京都東寺の近くに六孫王神社という神社があります。清和源氏(陽成源氏?)の祖といわれる経基縁の神社らしいのですが、詳しい縁起やそこにまつわる伝説などご存知の方がいらっしゃいましたらお教えください。

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A 回答 (4件)

以下の参考URLサイトは参考になりますでしょうか?


「恋のかけ橋」
「子宝祈願・縁結び・安産守護」

ご参考まで。

参考URL:http://www18.freeweb.ne.jp/travel/i_hatada/jinja … http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kajyu/gorieki …
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宝永4年(1707年)、徳川綱吉と源氏の流れを汲む大名達が再興した際、祝祭を行ったのが起源になっています。

徳川家寄進の巨大な神輿が迫力!その神幸列では、赤・青・白・黒の鬼を先頭に、浄衣裃、子供、信者が行列。神輿が続きます。金銀幣、盾弓矢、太刀なども珍しいものです。

一説には、こんな記事もありました。
経基の邸宅跡とも、墓所とも伝えられている神社。

経基の父は、清和天皇の第6皇子の貞純親王であった。
これにより経基王は「六孫王」と称されたと言う。
が、
経基の父は、陽成天皇の皇子の元平親王ではないか、という説がある。
元平親王は第2皇子。となると「六孫王」とはならない。

経基の出生には疑問が多い。
『尊卑分脈』は天徳5年(961)11月10日に45歳で卒去とする。
となると、延喜17年(917)の誕生となる。
だが、長男の満仲は延喜12年(912)に生まれている。

「六孫王」という称も、いつから付いたものか。
源経基という人物がいたことは間違いない。
はっきり言って、現存の史料では結論を出すことは不可能! 何とでも言える。
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この回答へのお礼

実に詳しくてよく判りました。有難うございます。不勉強なのでこれからもお世話になるかもしれませんのでよろしくお願いします。

お礼日時:2001/04/02 22:12

興味を持ったので検索したら出てきました。


詳しい人じゃなくてごめんなさい。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/gyoudou/kikou.htm
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この回答へのお礼

有難うございます。参照させていただきました。しかし歴史とは奥の深いものですね一つの謎から多くの謎に導かれるわけですねもっともっと勉強していつかはは誰かのお役に立てるようになりたいな・・・と思いました。

お礼日時:2001/04/02 22:33

あんまり詳しくはありませんが、少しは参考になるかもしれません・・・。


ちなみにご利益は・・・、出世開運・家運隆盛のようですよ。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/gyoudou/kikou.htm
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Q河内源氏と他の清和源氏の関係は?

河内源氏と他の清和源氏の関係は?
河内源氏の源義朝や頼朝と摂津源氏や美濃源氏に甲斐源氏といった他の源氏は主従関係にあるんでしょうか?それとも会社における上司と部下みたいな関係だったんでしょうか?それか単なる協調関係だったんでしょうか?平氏に対してまとまりに欠けているような感じがするので教えてください。

Aベストアンサー

平安時代の大きな枠組で言えば、中央政権の権門と個別の権力者に奉仕する受領層・在地領主という構造の中で、受領層・在地領主というのが源氏であり平氏であり、魚名流藤原氏や宇都宮氏です。
個別の受領層・在地領主にとってのライバルは、同じ受領任官を狙っている別の受領層であり、隣接の荘園を持っている別の在地領主です。
なので、将門の乱にしても、その他の源氏の内訌にしても、見た目が一族内の戦いに見えても、彼らの主観的には、同じ利権を求めてのライバル争い。
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在地領主の集合離散の戦いです

Q清和源氏の公卿に関して質問です。

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Aベストアンサー

清和源氏でも経基流武士源氏(実は陽成源氏、説が根強く有り)と皇子源氏を分けましょう。
武士源氏(中央軍事貴族)で頼朝以前に殿上人になれた者は頼政だけです。
因みに清和源氏で最大の実力者公卿は源氏長者、淳和奨学院両別当となり、太政大臣を経て後小松帝の下で事実上の院政を敷いた足利義満でしょう。
浅学のため清和皇子源氏は詳しく知りませんが、有力皇子源氏は嵯峨源氏、村上源氏など実力ある帝から多く出ています。
非参議が多いのは陽成帝以外にその辺が要因では?

Q清和源氏について

こんばんは。
源平時代の源氏で「源」と名乗っていたのは嫡流だけのように思います。(間違ってたらごめんなさい。)でも武田、木曽、足利、新田などそれぞれ土着した土地の名前を使っていますね。源氏のネームバリューは絶大で、領国経営にもにらみが効いて何かと都合がいいのはずなのになぜ「源」を名乗らなかったのでしょう?本流の一族しか「源」を名乗ってはいけない決まりでもあったのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、これは姓と苗字の違いを明確にしないと話にならないため・・・。

平、源、藤原、橘、菅原、豊臣といったものは「姓」です。
姓とは天皇から賜るものです。
対して、織田、羽柴、伊達、浅井、朝倉といったものは、「苗字」です。こちらは自分で勝手に名乗るもの。

