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No.3
- 回答日時:
山口文書館には長州藩毛利氏の膨大な記録が残っているそうです。
参観交代(さんきんこうたいと読む、昔はこの字も使った)の記録もあります。 それによると元禄六年三月三日に萩を出た行列が三月十七日夜伏見を立ち、十八日朝早く京都に着き藩の京都屋敷に入ったとの事。 西園寺らの公卿に挨拶回りした。 逆に挨拶も受けた、寺からのものも多かったとの事。
文政八年三月六日出発の、毛利斉元の参勤交代の記録でも、二十日に京都へ入り、京都所司代、公卿達に挨拶したとあります。 お忍びではありません。
薩摩藩の行列も同様洛中に入っています。 ただ京都には藩邸はないとの事。
御三家の紀州藩も紀州路を通る時は、洛中に入り京都所司代に挨拶しています。
特別扱いの大名がおりました。 この三家以外は見た事はないが、これだけとも思えません。
多くの文章に参勤交代時京都では諸般が朝廷との接触が禁じられていたので,伏見から京都中心部を避けて南側を回り大津に抜けて東海道に戻って江戸に向かったとあったので,ではいったいどの道を通ったのだろうといつも不思議に思っていたのです。山深い伏見から大津への道なるものが
どれかと不思議だったのです。例外は,毛利の殿様だけだったのでしょうか。京都に屋敷を持てたのは外様でも他にいたのでしょうか。京都の藩邸というのは長州の場合今のどのあたりになるのでしょうか。と、疑問がわいてきます。でも、有り難うございました。
No.2
- 回答日時:
平安京である洛中には、
京都所司代・二条城代など勤める一部の譜代大名のみ、
立ち入り許され、
外様など他の大名は、朝廷と結びつくこと恐れ、
京都洛中に公式の屋敷持てず
大名行列は、公式には、入れませんでした。
伏見で幕府の検査受け、滋賀の草津へ回り、江戸に向かいます。
現在は、同じ京都市ですが、伏見まで、です。
元禄ぐらいには、お忍びで京都見物や親類訪問は許されましたが\(^^;)。
京屋敷、京都藩邸といっても、薩摩も長州も伏見に、ありますよ。
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