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私は神である(2)
覆せるか覆せないか。
哲学版に参加するなら赤の他人を唸らせる様な説明を一発やってみろ!

A 回答 (15件中1~10件)

N0.12 & 14です。



補足しておきます。

No.14の2-1で
相手が「私は神の部分ではなく神そのもの」と発言している場合に、「質問者様自身が対象者として含まれる」と「思っておられる」のであれば、勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。

質問者様自身が持っておられる「神概念」を、相手の「神概念」に重ね合わせているだけだからです。
この場合、相手が本当は「悪魔」であったとしても、言葉や概念で甘く勧誘されただけで引っかかってしまう情況を意味しています。

言葉や概念で捉えているつもりになっているもの(神概念にかかわらず、あらゆるもの)は、思考・思索の壁に貼り付いた像でしかありえません。その像の向こう側に、「対象足るもの」が真に(素朴に)存在する場合もあるでしょうし、仮想的に(幻想的に、形而上学的に)存在する場合もあるでしょう。

(否定したいとか、肯定したいとかいった理由の如何に関わらず)「神」を求めたいという心情があってこそ、たとえ「対象足るもの」があったとしても、なかったとしても、人は思考・思索の壁に像(概念)を描いてしまうものなのです。

特に形而上学的な存在が対象の場合には「概念が同じに見えるから、心情が求めているものも同じ」ということには、決してなりえません。
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No.12です。


少し分かりにくかったかも知れないので、書き換えてみます。

対象者が認識しうる言語空間のみで議論しうる「神の定義」は、その言語空間を形成している対象者と密接に関連しています。
もっと端的に言えば、「対象者」が存在し得ないならば「神」は存在しないのと同等になります。汎神論と無神論とが表裏一体に捉えられるのは、まさに、「対象者」が限定され得ないために「対象者」が無いかのごとく、錯覚しうるからです。

さて、
「神の定義による」
「(質問者様が)その定義の対象に含まれるのか否か」
ですが、
1.「(質問者様が)その定義の対象に含まれない」場合には、覆す・覆せない以前の問題になります。
強いて言うなら、「私の思考・決意」(自我)は「私にとって」神的な様相を含む概念であり、誰しもが「自分自身に対する責任」を持ちうると認識しうる限りにおいて、「私にとっての私は、自身からの逸脱不能な、自身にとっての絶対的な存在」であり続けるわけです。そういった概念を拡張させようとする場合、「ワンマンな人」とかいった表現が為されるわけです。
2.「(質問者様が)その定義の対象に含まれる」場合には、「私は」と述べ立てるもの自身が「その定義の対象に含まれているのか、否か」が問題になります。
2-1.「私は」と述べ立てるもの自身が「その定義の対象である」場合
通常はこちらでしょう。
この場合には、彼は「神そのもの」ではありえず、「神の部分」に過ぎなくなります。たとえ部分にしか過ぎなくても、包含される関係である以上、「私は神である」は命題として真になります。
そうして、特に汎神論の場合、「私は神である」(正確には「私は神の一部である」)という発言は、即座に「私も神である」(正確には「私も神の一部である」)という概念へと重なり合います。
もし仮に、「私は、神の部分ではなく、神そのものである」といった場合には、「1」になり、質問者様は「その定義の対象」には含まれ得ません。
2-2.「私は」と述べ立てるもの自身が「その定義の対象でない」場合
この場合は、単に自己矛盾しているだけになります。彼は、彼の用いている「神」概念の対象でないため、「神」に救われることはあり得ないでしょう。
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 K jinenさんへ。

  
 その節はいろいろとお世話になりました。
 この質問は、「小さな運送屋さん」が“私は神である”と言っていて、そういうことを言う人に、神ではないことを納得させる説明ができるか、あるいはできるものではないということなのか、という質問なのです。

 do7さん、
 お釈迦様が、わたしは神であるといったならば、どうなんでしょう。
 悟った人=神ということであるならば、認めざるをえない、となるのでしょうが、この運送屋さんがお釈迦様であるとはどうしても思えません。

 ですから覆さなければならないのですが・・・・・

 神ならば、神様らしいことを言ってみろ。

 というのはどうでしょうか。
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論点の主旨が「△△は」にあるように見えますが、それは違います。



中心となる問題は、「○○にとっての」です。

「神」という定義には、必ず「○○にとっての」という限定が付随しています。
「私にとっての」
「□□民族にとっての」
「□□類(たとえば人類)にとっての」
「生命にとっての」
「全てにとっての」
。。。
「●●にとって救いとなる行為は、■■にとって破滅となる行為である」
といった作為が「神」によってなされるならば、その「神」は、●●にとっての神であって、■■にとっての悪魔にしかなりえないのです。

