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日本の歴史認識についてお願い致します。幕末期に活躍した藩は、薩摩 長州 土佐でした。

この三つの藩はなぜいろんな多彩な人材を輩出する事ができたのでしょうか?

現代では、この三つの藩つまり鹿児島県 山口県 高知県はたいした産業も無くて
現代文明から取り残された典型的なダメポ♪地方の代表ですが
どうしてあの幕末期には幕府(国)を動かすような大それた事ができたのでしょうか?

今でも鹿児島は、警視庁には鹿児島閥のなごりがありますし、山口は多くの首相を
排出しています、土佐は自由党が根強い基盤をきづいています。

これらは幕末期のなごりであります。

でもお金儲けの産業やビジネスではさっぱりアカン券でもあります。

幕末期の最大の謎をしりたいので
よろしくお願いします。

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A 回答 (8件)

No4です。



このような背景の下、長州藩(毛利)は当然アンチ徳川の家風になります。
徳川より、朝廷と深く関係を結びます。(これ以前からそうでしたが)
水戸の思想(将軍より天皇がえらい)を大きく受け入れ、、尊皇攘夷・倒幕に
なるのは、自然の流れでしょう。
幕末期の殿様である毛利敬親は、家臣の進言に対して「そうせい、そうせい」
となんでも好き勝手にやらせていました。
家臣内にも穏健派はいましたが、過激派(吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、
久坂玄瑞など)が実権をとり、倒幕の道まっしぐらです。


土佐は山内含む上司は、当然徳川あっての自分たちと思っています。
長宗我部の残党の子孫たち(坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山など)は、
徳川や山内に対して、なんの恩恵もさずかっていないので、自分たちを
人間扱いしてくれる思想に傾向します。
外人と結ぶ、腰抜け幕府はあてにならん、日本を自分たちで守ろう、命を
かけようと、自分の国(土佐)を捨てて、活動するモチベーションが高かった
かと思います。


薩摩は関が原以降、幕府が一番目をつけている藩でもあり、何度もお家
断絶の憂き目にあっています。幕府からのムチャ振りで、財政困難におち
いり、それを立て直すため、密貿易を行い、国を豊かにします。
また、海外の情報や文化を多くとりいれ、歴代の殿様はそこそこ切れる
人物ばかりでした。
幕末期の島津斉彬はまさに、奇跡の人で薩摩人でありながら幕府に取り
入られ、外様では許されないような進言を行い、内政を変えてゆきました。
斉彬の秘蔵っ子が西郷であって、大久保利通や小松帯刀など、有能な
人材が育っていきました。
(最終的には、この混乱期を幕府は治める能力がなく、倒幕になりますが)


他の国は、そのほとんどが事なかれ主義であって、信じられないことですが
日本の混迷期においても、ほとんど危機感を感じません。
外様は牙を抜かれており、徳川に対して、薩摩や長州のような強い遺恨も
ありません。反発して取り潰されるより、自国を守っていこう、という保守的な
考えが、当時のあたりまえの対応でした。
親藩大名も徳川の顔色を伺うのが常であって、譜代にしても当然徳川支持
です。(水戸藩を除いては)


徳川が日本を統一してから、ちょっとした反抗した藩は取り潰す。という荒治療
を行ってきたので、穏便にすませることが生きるための術でした。当然、反抗し
ようなんて藩は出てこないのが、当たり前です。

奇跡的な交渉で、土地の没収を免れ、密貿易によって自国の国力を上げた薩摩。
徳川に末代まで恨みをかうような裏切られ方をし、朝廷と結んでいた長州。
この二藩は必然的に倒幕の流れになったように思えます。
いうならば、土佐藩のみ異例で「命をかけて世の中をなんとしたい!」と思えるほど、
郷士たちは虐げられていたことが想像できます。結局、上司たちは(板垣退助、
後藤象二郎、福岡孝弟など)世の中が倒幕の流れになってきて、なんとかその
流れに乗りたいがために、郷士たちを利用したにすぎません。


長ったらしい説明ですいません。
ただ、質問者さんの質問は、関が原まで遡らなければ答えが見えないような気が
しましたので。。。
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この回答へのお礼

