定的な差がなかったことを想起せよ)。両方の目標に優劣はありませんから、どちらを選ぶかは政治的な決定によらねばなりません。1票の格差の問題は重要ですが、より重要な要素は「国民の意思をどのような形で代表するか」に尽きます。投票価値の格差是正は制度設計で対応できるものですし、現実に諸外国ではそのようにしています。
憲法は、そうした政治的主権的な意思決定を重視してるため、くどくどと細かい規定を作っていません。ですから

>>合憲・違憲の判断は司法権の範疇とは考えられません。<<

というご認識は、この言葉の範囲内でその通りです。全国選挙区の妥当性とは全く関係がないのですがね。

>>最終的には憲法学において、立法裁量権を大前提にした評論が圧倒的なのは周知の事実です。<<

この程度のご認識では、政治的主権的な意思決定と立法裁量権を混同されるのも無理のないことですが、

>>与えられた制度・理論をそのまま受け入れるのではなく、より妥当な制度を模索する創造力ある学習を目的する立場としては、憲法学の立場だけで評論するのは物寂しいと思った次第です。<<

憲法は、まさにこういう議論の末に最も望ましい選挙制度を模索することを求めていて、そのために、非民主的なものや両院の性質の根幹にかかわる部分(たとえば、任期や衆院の解散、参院の半数改選など)をのぞき幅広い選択の余地を認めています。その意味で固定的にこの制度が望ましいとは決めつけていないのです(当然、全国1区の選挙区が望ましいとも決めつけてはいない)。選挙や代表のあり方を国会において議論すること、そして国民がその議論を見て、主権的意思を形成すること(質問者の好みに合うだろう表現を用いると、政治家を監視すること)が正しい国民の政治に対するかかわり方で、是非生徒さんたちにはそうした主権者としての責任と権利を自覚させるような教育をなさってください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうざいmす
さて、再び反論させてもらうと
基本的に選挙制度として代表制である限りは、一長一短であるこは、コンドルセの定理を筆頭に指摘される部分ですし、それを踏まえての反論ですので、ご理解ください。
 ちなみに、「全国民の代表」なる概念がイギリス発祥というのは根拠は見当たりませんが、どこかにある話でしょうか?マグナカルタを初めとして、そのような認知が発生しえるとすれば、国民国家概念の発生なくば説明できないと思われますが?
 同時に、フランス革命後の議会でも国民国家の意識が議会に芽生えた形跡は見られませんし、アメリカにして同じことです。指摘されるような理屈の根拠になるような歴史事実を具体的に説明してもらえると有難いです。(歴史で飯を食べている立場ですが、アメリカ大統領選挙は別にしても、制度的にアメリカ・ドイツ上院のような地方分権を首座にした議会・選挙制度は実在しますし、市民革命で説明するのは後発の中欧諸国などには適応しないと思われますが?)
 ちなみに当地委任と代表制は、信託という結果において同質であるにも関わらず、別物とはどういう理由でしょうか?社会契約説を読む限りは、別物と解する余地は見当たりませんが?
 ”投票価値の格差是正は制度設計で対応できる”という指摘は根拠はあるでしょうか?ないからこそ、立法の不作為が続いているわけであり、司法も制度上の限界を指摘しているはずですが、判例は読まれいますか?
 ちなみに個人的には、回答の根拠になるものが見当たらないので、可能ならば、持論を正当化するために利用された書籍などご紹介くださると助かります。
 なお、政治的主権的な意思決定と立法裁量権の混同の意味が分かりません。
主権の根幹に関わる問題は、より主権者の直接意思が尊重されるものであって、立法裁量権に委ねられるべき性質でない、というのは国会内でも意見されるところであり、混濁した覚えはありませんが?
 なお、ゲリマンダー・ハトマンダーは政府(行政)による作為的行為ではなく、その背後に議会の承認があり、議会の責に資するものでしょう。仮に政府が独自に決定できるような選挙制度ならば、立法裁量権の余地は指摘できませんが、ゲリマンダー・ハトマンダーともに立法の経緯があるのであって、裁量権の最終責任と見なすのが妥当でしょう。
 私個人は、当人の思い込みに近い政治認識で論じる根拠の希薄な反論と読めてしまうのですが、私の浅学を戒めるためにも、情報を頂ければ幸いです。
 なお、私個人はgooではなく、OKWAVEの利用ですので、gooの話をされてよく分かっておりません。

