プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

「柔道」と「柔術」の違い。

以前から気になっていることがあります。

柔道と柔術の違いが語られる際に「柔術は本来殺人術」とか「柔道に当身はないが柔術には存在する」というような意見を頻繁に目にします。

より実戦的なのは「道」ではなく「術」と名のつくものの方であるという論旨だと受け取っているのですが…。

より過激で危険な状況を想定しているのが柔術。
殺人術という観点で言えば、やや温いのが柔道。

これが一般的な認識でしょうか?

大雑把に言えば「術」は技術体系そのものを意味し、「道」はそれらの技術に精神修養や人格形成という面も加えたものを意味する。つまり技術的な優劣は存在しないと認識していたのですが…それは間違いでしょうか?

A 回答 (10件)

>「柔道」と「柔術」の違い。


大雑把に言えば「術」は技術体系そのものを意味し、「道」はそれらの技術に精神修養や人格形成という面も加えたものを意味する。つまり技術的な優劣は存在しないと認識していたのですが…それは間違いでしょうか?




私も同感です。

一般的な武術の中にある「ex柔術・剣術」ものから、心技体の求道的に高めたり技や禁じ手等のルール化をしたものを「ex柔道・剣道」と呼称しているのではないでしょうか。
特に、柔道で言えば、古来より多くの流派や達人が居た柔術をベースに心身の鍛錬や護身、学校体育に資するように加納治五郎先生が考案・提唱されたものの呼称だと思います。

それ故に優劣ではなく、技や理論やルールの種類や規定のバックグランドの違いから来る名称の違い、組織や団体や冠大会に於ける区分だと思います。


また、古武術としての柔術の流れ・伝承とは別に、海外での異種格闘技や柔道の変形スタイルを指して「ブラジリアン柔術」等の表現・呼称を和訳の過程で命名したり名乗るケースもある。


参考URL
http://sqs.jp/test/read.php/bbs/1239249574/1-13
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この回答へのお礼

回答をいただきありがとうございます!

lions-123さんの仰る通り、手法を重んじる術に対し、精神性も求めたのが「道」だと思っています。自他共栄などは有名な言葉ですよね。

柔道はオリンピックスポーツとしての発展が目覚ましいので、ついついスポーツと思われがちですが、あくまで「スポーツとしての側面が発展した武道」であることを考えれば、柔道もまた実戦を見据えたものだと思います。

柔術が殺人術としての側面を持つのであれば、柔術を踏襲している柔道にもまた殺人術としての側面があるわけで、ただ実戦的だという理由で「柔道<柔術」などの言葉を聞くと首を傾げていました(笑)。

お礼日時:2010/04/21 11:17

より実戦的なのは「道」ではなく「術」と名のつくものの方であるという論旨だと受け取


より過激で危険な状況を想定しているのが柔術。
殺人術という観点で言えば、やや温いのが柔道。

雑把に言えば「術」は技術体系そのものを意味し、「道」はそれらの技術に精神修養や人格形成という面も加えたものを意味する。



別に、そういう深い意味があるわけではない

柔術 という言い方は
江戸時代からだが、
日本古来からの武術の一つで、
細かく分けると百以上の流派あるらしい
日本古来の徒手あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした武術である。
相手を殺傷せずに捕らえたり、身を護ることを重視する流儀が多い


柔・和・和術・柔道・体術・胎術(たいじゅつ)・拳法・白打・活殺術・挫術・逆手術・腰廻・小具足・組討・組打・組討術・組打術(くみうち)・鎧組討術・鎧組打術・武者取・取捨術・捕手・取手・捕縛・手拍・手縛・拳・拳法など江戸時代に言われてたものは
みな 柔術

講道館柔道も合気道も、柔術の流派の一つ

※現在 柔道といえば嘉納治五郎先生の講道館柔道ですが、柔道という名称自体は
江戸時代から起倒流柔道など柔術の流派の名称にもちいられてました。

ブラジリアンとか日本拳法とか空道とか、色々でてきましたね(@^^)/~~~
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この回答へのお礼

回答をいただきありがとうございます!

理解力が乏しいもので重ねて質問させていただきます。
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

kusirosiさんは、柔術と呼んでも柔道と呼んでも名前だけの違いでしかなく、その中身には大差がないと仰っているのでしょうか?

>講道館柔道も合気道も、柔術の流派の一つ

ということは「柔道・合気道=柔術」ということですか?

お礼日時:2010/04/21 11:00

柔道は起倒流柔術と天神真なんとか流柔術を習った嘉納先生が


独自に理論体系化したものです。
それまでの柔術では「体で覚えろ」的スポコン我流による指導が一般でした。
しかし、嘉納先生はどうやったら自分よりも大きい男を倒せるのか
ということを研究し、その答えが「崩し」であることを証明したのです。
それまで投げ技といのは、どうして倒れるのかということ自体研究されず、
また、それが秘伝とされていなかったのです。
だから柔術の道場では技の「入り方」は教えてくれても、
「どうして倒れるか」までは説明できなかったのです。
それを嘉納先生が理論体系化し、世に広めていったのです。
当初嘉納先生は柔道の練習でも当身、突き蹴りの要素を取り入れようと
考えていたのですが、中々実戦以外の練習では取り入れることができなく、
柔道型のみでしかお披露目できなくなり、志半ばで嘉納先生は亡くなられました。
また、先生自体は柔術という殺人技は文明開化の始まった明治ではナンセンスだと
考え、その道を通して精進できるように柔道と名づけました。
ちなみに黒帯というものを採用したのは講道館柔道が最初です。
それまでは帯に色は付いてませんでした。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます!

