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今司馬遼太郎の本を読んでいますが、もともと脳のキャパが狭いので少々混乱しております。
幕末~明治維新の時代において、「尊皇攘夷」はひとつのキーワードだったと思いますが、きちんと理解できていないので助言いただきたいと思います。

(1)まず、尊皇攘夷の意味について。
天皇を敬い、夷敵(アメリカなど)を排する事
と理解していますが、あっていますか?

(2)幕末において、攘夷派の志士(薩長土)が明治維新を起こしましたが、「尊皇攘夷」を唱えていた彼らが明治維新を成し遂げたあと、「攘夷」であるはずが開国に踏み切ったのはどういう訳なんでしょうか?

(3)新撰組の近藤勇も「攘夷」派だったらしいですが、これはどういうことでしょう?
彼のような左幕派も「攘夷」を掲げていたのでしょうか?

(4)また、同時代において水戸藩は左幕派の代表として薩長土と戦いましたが、水戸といえば元は「尊皇攘夷」思想の総本山だったのではないでしょうか?
いつの間に攘夷志士と戦う左幕派になったのでしょうか?

かなり誤解して覚えている部分もあると思いますので間違いを指摘していただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (16件中1~10件)

(1)ですが、尊皇攘夷とは天皇を敬い夷敵(外国)を排することなのであっています。


(2)長州などは馬関戦争などで外国の脅威を知った為、開国をすべき という考えに変わり、尊皇攘夷から尊皇開国派となったといわれています。
(3)新選組の近藤勇等は「佐幕攘夷」派だったといわれています。佐幕派の中にも攘夷を掲げていた人は居たと思われます。

(4)については私はわからないので回答をパスさせていただきます。
1~3まで、参考になれば光栄です。
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尊王攘夷の字義の上での意味は、その通りだと思いますが


当時の尊王攘夷というのは、現代日本で極左から右翼まで反対しない
”民主主義”と同じような、とりあえず誰からも受け入れられる
一般的な理念だったと思います。
極端にいえば”正義”とか”平和”とかと同じようなものです。

佐幕派も倒幕派もすべからく尊王攘夷だったわけです。
(歴史的に倒幕派が勝利したので、自分たちこそが尊王攘夷だったと
倒幕派が主張することになったのですが)

清朝の洋務運動を見るまでもなく、攘夷と開国は矛盾しません。
水戸藩の事例に関しては、やや複雑なので、ご自分で一度調べられて見てはいかがでしょうか。
慶喜の絡みがあるので佐幕とは言えますが。。
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(1)尊王攘夷とは表面上の意味は「天皇を尊び異国を打ち払う」ことです。

幕末大老の井伊直弼はアメリカと条約を結びましたが当時の天皇であった孝明天皇は大の異国嫌いで帝の御心を踏みにじった行為により幕府は弱みを作りました。そこで幕府を倒す大義名分としての尊王攘夷運動が始まるのです。
(2)彼らにとってみれば尊王攘夷というのは幕府を倒し新しい時代を作るために大義名分にすぎませんでした。だから表面上は攘夷を唱えながらも、長州は四国艦隊下関砲撃事件により、また薩摩は薩英戦争により外国の圧力を身をもって感じていたので攘夷は無理だと判断していました。しかし最も体よく幕府を倒すための大義名分としては尊王と上位を結び付けることはてっとりばやかったのでしょうね。
(3)近藤は佐幕派にありながら佐久間象山や勝海舟の影響を受けていたので佐幕派にありながら攘夷論者でもありました。
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 歴史の見方は、ものごとの一面だけを見てはいけません。



1)尊皇攘夷
 これは政治的なスローガンであって、そのような国民的な運動があった訳ではありません。要は、倒幕のための宣伝文句であり、長州藩の戦略である尊王倒幕への布石でした。庶民には、自然発生的な攘夷感情もあったでしょうが、攘夷などできる訳がないことも自明の理でした。しかしながら、太平洋戦争でもそうでしたが、勝てる訳がないことでも始めてしまうのが、この国の民の性なんでしょうか。
 今の世の中も、この手のスローガンが溢れていますが、くれぐれも惑わされないようにしてください。

2)上記にあるように、攘夷など、そもそも実現するつもりは誰にもありませんでした。愚かにもそれを信じた連中は、悉く抹殺されています。

3)新撰組に、思想性を求めてみても詮無いことです。

4)水戸藩の跳ね上がりは、単なる内ゲバです。(天狗党騒動)
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水戸出身の者です。

興味深いので参戦させて頂きます(笑)

