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江戸時代の米本位経済とは具体的にどういう事なんですか?農民から年貢を取り立てるのが今の徴税システムにあたることは分かるのですが、実際、幕府は米を収納してどうやって財政をやりくりしていたのですか?また、農民以外(武士、町人等)はどんな形で納税していたのですか?本当に初歩的な質問ですいません…。

A 回答 (3件)

大雑把な説明です、できればご自身で調べた方が良いと思います。



江戸幕府は重農政策をとっていましたので、基本米が収入です、ただ、米で物々交換はできないので、現金化をしました。
そのために米の価格の安定を第一に考えましたが、不作豊作によって相場が乱れたので、商人たち(札差)などが権力を握るようになりました。
農民の年貢に関しては、検見法(けみほう、田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する)を採用していましたが、年によって収入が大きく変動するリスクがありました。
なので、江戸中期ごろになると、定免法(じょうめんほう、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による徴収方法)がとられるようになりました。
ちなみにこれは藩ごとになり、幕府が各藩に上米させたのは一回きりだった記憶があります、またこれも税金としてではなく、幕府の財政再建のための献納という意味合いが強いものだった記憶があります(うろ覚え)。
元々国税というのがなく、国税は田沼意次が導入しようとして失敗したと記憶しています。

町民は所得税、贈与税や相続税は一切なく、農民に比べ税負担はかなり低かったそうです。
ただ、公役(くえき)があったのが、人ではなく銀で支払うようになり、長屋住まいの場合は大家さんがひとまとめに支払っていました(家賃に含まれている)。
戸建住まいの人は年3回、町名主が厚めに来ていたそうです。
二十坪を一小間という課税単位、地方によって違います。

現在の地方税に当たる、町入用費というのがあり、これは町名主におさめます。

商人は、法人税のようなものはなく、
御用金制度があり、
宝暦十年(1761年)から始まり約20回ほど徴収されたそうです。
富裕商人を対象に徴収をして、年利3%の利息を加えて返還する決まりだったので、本当は国債に相当するものだったのですが、強制力が強く、最初は返還されていたのですが、財政難になると支払いが滞ったそうです。
上納金もあり、上納額によって褒美があったそうです。
3千両の上納で返還を求め無かった場合、永代苗字が与えられたそうです。

後は冥加金や運上金等がありました。


かなり大雑把です、江戸時代の初期、中期、後期、幕末などで変わっているものもあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。非常に丁寧な説明でとても参考になりました。初心者なのでこちらの質問こそ大雑把ですいませんでした。

お礼日時:2010/03/26 13:26

「米本位経済」というのは「貨幣経済」に対応する経済である『物貨経済』のことではありませんか。

日本の場合、本格的な貨幣経済は江戸時代中期以降にあたるそうです。それまでは、米が基本通貨の代わりをしていたということでしょう。
 貨幣経済の遅れていたお隣の朝鮮半島の様子を説明すれば、理解が早いと思います。李氏朝鮮での流通していた通貨は銅貨だけでした。その銅貨の流通量も当初不足し、『布貨』や『紙貨』や『米』が金銀銅貨の代わりに流通していました。紙貨といっても「紙幣」ではありませんでした。大版で厚手の無地の紙そのものが貨幣だったのです。倭寇が朝鮮半島で布を巻いた反物を奪っている絵画が残っていますが、あれは『貯め込まれた貨幣』を略奪している絵なので、日本では千両箱を奪っている図に相当します。経済も収税も『物貨』が主体ですね。
 一方、日本は朝鮮に比較し、佐渡等の金山、石見等の銀山、日本各地の銅山と、金銀銅の量も精錬技術も優れていましたから、江戸時代当初に金銀銅の各貨幣の交換レートが確立していましたし、大阪を中心とする銀本位経済と江戸を中心とする金本位経済が両立した為、両替商の存在が必須になり、結果としてイスラム商人が開発した「為替制度」を導入することが可能になりました。
 江戸時代初期から中期までは、新田開発や農業技術の進歩で米等の生産も人口も増えましたが、江戸中期には新田開発も人口増加も止まりましたが、農村部の「石高」は増加しています。石高は、米生産、畑作生産そして『特産品』生産の合算です。米の収量は横ばいでも石高が増加するということは、農村の一部に手工業地帯が出現したということなのです。
 私の居住地の和紙産地は当初、米の産出量は少なかったのですが、和紙製品を市場で販売し、銀貨を入手し、米を購入し自家消費と納税に使用していたと考えられています。ところが、幕末になると、藩は「和紙を全量購入し市場で売りさばき」代金は米では無く銀貨で農民に支払い、その中から納税させています。重農主義の田舎の藩が、物貨から貨幣経済に転換していった証拠のひとつですね。
 先に述べましたように、日本では貨幣経済に移行する条件は揃っていましたから、武家も収税は米で行っていても、消費は便利な貨幣で行う為に、直ちに米は売り払って貨幣に替えていました。物貨は不便ということですね。
 商工業者には冥加銭(金)が課税(献金)されている。一部は物納や労働で替えられたようです。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とても参考になりました。物貨経済から貨幣経済への移行を勉強する事がポイントと心得ました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/26 22:37

米本位制では、米を生産しない武士階級、商人階級は納税しません。


しかし、武士は支配階級であるため地位は高く、そのため士農工商という階級が生まれています。
また、実際には通貨でのやり取りが進んでいた江戸時代は、納税させた米は概ねすぐに換金されました。
米のやり取りでは米の産地から、都心へ持っていったほうが米の売値が高かったのですが、各藩が独自の流通を持っているわけではなく、承認にかなり買い叩かれていたのが現実です。
商人間では、米の流通を待って取引することが時間的にもったいないということで、大阪の堂島に世界初の先物取引の市場を作ったりしています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。江戸時代の流通・商取引など、勉強の糸口がつかめました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/26 13:37

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