確かに嘉納治五郎氏が技における「崩し」の概念を発見したのは有名な話ですよね。
帯の色に関しても案外「空手発」だと思っている方が多くて、不思議に思っています。

技術を理論立てて体系化したという実績もさることながら、それだけでは不十分として精神の重要性を説いたことが素晴らしいと思います。しかしながら、昨今では柔道家が自らスポーツマンを名乗ること…「武道=スポーツ」が通例のような気がして、悲しい思いをしています。

私は柔術家でも柔道家でもないので、彼らに「ほっといてくれ」と言われればそれまでなのですが…(笑)。

お礼日時:2010/04/21 11:56

日本の素手で戦う武術の流派の中には、たとえば「柔術」と言わずに「和術」と呼ぶ流派や「柔」と書いて「やわら」と称する流派、「柔儀」と書いて「やわらぎ」と呼ばせる流派などいろいろあります。


では「柔儀」は「柔術」とどこが違うのかというと「オレは柔儀と呼びたいんだ」というだけのことで、実体は「柔術」と大きく分類される武術の一流派にすぎません。

この観点からすると、「柔道」と呼ばれているものは加納治五郎が創始した「柔道」という名前の「柔術」の流派であると考えられます。


そして他流の「柔術」と比較した「柔道流」柔術の特徴は、スポーツとして普及させる目的で、危険な技を排除したことです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます!

柔儀と呼ぼうと柔道と呼ぼうと中身は柔術と同じだというわけですね。
その観点で語るとすれば、空手道や合気道も柔術に含まれることになりそうですね。

(別に進化論を信じているわけではないですが)進化論を信じる人が「君が人間と勝手に言ってるだけで分類は猿なんだよ」と言うようなもので、少々強引な印象を受けてしまいます。
「君の祖先は猿」というのならまだ分かるんですが。

仰る通り、試合をする上で柔道では足への関節技が禁止、ボクシングで蹴ったり頭突きをするのが禁止、というようにスポーツという側面を発展させる目的で危険な技を排除するというのは、およそどの武道・格闘技にも言えることですね。

お礼日時:2010/04/21 14:33

確かに質問者様のお考えももっともだと思います。

他の方々がおっしゃっているように単純に「名称」としての差というのが僕としては大きいかと思います。

「柔術」という言葉が一般的になったのはある意味逆説的ですが「柔道」が誕生してからです。既に他の回答者様もお書きになっているように江戸時代以前の「体術」を中心とした武術の体系が複数あり、様々な名称で呼ばれておりました。それを「柔道」誕生以降、対概念として十把一絡げ的に呼ぶ名称として比較的多くの流儀で使われていた「柔術」を使うようになったというのが名称の発生と言えます。既に指摘されているように柔道は複数の柔術の技法を創始者が物理学的な観点から共通の「こつ」を見出し「崩し」と命名し、学び始めた人間にも分かりやすく指導をする方式を取るという技術体系並びに教伝体系を整えた武術というのが僕の持っている考えです。そういう概念から言って、柔道と柔術には大きな違いは無いといえます。また、あまり知られていないことですが、柔道にも「五方の当て」という当て身技があり、「古式の型」も伝えられ、昭和50年代の講道館の鏡開きでは甲冑を着けた演武が行われていたと聞いております。

武術はその発生が様々でありますが、江戸期においては武士が戦闘技法として学ぶと同時に結構庶民も学ぶ機会が合ったと言うことです。そういう意味では戦闘を行わなければならない時代には命を守ったり、ある意味「金銭」や「出世」のための道具であったと言えるでしょう。それが平和な時代になると武士の教養的な側面(武士は建前として戦闘者である必要があるためですね)や社会体育的側面を自然発生的に備えていったとも、残されている記述から考えることも出来ると思います。その中で、封建制度の解体、身分制度の解体(正確には華族がいるのでその限りではありませんが)の中で、ヨーロッパ等の西洋社会から正に「社会」という概念と武術が結びつくことで、新たなスタイルとしての「武道」が生まれたと思えます。その流れから、運動を行うことで「精神修養」「人格形成」を強く訴え、より社会的運動行為として喧伝された時代でもあります。では、「柔術」ひいては「武術」に「精神修養」「人格形成」の面が無いのかというと、それはあまりにも「武術」を知らない考えであるといえるでしょう。「武術」を習得しある程度の技能を持った人間の「精神修養」「人格形成」が語られる逸話、挿話の類は多々あります。逆に、現代の「武道」を学ばれている方の中にはあまり言いたくはありませんが、一般の方が思われている様な「人格者」が量産されているとは思えないニュースを聞くこともあります。

ただ、やはり明治時代の「柔道」創始者のプロパガンダが非常に上手かったといえるでしょう。「柔道」が生まれてから100年以上経ちますが、当時のプロパガンダが多くの日本人の潜在意識にまですり込まれている現状を見るにつけそう思います。

僕としては技術的な面や人格形成的な面において優劣は無いと思います。十分に「柔道」も学び方次第では殺人術として恐るべきポテンシャルを持っているといえるでしょう。ただ、日本では「神武不殺」の考えがあるので、「柔術」でも殺人技をおいそれと教えることは無いのですが。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます!

質問自体を明確にしようという理由があったとは言え、誤解を招くような部分があったかも知れません。

「柔術=精神性を軽んじる」
「柔道=精神性を重んじる」

と受け取られた方がおられましたら、決してそのような意味ではありませんのでご理解のほどをよろしくお願いいたします。

さて、当時存在した数多の流派の中で「精神性は無視しなさい」という積極的な教えがあったとは考えにくいですし、美徳であったからこそ「逸話」として優れた人格者でもあった姿が現代に残っているのでしょうね。

ここで重要になるのは創始者は「何を前面に押し出したか」ということであり、独立した理念という意味でもtakeshi46さんのお言葉にあるように「強く訴えた」のが柔道だったと思います。そして宣伝方法が巧みであったことに加えて、日本人の気質に合っていたという部分もあるのでしょうね。

声高に語っていないという点だけ見れば、柔術家が精神の重要性を説いたことはただただ賞賛に値することで、仮令軽んじたとしても、それは恥にはなり得ないと思います。

一方、それを重んじますと前面に押し出した柔道を見た時、精神を鍛えることは当たり前のことで、それが出来ていない場合は恥になり得ると思うわけです。

そういう意味では現代の武道団体に課せられた責任は非常に重いと思います。

柔道を学ぶ方には少し厳しい表現になると思いますが、確かに「人格者」を量産している武道団体とはとても思えない機会が多々ありますね。メダルしか頭にない柔道家も多く、育てる側も大半は試合の実績にしか興味がないようです。大会で結果を出せば良い、技が上手になれば良い…という態度は見えても「本当にそれだけで良いのか?」と懐疑的な部分は正直あまり感じられません。