昔光栄(というゲームメーカー)の「維新の嵐」というゲームがありました。
このゲームではそれぞれの人物がそれぞれの思想を持っているのですが、
よく区分けされていて面白かったと思います。

さて、攘夷は必ずしも尊王とくっつくわけではありません。
幕末の思想の違いとして、まず
1 諸外国とのスタンス があるでしょう。
つまり開国か攘夷か、という違いです。これは相反するので
開国⇔攘夷
という対立関係になります。
次に
2 国を統治するのは誰か があるでしょう。
つまり尊王か佐幕か、という違いです。これも相反するので
尊王⇔佐幕
という対立関係になります。
さらに言えば、その中立の「公武合体」という思想もあります。

さて、このように分類すると、それぞれの人物の思想が分別出来ます。
例えば
勝海舟は佐幕開国
でしょうし
近藤勇は佐幕攘夷
です。
吉田松蔭は尊王攘夷
でしょうし、
坂本龍馬は尊王開国
でしょう。
おおざっぱになってしまって
異論もあるでしょうが、要するに佐幕の攘夷派もいれば
尊王の攘夷派もいるということです。

さてそれを踏まえて回答します。

1はその通りですが、尊王は幕府から天皇に政治の主導権を戻すという
思想であり、単に敬えで終わることではないと思われます。

2はちょうど篤姫でそこらへんのいきさつが放映されているのでタイムリーですが、
維新の頃には薩長の志士と言えど攘夷から開国へと思想転換しています。
長州も薩摩もイギリスにしこたま負けて、攘夷が不可能なことに
気が付いたからです。むしろそのイギリスの軍事力を積極的に
取り入れ、その力を持って倒幕しようと動き始めます。
つまり大政奉還の頃には、もはや薩長もイギリスと積極的に手を組んでいます。
薩長のここらへんの軌道修正の見事さは学ぶべき所がありますね。

3については先に述べた通りで、攘夷と尊王はセットではないのです。
尊王攘夷の単語があまりにメジャーなため、セットのようですが
そうではありません。佐幕でも頭が古い連中は(失礼)だいたい
攘夷思想を持っていたのです。

4についてですが、水戸藩に着目されたのは鋭いですね。
実は水戸藩は大いなる矛盾を抱えた藩なのです。
水戸藩は御三家の一であり、当然の事ながら将軍を出す事も
出来る身内中の身内です。将軍とは血縁関係ですし、
つまり当然佐幕なわけです。

しかし有名な水戸光圀公が編纂した「大日本史」の影響で
水戸藩は一方で「尊王」思想も育っていきました。
つまり佐幕中の佐幕でありながら、尊王の思想も併せ持っていたわけです。
ゆえに藤田東湖など名学者が輩出され、若き西郷ほか維新の
元勲たちも水戸藩の学者に教えを乞うたことがあると言います。

一つの藩に対極の二つの思想を飼ってしまった水戸藩は
戦争では血を重んじ(将軍の身内ですから当たり前ですよね)佐幕派の立場を
とりますが、一方で藩に当然存在する尊王派の志士も抑えきれずに
内紛・内乱・内ゲバとなり、尊王攘夷の源流の一つなのにも関わらず
血で血を洗う抗争の結果、維新の露と消えてゆくのです。
水戸藩は元々佐幕なのです。そこに熱き尊王が育ってしまったことが
数奇な運命だったのです。
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たった今会員になって回答します。


