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室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか「守護たちは独立して領地を治めていたため、幕府は山城の国一国からの収入しかなかった」などと書かれています。しかし、半済令などで減っていたとはいえ、全国から年貢を得ていたのではないのでしょうか。
また、幕府の年貢は守護請では「守護→荘園領主→幕府」と動いていたと思うのですが、それ以外の場合は「守護→幕府」と「荘園領主→幕府」の2重取りだったのでしょうか。
さらに、朝廷はいったい何を財源にしていたのでしょうか。荘園からの収入だけで成り立っていたのでしょうか。
素人なりに調べたのですが、今ひとつわかりません。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、素人でもわかりやすいように教えていただけると助かります。

A 回答 (1件)

私も昨年から中世に興味をもって本などを読んでいるのですが、ご質問のように幕府財政はどうなんだと余り考えたことはありませんでした。



当時は、「幕府」といっても、「朝廷」がなかり力を持っていましたし、全国を考えても、畿内、西国、東国とそれぞれかなり状況が異なっていたような気がします。ですから、全国一律に「幕府」が年貢を徴収できていたかと言うと、かなりバラバラだったと考えた方が良いような気がします。

荘園と国衙との二重構造で、荘園は御家人(地頭)や地頭代が直接管理して、中央政府に米や特産品の年貢や夫役を納めていたと思いますが、一方で、大量の宋銭の流入による貨幣経済の発達(幕府は鋳造しませんでしたが)、また日宋貿易の幕府独占による収入など、その“財政”の姿は、現代は勿論、江戸時代ともかなり異なっていたのではないかなとか思っています。

まあ、ぜんぜん、回答にはなりませんが、思っているところを少し整理させていただきましたが、わたくしもその点に注意しながら更に読書したいと思います。

この回答への補足

昔のことなので、統治機構がきっちりと整備された現代と同じイメージで考えるのは難しいのでしょうね。
その後調べてみたのですが、守護や荘園領主(寺社や貴族)は基本的に独立採算制のようなもので、彼らから幕府への恒常的な年貢というのはなかったようです。そのかわり幕府は商人に課税したり、臨時の出費があるときに全国の荘園などに「段銭」「棟別銭」などの臨時の税金を課したそうです。
また、半済令というのは、荘園領主に渡るはずの年貢の半分を守護が横取りすることを認めるという内容だったらしいです。
朝廷は全国の公領からの収入に頼っていましたが、ときどき幕府の援助(?)も受けていたようです。
ただ、平安時代のように朝廷から貴族に給料が支払われていたのかはわかりませんでした。
引き続き調べてみようと思います。
ありがとうございました。

補足日時:2010/05/21 12:14
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