試合で勝っただけ(敢えて“だけ”と言わせていただきます)でガッツポーズをとる柔道家の姿も問題ですね。試合で勝つも負けるもあくまで稽古の一環に過ぎず、相手に礼を欠いた行いは非難こそすれ褒めるには程遠い態度である…と、それは余りにも穿った見方でしょうが、一つの考え方として間違っているとは思いません。

このような物言いはスポーツとして柔道を学んでいる人と、武道として柔道を学んでいる人を混同しているように聞こえるかも知れませんが、日本に浸透している柔道はほとんど一派しかない以上、本質が変わっていないと主張するのであれば、半ばスポーツマン化した柔道家が晒す恥は全体の問題として受け止め、在り方を正すべきだと思います。
完全にスポーツとしてのみ発展を目指していくのなら武道と別れを告げる旨は明確にすべきで、半端な立ち位置ではスポーツとしても、武道としても非難を受けることになると思います。

takeshi46さんが仰ってくださいましたが、柔道にも当身はあります。
そして、スポーツとしての側面で語るのであれば柔道に限らずルールは存在します。
柔術がいわゆる「禁じ手」を解禁して語るとすれば、柔道も等しく解禁して語らねば公平とは言えません。スポーツの面で技を禁止しているからといって、柔道家がその技を使用出来ないと考えるのはやはり短絡です。柔術家が殺人術を使いこなせると考えるのも短絡です。それは人次第であり、使い方次第でもあるでしょう。事実に反した内容で他者を糾弾することは、無用な怒りを生むことに繋がります。

技術面も精神面も差異こそあれど、優劣は生じない。
名前が違うことには理由があり、また来歴がある。
公正な視点に徹し、慎重な言葉選びで説明してくださるtakeshi46さんのような方ばかりであれば、今回の疑問を発するには到らなかったと思います。

>より過激で危険な状況を想定しているのが柔術。
>殺人術という観点で言えば、やや温いのが柔道。

そんな認識が横行しているとすれば、その原因はやはり柔術にも柔道にも、それを見る人にもあるということですね。

しかしながら、門外漢に責任の大半を求めることは単なる言いがかりにしか過ぎないことを考えると、やはり武術団体、武道団体が掲げる「精神」はただ単語を繰り返すだけのものではあってはならず、ある段階までは論理的に説明出来るものでなければ著しく説得力を欠くものになると思います。

「実戦とは戦闘(喧嘩)のこと。それに勝つことが強さ」と簡単に言えてしまう経験者が多くなってきたことを考えると、全体的な質の低下を意味していると言わざるを得ないと思います。

これは長くなりそうなのでまた別の機会にします(笑)。

takeshi46さんを始め、お答えいただいた方々には深くお礼申し上げます。貴重なお時間を割いていただき誠に恐縮です。

お礼日時:2010/04/23 05:05

うーん・・・質問者さんは、時代考証を考えないで「柔術」と「柔道」を比べようとされているのではないですか?



まず、江戸時代って今のように日本が統一されていたわけではなく、徳川幕府を中心にした連邦国家、つまり、各藩がそれぞれの国だったわけです。
そんなそれぞれの国(藩)はいつ戦がおきるか分らない状況を想定して(たとえ250年安泰していても)自藩の家来たちに戦の仕方を教える指南役を必要としました。
だから、需要があったからこそ立身出世をめざして数多の剣術、柔術が排出されたわけで、今、大河ドラマ「龍馬伝」に出てくる北辰一刀流の若頭、千葉重太郎だって越前藩の指南役です。

なので、本来の柔術は当身があるということだけではなく、剣取り、棒術、中には鎖鎌術等を兼ね備えた戦場で使える技術であることが前提なのです。(それが柔術が存在する意義なのです)
ですから、必然と素手でも殺せる当身術や投げ技が研究されたのでしょう。

しかし、明治の世になって連邦国家は崩壊し、明治政府を中心にした中央集権国家にかわりました。
つまり、藩から県に変わった自治体に「武術指南役」は必要がなくなったのです。
だって、例えば神奈川県庁が職員に「武術指南」を必要としないでしょ?
腰に人切り包丁をぶら下げて歩く人もいまくなりました。

世の中、需要と供給です。

平和になった明治の世で、物騒な「戦場格闘術」は廃れ、逆にそれまで柔術で行われてきた鍛錬法の「乱取り」をクローズアップして、「徒手対徒手」の技術を中心に当身を外し体育法としてまとめあげたのが嘉納治五郎先生の「柔道」であって、その柔道が四民平等になった世の人々に受け入れられたのだと思います。
ちなみに柔道の「五方の当て」ってしってますか?棒立ちのまま、前に拳を出したり横に拳を出したりという素人がみても酷いと思うような形です。

つまり、「軍隊格闘術」の要素を必要とされた柔術と、
ルールを決めた試合の中で徒手対徒手の勝敗を競う柔道
と言う両者は全くの別物と思います。

いっておきますが、技術の優劣を言っているのではありません。
存在意義の違いを言ってるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

前途の通り、私は簡略化するために「術」と「道」という語義について質問させていただきました。しかし決して「術=精神性を軽んじる人」や「道=精神性を重んじる人」に直結しているという考えで書いたものではなく、優劣はないが、多かれ少なかれ差異がありますね、と私はずっと言っていますのでよろしければお読みください。

そして、uissuさんの論旨によると「術」が技術体系そのものを指す、という私の認識と事実(歴史的なものも含めて)には全く齟齬がないわけですね。

>本来の柔術は当身があるということだけではなく、剣取り、棒術、中には鎖鎌術等を兼ね備えた戦場で使える技術であることが前提なのです。(それが柔術が存在する意義なのです)

まず素朴な疑問として…「あなた」=「柔術そのもの」なんですか?
そして「あなたが思う存在意義」=「全員が思う存在意義」なんですかね?

