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カントのカテゴリについて質問です。
量、質、関係、様相に4大別され、それぞれが3つに細分されて全体で12個あると説明があるのですが、具体的なイメージがよく分かりません。
簡単でいいのでどなたか教えてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

簡単に説明します。


そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)あるカメは水棲である。
単称的:「この」SはPである。
(例)このネコは水の中に入るのを好む。

「質のカテゴリー」
肯定的:SはPで「ある」
(例)信号は青である。
否定的:SはPで「ない」
(例)信号は赤ではない。
無限的:Sは「非Pである」
(例):青信号は赤ではないほうの信号である。

「関係のカテゴリー」
定言的:SはP「である」
(例)本日は晴天である。
仮言的:「Xならば」、SはPである
(例)日が照っていれば、本日は晴天である。
選言的:Sは「PかQかのいずれかである」
(例)降水量ゼロというのは晴れているか曇っているかのどちらかだ。

「様相のカテゴリー」
蓋然的:SはP「であろう」
(例)明日の天気は晴れでしょう。
実然的:SはP「である」
(例)現在の気象状態は晴れである。
確然的:Sは「必ずPでなければならない」
(例)晴天は降水量が1ミリ未満でなければならない。

人間はまず外部からの刺激をまず感覚器官で受けとります。それは「空間と時間の形式」(ものの大きさや形状、前かあとか、など)にあてはめて受けとられるのですが、それだけでは認識にはいたりません。そこから直観として得られた対象を、悟性が上記の形式において判断する、それによって認識が成立する、とカントは考えたわけです。
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Qカント 純粋理性批判 カテゴリー表を獲得する意味 

初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。

超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。

私の今の考えでは、
判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。
一方でその統一機能を、直観における表象間の結合に即して考えた場合、それは対象とのかかわりを持つために、超越論的論理学に属する。
したがって、超越論的論理学についての議論においては、悟性の統一機能の場を、概念間から直観における表象間へと”次元の繰り下げ”をしなくてはならなかった。

ということが理由なのかなと思っています。
とはいえ、なぜ表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は、対象とかかわりあうようになるのか、などという点で全く疑問が解消されません。

どなたか、純粋理性批判のこの箇所について、理解のための助言をいただけませんか?
お願いします!!

初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。

超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。

私の今の考えでは、
判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。
一方でその統一機能を、直観における表象間の結...続きを読む

Aベストアンサー

あまりカントに詳しくないので、間違っているかもしれませんが、「カントが判断表でなく、カテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味を把握しかねています」という場合の、判断表とかカテゴリー表というのは何なのでしょうか?
判断表というのは形式論理学の判断形式だと思いますが、カントはそれをカテゴリーに流用して、それを純粋悟性概念といいました。

古代ギリシャのアリストテレスにとって、カデゴリーとは述語のこと、それに対して主語がヒュポケイメノンといわれるもの、実体とか基体という意味でした。
アリストテレスは10個のカデゴリーを挙げていました。

実体、量、質、関係、場所、時間、状況、所有、能動、受動

このうち、実体は主語であって述語ではなかったので、アリストテレスは苦し紛れに、それを第一実体といい、残りを第二実体といいました。
だけどアリステテレスのカテゴリーは、どちらかといえば恣意的で、カテゴリー同士、重複するところがありました。
アリストテレスにとってカテゴリーとは論理学上の分類でしたが、カントにとってカテゴリーは認識の客観性を保証するものです。
つまり主観的な知覚判断を客観的なものにすること、対象を感覚器官を経由した感覚データを直観の形式である時間・空間で整理・整頓することで、それに形式論理学の判断形式を当てはめて、カテゴリーと総合統一することで認識を客観的なものとして作り上げます。