1、基本的にはその通りで、補足すると天皇を中心として国を挙げて一致団結し、外国勢力を締め出そう(鎖国を守ろう)ということです。当時の日本は三百諸藩に分かれていた一種の連邦国家ですし、朱子学や尊王思想の普及によって、団結する旗印には天皇が最適だったのです。
 「皇」と「王」の字について補足すると、この思想はもともと中国の宋という王朝が、チンギス・ハーン(ジンギスカン)率いるモンゴル帝国などの圧迫に対して、中華思想に基づき生まれた中国人側の正当性(皇帝が尊ばれ、夷荻=野蛮な外国人を攘ち払うことが正しい)を主張したものです。つまり、中華思想では中国にいる皇帝が全地上の支配者で、はるか離れた遠い所は皇帝が認めた王が治めるということで、したがって中国は尊「皇」思想なわけです。日本は中華思想では「王」が治める辺境の地なので尊「王」思想という字が使われます。ちなみに、これに対して日本は聖徳太子が「日出づる処の天子、日没する処の天子に」で始まる国書を送るように、中国に対して対等の立場を主張していました。天皇という、オリジナルの称号を用いたのもそのためです。
中国の歴代の王朝は中華思想で動いていますから、対等の立場を主張する国とは外交関係を認めません。だから貿易の利益を求めた足利義満などは日本国王として皇帝の下に従うことを認めて貿易を行いました。
2、長州や薩摩が外国との戦闘によって彼らに刀や槍で勝つことは不可能だと悟り、洋式兵備への転換を行っていったためです。その過程で西洋が学問や文明など多くの点で日本よりはるかに進んでいることを悟り、開国へ踏み切ったのは薩長の優れた指導者(西郷、大久保、木戸、高杉など)がそれをやらなければ日本が植民地にされるという危機感があったからです。勝海舟や坂本竜馬なども同じ考えでした。
この攘夷から開国への転換は指導者でも簡単には表明できませんでした。それをやれば狂信的な攘夷主義者に裏切り者として暗殺されかねなかったからです。
そのため尊王攘夷という旗印は維新まで変わらず、そういったかたくなな攘夷主義者は維新後時代についていけなくなり、明治後もそれを主張した人は暗殺や反乱を企てたり反政府的な言動を行ったりして非業の死を遂げていきます。河上彦斎や大楽源太郎、あるいは前原一誠や神風連などが典型です。維新後に横井小楠や大村益次郎を暗殺したのもこういう攘夷主義者でした。
3、ペリーが黒船の武力で無理やり開国をさせたことには日本人の大多数が無礼だと怒っていました。それと開国後の経済的な混乱(物価のインフレなど)が攘夷という世論につながっており、この点では近藤たちも例外ではありません。実際はペリーはオランダを通じてあらかじめ日本に行くことを通達していたのですが、幕府首脳部は平和ボケしていたためにそれを無視して、いざ江戸湾に現れると驚いたのです。この重大なミスは彼ら以外には漏らされなかったために、ペリーは不意打ちをした無礼者と思われたのです。近藤、土方も鳥羽伏見の戦いで洋式兵備の薩長に敗れて、土方が「これからは刀や槍では勝てない」と言ったという話が残っており、本当に彼らが攘夷を完全に捨てたのはその時でしょう。一握りの開明的な人以外は、戦って負けてみないとそれを悟れなかったのでしょう。
4、尊王=倒幕ではありません。初期の段階では尊王とは公武合体、すなわち朝廷と幕府が一緒になってこの国難に対処しようということでした。井伊直弼は幕府主導の政治を守り朝廷が政治に口出しすることを防ぐために、こういう主張をする人を弾圧したのです。
山内容堂や松平春嶽などはこういう考えですから、倒幕には反対で、安政の大獄の頃は処罰された方なのに維新直前には幕府を守る側のような立場になっているのはそのためです。
水戸の尊王派=天狗党もそうした公武合体での攘夷を主張したのであって、もともと倒幕という考えは全くないのです(倒幕を主張した人は離脱していきました)。幕府は水戸の佐幕派=諸生党と結んで天狗党を弾圧しましたが、天狗党は最後の最後まで水戸出身の一橋慶喜がそういう政策に転換することを期待して裏切られ、処刑されたのです。倒幕にも佐幕にも徹し切れなかった悲劇です。
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自分にとっても幕末はかなり興味のある分野ですので、多くの方が回答されていますが、自分なりに、今までの記憶を頼りに回答させていただきたいと思います。



(1)全くおっしゃるとおりだと思います。専門的にはさまざまな解釈もあろうかとおもいますが、幕末時「尊王攘夷」という言葉の持つ意味は“天皇を敬い、夷敵(アメリカなど)を排する事”というようにとるのが最も素直であり、多くの志士たちにとってもそのような意味であったと思います。

(2)もともと志士たちの99%は本気で攘夷を考えていたようです。ただし、実際に実行したのが薩長のみでした。しかも、その薩長でさえ、実際に欧米と戦ってみて、あっという間に「攘夷」を捨て去ってしまいます。おそらく、彼らの技術を学ばないと大変なことになる、と感じたのでしょう。ただし、その時点でも表看板は「攘夷」を掲げていたのです。そうしないといったん「尊王攘夷」=「倒幕」ということで集めた多くの人間たちの求心力がなくなってしまうからです。要するに薩長の本音は「尊王”開国”」にかわってしまったのにもかかわらず、それをあいまいなままにして多くの人を欺いた(言葉は悪いのですが)、というのが真相です。しかし、結果としてはそうしたことで倒幕への求心力は維持できた、といえるでしょう。