歴史研究家さんですか?
とても分かりやすい最高の回答ありがとうございます。

薩摩藩の生き方とても知恵と勇気がありますね。
また、長州が討幕に動いたのは関ヶ原の毛利家に対する仕打ちに原点が
あるのもよく理解できました。

かわいそうなのは長宗我部ですね。味方の動きに翻弄されさぞや無念だったでしょうね。
その後上志と下志とうキツイ身分制度がなぜ土佐にできたのかもよく理解できました。

彼らの歴史的な辛酸つまり関ヶ原を原点とする境遇から討幕とう流れが
必然的に起きたということがとてもよく理解できました。

さすがの回答とても参考になりました
ありがとうございました。

また、機会がありましたらよろしくお願いします。

お礼日時:2010/03/19 00:18

幕末にあって薩摩と長州が圧倒的な国力を持つに至ったのにはわけがあります。

 この両藩は外国との貿易に拠って莫大な富を蓄えていたのです。 薩摩は琉球王国を従えており、ここを通じて三角貿易を行っていました。 徳川幕府もこのことに気づいており、再三密偵を放って調査させるのですが、ことごとく失敗に終わったのです。 薩摩は意識的にお国言葉(薩摩弁)を作り、外部の者と区別し、密偵をそのたびごとに見破り、始末していたのです。 

一方の長州藩は戦国大名だった大内家の代から明国と貿易をしていました。 江戸時代に入り、鎖国となってもそこは鍛えた村上水軍の子孫が密かに豊浦の港を通じて密貿易をしています。 

両藩とも重農主義から重商主義にハンドルを切り替えていたのです。 これに対し、幕府も田沼意次の時代に貿易拡大に拠る財政改革が進められ、重商主義への舵取りが行われましたが、結局は続かなかった。 彼の死後、幕府は再び重農主義に回帰しています。 

18世紀後半、イギリスに始まった産業革命により、流れは大きく重商主義へとシフトしており、これに乗り遅れた国々は結局欧米列強の植民地となる運命に巻き込まれています。 日本がこの渦に巻き込まれず,巧く波に乗れたのも、薩摩、長州という貿易に長けた両藩の力に負うところが大きいのです。 
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この回答へのお礼

とても面白いお話ですね。
経済面から歴史のなぞ?をひもとくとこおいう事がいえるわけですね。

龍馬も将来を見据えてまた個人的な野心で海運業を志したのは
あの時代の中では秀逸ですね。

世界史の中の日本史の位置ずけがよく理解できました。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/31 03:21

幕末に活躍した藩という言い方でいえば京へのぼり活動した藩は規模の大小はありますが全国の殆んどのはんがそうであったとおもいます。

寛政の改革で松平定信が朱子学を幕府の官学にしてがら各藩で朱子学が盛んになり開国問題が起こると日本中の各藩は攘夷派開国派の争いがおこります。薩長土も例外ではありませんが、薩長は外国との戦争を経験しそれまでの攘夷の無謀さを悟り西郷、高杉といったカリスマ性も強いリ-ダ-が現れましたが幕府には有能な武士、大名は多くいましたが協力なリ-ダ-がいませんでした。ちょうど今の自民党ににています。その隙を岩倉具視がうまく倒幕導き明治維新にもちこんだのであり、勝てば官軍で薩長土の人材ばかりが名が残っただけのようにおもいます。開明的な人物は朝敵とされた方が多かったとおもいます。そもそも王政復古なん体制を1000年も前に戻すことなんですから。いざ政権をとったものの、明治政府は中枢部があわてて欧米へ勉強に行く始末ですから。今の時代自民党という幕府がグロ-バル化という黒船に翻弄され国内に不満が多くなってきたところを民主党がマスコミという天皇を錦旗にたて総選挙という倒幕運動に成功したが、いざ政権をとったももの、どうしたらいいのかいきづまっているのとおなじです。坂本竜馬、吉田松陰等は薩長土が明治政府をつくったので名がのこっていますが明治維新の成立が他の方法であったなら埋もれていたでしょう。
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この回答へのお礼