したがってカントのカテゴリー表は形式論理学の判断形式を流用したものです。
「カントが判断表でなく、わざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったのか」ではなく、形式論理学の判断形式をそのままカテゴリー表として使ったのです。
形式論理学の判断形式とカントのカテゴリー表は同じものだと思います。
その違いは形式論理学の判断形式が、論理的な分類なのに反し、カントの場合、認識の形式、主観的な知覚判断を客観的なものに作り変えるための分類だというだけです。

「したがって、超越論的論理学についての議論においては悟性の統一機能の場を概念間から直観における表象間へと、次元の繰り下げをしなくてはならなかった」

・・・・・と、おっしゃいますが、カントにおいてカテゴリーはアリストテレスとは違って論理学上の区分・分類ではなく、認識論上の分類なので、最初から知覚判断に適用してそれを客観的なものとして作り上げるためのもので、「次元の繰り下げ」などというものではなかったと思います。

カントの哲学は超越論的哲学と言われ、その場合の超越論的とはフッサールとは違い、認識の成立している可能性の条件を遡行して、それを探究するもののこと。
どのような条件があれば、認識の客観性が成立するか、その答えが純粋悟性概念であるカテゴリーでした。
カントはそのカテゴリーの超越論的演繹を行ない、それが対象に適用できることを証明しました。
もっとも、カントは「純粋理性批判」をほとんど書き上げていたのに、その演繹の章を書き上げるのに10年の歳月を要したと言っています。

「なぜ、表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は対象とかかわりあうようになるのか」

・・・・・と、おっしゃいますが、考え方が逆です。
表象ではなく、現象。
外界を感覚器官で感覚データとして受容し、その現象を直観の形式である時間・空間で、整理するだけでは認識は成立せず、それを悟性の形式であるカテゴリーによって総合統一することで初めて、認識が客観的なものとして出来上がります。
そして現に認識が成立している以上、悟性は対象と関わりあわなければならないものですから、なぜ? といって疑問に思うようなものではありません。
認識が成立している以上、そのようになっていると思うしかありません。

カントにとって、カテゴリーは実在ではなく、フィクション、構造主義でいう「構造」のようなもの、あると言えばあるけど、ないと言えばないもの。
それにカントは4×3の12個しかカテゴリーを挙げていないけど、それは形式論理学の判断形式を流用したからで、その12個以外にも、まだあります。

最後にステファン・ケルナーの「カント」より、引用して終わります。

「カントにとって、カテゴリーを適用するとは、純粋直観における多様なものを統一することによって客観的関係を与えることである。客観性の担い手、主観的な印象の単なる集積とは対立する対象が直観において算出されないなら、判断によって客観性を与えることは不可能である。カテゴリーの適用によって客観性を与えるのではないとすれば、直観の内には何らの対象も存在しない。われわれが純粋な多様なものを統一することにより、直観において対象を産出するのでなければ、客観性の何らの徴表も存在しない。そればかりか、直観における対象の産出とカテゴリーの適用とは、同一の過程の二つの側面なのである」

あまりカントに詳しくないので、間違っているかもしれませんが、「カントが判断表でなく、カテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味を把握しかねています」という場合の、判断表とかカテゴリー表というのは何なのでしょうか?
判断表というのは形式論理学の判断形式だと思いますが、カントはそれをカテゴリーに流用して、それを純粋悟性概念といいました。

古代ギリシャのアリストテレスにとって、カデゴリーとは述語のこと、それに対して主語がヒュポケイメノンといわれるもの、実体とか基体という意...続きを読む

Qカントにおける図式、構想力と悟性との関係について

カントの哲学、特に感性的認識においての、現象を知覚する時点から悟性による認識までのメカニズムがいまひとつ分かりません。下記の点が特に気になっているので、教えていただけないでしょうか。

(1)図式と構想力との関係。
(2)『判断力批判』では「構想力と悟性の遊動」と書かれています。これは構想力がデータを送り、悟性がデータを受けようとするときにうまく一致せず、それゆえ美を感じるということなのだと理解していますが、では通常美的判断でない状態では、構想力はどんなデータを送り、悟性はどんなデータを受けているのでしょうか?

