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江戸時代の米本位経済とは具体的にどういう事なんですか?農民から年貢を取り立てるのが今の徴税システムにあたることは分かるのですが、実際、幕府は米を収納してどうやって財政をやりくりしていたのですか?また、農民以外(武士、町人等)はどんな形で納税していたのですか?本当に初歩的な質問ですいません…。

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A 回答 (3件)

大雑把な説明です、できればご自身で調べた方が良いと思います。



江戸幕府は重農政策をとっていましたので、基本米が収入です、ただ、米で物々交換はできないので、現金化をしました。
そのために米の価格の安定を第一に考えましたが、不作豊作によって相場が乱れたので、商人たち(札差)などが権力を握るようになりました。
農民の年貢に関しては、検見法(けみほう、田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する)を採用していましたが、年によって収入が大きく変動するリスクがありました。
なので、江戸中期ごろになると、定免法(じょうめんほう、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による徴収方法)がとられるようになりました。
ちなみにこれは藩ごとになり、幕府が各藩に上米させたのは一回きりだった記憶があります、またこれも税金としてではなく、幕府の財政再建のための献納という意味合いが強いものだった記憶があります(うろ覚え)。
元々国税というのがなく、国税は田沼意次が導入しようとして失敗したと記憶しています。

町民は所得税、贈与税や相続税は一切なく、農民に比べ税負担はかなり低かったそうです。
ただ、公役(くえき)があったのが、人ではなく銀で支払うようになり、長屋住まいの場合は大家さんがひとまとめに支払っていました(家賃に含まれている)。
戸建住まいの人は年3回、町名主が厚めに来ていたそうです。
二十坪を一小間という課税単位、地方によって違います。

現在の地方税に当たる、町入用費というのがあり、これは町名主におさめます。

商人は、法人税のようなものはなく、
御用金制度があり、
宝暦十年(1761年)から始まり約20回ほど徴収されたそうです。
富裕商人を対象に徴収をして、年利3%の利息を加えて返還する決まりだったので、本当は国債に相当するものだったのですが、強制力が強く、最初は返還されていたのですが、財政難になると支払いが滞ったそうです。
上納金もあり、上納額によって褒美があったそうです。
3千両の上納で返還を求め無かった場合、永代苗字が与えられたそうです。

後は冥加金や運上金等がありました。


かなり大雑把です、江戸時代の初期、中期、後期、幕末などで変わっているものもあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。非常に丁寧な説明でとても参考になりました。初心者なのでこちらの質問こそ大雑把ですいませんでした。

お礼日時:2010/03/26 13:26

「米本位経済」というのは「貨幣経済」に対応する経済である『物貨経済』のことではありませんか。

日本の場合、本格的な貨幣経済は江戸時代中期以降にあたるそうです。それまでは、米が基本通貨の代わりをしていたということでしょう。
 貨幣経済の遅れていたお隣の朝鮮半島の様子を説明すれば、理解が早いと思います。李氏朝鮮での流通していた通貨は銅貨だけでした。その銅貨の流通量も当初不足し、『布貨』や『紙貨』や『米』が金銀銅貨の代わりに流通していました。紙貨といっても「紙幣」ではありませんでした。大版で厚手の無地の紙そのものが貨幣だったのです。倭寇が朝鮮半島で布を巻いた反物を奪っている絵画が残っていますが、あれは『貯め込まれた貨幣』を略奪している絵なので、日本では千両箱を奪っている図に相当します。経済も収税も『物貨』が主体ですね。
 一方、日本は朝鮮に比較し、佐渡等の金山、石見等の銀山、日本各地の銅山と、金銀銅の量も精錬技術も優れていましたから、江戸時代当初に金銀銅の各貨幣の交換レートが確立していましたし、大阪を中心とする銀本位経済と江戸を中心とする金本位経済が両立した為、両替商の存在が必須になり、結果としてイスラム商人が開発した「為替制度」を導入することが可能になりました。
 江戸時代初期から中期までは、新田開発や農業技術の進歩で米等の生産も人口も増えましたが、江戸中期には新田開発も人口増加も止まりましたが、農村部の「石高」は増加しています。石高は、米生産、畑作生産そして『特産品』生産の合算です。米の収量は横ばいでも石高が増加するということは、農村の一部に手工業地帯が出現したということなのです。
 私の居住地の和紙産地は当初、米の産出量は少なかったのですが、和紙製品を市場で販売し、銀貨を入手し、米を購入し自家消費と納税に使用していたと考えられています。ところが、幕末になると、藩は「和紙を全量購入し市場で売りさばき」代金は米では無く銀貨で農民に支払い、その中から納税させています。重農主義の田舎の藩が、物貨から貨幣経済に転換していった証拠のひとつですね。
 先に述べましたように、日本では貨幣経済に移行する条件は揃っていましたから、武家も収税は米で行っていても、消費は便利な貨幣で行う為に、直ちに米は売り払って貨幣に替えていました。物貨は不便ということですね。
 商工業者には冥加銭(金)が課税(献金)されている。一部は物納や労働で替えられたようです。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とても参考になりました。物貨経済から貨幣経済への移行を勉強する事がポイントと心得ました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/26 22:37