(3)近藤たち新撰組のメンバーは多摩地区の農民出身が多かったようで、この地区の人々は伝統的に佐幕派となっていたようです。そして、無条件に「幕府を守る」という意識がありました。彼らにとって最も大事なことは日本がどうなるか、ということより「幕府という組織」の存続が大切であったようです。ただ、人物として、最後まで命をかけて幕府を守ろうとした一貫性には多くの賞賛があります。    
一方、「攘夷」についてですが、彼らの多くは、残念なことに外国の知識に不足していたため、単純に保守的であるという意味において「攘夷」であったようです。ですから、極端な比喩をいうと、自分たちの縄張りにはいってくるものは排除、ということだったと思います。幕府といってもすべての人が開国派だったわけではありませんでした。多くがどっちつかずの感じだったようです。

(4)水戸藩について・・・このテーマは相当深いです。ご指摘のとおり「尊王」の総本山的な存在であるにもかかわらず、徳川御三家の一つであるというのは実に難しいです。なぜ、このようになってしまったのか、きっかけとなったのはドラマ「水戸黄門」でおなじみの徳川光圀であることは分かっています。彼が「大日本史」という書籍を書き上げて実は日本には天皇家のほうが長い歴史をもっているのだ、ということをはっきりとウチダしたからです。なぜ、このようになってしまってのか、理由を推測するだけでも数冊の本になってしまうほど難しいテーマです。しかしひとつだけいえることは光圀自身、かなり「正統性」についてやかましかった人で、どのようなことにも原則論にこだわり、例え将軍といえども、かれの正論に逆らえなかったそうです。(確かに水戸黄門は庶民の人気があり、ドラマの主人公になるだけのことはあったようです。)ただし、前のかたのご指摘のとおり水戸藩といえども、御三家の一つでもともと彼らは佐幕派でしたし、あの「桜田門外の変」で活躍した水戸藩士たちも幕府の改革のためにおこなったのであり、決して倒幕であった、というわけではありません。


ながながと書いて恐縮ですが、自分自身の考えをまとめる良い機会と思い、回答させていただきました。
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 ちょっと誤解を招きかねないので、正確なことをお伝えします。



1について

 mole_moleさんの理解で宜しいです。

2について

 長州藩は四国連合艦隊の攻撃によって、薩摩藩は薩英戦争によって、外国に敵対する無意味さを悟り、倒幕に傾いていきました。なお、薩摩藩は攘夷派ではなく、公武合体を主張していました。

3について

 近藤勇が積極的に攘夷の思想を持っていたかどうか、それを実証する証拠は今のところないと思います。が、開国によって経済的混乱が生じたので、当時の民衆が「攘夷」的考えを持った人は少なくなかったと思います。

4について

 水戸藩は、確かに尊王思想のリーダー的存在ではありましたが、親藩であるがゆえに、幕府を通しての尊王を唱えてきました。しかし、世の中の趨勢が倒幕に傾くと、佐幕・倒幕の両派に分かれ、討幕派が勢力争いに敗れてしまい、慶喜が水戸藩ゆかりの人物であったことから、佐幕に傾いていきました。
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私も小説や大河ドラマ、NHKの歴史の番組が情報ベースです。



確かに水戸は尊王攘夷の総本山です。
実際に、天狗党という強硬派がいて挙兵しましたが敗れました。

しかし、水戸藩から出た尊皇攘夷論は
天皇の力を借りて幕藩体制を安定させようという考えがあったと思います。
植民地化されないために、国をひとつにまとめる必要があるが、
もはや幕府は諸藩をまとめられない、だから天皇の威光を借りよう。
そういった考え方であれば、
幕府(会津藩)の下で京都(天皇)を守っている新撰組に
尊皇攘夷の思想があってもおかしくないです。
「尊皇攘夷」という言葉は国をまとめるための思想から
天皇を味方につけた倒幕派の標語にすりかえられた
(利用された)のだと思います。

天狗党のような強硬派がいなければ、
水戸藩としては、もともと幕府を守る立場で尊王攘夷を唱えたのであって
幕府の敵とは戦うしかなかったと思います。
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私も司馬遼太郎ベースなんですが… (4)について、



「尊王」という思想は「佐幕」と対立するものではなかったと思います。幕府の将軍であっても天皇から「征夷大将軍」の官位を授けられるわけですから、たとえ形だけの存在であったとしても武家政治のほとんど全期間を通して「尊王」という思想は貫かれていたのだと…何か司馬遼太郎氏の著作で読んだ気がするのですが…。

その「尊王」の思想を利用して倒幕という行動を裏付けたというあたりが策略なのであって、そのあたりは#4さんの解説がよく分かる気がします。
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