政治つまり世の中のあり方はトップに立つ人間性に左右される事が今も昔も
多いと再認識です。

坂本龍馬は偉大な英雄だったのですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/31 17:58

原因は南北朝時代に遡ります。



室町時代に南北朝が統一されて、結果的に北朝が天皇家として継続されました。
しかし、南朝の天皇家の末裔が長州藩に住んでいました。その家は「大室家」といいます。

幕末当時の大室家には大室寅之祐という人物がいました。

そして伊藤博文が孝明天皇とその子明治天皇を暗殺しました。
その後、大室寅之祐は明治天皇になりすまし、即位しました。

つまり、明治維新の本当の目的は倒幕ではなく、南朝の再興です。

南朝の後醍醐天皇の側近に「菊池」という名の者がいたそうですが、
薩摩の西郷隆盛は変名に「菊池」という名前を使用しています。
つまり、西郷は後醍醐天皇の側近の末裔であったと思われます。

身分の低い西郷が、抜擢されて薩摩を代表する人間になれたのは、その人間的魅力や
能力だけではありません。

つまり、長州と薩摩は南朝を再興するという共通の目的があったのです。
他にも、いろんな証拠などがありますが、長くなるのでこのへんで・・・
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この回答へのお礼

初めて聞く話ですね。でもなぜというご説明が無いのでいまひとつ・・・?

伊藤がなぜ天皇家を?西郷は天皇家側近の子孫の確たるゆえんは?つまり証拠は?

よくある歴史ばなしのトンでもの類におもえますが どうなんでしょうか?

お礼日時:2010/03/19 07:46

各藩によって、それぞれ事情が異なります。


唯一同じ条件なのが、関が原の遺恨かもしれません。

関が原の戦いは、東軍・徳川に対して、西軍・毛利でした。
建前上は西軍は石田になっていますが、総大将はあくまで毛利です。

さて、この毛利家は「三本の矢」で有名ですが、その矢の一つ吉川家の
吉川広家は密かに徳川に内通していました。
内通といっても、毛利家を裏切るためではなく、毛利家の安泰を考えて
内通していまいた。
仮に西軍が勝ったとしても、自分の殿様は戦を知らない世代であって、
天下を治める技量がない。であるなら、徳川に大きな貸しを作り、毛利家
を安泰させようと考えていたようです。

そして、関が原の戦いが始まりました。
西軍が優勢です。これに追い討ちをかけようと、土佐軍である長宗我部も
戦に参加しようとします。しかし、前には毛利軍がいて、先にすすめません。
当然の如く、長宗我部は勝ち戦の好機なので、毛利軍も戦に早く参加し、
長宗我部軍も後に続く!と進言しますが、吉川広家は「弁当食べてるから
ちょっと待って」といって、道を塞いでしまいます。
そんなこんなしている間に、小早川が裏切り、西軍壊滅。毛利軍は待って
ましたとばかりに退陣。長宗我部軍は、なにしにきたかわかりません。
何もしないうちに退却します。
薩摩軍は自国より石高が低い石田とソリが合わず、命令を聞きません。
そして、退却。この退却はすさまじく、殿様を逃がすために、東軍を中央
突破して退却します。鉄砲隊は座り込んで陣を構え、死ぬ覚悟で殿様を
逃がしました。

無事に戦が終わり、吉川は徳川に毛利家の領土安泰、上手くいけば
領土を更にもらえると思っていました。しかし、家康の対応は、吉川個人
には感謝しているので、毛利の土地をお前に与える。毛利の土地はほぼ
没収。という処置にあいます。吉川は自分の殿様の領土をもらえるわけも
なく、強い恨みを抱いて減法された土地へ引き返します。これ以来、毛利
家では、正月になると、この恨みを忘れぬよう、ある行事を行います。
「殿、今年こそは徳川を打つ年かと」「・・・いや、まだそのときではない」
とのやりとりを行い、孫の代までこの恨みを忘れぬようにします。
このやり取りが見つかっただけでも、お家取り壊しです。

土佐の長宗我部は、やる気マンマンにも限らず、土地を全部没収。
長宗我部家は滅亡。土佐の国には変わりに、山内家が入ります。
長宗我部の家臣は郷士、山内家の家臣は上司、として厳しい身分差別
が発生します。