非常に都合が良いんですね、この「本来の」という言葉は。
ですから、きちんと定義してお話していただければ幸いです。

>つまり、「軍隊格闘術」の要素を必要とされた柔術と、
>ルールを決めた試合の中で徒手対徒手の勝敗を競う柔道
>と言う両者は全くの別物と思います。

再三申し上げている通り、両者は確かに違うものですね。しかし、その違いがあなたの仰る言葉に集約されているとは思えません。以前のお話にもあった通り、柔道も柔術を経て柔道に到ったわけですからね。

武器術のことを語る場合も、棒や剣や鎖鎌や…槍や薙刀や弓矢でも暗器でも何でも良いんですが、それを状況に応じていつでも使用出来る状態で、現代の柔術家は持ち歩いてはいないですよね(まぁ中にはいるんでしょうが)。

あなたの言葉を借りれば、その種の「軍隊格闘術の要素を必要とされた柔術」は、あなたのいう明治に平和な世が訪れた時点で必要とされなくなったんですよね。

それがどうして現代の柔術の本来の姿になるのでしょう?

起源や変遷を知るための「時代考証」から現代を抜き取ってしまっては、話がめちゃくちゃになってしまいます。

あなたが仰る柔術は遠い過去のものなのに、引き合いに出す柔道はテレビに映る試合における柔道だけ…これではちぐはぐな比較、短絡的な結論と言われても仕方ありません。

柔術の方は「殺し合い」の面だけを語り、柔道の方は「試し合い」の面しか語らない。
これを私は「公平性を欠く視点」と指摘させていただいているわけです。

また、当身も武器術も積極的に稽古する柔道家もいますし、その存在を無視して一方的に決め付けられませんね。

私はあくまで「柔道に当身がない」と断ずる人に対して、当身を含めて稽古している人もいるし、技の段階でも完全に排除されていませんね、というお話をさせていただいただけです。

それが柔道の真の強さだ、とも言っておりませんし、武術にせよ武道にせよ技術が凶器になり得るのであれば「人を死に到らしめる技術を修めることの意味」や「使用出来るものを敢えて使用しないのはなぜか」といった疑問から心性を育むことが重要ですね、ということを申し上げた次第です。

ちなみに、神奈川県庁が職員に武術指南を行うかは私は未確認ですが、神奈川県警には武術指導なり武道指導なりはありますね。技も、技を求める理由も、使われ方も時代によって変わるということではないでしょうか。

お礼日時:2010/04/24 07:12

柔道と柔術の違いですか。


柔道は柔術の寝技を中心に武道としてきたものと言われています。
現在の柔道はスポーツ化しているのでjyudoと言っています。
これは、ルールの中で技を使っていくのですが、危険技を禁止するルールがあるため実戦性はかなり低くなります。
柔道が出来た当初はルールがないため、何でもあり体重制限もありませんでしたよ。
ちょっと古いですが、昔TVドラマで柔道一直線と言うのがありましたが、小柄な主人公が大男を投げる
シーンが良くありましたね。
柔術は、戦国時代に生き抜く術として確立してきたものですので、どちらかと言うと殺伐とした
技となります。
今は、殺伐性はなくなっていますが技の決まり方によっては危険性が高いと思います。
合気道も、柔術を基に考えられたものです。
柔術界では、合気道のことを植芝伝大東流柔術と言われていますので、技の基本は柔術に似ています。
それに、合気道は試合がないのも柔術と同じです。

>より過激で危険な状況を想定しているのが柔術。
>殺人術という観点で言えば、やや温いのが柔道。
>これが一般的な認識でしょうか?
出来たときの時代背景がことなりますのでそうなるかもしれませんが、ルールがあるかないかの違いだと私は考えます。
本来柔道技も危険技が多々ありますが、ルールで使用禁止になっているので使えないだけです。
柔術も現在は危険技を禁止することが多いので、差異はないと思います。
それに、今のjyudoはレスリングと同じじゃないですか。

因みに○○道と付くと基本的に精神鍛錬が入ってきますので、少し雰囲気が変ってくることも事実です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

>柔道は柔術の寝技を中心に武道としてきたものと言われています。

私は柔道と言えばやっぱり「投げ技主体」と思っていた時期もあるので、柔道が柔術の寝技を中心に発展したものというのには驚きました。ということは、投げ技が加わったのは柔道が生まれた頃よりもしばらく後、ということになるのでしょうか?

>本来柔道技も危険技が多々ありますが、ルールで使用禁止に

スポーツ柔道が普及して、オリンピック競技にもなっていますから、そこで結果を出したい選手は少なくともルールを破ってまで危険技を使用することはありませんよね。
ちなみに、私は「jyudo」という表記は初めて見ました。
どんな理由で漢字の柔道が使用されなくなったんですか?

私はテレビに映る柔道家の試合はほぼ全て「スポーツ柔道家のやるスポーツ」と思っているので(総合格闘技の試合に出場する柔道家もほぼ全員ですが)、それをつかまえて「実戦性の有無」を躍起になって語るのは彼らが可哀想だと思うようにました。しかしスポーツと思えば次第にそんなスポーツ柔道家にも興味がなくなってしまい、試合自体ほとんど見ることがなくなりました。

私も「スポーツ柔道は胴着を着てやるレスリング」と聞けば同意してしまいます。

両方ともスポーツであれば内容には野球とソフトボールの違いくらいしか生じないでしょうから、混同されても仕方ないと思います。団体を運営する人間がスポーツ精神と武道精神をごっちゃにして考えているからこういう事態になったのかも知れませんね。

お礼日時:2010/04/25 02:56

長い補足はわざわざありがとうございます。



すみません。所々で補足要求させてください。

>まず素朴な疑問として…「あなた」=「柔術そのもの」なんですか?
そして「あなたが思う存在意義」=「全員が思う存在意義」なんですかね?