米本位制では、米を生産しない武士階級、商人階級は納税しません。


しかし、武士は支配階級であるため地位は高く、そのため士農工商という階級が生まれています。
また、実際には通貨でのやり取りが進んでいた江戸時代は、納税させた米は概ねすぐに換金されました。
米のやり取りでは米の産地から、都心へ持っていったほうが米の売値が高かったのですが、各藩が独自の流通を持っているわけではなく、承認にかなり買い叩かれていたのが現実です。
商人間では、米の流通を待って取引することが時間的にもったいないということで、大阪の堂島に世界初の先物取引の市場を作ったりしています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。江戸時代の流通・商取引など、勉強の糸口がつかめました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/26 13:37

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Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Qよく社会の教科書に「貨幣経済が浸透し商業が発達したために、没落する人々

よく社会の教科書に「貨幣経済が浸透し商業が発達したために、没落する人々がでて反乱が起きた~」のようなことが書いてありますけど、いまいちピンと来ません。
なぜ「貨幣経済が浸透」すると、あるいは「商業が発達」すると人々が没落(困窮)するのですか?
貨幣経済が行き渡ったり商業が栄えると金を蓄えて「貧富の差」が出来るのならわかりますが、生活の絶対的な水準が下がってしまうのが分かりません。上流階級だけがより豊かになるだけだと思うのですが。
もしかして貨幣経済が浸透したがために豊かになると物価が上がるからですか?教えてください!

Aベストアンサー

貨幣経済が浸透するというということは、商品流通が活発になるということを意味します。

商品流通が活発になるということは、自給自足社会・地域コミュニティーの崩壊を促します。

具体的に言うと、余剰生産品を換金し贅沢品を購入するというような場合には何の問題もなく、暮らしが豊になるのですが、貨幣経済の浸透と商業資本の興隆はそういう生やさしいことでは済みません。まず、商品流通が活発になると、生産性の高いものと質のいいものが他の類似商品を駆逐します。売れるものを造っているものたちや地域は、その商品生産に特化するようになります。これにより、自給自足は崩壊し、社会的な分業がおこります。

社会的分業はますます貨幣経済を浸透させます。必要品を購入しなければならないからです。さらに、商業資本が強くなると、利益の大きなものを優先してつくられるようになります。理屈で言うと曖昧なので、いくつか事例を書きます。

イギリスのエンクロージャー(囲い込み)というのは、羊毛工業が利益が非常に高いという理由でイギリス中の農耕地が囲い込まれて羊の牧草地に変わってしまった。多くの農民が耕作地を失い「羊が人を食う」と揶揄された。

江戸期の武士は給与を年貢米で換算されていましたが、実際はその米を大阪などの米問屋に売却して生活していました。そして、米を買って食っていました。これは年貢を納める農民も同じです。

ごく最近の話ですが、世界中で食料難で食うモノがない人たちがいるにもかかわらず、トウモロコシはバイオ燃料の原料になり、高騰した。

貨幣経済が浸透するというということは、商品流通が活発になるということを意味します。

商品流通が活発になるということは、自給自足社会・地域コミュニティーの崩壊を促します。

具体的に言うと、余剰生産品を換金し贅沢品を購入するというような場合には何の問題もなく、暮らしが豊になるのですが、貨幣経済の浸透と商業資本の興隆はそういう生やさしいことでは済みません。まず、商品流通が活発になると、生産性の高いものと質のいいものが他の類似商品を駆逐します。売れるものを造っているものたちや...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

Aベストアンサー

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む

Q江戸時代の経済は活発だったのか?