Aベストアンサー

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえるものか、これは非~である、といえるものか)
・ほかのものとの関係を判断(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、もし…なら、~である、という条件付きのものか、これは~か…のどちらかである、といえるのか)
・様相(ものごとのありよう)を判断(~であるだろう、といえるのか、~である、といえるのか、かならず~でなければならないといえるのか)
 ↓
◎カテゴリーがデータに適用できるように、図式というアプリケーションが起動する:図式はカテゴリーを感性化するよう、変換する機能です(直観は空間と時間しか認識できませんから、カテゴリーを空間と時間に変換していくんです)。

・分量のカテゴリーの図式は数である(数という概念は時間に結びついていくから)。
・質のカテゴリーの図式は度である(時間を充実する感覚の有無によって判断できるから←これは相当苦しい)。
・関係のカテゴリーの図式は時間順序である(時間との関係で因果関係は把握できるから)。
・様相のカテゴリーは時間総括である(~であるだろう、といえるのは、いずれかの時間においてそうなる、ということであり、~である、といえるのは、一定の時間においてそうなる、ということであり、かならず~でなければならない、というのは、あらゆる時間においてそうなるということだから)。
 ↓
◎アプリケーションが情報を取り込んで、カテゴリーに分類。判断成立。

え?図式って空間がないじゃん、って思うでしょ?
空間は外的現象の形式であって、心理的な内的現象は、空間的なものではない、とカントは考えた。
それに対して時間は、外的、内的を問わない、あらゆる現象にあてはまる。
したがって、カテゴリーが感性化されるという場合、カテゴリーは時間という形式と結びつくと考えたんです。
だから、先験的図式は悟性のカテゴリーに従った「先験的時間限定」ということになります。

質問者さんのあげられた例に即すると、数量は理解できるのですが、「赤い」「丸い」という性質が、カントの図式のカテゴリー表に照らし合わせてどのように判断されるのか、私にはちょっとよくわかりません。

ただ、#1の回答ではっきり書かなかった部分の判断の流れを詳しく書くと、こうなると思います。
おおよその流れを汲み取っていただければ良いのではないかと思います。


『純粋理性批判』というのは、いわばカント哲学の“ルールブック”みたいなもので、ひとつひとつ言葉を措定し、意味範囲を規定しているので、これを押さえておかないと、『実践』『判断力』もよくわからないことになってしまいます。
ただ、実際、読んでいくのは大変です(^^;)。
私の場合、カント自身による『純粋…』の要約である『プロレゴメナ』と岩崎の『カント』を先に読んで、岩崎の本はいつも手元に置いてアンチョコとして活用しつつ『純粋…』を読みました。ナビゲーターがないと、やっぱりちょっと辛かったです。

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえる...続きを読む

Qカントの「理性」

カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか?

『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。

「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」

という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。

ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。

Aベストアンサー

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。
 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。

 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。

 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。
 

 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。

 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。

 
 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。

「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵)

 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。
 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。


 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。


 

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え...続きを読む

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qカントの物自体について

彼の理性批判のキーとなった物自体ですが、彼はこれを
観念論者の「思考する者だけが存在する」というテーゼへの反論として
提示しています。では、単純に、彼が物自体があると思ったのはなぜなのでしょうか。
それが超越論的な表象をみとめることによって合理論者と経験論者どちらか一方への
傾斜を避けるためならば、彼はなぜその立場をとる必要があったのでしょうか。
三大批判を読んでも結局このところが見えてきません。
いったいいかなる背景が彼をその「間」に置かせたのでしょうか。

結局最後は哲学者自身の「信」にいきつくのでしょうか。

Aベストアンサー

昔のノートを引っ張り出してきました。
これでちょっとは正確なことが言えるかも。

では、まず答えやすいところから。

>「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

カントは合理主義と経験主義を統合した「超越論」を主張しました。だから、カントの哲学を「超越論的観念論」っていうんですね。
哲学の教授は「哲学することというのは、哲学史を学ぶことだ」と言っていました。つまり、従来の哲学的体系をふまえ、それを批判的に継承・発展させるのが哲学である、と。
カントも当然その例外ではなく、というより、従来の哲学の流れを継承し発展させることに、非常に自覚的な存在だったのだと思います。

>to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが究極的にはなにによっているのだろう?