>非常に都合が良いんですね、この「本来の」という言葉は。
ですから、きちんと定義してお話していただければ幸いです。

●随分挑発的に書かれますね。
「本来の」という言い方に傲慢さを感じられたのならお詫びいたします。そこは、「私がいままで知り得た柔術では」とお読み替えください。
ただ、柔術をきちんと定義することは難しいと思いますよ。だって、江戸時代には100を越す流派があって、戦国時代からの甲冑組討術から、江戸時代に発生した素肌柔術と、様々な流派があるのですから。僕は柔術の概要として書かせていただいたつもりです。


>再三申し上げている通り、両者は確かに違うものですね。しかし、その違いがあなたの仰る言葉に集約されているとは思えません。以前のお話にもあった通り、柔道も柔術を経て柔道に到ったわけですからね。

>武器術のことを語る場合も、棒や剣や鎖鎌や…槍や薙刀や弓矢でも暗器でも何でも良いんですが、それを状況に応じていつでも使用出来る状態で、現代の柔術家は持ち歩いてはいないですよね(まぁ中にはいるんでしょうが)。

>あなたの言葉を借りれば、その種の「軍隊格闘術の要素を必要とされた柔術」は、あなたのいう明治に平和な世が訪れた時点で必要とされなくなったんですよね。

>それがどうして現代の柔術の本来の姿になるのでしょう?

●現代の柔術とは例えば何流の柔術を指しておっしゃられるのですか?それによって回答も変わりますので補足をよろしくお願いします。

>起源や変遷を知るための「時代考証」から現代を抜き取ってしまっては、話がめちゃくちゃになってしまいます。

>あなたが仰る柔術は遠い過去のものなのに、引き合いに出す柔道はテレビに映る試合における柔道だけ…これではちぐはぐな比較、短絡的な結論と言われても仕方ありません。

>柔術の方は「殺し合い」の面だけを語り、柔道の方は「試し合い」の面しか語らない。
これを私は「公平性を欠く視点」と指摘させていただいているわけです。

●短い文章でお伝えしたいことを書くことも難しいですね。
別に、僕はテレビに映る試合における柔道だけを見て柔術と比較したわけじゃありません。どこの文章からそう決め付けられたのでしょう?
僕自身、昔、柔術と柔道の違いにとても興味を持っていろいろ調べた時期がありました。
柔道の形の本2冊買って講道館護身術の本も購入し、柔術関係は竹内流、大東流、浅山一伝流、柳生心眼流等の書籍を購入し、気楽流と柳生心眼流の師範には直接会わせて頂き、技を掛けて頂きお話も聞くことが出来ました。その今まで得た知識から書かせていただきました。

ここで補足要求します。
僕の意見が短絡的とおっしゃるならば、あなたの今までに見てこられた柔術の流派と技術内容を教えて下さい。そして、あなたの言う柔道はテレビに映るスポーツ柔道を指しているわけではないのでしたら、現在残る柔道の形についての認識をお聞かせください。まさか、そういった知識も無く人の意見に「短絡的」という烙印を押される方ではありませんよね。



>また、当身も武器術も積極的に稽古する柔道家もいますし、その存在を無視して一方的に決め付けられませんね。

>私はあくまで「柔道に当身がない」と断ずる人に対して、当身を含めて稽古している人もいるし、技の段階でも完全に排除されていませんね、というお話をさせていただいただけです。

●いや、柔道の形の中では「極の形」というのがあって、ちゃんと当身が入っている実戦形があるんです。でもどの道場でも教えてないでしょう?
そういう当身を教えない今の柔道で、個人で当身や武器術を練習した人を柔道として扱うなら、華道や茶道をやっている人だって当身や武器術を独錬した人が「華道や茶道にも当身や武器術があります」と言えますよね。おっしゃっていることは短絡的だと思います。

と言うことで、補足要求よろしくお願いします。

この回答への補足

再び回答いただきありがとうございます! また長いかも知れません(笑)。

まず、大前提として武術・武道はスポーツとは違うものです(スポーツ柔道と自ら銘打っているものは当然スポーツです)。
この大前提に違いがあるのであれば、以下はお読みいただかなくて結構です。

柔道が世界的に普及してオリンピックスポーツなどにもなっているので誤解されやすいですが、それはあくまで一側面で、柔道は武道としての側面もあります。完全なスポーツではありません。
いかに世間で競技性だけが取り沙汰されても、試合は武道においては稽古の一環です。ただ、自分をスポーツマンと称する柔道家、強さを求めて武道を捨てスポーツの世界に入った(元?)柔道家がいるので、柔道はスポーツと素人が感じるのも無理はありません。

一方、武術や武道に身を置くいわゆる経験者の方達はどう思っているのか。

武道の側面を持つと理解されている方もおられますが、中には「極真空手家は顔が打てない」とか「柔道はスポーツだ」とか言い切る人がいるのも事実です。そんな人に「それは試し合いの場、ルールがあるからスポーツと同じで当たり前、殺し合いと話が全く別」と説明してもなかなか伝わりません。

素人の印象なら仕方ありません。スポーツ格闘家の方(ボクシングや総合格闘技)の印象でも仕方ありません。しかしもし武道に触れたことのある人、今も学んでいる人が一概には言えないことを断定した時、武道家をスポーツマンとしてしか捉えていないから、そんなことが言えてしまうのではないか…と思ってしまいます。

日頃から武に身を置いて「戦うこと」を年中考える人が、どこまで行っても筋力やら技やら…詰まるところ「殺傷能力」にしか強さの基準がないとしたら、浅はかなことこの上ないですね(虎眼先生)。
また、武道の精神も同じことが言えますね。指導者の言葉を何でも鵜呑みにして「人と仲良くしよー、人格者であろー、俺たちの技術はすげー」と意味も考えず繰り返すのはただの思考停止です。

武道を学ぶ者がそれぞれ頭を使って戦うことを考えて、強さを考えて、そして強くなるためのその努力を怠らない。
それは街の喧嘩でも、恋愛でも、仕事でも、相手が害虫でも動物でも、お金でも家族でも国家でも、事故でも、病気でも寿命でも…あらゆるものを含めた、あらゆる条件が可変の「なんでもありの実戦」の中で自分の勝ちを積んで、いつしか普遍的に発揮出来る強さを得るからこそ、一朝一夕では身につかない成熟した知性を持ち、自然と分を弁えた振る舞いになる…ということに繋がるわけです(例えばね)。