江戸時代の経済は活発だったのか?

江戸時代の経済は活発だったのでしょうか?

私の江戸時代のイメージは生活は質素倹約、物は何回でも再利用する、年貢は米だし、武士の給料も凄く少なかったと聞きますし、技術の新しい開発も確か幕府によって規制されていました。

質素倹約ならば安いものしか売れずにデフレになるはずだし、もったいない精神があれば全然物は売れないし、新技術の開発が規制されていたのならば一体何が売れていたのでしょうか?そこがわかりません

あと、江戸時代の人間にとってお金ってどのような存在だったのでしょうか?

現代日本人みたいに拝金主義だったのでしょうか?

それとも食べ物の次みたいに別に重要視されていなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

今の時代、環境問題のことを考えると「もったいない」「自然循環システム」が重要。だけど経済が縮小すると失業も心配・・・・ということで持続的経済成長は可能なのか?という点は、今多くの方が気にしているテーマだと思います。

そして実は、世界に先駆けて「自然循環型の持続的経済成長を実現」した事例こそが江戸システムなのです。

欧州においては、中世に沸き立った人々の一攫千金を夢見る欲望は、際限なく拡大し、産業革命と第三世界への侵略戦争へと展開していきました。

ところがこの同じ時代に、日本は鎖国政策をとることで欧米発の市場開放圧力を最小限に押しとどめました。また厳格な身分制度を保持し続けることで、一攫千金を夢見る欲望(リスク)よりも農村共同体における安定への欲求を促進したのです。従って、市場経済が無制限に拡大することは抑止されたのです。

しかし、だからといって、経済が縮小し、人々の生活が困窮した訳ではありませんでした。むしろ鎖国したことで、全て国産で作り出すという国内の産業振興が可能になったのです。

また最大の秘訣は、幕藩体制にあります。つまり、基本的に藩に全権があり、徴税権も全て藩にありました。他方で藩は経済政策を失敗すればお家取り潰しもありえましたから、藩の経営には競争圧力が働いていました。江戸の後期には藩は専売制度を導入し、地域経済の振興に力を注いだのです。

と同時に、そのままほっておくと隣合う藩同士で揉め事が起きることもありうるため、藩に資財が蓄積されないように参勤交替によって、江戸という一大消費都市を作り出しました。

これにより、基本的に藩という地方分権を実現しつつ同時に、幕府の財政力・統率力も失わない仕組みを実現していたのです。またこれにより各地に宿場町も発達し、富裕な藩からそうでない藩へと富の再分配を図ることにも成功していたのです。

勿論、江戸システムにも限界はあり、結果的に海外からの市場開放圧力に屈しることになりましたが、欧米流の経済システムが限界を迎えた21Cこそ、江戸システム再興の時代だといえるのではないかと思います。

以下のブログでは、日本型市場システムの可能性を縄文時代から遡って検証しています。是非、覗いて見て下さい。

参考URL:http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/04/001043.html#more

今の時代、環境問題のことを考えると「もったいない」「自然循環システム」が重要。だけど経済が縮小すると失業も心配・・・・ということで持続的経済成長は可能なのか?という点は、今多くの方が気にしているテーマだと思います。

そして実は、世界に先駆けて「自然循環型の持続的経済成長を実現」した事例こそが江戸システムなのです。

欧州においては、中世に沸き立った人々の一攫千金を夢見る欲望は、際限なく拡大し、産業革命と第三世界への侵略戦争へと展開していきました。

ところがこの同じ時代...続きを読む

Q米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

山本博文著の江戸学講座を興味深く読んでおりますが、次の説明に出会いました。
<江戸時代の初めは、家禄だけで食べていける旗本・御家人も多かったのですが、中期以降は、米の値段が下がりますから難しかったでしょう。>
一般的には、物価は長期的にみると、漸進的に上昇します。(もちろん、技術革新などによって、低下する場合がありますが)。
米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

Aベストアンサー

中期以後というと、暴れん坊将軍の吉宗さんの時ですね。お堅い日本史では、米将軍と呼ばれ、米を中心とした物価の安定で有名です。米が日本酒の原料として使われる量を調整するなどで、品不足による物価上昇を抑えたといいます。