薩摩は数万いた軍が80名ほどになり、なんとか国に帰ります。
当然、領土没収、お家断絶の憂き目にあうところでしたが、薩摩は徳川に
対して、「ごめんなさい。これからは徳川家に忠誠を尽くします。なので
領土と家はなんとかそのまま残してください。この願いが叶わないなら、
薩摩は徳川と全面戦争する覚悟です」という、とんでもない啖呵を切ります。
薩摩ではいつでも臨界体制で、いつでも徳川と戦争できる準備をしていま
したが、なんと!お咎めなしでした。徳川は中央突破退却の薩摩の軍力を
敵対するより、仲間に加えて方がいいと感じたようです。

この徳川に恨みを持つ三藩が、260年後に徳川を滅亡させるとは、歴史の
ロマンを感じぜずにはいられません。

前置きが長くなりました。
続きます。。。
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この回答へのお礼

とても面白く興味深いです。
お礼の返事は次のところでさせてもらいました。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/19 00:28

たまたま人材がというのもると思います。


我々が歴史を見る時、結果のほうから見るのでその流れが必然によって
形成されたかのように思えますが、中には偶然の産物もあります。
諸説有るうちのひとつに桶狭間の戦いは偶然説というのもあります。
薩摩、長州、土佐に共通することは辺境地と海に面していたというもの
以外はないと思います。
長州は関が原の合戦以来、倒幕が悲願となっていたという素地はあります。
薩摩も関が原の負け組ですが、幕末には幕閣として深く幕政に関わって
いるので長州とは土台が違います。
土佐は関が原の勝ち組ですが、勤皇党の主用メンバーは郷士、つまり
山内が入る以前の長宗我部時代の家来衆の末裔です。
島津、毛利、長宗我部という見方をすれば徳川以前の大名家で
戦国時代にはかなりの勢力を有していたという共通項はあるかもしれません。
なお倒幕派が勝ったので倒幕派の功績に目が行ってしまいますが、
勝ち負けを抜きにすれば佐幕派にも同様に人材が出ていると見るべきと思います。
水戸藩や会津藩など。
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この回答へのお礼

物事の事象にはたまたまという偶然性はないと思うとります。
勝つ理由もあれば負ける理由もあり、優秀な人材が輩出する理由もまた
あると思うとります。

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/19 00:04

1 外様であることの緊張感


2 海に開かれたことによる情報と貿易
3 19世紀前半からの専売制などの経済力強化
4 18世紀からの寒冷化

東北は米作の北限であるために、4の寒冷化をストレートに受け経済力が劣化した。西日本諸藩は3や2によって経済力を強めた。
長州藩天保一揆(1831)は、飢饉の進行ではなく、専売制の進行。薩摩藩の奄美における砂糖生産など。経済力を強めないとならない理由は、根源的には 1で、外様は徳川家にとって潜在敵国であり、政治意識がつよかった。

ちなみに
佐賀藩は、幕末に実力行使をしていないが、一藩平等主義みたいな感じで、勉強できれば出世できるというシステムになっていたので人材を排出している。
また、江戸時代における物流の基幹は日本海側でした。明治以降は大ざっぱにいうと、太平洋を越えてやってくる、外敵に対向するために、日本海側の富を国税で集めて、東京=大阪=北九州のいわゆる太平洋ベルト地帯を発展させたという動きになります。
発展させたあとの姿を現在の日本人は見ているだけです。
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この回答へのお礼

気候が経済や社会の思想や志向を左右するのは風土論として認知さてれいますね。
佐賀出身では早稲大学の大隈氏がそうだったのでは・・

昔の藩の隆盛と現代の県の隆盛とは異なるのは
時代によって求められるものが違うからでしょうね。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/19 00:02

江戸から遠く離れていて、江戸幕府による手厚い保護も無く、無視されたような場所での反骨精神の現れかと思います。


今の日本にはそのような反骨精神の有る国民がいなくなりましたね。
私は安保闘争、学生運動に参加して、火炎瓶も作っていたことがありました。年を取ってしまいましたので、今では何もできませんが、若い人には決起して悪に立ち向かって頂きたいと思っています。
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この回答へのお礼

江戸から離れ外様の屈辱というのは分かるのですがではなぜ
他の遠く離れた秋田とか宮崎とか愛媛なんかが活動しなかったのでしょうか?