色んな可能性を勝手に省いた特殊な状況下の「実戦」は物語を作る人にでも任せておいて、戦いを知る人は戦うその理由も、政治的法的論理的正当性も考え、犠牲も出さず戦わずして勝つことも、戦わなくて済むようにはにどうすれば良いかもいつも考えねばなりません。そして、どうして人は平和を守らねばならないのか、強い人間がどんな人間かを伝えるといったことも必要になってきますよね(まぁ、テレビに出る柔道家は真逆を行ってますが)。

鍛えた体、武器、技術や戦略を持っていれば勝てる、それは素人の発想です。
戦い方なんて数え切れません。徒手、武器を用いた格闘術なんてその一部でしかありません。

そんな素人に対して「戦いの専門家」である武術家、武道家が真面目に語る強さが「もし宝くじが当たったら…」というような荒唐無稽な状況設定で、その内容が殺人賛美みたいな内容では失笑や失望を買うだけです。

とまぁ、色んな意味で自らを律することの出来る人格者が「戦う仕様」であることは、周囲の人間も心強いことではないでしょうか。山賊でもあるまいし野蛮性・危険性を誇って威光を轟かせるのではなく、安心を与えるというのも武道家の一つの役目と言えるでしょうね。

武術家、武道家でさえ直接殺し合いをする時間より、しない時間の方が遥かに長いんです。では殺し合いをしてない間はずっと「休憩時間」ですかと言えば、そうではありませんね。スポーツと違って武道はずっと本番なんです。

ということだけ考えても「武器術」とか「実戦性」とか「柔術の流派が」とか「柔道の形が」などの手法から武術家や武道家を比較することがいかに瑣末かという話なんですね。

殺傷能力だけを求めるなら古風な武器に拘らずとも別に軍隊でもミサイルでも毒でも、それこそ徒手でも良いわけで、何でもかんでも実戦性は高いですよね。
護身術という観点でも夜道を一人で歩かないことがなどもまた立派に実戦性を持つわけですから、私はやっぱり手法に本質があると考えるより、それらを学び状況に応じてどう活かすかという頭の働きこそ「武道精神」と呼ぶに相応しいのであり、不可分一体の心技体が意味するところに繋がると思います。

補足日時:2010/04/25 09:42
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この回答へのお礼

上記書き込みはあくまで私個人の武道観です(書き切れませんでしたが)。

それを先に語った方が真意を伝えやすいとの判断から書かせていただきました。
返事を待つのが面倒な場合は、チャットなどでもお答えしますので、ご遠慮なく要望をいただければと思います。プロフィールに連絡先を書いておきます。
必要ない場合は…出過ぎた真似をお詫び申し上げます。

本題です。
傲慢どころか「本来」という耳障りの良い言葉で飾って普く行き渡る存在意義として述べたわけで、嘘つきと受け取られてもおかしくないですよ。単刀直入にお聞きしただけなのにそれが挑発的ですか。

現に、あなたが恣意的な表現をしていたのは事実で、「今まで私が知り得た柔術では」と言っていただければ私は疑問を持ちませんでしたよ。そして数ある「柔術」をきちんと定義するのが難しいというのであれば無理にしなくても結構です。歪曲するぐらいなら「きちんと定義するのは難しい」の方が誠意のあるお答えでした。

ただ「存在意義」って根幹に関わるお話をしながら概論だからでお茶を濁すのはどうかと思いますが。

流派や時代で技術体系が異なるのであれば「柔術の存在意義」はあなたが思うだけのことで、別に客観的に説明出来ることではないんですかね。あなた知り得た本来の柔術は剣取り、棒術、鎖鎌術などがあるそうですが、それが特定の流派に限定されたお話だとすれば、概論と各論で「柔術の存在意義」も変わってきませんか?

「戦場格闘術」は武器術の有無によって「戦場格闘術」足り得るわけですか?
人殺しの技があれば何でも「戦場格闘術」足り得ますか?

「本来の柔術」「柔術の存在意義」どちらも私が言い出したことではありません。

私が「柔術の知識合戦しよう」とでも言ったのならともかく、いきなり「流派を言え、技術を言え」と迫られても当惑します。あなたは勉強熱心なようで尊敬に値しますが、議論がいつでもあなたの得意分野で交わされるわけではありません。
ここでは特に流派に関する詳しい知識は必要ないのでご安心ください。

あなたが注釈なく「柔術」と仰って、そこに特定の条件を除外する注意書きがなかったので、それぞれの言葉の定義をお聞きしたまでです。あなたの論理に整合性を求める意味での質問だったので、別に知識を披露すれば解決出来るという類のものでもありません。

そして、これはあなたの誤った表現に対する問いだったので、説明を受けたらすぐに疑問もなくなりました。

それから「ルールを決めた試合の中で徒手対徒手の勝敗を競う柔道」と私が言った「テレビに映る試合ににおける柔道」と内容に違いがあるのならお詫びします。テレビに映ってるかどうかみたいな差ですかね…でしたら申し訳ありません。

短絡的とは「戦場格闘術としての柔術」と「スポーツ柔道」を比較して存在意義が違うと結論づけたことについての感想です。「戦場格闘術としての柔術」が明治時代に廃れたとあなた自身が仰ったので、少なくとも現代に残る柔術はまた違った柔術であるはずなのに「試合の柔道」と「明治以前の柔術」を比較したので不公平だなと。
そんなわけで「短絡的な結論と言われても仕方ない」という私の感想に別におかしな部分はないように思います。

それに個人の感想に必ずしも専門的な知識は必要ないと思います><

●「極の形」というのがあって

ですから…「柔道に当身はある」が事実ですよね?
そして世界各国のあらゆる柔道場を回らないうちに「どの道場も教えてない」ともあなたは言い切れないのですよ。あなたの知り得る柔道場では…という意味なら納得しますけどね。

少なくとも私の周りにいる柔道家は口を揃えて「道場で習った全く意味のない当身」と言って見せてくれましたよ。積極的に投げ技や寝技を稽古しているだけで、彼らはそれ以外のことが「出来ない」わけではないんですから。
意味のない当身を意味のある当身に変えるのも工夫改良でしょう。
武術家にも武道家にも様々な思惑の人がいるわけですから、一概に言い切れないと言っているんです。

選手が試合で公式ルールを遵守するのは当たり前ですが、武道として学んでいる人がそんなルールに縛られる必要がどこにあります?