これね、ヒュームは途中、日和っちゃうんです。
いかなる原因が物自体の存在を信じさせるようにするか、考えれば考えるほどわからなくなるから、やめてしまおう。考えてもきりがないから、なかったことにしちゃおう、と言っている(ほんとです)。

で、そこを日和らずに、ぐぐっと考えを進めていったのがカントの『純粋理性批判』なんです。

質問者さんの問題意識は、『純粋理性批判』のキモの部分だと思うんです。
ですから、もう少し丁寧に見ていきましょう。

“序説”をあらっぽく要約すると(そのまえに、理性、悟性など用語の定義付けは押さえておいてください)

1. 認識には先天的なものと経験的なものがある。われわれはある種の先天的認識を持っている。
2. 数学は空間と時間という純粋直観にもとづいた総合的判断である。
3. 物理学は経験的な世界を対象としているが、経験によらない総合的判断が含まれている。 
4. 形而上学は完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。
5. 純粋理性はまったく経験によらない認識原理を提供する能力である。形而上学を展開するためにはこの純粋理性の源と限界を明らかにしなければならない。

要は理性という一本の線の両端をあきらかにしようとしたのが『純粋理性批判』なんです。

カントは「二律背反」ということを考えます。

・世界には空間的・時間的な限界があるのかどうか
・世界の構成要素は単純なものかどうか
・世界に自由はあるのか、必然性が支配しているのか
・世界には絶対的なもの(=神)があるのかどうか

理性は正命題、反対命題、どちらも正しいと証明できるのです。
さらに、両者とも証明不能とすることもできる。

その結果、カントがたどりついたのは、
“理性が対象とできるのは現象の世界に限られる”
“無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない”。

「物自体」の対象はこのように厳密に措定しています。

以上、自分のノートを非常に乱暴にまとめてみました。
質問者さんの理解の助けになれば幸いです。

あと、考え違いや理解の至らない点ありましたら、どうかご指摘ください。

昔のノートを引っ張り出してきました。
これでちょっとは正確なことが言えるかも。

では、まず答えやすいところから。

>「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

カントは合理主義と経験主義を統合した「超越論」を主張しました。だから、カントの哲学を「超越論的観念論」っていうんですね。
哲学の教授は「哲学することというのは、哲学史を学ぶことだ」と言っていました。つまり、従来の哲学的体系をふまえ、それを批判的に継承・発...続きを読む

Qカントの純粋理性と実践理性について

この2つの違いについて教えてください。

Aベストアンサー

 非常に簡単に違いを説明すると、
純粋理性は形而上学的テーマが主題であり、観念的考察である。それに対して実践理性は実際的な問題が主題となっており、行為の問題である。

 双方の共通点はアプリオリな総合判断はいかにして可能かという問題である。『純粋理性批判』ではそれが観念上可能であることを述べることにとどまるが、『実践理性批判』ではそれが実際的に、つまり、人間の行為として出現するときにはどのようなものかを論じた。

Qサルトルの『存在と無』について

はじめまして。
現在大学3年で、サルトル哲学を勉強しております。

『存在と無』について勉強しているのですが、「対自存在」と「即自存在」の意味がよく分かりません。この2つはどういう意味なのでしょうか?

