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新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の教義とそれが規定/記述する行動原理ついて教えてください。

宗教学、哲学、歴史学、キリスト教についてまったくの門外漢ながら質問させていただきます。
「与えよ、さらば与えられん」という、巷でよく使われる言葉、慣用句が誤用であるというのを聞いて、意味を調べてみました。
web上で探した慣用句辞典によると、
http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien01/a03. …
新約聖書(ルカによる福音書第6章)での原義は、先に何かを与えれば見返りが後から回り回って帰ってくる、というような物的な報酬の関係を表すのではなくて、無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬の関係として説明されていました。
一方でこの慣用句は、レヴィ=ストロースの贈与論における一般交換のシステムについて、(個々人の意図や宗教に対する意識に関係なく)人間が古来から持つ法則を俯瞰的に説明しているようにも感じました。
そう考えると、新約聖書(ないしキリスト教の教義)には前者のような行動規範、行動のインセンティブ(=教えを守れば救われる、祝福を受ける)を人々に与える意味の他にも、後者のような種としての行動原理を読み解く様な面があると捉えられます。

不明瞭で抽象的な説明で申し訳ありませんが、(1)「与えよ、さらば与えられん」という記述の原義や解釈について、(2)このような新約聖書の持つ教義と人間の行動との関係について歴史上の解釈ではどう捉えられてきたのか、(3)さらにはキリスト教に限らず仏教の各宗派などの信仰のなかの規範的記述/説明的記述の役割と割合について、解説をいただけないでしょうか。
また、先の(2)(3)について一般向けに解説された書籍があれば教えていただければと思います。よろしくお願いします。

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A 回答 (6件)

>宗教の教義とそれが規定/記述する行動原理ついて教えてください。


これを議論しているのを神学論といいます。
聖書の文言とその解釈に基づいた行動規範に関しての論争で有名なのが、歴史上いわゆる宗教改革とよばれているものです。その結果、新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)とに分かれました。
ご質問の(1)に関しても色々な解釈があることにお気づきになられましたように、時代により人により異なります。
宗教は信じるか信じないかということが主眼ですので、科学の原理や法則とは全く意味合いが異なります。
言い換えれば、どれが正しいかではなく、どれを信じるのかということです。

(2)につきましては、ご質問の文章だけのものはありませんが、「宗教改革」に関する書籍が入門書、社会人向け、専門書と多数ありますので、図書館や書店で手頃なものを探して下さい。

(3)につきましても、読む人によっては、聖書の全てが人生の規範となります。
聖書に関わらず仏典を初め全ての宗教教義書というのは、そのような性格を持っております。
読み取る人が規範と感じるか感じないかということですので割合というのは個人によります。

蛇足
日本で儒教と呼ばれているものは、儒教の宗教としての部分を取り除いて箴言の部分のみを取り出したものです。
宗教の部分は日本仏教が担っています。
例えば位牌は儒教のもので、日本仏教が借用使用しているものです。インドには、お墓は勿論位牌などというものはありません。
仏教に儒教を取り入れたのは中国です。その中国で完成したものが日本へ伝わり後に日本化したものが今の日本仏教です。
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 こんにちは。



 (1)の解釈を述べます。

 イエスが山から降りて来たところで 人びとに話をしているくだりです。
 ▲ (ルカによる福音書 6:37-38) ~~~~~
  (α) 人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
  (β) 人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。
  (γ) 赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
  (δ) 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。
  (ε)押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。
  (ζ) あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  上から四つの命題は 最後の(ζ)が共通の原則になっているようです。
 (ζ‐1) 自分が量る⇒すると 同じ秤で量り返される。
 ☆ と言っているはずです。矢印のあとの文は むろん《自分が量り返される》のですが ここでは《神によって》なのでしょうね。ですから 言いかえると
 (ζ‐2) 人間のわたしが量る⇒ その同じ秤で神がわたしを量り返す。
 ☆ こう読めると思います。
 したがって (δ)も 
 (δ‐1) 人間のわたしが誰かに何かを与える⇒その同じかたちや程度で神がわたしに与え返す。
 ☆ こういう意味をおそらく《原義》として持つと思われます。

 ところが 幸か不幸か 《神がおこなう》ことは 人間には何がどうなっているのか分かりません。基本的に言って 分かりません。
 (α)神に裁かれることがないことも (β)神に罪人だと決められることがないことも (γ)神に赦されることも そして(δ)神によって何かを与えられることも みな基本的に言って その具体的なありさまは分かりません。もしくは 分かるか分からないかが分かりません。(分かったら それは神ではないでしょう。もしくは 人間が神を見たということになりますが それは 何を意味するでしょう?)
 つまり そのように成っているかも知れないし どう成っているのか 分からないというのが 実際だと考えます。
 おのれひとりにおいては その主観の内面において あるいは分かるかも知れません。めぐみを受けたと感じることがあるかも知れません。そしてそれは たぶん 他人には たとえ伝えても 分からないというのがふつうだと思います。