長期でみると、実際は上がったり下がったりだったでしょう。

江戸時代、米がお金代わりでしたから、どの藩も米の生産に力を入れます。運送業も発展し、西日本で生産された米が流通。他の物の価格と比べ、比較的安くなったのでしょう。
 米=扶持だった武士にとっては、物価上昇+収入ダウンでしょうけど。。

Q質の悪い貨幣が流通すると物価が上がる理由

こんばんは。
今日日本史の勉強をしていたら、江戸時代末期の開国後の日本で『金が国外に流出し、質の悪い貨幣が流通した結果、物価の上昇を招いた』というような記述があったのですが、まず質の悪い貨幣とはどういうものですか、またなぜ質の悪い貨幣が流通すると物価が上がるのでしょうか??
よくわからないので、どなたか教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします。だけど受け取る人は、質の悪い小判だったら2枚じゃないと1万円の価値のあるものと交換しないよ、と言うでしょうね。
だから額面上の物価があがるのです。
もうひとつのことわざ、悪貨が良貨を駆逐する。
理由はお分かりですよね。
因みに今の紙幣も昔は兌換紙幣と言って、例えば1万円(当然当時の額面は銭の単位でしょうけれど)の紙幣を日銀に持っていけば1万円分の金と交換してくれました。現在は不換紙幣なので交換してもらえません。兌換紙幣の時はインフレは起こりませんよね。
これは質問と関係ありませんでしたね。

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします...続きを読む

Q江戸幕府の財政悪化~享保の改革前~

享保の改革において吉宗の最大の課題は財政再建でしたが、どのような経緯で幕府財政は悪化していたのでしょう。商品作物栽培の進展から貨幣経済が農村にも浸透していき、「米価安の諸色高」という状況になり、それまで年貢米を中心に徴収していた幕藩領主が困窮したということなのでしょうか?それは、享保の改革の最中に現出した状況であって、享保の改革前に幕府・藩の財政が悪化していたという理由としては適切でないとも思ったりしてます。それとも、上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか?それならば、納得がいくんですが。ご存知の方、どうでしょう?

Aベストアンサー

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税率はさらに下がります、ある資料によると農業収入の1~2割だそうです

結果として、幕府や藩の収入は江戸初期からほとんど変わらないのに、武士以外の収入は漸次増加して行き、生活レベルが向上してきました
社会全般のレベルが向上し、費用が余計にかかるようになっても 幕府・藩には増収の手立てがありません
これが根本的な原因です

商工業にも課税しようとした田沼意次のような為政者もいましたが、大勢の賛同を得られませんでした、

縮小均衡を図ろうとする吉宗のような為政者が賛同されたため、財政は悪化の一途をたどってしまったわけです

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税...続きを読む

Q江戸時代の農民は本当に貧しかったの?

江戸時代の農民の年貢は、よく言われるので五公五民。また、農民の割合は人口全体の約9割といわれています。お米で考えると、国に収めたお米の8割は、何らかの手段で、農民が回収していたと考えています。
生活するためには、米だけでは生きていけないので、何らかの現金収入か、交換できるだけの物を生産していたことになると思います。
 
 そこで思うんですが、普通にお米を作るより副職の方が割が良かったら、割の良い副職が中心になりそうなんですが、そうでもない。
 すると、米の生産量をごまかすなり、相応のうまみがあったように思えます。もしかすると収入が決まっている下級武士よりよほど裕福だったのでは?疑問に思っています。
 詳しい方、誰か教えてください。前提条件がおかしければ指摘ください。

Aベストアンサー

#2が一番実情に近いと思います

確かに現在と異なり、飢饉等の影響は大きかったはずですが、実際は、明治以降の方が農民には過酷であった様です

年貢よりも地租の方が実質的な負担は大きかったこと
また、それを糊塗するために、江戸時代は貧しかったと言う情報操作が行われています

それを信じている回答が多いですね

江戸時代についての研究が進み、その研究成果も発表されています

質問者のコメントにある様に、生産された米は輸出などされていないので、全量が消費されているはずです

百姓が米の飯を見るのは盆と正月だけ と言うのは 明治以降に作られた話のようです
一人が年に一石食べると言われています、総石高は二千万石とか言われています、これは江戸初期の話で、中期以降は2・3割は増収になっていますから、三千万の人口を養うだけの米は生産されていました

質問者の想定が妥当だと思います

Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む


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