●「華道や茶道にも当身や武器術があります」と言えますよね。

強引ですね~…。
武道家が学んだ技を工夫すること、あらゆる状況を想定して稽古を積むことは当然でしょうね。しかし私は一武道家がすなわち武道そのものだとも言ってません。そんな茶道家がいても、個人が「茶道全体」を代弁するのは烏滸がましい話です。でも、存在を知っているのなら「そんな茶道家がいない」とはまた言い切れないわけです。
まぁ、芸道と武道は違うんで答え難いですけど…。

お礼日時:2010/04/25 11:33

uissuです。

またまた長い補足をありがとうございます。

はじめに「本来は」と言う言葉と「存在意義」に対してご不満を感じられられたことにお詫びいたします。

あと、補足を読ませていただきましたが、申し訳ありません。低脳な僕にはあなたが主張したいことの要点がいまいち理解出来ません。そして、あなたがこの質問に求める答えに対し、頓珍漢なことを書き込んでいたようで恥じ入るばかりです。

あと、あなたとチャットをする気は全くありませんのでそのところはご了承ください。

これ以上はつまらない水掛け論になりそうなのでこれで失礼させていただきます。補足も入りませんのでこのままスルーしてください。
あと、僕の見苦しい書き込みを見て気分を害された方々に深くお詫び申し上げます。
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この回答へのお礼

再び回答をいただきありがとうございます!

補足が必要ないと仰いましたが、時間を割いて質問にお答えいただいているuissuさんに、お礼も返事もしないというのは礼を欠く気がしてしまって…。ですから余計かも知れませんが一言添えさせていただきます。

●要点は、武道とスポーツは違うこと。柔道は武道の側面を持つということ。客観的な情報に裏打ちされた知識も恣意的な(論理性や公平性を欠く)伝達をすれば妄念や偏向思想の啓発にしかならないこと。すなわち、一個人が武術や武道を背負ってその存在意義を語ることは畏れ多いことであり、必要に駆られて行った場合も細心の注意を払わねばならないこと。

大前提として他の価値観を退け、過去現在未来において物事の本来の姿や真実の姿を主張するという行為は、他者の価値観に干渉する以上、相応の反応があって当然であること。

そして柔道における武道精神とは心技体を踏まえたものである以上、流派や技(技術や手法)だけ切り離してそこに本質を見出そうとするのは混乱のもとであること…などがあります。
そんな意味で、私の言った「テレビに映る柔道家の試合至上主義とも取れる発言、試合に臨む態度は、本人が武道家を名乗るに相応しい振る舞いであるか」というのは特定の柔道家への問題提起です。概論であれ各論であれ、イコール柔術や柔道の全てを断じる論拠には成り得ないわけですね。

技術論のみで両者を比較するのは、人生をかけて武術精神や武道精神を学ぶ方の邪魔をする、迷惑な行いだと思います。

前途の通り、素人や、根っからのスポーツ格闘家が発する「最強の格闘技は?」や「○○は実戦最強」といった発言は「最強」や「実戦」の意味するところががせいぜいUFCに毛の生えた程度のものでしかない場合が多いので、いちいち目くじらを立てても仕方ありません。

一方、武を志す、武を修める人間が公式の場でそれに近い発想を語れば、未熟な姿を露呈する行為とされ、糾弾を受けても仕方ないのかも知れません。一纏めにされた「最強」や「実戦」などが便宜上の性質を持つのは少し頭を使えば誰でも分かることですね。

そんなことからも「術」や「道」といった「言葉」が、武術や武道のどういった側面を指すのかといった質問をさせていただいた次第で、現存する武術家、武道家が全てこうであるというお話をするのはそもそも不可能だと思っています。

この質問をするにあたり、副次的な情報として武術、武道に身を置きながら(広く長い学問としての面も含めて)ご自身の役目や在り方をどのように捉えておられるかをお聞き出来れば良い勉強にもなると思っています。

●ご謙遜であるとは思うのですが、文章の要点が理解出来ずご自身を低能と称されることには私にも責任の一端があり、限られた文字数でお聞きいただいた内容に返答し、それをまた補足をしているので伝わり難い部分が多々あったと思います。
リアルタイムのやり取りで誤解を避け、徒労感を軽減出来るチャット等の方法をご提案したまでで、他意はありませんのでご理解ください。お気遣い感謝致します。

●お互いが冷静に「何について話すか、どの土台で話すのか」を守ってロジカルな議論に徹すれば、それは決して水掛け論のような低次元な競争にはならないと思います。そして水掛け論のような体裁をとったとしても、得られる結果はゼロではありません。
このトピックを読む人間は(他にはほとんどいないとしても)私とuissuさんだけではないので、それはそれで得るものもあろうかと思います。

私自身はそう思うものの、当事者にとって必ずしも好ましい事態とは言えない部分も多いので、それを避けるためにあくまで争点となる言葉の定義をお願いした次第です。何でもかんでも「定義、定義」と言い出せば、言葉なんて使えませんもんね。

意味合いがそれぞれ明確になれば、論旨もまた伝わりやすくなり、理解や意識の共有にも繋がったと思うので、今回uissuさんがそれを諦め、自責の念に駆られていらっしゃるのは誠に遺憾です。責任の一端を負うものとしてお詫び申し上げます。

また、最後になりましたが文字数調節のために「uissuさん」を「あなた」と表記したことを不快に感じられていた場合は、この場を借りてお詫び申し上げます。

今後ともよろしくお願いします。

お礼日時:2010/04/26 12:30

一般的に「柔術から柔道が産まれた」「術から道へ」ということが言われたり、「柔道VS柔術」という対立構造を考えがちですが、創成期の「柔道の技法」について述べる場合これは間違いで、柔道と柔術は共存、混在していたと言うのが正しいと思います。