回答ありがとうございました。重ね重ね無礼かもしれませんが、実のりある向学のために情報を提供して頂きたく思います。
 

お礼日時:2010/03/18 03:26

>彼らにある程度の法理論的妥当を持って、現選挙制度を肯定させるような良い知恵はないでしょうか?



別の回答のお礼に書いてあるような、「現実に有権者・当選人とも選挙区内の政治の拘る傾向であることは」というのは「法理論的妥当性」の議論ではないね。
まさに「現実はそうだ」ということ。
「現実」をもって現制度を擁護したり批判したりする法理論的根拠とすることはできない。

「全国民を代表する選挙された議員」というのは、「全国民を代表する議員、かつ、選挙された議員」。
だから、リクツで言えば、43条からは、地方区選出だろうがなんだろうが、議員は選挙で選出し、全国民を代表するものとして行動すべきということしか出てこない。
つまり、選挙区がどうかと全国民の代表かどうかはリクツでは関係がない。

で、「現実にはどうか」という話をすれば、地方区選出であればその選挙区の利害に引っ張られるという弊害はたしかにある。
しかし、他方では、候補者全員が全国区になれば、「現実問題として」例えば熊本にいる候補が全国民の代表としてふさわしいかどうか、その人となりを北海道の有権者が判断できるかというような問題が出てくる。
選挙活動にもカネと労力が必要なる。
そうなると、結局は芸能人やスポーツ選手といった全国的に名の知られた候補者が有利というバイアスがかかりかねない。
そうだとすれば、繰り返すけど、選挙区がどうかと全国民の代表かどうかはリクツの上では関係がないという前提であれば、その候補者の人となりがある程度知られているであろう地域を選挙区とすることには妥当性があると思うよ。
以上はあくまで「現実には」の話なんだけれども、法理論的にはどちらでもいいわけだから、具体的にどういう制度を選択するかは憲法からは出てこない。
立法裁量ということになる。
そうすると、立法を支える立法事実の議論にならざるをえないんじゃないのかな。

以上とりあえす43条の話ね。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。

まず43条に関する指摘は概ね、首肯するしかありませんし、持論の稚拙さ(安易さ・強引さ)は否定できそうにありません。
 さて、少し選挙制度の現実面の話として、学生からの意見について紹介させていただくと
『熊本にいる候補が全国民の代表としてふさわしいかどうか、その人となりを北海道の有権者が判断できるかというような問題』などについては、
 現実的には地元候補であっても判断できる保障がないという批判があり、全国区を擁護するヘリクツとしては、情報化社会によって地域的情報格差はpublicには縮小していることが挙げられます。
 例えば、選挙区外のA候補の公約・政治姿勢などは積極的に情報公開されている現状を考えれば、情報格差は少ないと言えますし、情報格差を制度的に縮小する努力も必要でしょう。
 次に、『選挙活動にもカネと労力が必要なる。』との批判は選挙区規模の問題とは言い切れませんし、制度的に選挙資金制限を実施するのが適切とも言えます。
 『芸能人やスポーツ選手といった全国的に名の知られた候補者が有利というバイアスがかかりかねない。』との批判は、既に現職候補であることからアドバンテージが存在することへの批判も必要であって、公平性を保つにも限界はありますし、著名人の参政権を制限する法理は不可能であり、それらを排斥する理屈も本義ありません。有名であることがバイアスになる一方で、アンチバイアスになることも考えれ、差し引きする評論すらあるでしょう。小泉元総理の息子さんなどはその典型例と言えるでしょう。
 最終的には、”どの選挙区制度も一長一短であり、BESTな選挙区制度が存在しない”が選挙の現実と結論つけておりますので、やはり、選挙区制度の選択は理論上での決定に適さない主観的なものに依拠するとは思います。
 そこで最終的に立法裁量権に委ねるという憲法規定が有効になりますが、以前述べたとおり、選挙区割りを作為的に設定できるような立法府権限のありようの危険性は、ゲリマンダー・ハトマンダーの事例で提示した通りです。
 私の本質的な意見は、「全国区選挙」ではなく、選挙区割りを立法裁量権に委ねることに麻痺してはならない、であって、全国区選挙の妥当性は44条に尽きます。
 最後に私個人の意見としては、選挙制度に関しては、国民投票のような直接投票によってのみで正当化されるべきであって、安易な立法裁量権に委ねるべきではないと考えます。
 これは、外国人地方選挙権問題とも関係し、地方選挙権問題を地方抜きで議論したり、国民意見が放置される現状など選挙制度の直接民主制をもっと重んじてほしいことにあります。