 では 具体的なことを何も言っていないのか? そうだとも言えます。誰もが分かるようには言っていないでしょう。
 というような性質のことを イエスは言ったのだと考えます。
 ほんとうにそうなのか? そうなのだと思います。
 ただの絵空事か? そうだと思います。
 たぶん 絵空事という言い方はふさわしくないでしょうね。うそと言ってもいいのですが つまりは虚構でしょうね。現実としてのうそ 現実に含まれるところのうそ。これが言われているものと考えます。
 つまりはこの虚構が あたかもあなたの背中を押すかのように もしくはあなたの中で川となって水が流れるかのように ちからとなってはたらくと言っているのではないでしょうか? 尽きない泉のごとくあなたの中で生き続けると言っているのではないでしょうか?


 たぶん この息吹きとしてのことばは もしあなたの中で生きるとすれば それによって 縁起共生としての空観を得させるでしょうし やがてあなたが試練をも経て力がついてくれば 慈悲をも実践することができるようになるのではないかと思います。どうでしょう?
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このことは、もう一つの聖書の黄金律、「して欲しいと思うことをしなさい。

」というものと繋がりがあるかもしれません。そのような神の目から見て良いことをすると。それを見ている人がいて、その人が次の機会のとき自分に有利に取り計らってくれるということかもしれません。
東洋にもそれと同じような言葉がありますよ。「情けは人のためならず。」という言葉です。これは、情けをかけると、それはめぐりめぐって自分に返ってくるものです。だから情けは人の為ではなく自分のためですよ。という言葉です。洋の東西を問わず、黄金律というものは似ているものですね。
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聖書は足しても引いても変えてもいけないとされているんですね。



新約聖書の中で旧約に無い箇所は、後に足された あるいは 修正されたものと見るのが妥当だと思う。


>与えよ、さらば与えられん」という、巷でよく使われる言葉、慣用句が誤用であるというのを聞いて

それは聞いたことが無い。
が似たようなものは聖書にある。

「求めよ さらば 与えられん」

エレミア書。
『私をたずね求めるならば見出し、心をつくしてわたしをもとめるなら、私に出会うであろう』

ヨブは義人と世間でも評判だったのですが、家畜は全滅するは 家は燃えるは、子どもは全員死ぬわ、自ら思い皮膚病にかかるわで、こういうことになったのは神からの呪いと古代は考えられていたんですね。

だけど、ヨブは自分のどこに不義があったのかわからず、すべてを失くしてとうとう神の前に立つことになった。

神の義を追い求めるものは幸いなり と新約聖書にもあるように、ヨブは神の不義をなじりこそしなかったが、あなたの義を示してください と言わんばかりに神に迫った。

もう神と対決するしか残されておらず、まるでヤコブのように食い下がった。

求めた(神の前に立った)。結果 与えられた。
もう神に迫るしかなくなったので、とうとう神の前に立つことになり、その結果納得したってことです。


「与えよ さらば与えられんって」が通常使われているのだとしたら、私は今までそういうのを聞いたことが無いし、本でも読んだことが無いので、その意味はわからないです。

第一 例えばやっちゃんが島代として多額のお金を奉納しろと迫って、借金してまで奉納したら、家つぶれちゃいますよね。
やっちゃんが欲しがっているものはすべてなんでも与えていたら、与える側が絶えて、結果やちゃん島守る必要なくなるじゃないですか。

日本がアメリカの求めに応じて好きなところをアメリカに与えていたら、日本なくなっちゃうじゃないですか。
キリスト教が日本が欲しいから日本人みなキリスト教徒になれという求めに応じたら、日本らしさがなくなっちゃうじゃないですか。

働きたくない 遊んでくらしたい とニートの息子が暴れるたびに「かしこまりました」とその人の要望をかなえていたら、両親住むとこなくなるじゃないですか。
改心するどころか もっとひどい状況になる。

可愛い子には旅をさせろということわざは聖書からきていて、聖書では可愛い子には鞭を惜しむななんです。
自分の子どもをつぶしたかったら甘やかせ、なんでも欲しがるものをやれ そうすればその子は駄目になる ってことです。