対象が限定された場合に、「神概念」は非常に強力な峻別機能を果たします。
あからさまに言えば、「信じるものは救われる」です。論理的に同値である対偶でいえば、「救われないものは信じていない」です。
この概念は古く、旧約聖書の「ヨブ記」に見ることができます。

また、対象が一般化された場合には、「神概念」は(一見)非常に無力になります。汎神論が無神論と同一視されることと同じことです。詳しくは「汎神論」や「否定神学」等で検索してみてください。

論点の中心は、質問者様が「○○」に含まれるのかどうかにあると思います。

※(2)とありますが、以前のものを見ていませんので、「回答」というより「アドバイス」になります。ご参考になれば幸いです。
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 この質問が寄せられてからほぼ一週間。


 do7さんの苛立ちも納まるころでしょう。

 赤の他人様、
 小さな運送屋さんは自分は「神」であると信じているのです。
 そしてdo7さんは、その運送屋さんが「神」でない事を証明したいのです。

 do7さん、
 運送屋さんを納得させる事、出来なかったんですよね。

 当然かと思います。
 なぜならば小さな運送屋さんは“信じきって”いるから。
 信じている者に理屈は通用しません。
 
 いわしの頭も信心と、
 巣鴨の地蔵も微笑んで、
 行き交う人を守ります。
 その雑踏の中
 「神様」が
 荷物を抱え、走ってる。

 ☆この質問は、「神」でない事を証明するような説明を要求しています。でも多くの回答があったように、これが結構難しい。なので安易ではありますが、証明できない回答になりました。ちょっと残念、まだ思案中。
 
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(1)が何であるかは知りませんが



「覆せるか覆せないか」ということは覆す事を前提としています。
つまり、「私は神である」を肯定する場合、参加できないことになる。
では「哲学版に参加するなら赤の他人を唸らせる様な説明を」という事は哲学版には、この命題を覆す者だけが参加できるという制限を与えていることになります。
であるならば、哲学版は神の否定が前提になるので「私は神」という命題は存在できません。

しかし、貴方は神です。神は全てに存在しているのですから。だから貴方も神であり、私もまた神です。
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神様を信じないか、信じ切れないのなら運送屋さんに懐疑をもつでしょう。


教義等の粉飾の無い神様の姿として運送屋さんは正しい。
少なくても正しい可能性がある。
「ああ、そんな表現もあるんですね」
そんな受け答えから話を進めれば、運送屋さんの生活者として適切で生きる事にひたむきな信仰を教えてもらえたかもしれません。
人間自体は信仰を宿す立場で、信仰を受け入れる立場ではありません。
しかしながら、感謝されるような行いを多くすると「あなたの信仰が判った」もしかすると「私は神様かもしれない」このようになります。
ちなみにこのカテに多いマジギレぶち切れ発言を目にする限りでは、信仰とは汚物です。
しかし運送屋さんの生きた実感のように、その人が判るなら、信仰も捨てたもんじゃないでしょう。
信仰心の話を哲学にする事は、下手な考え休むに似たりです。
「私が私である」と、生きている実感、要するに心のこもった話は、哲学の場では騒乱を招きます。
生きた屍が跋扈するのが哲学バトルの特徴です。
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>私は神である(2)


自体が、あいまいすぎて、覆せるか覆せないか以前の問題だと思うのですが。
例えば、何をもって神だと言うのかとか、私は何であるとかが、前提に無いと答えようがないよね。
私の友人は、「何処に行っていた?」と聞くと「地球」って答える、それに近い話だね。
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神は人間の言葉、まして日本語などご存じないので、この者は日本人の詐欺師ですね。

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覆すことだけが目的であれば、


「私も神である」と言えばいいでしょう。
続けて「お隣さんも神らしいです」「私の友人Aも実は神です」

「私は神である」とは、「私というものについて語れば、私は神である」という意味で、つまり、自分についての話題を取り上げて主題とし、それについて語ろうとする意図があるわけです。
ところが、周囲が全て神であるとするならば、「私は神」と言う(話題として取り上げる)意味が無くなります。
かといって(他者との差別化が目的なわけでしょうから)「私も神である」と相手が言い直すことはしないでしょう。
このようにして覆すことができます。

「お前や、友人が神であることを証明しろ」
と言われたら、
「あなたが神であるのと同じ理由です」
と言えばいいわけです。
  
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