 ちなみに、44条関係の話は意図的にしていないことに意味があると考えております。

お礼日時:2010/03/22 10:45

 bismarks05様、はじめまして。

私のささやかな意見ですが、生徒たちに以下のように説明できると思います。
 
 「代表」という語は、原文ではrepresentativeとなっています。この語は代理というニュアンスも含んでいます。したがって、43条は治者と被治者の意思の連続性を要求する規定ということになります。

 44条(14条)に関しては、違憲説と合憲説の双方に触れることができると思います。違憲説は、一票の格差が二倍を超えると一人に二票を与えるに等しく、平等原則に反するとしています。一方、合憲説は、投票価値の平等は、住民構成・交通事情・地理的状況などの政策目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものとしています。

 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
この問題に関して私も学生に説明したのですが、憲法は日本語の文章で採決されたものであって、英文の原意に基づいて判断することの妥当性について一定の留保が必要だと考えています。その旨も学生も確認していることですので、原文・原意主義の採用は難しいと思います。
 43条の治者・被治者の連続性については、同条の主語が「両議院は」であることから説明できると判断しましたが、それでも文章を素直に読む限りは、議員とは「全国民の代表」という文章のみを抽出することは無理からぬことと思えてしまいます。もっとも、43条をもって即時、全国区規模だけの正当性を導き出せるものではないのは、回答された方の指摘する通りだと思います。

 次に、44条に関してですが、投票価値の問題は、衆議院2倍・参議院6倍という司法判例まで説明した上で、学生の見解は、憲法条文から数的較差の妥当性を見出せないという見解が出ました。つまり、2倍であろうと6倍であろうと投票価値の等倍のみが合憲という意見です。(非現実的である旨は説明しましたが)
 そして、学生さんが全国区を希望する最大の理由は
好ましい立候補者を探すに選挙区内に該当する政治家が見当たらない。全国区ならばまだ信託できる政治家が見当たる、という見解が大きいようです
 他にも様々な意見がありましたが、選挙制度の歴史(明治時代から1928年・1992年の改正を重点的に)を提示しながらおおよそ、一番各人が妥協できるのが全国区選挙でした。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/17 21:50

憲法43条にいう「全国民の代表」の趣旨は、これはどの憲法の教科書にも書いてあることだと思いますが「自らの選挙区の有権者の意思に縛られずに、全国民のことを考えて行動すべし」という意味です。

仮に自分の選挙区で消費税率引き上げ反対の声が多数であっても、全国民の利益のためになるなら、税率引き上げ法案に賛成するという行動が許される、という訳です。これは市民革命のころから議会政治の基本的な考え方です。

これとは異なり、議員は選挙区の世論を忠実に反映すべしという考え方(命令的委任という)もあります。憲法学者の中には異説もありますが、今の憲法はそうした考え方を取らないということをこの条文で示している訳です。