他の方が述べているように、元々、嘉納治五郎先生の修行した起倒流では「起倒流柔道」という呼び方をしていますし、立ち技の乱捕りも幕末では盛んに行われていました。当初、講道館は立ち技がメインで、寝業は関西を拠点とした全国的な武の組織「大日本武徳会」から導入されています。武徳会には古流柔術、剣術諸流派が参加していました。そして柔道も行われていましたが「投げ技、固め技、乱捕りの形」とも呼ばれていて武の部門全体の中の一部として扱われていました。寝業は関東、中国、九州地方などの柔術流派の技が基となり、ついで関西、中国、北陸、東北などの旧制高校の柔道場で誕生した技が加わっていきます。たとえば三角絞めは岡山六高(岡山大学)で開発された技です。

また創成期の講道館を支えたのは複数の柔術家たちでした。(講道館四天王のうちの富田常次郎、横山作次郎は天神真楊流出身) この辺の事情は戦前の武徳会で修行された道上伯先生が雑誌のインタヴューで述べられています。道上伯先生はフランス、オランダで柔道を教授し東京オリンピック無差別級金メダリスト、へーシングを育てた指導者として知られています。
http://www.haku-michigami.com/kiseki_1.htm

講道館の固の形(寝業)、極の形(座法、立ち技における関節、投げ、絞め技など)を作り上げたのは武徳会の柔術家たちであり、居取り(座法)八本、立合い十二本も嘉納先生が原案を出したものを柔術家たちが評議して制定されました。(嘉納治五郎「私の生涯と柔道」より) 

嘉納先生は弟子に合気道(当時は大東流)や香取神道流の武器術を習わせ技法を講道館に取り込もうとしたり、空手(唐手)の富名腰義珍先生を招聘しています。講道館護身術を実質的に作り上げたのは嘉納先生の命で合気道を修行した富木謙治先生で、当身から構成された精力善用国民体育の形には空手や柔術諸流派を研究した嘉納先生の苦心の跡が伺えます。

嘉納先生の考えていた柔道は、実は技法上においては、我々が考える以上に古流的であり総合的であったのです。ですが柔道の試合化、競技化が進むに連れ危険な関節、当身技を禁じざるを得なかった、寝業ですら講道館が主導権を握るために制約が生まれ立ち技重視となります。

しかし逆に投げ技、組技に特化したためそれらが非常に発達した、実践的な武道になったということも言えると思います。柔道の吉田秀彦が空手家の佐竹雅昭に勝利したり、グレイシー柔術やレスラー、ボクサー、キックボクサーと互角に亘り合い好勝負を繰り広げたのには驚きました。(吉田先生、お疲れさまでした) 柔道家の基礎体力、実践力は凄いと思いますよ。私は古流の修行、研究者ですが、古流の世界でこのように総合のリングにおいて結果を出せる人はいないと思います。

同時に嘉納先生は単に強くなるだけではなく、武の修行において培った精神で社会に参画して欲しいと考え「精力善用」「自他共栄」を唱え広めようとしました。これは従来の柔術には無かった教えです。単に道場のスローガンではなく、人間を作ろうとした、そのために道と名付けた、ここに嘉納先生の偉大さがあると思います。

そういった精神的な意味においては、ご指摘の通り「術から道へ」の精華が見られると思います。

参考URL:http://www.haku-michigami.com/kiseki_1.htm
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この回答へのお礼

回答をいただきありがとうございます!
お礼が遅くなってしまって申し訳ありません!

柔道家がオリンピックで金メダルをとろうとも、総合格闘技でどれだけ輝かしい結果を残そうとも、それは競技における実践性以外の証明にはならない気がします。

rakudaさんが修行・研究なさっている古流柔術が実践性のみを求める存在であれば、それは素晴らしいことだと思います。そして試合で結果を出しにくいのも当然のことだとも思います。

技法や体育法といった話は何度かここでも出ていますが、私が技術の実践性を語ることをどうして敬遠するかというと、「技」というのは結局のところ相手を拘束する、破壊する、絶命させる、そういうものであれば何でも成立してしまうからです。

何時代であろうと、何流であろうと、別にそこに理念がなくても「人殺し」に関する効率的な技術というのはいくらでも編み出されてしまいます。

決して軽視しているわけではありませんが技というのは「要するにそういうもの」であって、移り変わる影のような部分をいくら語っても斯くある武道の姿には結びつかないと思うからです。

武道を学んでいるからと言って、厳しい鍛錬で得た技術や胆力を愚直に喧嘩や人殺しに使わなければならない道理はありませんし(何があっても戦えないというのが問題なだけで)、技が殺すために練るものであっても、その技を学ぶことにまた別の意味がなければ、武道もただの凶器になってしまいます。

もちろんrakudaさんがそういう方だと言っているわけではありませんが、実践的であればそれで良いとする人がいるとしたら、「戦争に勝つ」ことでしか国家の在り方を考えられない国や政治家と同じで、ただ野蛮なだけの思想なんですね。

そういう意味で、精力善用も自他共栄という言葉も先ほどの例で言えば「影の部分」で、言葉を知って繰り返すだけではいくらでも危険思想に成り得るのでしょうね。

武道の理念を実感するため、それを体現するための学問に「乱取り」や「試合」という稽古法も組み込まれているだけの話で、最初からその理念に到達出来るのであれば、極端な話かも知れませんがそういった体育は必ずしも不可欠なカリキュラムではないように思います。
スポーツと武道の大きな違いはそういう部分にもあるような気がします。

武道における「武力」や「暴力」も人と競争して傷つけ得るだけではなく、守るもの、救うもの、生かすもの、目覚めさせるものであって、そこをこそ重視しなければ国際競技になっているスポーツ柔道や総合格闘技と同じように「美しさ」も「武道性」もない、どこにでもあるスポーツの一つになってしまうのかも知れませんね。

お礼日時:2010/05/23 16:41

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