ご存知の方いらっしゃいましたらご指導の方よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指します。つまり、人間がその「対自存在」にあたるとサルトルは言うのです。つまり人間は、道具のようにその本質を与えられているものではなく、気付いた時にこの世に生きているものであり、そのあとで、自らをつくっていくものだからです。例えば人間には、赤ん坊として生まれた最初から、卑怯者や英雄はいません。しかしその後の人生の中で、自らの意志で人生を選択し決断して、ある者は卑怯者になり、ある者は英雄となっていくのです。ですから、サルトルの人間観は、人間という存在はあらかじめ何者になるか決まっておらず、何者にもなる可能性があるという意味で自由であり、「人間は自らをつくるところ以外の何ものでもない」と言ったのでした。そういった意味でサルトルにとって人間とは、常に、ある自分を乗り越えて、無である未来に対し自己の可能性を「投企」していく(=投げ出して創造していく)存在であるとしたのでした。そのためサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言ったのです。要するにサルトルにとって、人間の本性(=本質)は存在せず、その後にその人が自ら選択した行為によって、その人が何者であるかが定義されるとしたのです。

 なお、サルトルは、惰性や多忙に流れて組織の部品になり下がり、マスコミの論調に判断をゆだねて自己を合理化し、自己を主体的に選択する決断を回避する「即自的」(「即自」ではない)な生き方を、「自己欺瞞」として批判しています。

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指...続きを読む

Qカントの純粋理性批判のアンチノミーは今どう解釈?

カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。
カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか?

・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール
・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン
・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン
・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク
・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク 
など

の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか?
入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを
取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

Aベストアンサー

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹が変れば) その数だけ 論理ができるというものです。哲学を論理で思考するなら定義の数だけ 出来上がり 従来の絶対真理があるはずである というモダンとは 真っ向から対峙するものです。

このポストモダンのなか 科学とは何か であります。科学は 論理であることは 間違いないところです。絶対真理を求めるモダン科学は ポストモダンの出現により 根底から見直されるべきものとなったのです。アインシュタインの一般相対性理論も定義から出発する一つの系であります。定義の違った宇宙理論は当然 開発されていいのです。ニュートンの力学もそれらの中の一つであります。科学の証明手段は 観測でありますが この観測にしても その系から出発したものである限り その定義の証明は 科学以外の論理と同様に証明できないのです。そのようなポストモダン上で科学者を論評するなら 絶対真理探求のモダン型を信奉している科学者が 今 尚 多いと思います。発想豊かな ポストモダン科学者 世界中から数多出でよ、と言いたいのです。科学は絶対真理を求めるものではなく 論理の一種であります。定義から始まる論理系の構築であります。

そこでカントの二律背反をどう評価するか ですが、定義が異なれば背反することになることは認識していましたが それは 絶対真理ではない と断定し封印した と思うのです。ポストモダンに繋がるパンドラの箱を開けるのではなく逆に封印し モダンを確立する方向を目指したと思うのです。その方向は ニュートン力学などの科学との整合性はとれていると思います。ポストモダンの時代にカントと科学の検討は 時代にそぐわないのではないか と思います。ポストモダンで科学を料理するには その出発点の定義(公理)を明確にすることです。そこを理解していく ことが重要と思います。一般相対性理論も同様であって 定義の理解が重要であります。物理学が絶対真理に近づいている と理解するのは論理的には問題なのです。

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹...続きを読む

Q感性と感覚、知性と知覚の違い

 教えて頂きたいことがあります。
 いろいろ調べてはみたのですが、混乱している状況です。
 1.感性と感覚
 2.知性と知覚
のそれぞれについて、辞書的な言葉ではなかなか理解に苦しい状態に
ありますので、できれば具体的に分かりやすく解説頂けると助かります。