お礼日時:2010/03/18 14:32

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 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
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Qマーチってそんなにアホですか・・・?

マーチとは明治、青山、立教、中央、法政の各大学を指すらしいですが、
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Aベストアンサー

基準がどこかですね。

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「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q幕末期の長州藩主について

幕末期において長州藩は大活躍をします。
しかしなぜか藩主は有名ではありません。
時代劇ドラマでもほとんど出てきません。
この時期活躍した諸侯の藩主は多いのに、長州の藩主のみ無名なのはなぜでしょうか?
黒船が来航してから明治政権樹立まで約15年、長州の藩主は何をしていたのでしょうか?
子供だったとしても大人になっているはずですが。
ぼんくらだったとしても数々の歴史的決断を下しているはずで、もっとクローズアップされてよいはずです。
明治になってからも活躍しなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

幕末長州の毛利敬親(たかちか)は「そうせい公」とあだ名され、藩内の派閥である攘夷派でも幕府恭順派でも「そうせい、そうせい。」といって、#2の方の仰るように、特に藩主として積極的に国政に口を挟まなかったようです。薩摩の島津久光とは対照的ですね。高杉晋作や井上聞多(馨)が思う存分大暴れできたのは、この凡庸とした(?)敬親公の人柄によるものだと思いますが。大久保一蔵も薩摩じゃ久光公の顔色伺いが大変だったようですからね。ようするに、偉人かも知れないが、傍目には「つまらない人」に映るので、ドラマでも大した役にはならないのです。官軍だろうと賊軍だろうと自説をもって大暴れした人たちは、良くも悪くもドラマに描きようがあるのですが・・・。

そのうち、敬親公親子の物語を書く人がでてきて、偉人として再認識される日が来るのでしょうか・・・。

でもやっぱり、ドラマ性はないよな・・・。

Q"Can you celebrate?"ってどういう意味??

安室奈美恵さんの「Can you celebrate?」
という曲がありますが、そもそもこの英語はどういう意味ですか?
(誰が誰に対して言っている言葉なのでしょう・・・)
「Will you celebrate our marriage??」
とかならわかるのですが、celebrateが自動詞ではおかしいと思うのですが・・

Aベストアンサー

中傷だけで終わるのも何なので補足します。

Nagatosさんは、英米人なら絶対しないような間違いと、する間違いの区別ができてないようです。質問者さんは、「Can you celebrate?」はどっちですか?と聞いているみたいですが、それを理解されてないので、議論が平行線になってるみたいですね。

例えば日本の黒板消しの商品名で「Clean Elaser」というのがありました。これは明らかに米英人はしない間違いです。意味不明です(「きれいに消せる黒板消し」と言いたいのだろうが、「黒板消し自体がきれい」という意味にしか聞こえない)。こんな間違いは英語の歌詞にもないでしょう。

結論を言うと、「Can you celebrate?」は微妙なところだと思います。「Clean Elaser」ほどひどくはないけど、英米人は言わないでしょう。でも、歌詞になら使ってもおかしくはない・・かな??という感じです。聞くひとも、意味はかろうじて推測できるかなという程度だと思います。賢いひとなら、こんな詩は書かないでしょうね。

慣用だからとあきらめずに、正しい英語を使おうと努力する姿勢を評価したいですね。

中傷だけで終わるのも何なので補足します。

Nagatosさんは、英米人なら絶対しないような間違いと、する間違いの区別ができてないようです。質問者さんは、「Can you celebrate?」はどっちですか?と聞いているみたいですが、それを理解されてないので、議論が平行線になってるみたいですね。

例えば日本の黒板消しの商品名で「Clean Elaser」というのがありました。これは明らかに米英人はしない間違いです。意味不明です(「きれいに消せる黒板消し」と言いたいのだろうが、「黒板消し自体がきれい」という...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む


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