越後守護上杉家は、長尾為景によって国を奪われ、
その後、関東管領である上杉憲政は長尾影虎から関東管領職と上杉姓を引き継いだと認識しています。

 越後守護上杉家と関東管領上杉憲政は、遠い親戚にあるのだと思いますが、
なぜ関東管領上杉憲政は、越後を一族から奪った長尾を頼ったのでしょうか?

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A 回答 (1件)

北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。



当初、上杉憲政は佐竹氏を頼り、上杉の名と関東管領職を渡し保護を受けようとしました。
かつて佐竹氏の第12代の当主をつとめた佐竹義人は山内上杉家から婿養子に入った人であり、佐竹氏も上杉憲政と血縁関係にありました。
しかし、当時の第17代当主、佐竹義昭は源氏の家名である佐竹の名を自分の代で終わらせるわけにはいかないと断ります。

そこで上杉憲政が次に頼ったのが長尾影虎でした。
長尾影虎も上杉の血をひいています。

上杉家の始祖は上杉重房であり、その息子は上杉頼重と言い、彼には三人の息子がいました。
その頼重の息子の一人、藤明が長尾家に養子に入り、その子孫が長尾為景や長尾影虎となります。
また頼重の息子の一人、憲房の子の憲顕が山内上杉家の始祖となり、その子孫が上杉憲政となります。

つまり、上杉憲政と長尾影虎は血筋を辿っていくと、どちらも上杉家始祖の上杉重房に辿り着く血縁関係にあり、全く無縁な関係というわけではありません。

そもそも戦国時代ですから、血縁関係があっても、その時々の状況によって戦ったり味方になったりするのが当たり前の時代です。
同じ上杉の扇谷上杉家と山内上杉家は時には戦ったり、時には味方になって一緒に北条氏と戦ったりしています。こういう事は別に珍しい事ではありません。
長尾氏が越後の実権を上杉家から奪ったからと言って、味方にできないというものでもありません。
武将は自らが生き残るために、敵、味方を変えていくものです。
この時は上杉憲政の置かれた状況が、たまたま長尾影虎を頼らせたのでしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答、ありがとうございます。
> 長尾影虎も上杉の血をひいています。
知りませんでした。ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/13 17:26

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Q宇佐美定満と長尾政景の溺死

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参考になるかはわかりませんが、今川義元の家督相続の前段階。ようは今川氏輝の死に際しても、弟の彦五郎と同日に亡くなるのですが、その原因は『今川記』などの主要文献には見えないのです。
唯一「浅羽本系図」所収の「今川系図」には「為氏輝入水、今川怨霊也」(入水自殺か?)と記されています…

ですから、当時の通念上として、内部の人間が秘匿する不審死に関しては「入水」や「溺死」などの表現が使われているのかもしれませんね。

いずれにせよ興味深い記述ではありますが意味がわかりませんよね?入水自殺であるならば、彦五郎と同日に亡くなるってのが解せませんし…

そんな中で、当時の今川家の動きを考えてみると、天文4年7月5日に武田信虎と今川氏輝の軍勢が万沢口(山梨県南巨摩郡富沢町万沢)で激突しており、今川は北条に援軍要請し結果的に撃退。そして天文5年3月5日に氏輝は小田原にお礼を兼ねて氏綱を表敬訪問しています。帰り道に熱海で温泉につかって、その直後の3月17日に先述のごとく不審死しています。
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そう考えると、氏輝って暗殺されたのかな?とも考えてしまいますよね。氏輝が死んだ途端に外交路線が180度変わるんですから、むしろ消されたと考えますよね。
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Q水戸黄門-越後では

何日か前、水戸黄門でいつもは「越後のチリメンドウヤ」と言っているけど越後ではそういうわけにはいかないのでどういっているかというのをやっていたと思うのですが肝心なところを見逃してしまって分かりません。実際なんと名乗ったのでしょうか?

Aベストアンサー

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#3です。ご質問は地蔵菩薩真言と毘沙門天真言の「ソワカ」は同じ言葉か、という内容だったのですね?
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Q越後守護上杉家と長尾為景・影虎と関東管領上杉憲政の関係

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北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。

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つまり、上杉憲政と長尾影虎は血筋を辿っていくと、どちらも上杉家始祖の上杉重房に辿り着く血縁関係にあり、全く無縁な関係というわけではありません。

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Aベストアンサー

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

2.関東公方として派遣しましたので、当然、関東管領山内上杉家が補佐をする建前です。

3.関東の武士団が認めればよく、幕府の言いなりにならない人物の方が、地元では好まれました。


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