 お忙しいとは存じますがよろしくお願いします。

Aベストアンサー

1.
「感覚」は、
a.外界の刺激を感じる働き。
b.または、それによって起こる意識。

くすぐったいと感じる働きも感覚(a)ですし、その働きによって生じるくすぐったいという意識自体も感覚(b)です。
「くすぐったい(a)という感覚を持っているからこそ、くすぐったい(b)と感じる」
ということになると思います。
「感性」は、外界からの刺激を受け止める能力。
殆んど、上のa と同じ意味です。
だから、ややこしいのかもしれません。

「感覚」=「働き」or「その働きによって得られた意識」
で、
「感性」=「能力」
ということができそうです。

2.
「知覚」は、下の辞書にあるように「思慮分別をもって知ること」。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/141164/m0u/%E7%9F%A5%E8%A6%9A/

「知性」は、単に知ることだけにとどまらず、「考え判断する能力」も含まれます。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/141787/m1u/%E7%9F%A5%E6%80%A7/
「知的作用」を営む能力、と解説されていますが、「知覚」にはその意味はあまり含まれていないでしょう。
それよりも「感覚」に重点が置かれているように思います。
    

1.
「感覚」は、
a.外界の刺激を感じる働き。
b.または、それによって起こる意識。

くすぐったいと感じる働きも感覚(a)ですし、その働きによって生じるくすぐったいという意識自体も感覚(b)です。
「くすぐったい(a)という感覚を持っているからこそ、くすぐったい(b)と感じる」
ということになると思います。
「感性」は、外界からの刺激を受け止める能力。
殆んど、上のa と同じ意味です。
だから、ややこしいのかもしれません。

「感覚」=「働き」or「その働きによって得られた意識」
で、
「感性」...続きを読む

Qイマヌエル・カントの云う悟性とは何ですか?

イマヌエル・カントの云う悟性とは何ですか?

Aベストアンサー

 はじめまして、ひどっち と申します。

 岩波文庫から出ている「純粋理性批判」読んだのは(もちろん、解説書付きでです)、もう20年以上も前ですので、若干、曖昧なところがあろうかと思われますが。概ね以下のように考えてみてください。

 よく混合しがちな“悟性”と“理性”の違いから、主にご説明したいと思います。

認識の3段階
 まず、説明の前置きとしまして、人間は“物自体”を直接知ることはできませんが、その印象(表象)を、感性・悟性・理性の3つ段階によって、世界を理解することができるようになる。との主張があります。

・感性(第一段階):心が触発され、“物自体”の表象を主観的に感受する能力

・悟性(第二段階):表象・現象として“物自体”を捉え、それを認識する能力(英語の”understanding”とお同じ意味となります)。
 なお、感性から対象を認識する方法やその内容のことを「概念」といいます。また、おそらく動物にも、この能力がある程度存在するものと考えられます。

・理性(第三段階):概念と概念を関連づけて推論し、“仮象”として捉える能力。
 ただ、悟性のみでは、それぞれの概念が統一されることはなく、概念どうしを関連づけて、思考・推論することが可能となります。この段階の認識能力を「理性」といいます。  
 つまり、ここで科学等の発展性が見られるわけです。おそらく動物には、この能力は認められないと考えられます。

 そこで、この「純粋理性“批判”」は、上記の理性の“仮像”を中心に“批判”していきます。
 また、何かございましたら、例えば読み進めていく上で疑問に思ったこと等がありましたら、以下の補足欄、もしくは新しいご質問を掲げてみてくださいませ。

 ご参考になれば、幸いでございます。

 はじめまして、ひどっち と申します。

 岩波文庫から出ている「純粋理性批判」読んだのは(もちろん、解説書付きでです)、もう20年以上も前ですので、若干、曖昧なところがあろうかと思われますが。概ね以下のように考えてみてください。

 よく混合しがちな“悟性”と“理性”の違いから、主にご説明したいと思います。

認識の3段階
 まず、説明の前置きとしまして、人間は“物自体”を直接知ることはできませんが、その印象(表象)を、感性・悟性・理性の3つ段階によって、世界を理解することができるよう...続きを読む


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