従って、43条と具体的な選挙制度とは別次元の話であり、選挙制度は選挙制度で、多様な民意をどのように議席に反映させていくかを立法府が自らの裁量で考えていくことになります。

以上のことから、小選挙区は違憲ではありませんし、必ず全国区にしなければいけないという訳でもありません。是非図書館などで憲法学の教科書を参照されますように。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます
さて、学生との議論の上で「全国民の代表」の意図が”全国民のことを考えて行動する”を意図するのは当然のことと思います。ただし、現実に有権者・当選人とも選挙区内の政治の拘る傾向であることは、43条の精神性が蔑ろになっているという意味では問題提起されて然るべきでしょうし、本当に「全国民を代表する」ならば全国区選挙であって然るべき、という理屈にも妥当性はあると思われます。
 なお、市民革命の議会政治の発想に関しては、特段にそのような理解は判然としていないと思われます。
例えば、フランス革命・アメリカ独立戦争・名誉革命などの一連の市民革命は、議会政治において一般意思を尊重するべきことを意識したとは言い切れないと思います。それが顕著なのは、アメリカ独立宣言であり、アメリカは地方分権国家としての出発から考えれば、「全国民の代表」というよりは、特定地域の代表という素地が強いと考えるべきでしょう。同じことは、緩やかな地方分権社会の近世イギリスにも通じるものでしょう。
 仮にご指摘が、JJ・ルソーの社会契約論の一般意思などを想定しているとしても、一般意思とは全国民とは限らず、領邦国家の特定地域の一般意思も考えることができます。
 したがって、市民革命から全国民の利益(一般意思)が大前提であったとは言い難いと思われます。
同時に何より、一般意思であれば、全会一致の原則から功利主義への流れへの説明の課題もありますので、市民革命を抽出するのは強引だと思います。(学生にもその部類の説明はしましたが・・・・

 さて、実は本論において課題となったものは、立法府の裁量権の妥当性の課題です。
ゲリマンダー・ハトマンダーなどの弊害を含めて立法府の裁量権を大前提にした選挙制度は、立法府のご都合主義に流れる歴史があるのは言うまでもありません。主権の根幹である選挙制度を立法裁量権に大きく委ねることは、主権の自滅と看做す余地もあろうことは言うまでもありません。
 次に、小選挙区が違憲であるとは明確化されませんが、制度的妥当性に関してはその嫌疑は投票較差の問題を含めて課題となるでしょう。現実に投票較差是正の司法判断を抜本的に解決する手段は全国選挙以外には存在しないとも言われますし、43条・14条は等倍を要請するものと解するならば、全国区のみが実現可能と考えられます。
 あくまでも、憲法上では、全国区選挙がもっとも妥当な選挙区であるという認識であって、合憲・違憲の判断は司法権の範疇とは考えられません。
 さて、最終的には憲法学において、立法裁量権を大前提にした評論が圧倒的なのは周知の事実です。
これは、日本国憲法が英米法的な性質と「法の支配」の見地から違憲立法審査を認める構造であることなどの背景から仕方ないと言えます。
 ただし、憲法学で導かれる立法裁量権だけで考えるに適さない問題というのも事実と言えます。
本件に関して、意図的憲法を提示したのは、中学生であることが原因で本義は公職選挙法・国会法などを総合的に勘案するべき事象ですが、私が憲法学の本を読む限りは、どの選挙制度であろうとも一長一短であり、主権者の政治観に依拠する課題として学生に自律的に好ましい選挙制度を考える機会にする目的で行いました。
 与えられた制度・理論をそのまま受け入れるのではなく、より妥当な制度を模索する創造力ある学習を目的する立場としては、憲法学の立場だけで評論するのは物寂しいと思った次第です。

 回答ありがとうございました

 

お礼日時:2010/03/17 22:16

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