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大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食べさせられず(もともと食べれないから売ったので、その子の面倒をみる余裕があるはずがない。)、旦那となっていた父からも縁を切られています(行方をくらますため)。
児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。賃座敷業者が食べさせたのでしょうか。
女中をあてがったのでしょうか(その場合誰がお金をだしたのでしょうか)。
それとも稼げないからお金が無いため、面倒を見る者が無いため、野たれ死んでいく児童が大半だったのでしょうか。飢餓状態で死んでしまい、遺棄されていたのでしょうか。(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

A 回答 (1件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者でもなく、姉女郎(母親の元同僚)などからの「おすそ分け」をもらったりして、かろうじて生きていくことができました。

>>(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

その通りです。昨今の「ホームレス」と同じ状況です。
ただ、第二次世界大戦以後は、衛生状態も管理されるようになりましたので、疫病の爆発的な流行はありませんが、昔は、コレラ、赤痢などは、日常茶飯事でした。こうした病を「流行病」(はやりやまい)と呼んでいました。

それでも、子どもが7~8歳位になると、
男子は、置屋の「若衆」の見習いとしてコキ使われました。
女子は、禿(かむろ)となり、姉女郎(姉娼妓や姉芸妓)に仕え、娼妓や芸妓の見習いとなり、ゆくゆくは娼妓、芸妓にさせられました。
そして、ロクに育てられてもいないのに、「お前を育ててやったのだ」と、置屋からは言われ、多額の借金を背負わされました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
劣悪な貧しい環境だったんですね。
参考になりました。

お礼日時:2010/05/16 11:58

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