公文書や書状、また名乗りなどは姓を使います。
徳川ならば、源の後裔としていたので、姓は源となります。

で、姓には基本的に「の」を入れます。これは現在で言うところの「誰彼のせがれ」とか「誰彼の子孫」とか人のことをいうのと同じ感覚です。
つまり、自身がどの出自(血統)であるかを名乗っているのです。これは当時の慣例ですね。あくまで自分の血統を示すものです。

これが戦国時代における姓の使い方ですが、平安末にはまた少し違う様相がありまして・・・
あのころには、まだ「姓しかない」家があったのです。源氏の宗家とか、平氏の宗家など。
で、彼らには姓しかないため、それで呼ぶしかない(もちろん彼らからすれば、自分の家が賜った姓なのだから、わざわざ苗字を名乗る気はないのでしょう)。
なので、必然的に姓の慣例である、氏への所属を示している「の」の入ったものがそのまま現代でも使われます。というよりも、それしか呼び様が無いのです。


なお、苗字を持っていた家は、平安当時から苗字を使っています。北条や熊谷は姓は平ですが、苗字はこちら。

さて、実は苗字も元の風景としては「の」を入れている節はあります。
しかし、これはあくまで、「○○国の(苗字)の次郎」という具合でして、「○○国のどこどこの」の「どこどこ」が苗字なのです。今で言うところの「神奈川県横浜」の、「横浜」にあたるのが苗字となっています。これが苗字の出現。つまり、自分の出身地とか、住んでいるところをあらわすものなのです。

つまり、最初に姓(つまり血統を示すもの)が現れて、それが広まっていくと、苗字(住んでいる土地などを示すもの)が現れたのです。
たとえば、現在「鈴木」なんていうのはそこらじゅうにいます。で、「鈴木の子供」なんていってもどこの鈴木だかわかりません。そうすると、どうするかというと「○○の(○○にすんでいる)鈴木の子供」とかなるのです。つまり、○○が「苗字」なのです。たいていは地名が入ります(実際には、逆に姓の部分が飛ばされて名乗られますが。これは、「(屋号)のせがれ」とかと同じ感覚です)。
村上という土地にいるから村上、足利という土地だから足利、といった具合です。苗字はそういうものなのです。なぜ、苗字を名乗っていたかとなればそれは「土地」と言う概念でしょうね。一所懸命と言う言葉があるように、土地は最も重要なものですので。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2208886
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2239491
まえにあった苗字と姓に関する質問も参考にしてください

まず、これは姓と苗字の違いを明確にしないと話にならないため・・・。

平、源、藤原、橘、菅原、豊臣といったものは「姓」です。
姓とは天皇から賜るものです。
対して、織田、羽柴、伊達、浅井、朝倉といったものは、「苗字」です。こちらは自分で勝手に名乗るもの。

公文書や書状、また名乗りなどは姓を使います。
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Q清和?(せいわ天皇について

字が分からなくてすみません。

友達が、セイワ天皇の血筋だと言っていました。
源頼朝とかと関係ある天皇みたいです。

周りにそんな立派な人がいないので、すごいなと興味を持ちました。
確かに家もすごく大きいです。
親戚はどこかの殿様だったとも言っていました。

セイワ天皇ってどんな人物でしょうか??

Aベストアンサー

清和天皇自身は歴史上有名な事跡はありません。
清和天皇の孫に当たる経基が皇室を離れ、家臣となって源という姓をもらいました。
いわゆる源氏、源頼朝や義経の先祖です。お友達は源氏の血を引くと言いたいのでしょう。
源頼朝の子や兄弟はすべて鎌倉時代初期に亡くなっていますが、頼朝の何代か
前に分かれた血統があります。鎌倉末期に活躍した足利尊氏や新田義貞もそうです。
足利家の分家の末裔が現在まで続いていますが、途中で世継ぎができなくて
養子をもらいうけています。
その他では細川氏が源氏の末裔です。以前、首相にもなった元熊本県知事の
細川護熙氏もそうですね。そのお友達が細川護熙氏の親戚だというのであれば
信憑性は高いですね。
他の方もおっしゃっているように江戸時代には家系図は売買されたので、
信憑性はあまり高くないです。

Q中国の皇帝の廟号、初代以外で○祖

中国皇帝の廟号は多くは初代が太祖、高祖、世祖など○祖、二代が太宗、以下○宗・・・です。初代以外で明の成祖永楽帝、清の成祖順治帝、聖祖康熙帝は廟号に祖がつくのはなぜでしょう

Aベストアンサー

「祖」の廟号は「王朝を確立したり、しっかり立て直したりした、創業者に匹敵する業績」とされた皇帝につくようです。明の永楽帝、清の順治帝・康熙帝はNo1さん、No2さんの言うように王朝を建てたのと同じような業績とされました。

他には、自身が創業者(初代皇帝)だが遡って帝号をおくったために太祖でなくなる場合(魏の太祖曹操と世祖曹丕、晋の高祖司馬懿・太祖司馬昭と世祖司馬炎、元の太祖チンギスハンと世祖フビライなど)、実質的には創業者だが名目的には後継者である場合(東漢の世祖光武帝)もあります。

また、第三代なのに「太祖」がいる南朝宋(初代は高祖、第四代に世祖)なんかもあります。


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