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再度、江戸時代の商い・庄屋についてご質問
我が家の記録で、
高橋 源兵衛 水口町水口 柳町の人。家号を阿波屋といい、塗師屋を業としていた。若い時より水口宿問屋用掛を務め、その誠実な勤務ぶりによって肝煎役に推された。常に諸藩の往来、宿泊、荷物の逓伝などについて精励した。明治元年天皇の御東幸の折、日常の忠勤ぶりを賞され、褒美として金五百匹を賜った。維新廃役後名を源七と改め家業に親しんでいたが、明治十七年二月四日七十三才を以て歿(ぼっ)した。

と記述されていました。そもそも、
>水口宿問屋用掛
の問屋用掛あるいは、問屋御用掛とは、どうゆうものなのでしょうか??
少し前にこの事について、本ウェブ(http://okwave.jp/qa/q5652918.html)で質問したのですが、回答者さんによって全く実情が違い(時代によって)ました。身分や仕事・地位などは、どうなのでしょうか。ちなみに、庄屋(肝煎役)をやっていた時期は、江戸時代の末期です。

また、阿波屋の阿波は、徳島県のことです。店を営んでいた場所は滋賀県の水口宿です。なぜ、滋賀県で営むのに、阿波を屋号にしたのか考えたのですが、この源兵衛が徳島県の出身で滋賀県の水口宿のある店に幼少のころに奉公に来た。そして、ある程度の技術を得たので暖簾分けをしてもらい、阿波屋を創業した。どうじに、我が家も創設された。 っていう考えは上の記述からはあり得ますかね??

A 回答 (2件)

結論から言えば


問屋御用掛とか庄屋って何?と言われても、誰も答えられません。
なぜならば、江戸時代の庄屋制度とかは、300諸侯で全部違うし、研究自体は資料が多く残っている大藩とかがメイン
http://ge.nii.ac.jp/genii/SearchServlet
肝煎で検索しても少ないし、私が見たなかでは、前田家の研究が進んでいるように思う。学会誌はともかく、一般の歴史書では、前田家の例で農村支配の例示がなされているので、たぶんここ以外は進んでいないでしょう。

阿波屋
三井家は越後と関係ないけど越後屋。
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問屋(といや)御用については下記をご覧ください。


http://okwave.jp/qa/q5662572.html の  A No.3

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E5%B1%8B% …
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