旧約は間違えたことは書かれてないです。
新約は、、、足しても引いても変更してもいけない聖書を改ざんしたものなので、書かれているものに信憑性は無いです。
新約にあって旧約に無いもの、それは後の人が都合で変更したものと見て間違いないと思います。
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(1)「与えよ、さらば与えられん」



この意味は「天の蔵に富を積む」ということの勧めですね。
仏教での布施の勧めと同じですね。見返りを求めない布施は「天の蔵に富を積む」ことですね。
聖書では、
マタイ6-19,20,21 「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えてはいけない。そこではガやさびが食い尽くし,盗人たちが押し入って盗む。 むしろ,あなた方は自分のために天に宝を積み上げなさい。そこではガやさびが食い尽くすことも,盗人たちが押し入って盗むこともない。 あなたの宝のある所,そこにあなたの心もあるからだ。」
が簡潔ですね。
ルカによる福音書第6章はむしろ「天の蔵に富を積む」ことの行動原理を記述していますね。
この実践は、ナイチンゲールや、マザーテレサを見ればわかるでしょうね。
仏教では、布施を通じて天の蔵に富を積むわけですが、実際は自信の心を豊かにするということですから、鎌倉時代の僧・日蓮は、
「蔵の財(たから)より身の財(たから)すぐれたり
 身の財(たから)より心の財(たから)第一なり」
(「蔵の宝」より「身の宝」の方が優れており、
 「身の宝」より「心の宝」こそが第一である)
という言葉で表現してますね。
キリスト教や仏教では地上の「give & take」の考え方ではなく、あなたの心を豊かにするために「与えよ」つまり「天の蔵に富を積め」と教えているわけですね。
まあ、俗に言いますと、死後の人生で金持ちになるか貧乏人になるかということなんですがね。
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(1)「与えよ、さらば与えられん」という記述の原義や解釈について


聖書の短い言葉は、前後を知っていれば意味が凝縮されていると感じますが、そうでなければわかりづらいと思いますので、該当箇所を記載しますね。

ルカによる福音書 / 6章 28節~36節(新共同訳)
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

おおざっぱに、1段落目が「与えなさい」という説明、2段落目が「なぜ与えるのか」の説明、3段落目が「与えたらどうなるのか」の説明、といえます。与えるもの・貸すものなど、物質的に説明していますが、精神的なお話ですね。

現代日本ではこんな感じでしょうか。
込んでいる入り口で、急いでいる人に笑顔で道をゆずってあげました。しかしその人は、ゆずった人を半ば突き飛ばすようにして、お礼もなく行ってしまいました。ゆずった人は嫌な気持ちになりました。

嫌な気持ちになる・・・割とよくある反応だと思います。わたしたちは人に何か親切なことをするとき「ありがとう」と言い返してくれることを期待して人は人によいことをしがちです。しかし、そうではないですよ、ということをイエスは言っているのだと思います。
上記の例えは日常のささいなシーンですが、長く付き合う人たちにも同じように接しなさいということになります。

(2)このような新約聖書の持つ教義と人間の行動との関係について歴史上の解釈ではどう捉えられてきたのか
神学的なことはわたしにはわかりませんので詳しい回答はできないのですが、思うところを書かせていただきます。

先ほどの小さな親切は「善」であるといえます。人は原罪によって悪に傾きやすくなっていますが、自然に善を求めるように作られています。
世の中の悪いこと、たとえば殺人・戦争・搾取などに対して、多くの人は何か違和感を覚えます。もし人の本性が「悪」であるなら、ほとんどの人が違和感を覚えないはずです。だから、人はもともと善を求める存在であるといえます。
神が人をそのように作ったのですが、当時の人々も今の人々も、それを忘れて悪に傾いてしまうので、イエスの言葉によってそれを再認識するのだと思います。

(3)さらにはキリスト教に限らず仏教の各宗派などの信仰のなかの規範的記述/説明的記述の役割と割合について、解説をいただけないでしょうか。
これまた他の宗派を知らないので詳しくはわからないので恐縮ですが、儒教や道教あたり、いろいろありそうですよね。
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Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q赦すと許すの意味の違い

赦すと許すの意味の違いを教えて下さい
どこからかの引用ではなく、言葉で解りやすく説明してくれるとありがたいです

Aベストアンサー

意味としては、どっちも同じ使い方ができるんですが。私の解釈
赦す:罪などをなしとすること。宗教的なところで使われることが多いですし、そういう意味合いが強いかと。恩赦とかいいますしね。

許す:上の意味もありますけど、何かをすることを認める、許可するという感じかと。

Q会社名の後につくInc.とは?

こんにちは。
会社名の後につく、Inc.とは、どういう意味でしょう?会社の法的な位置付けをあらわしていると思うのですが、実際の所どうなんでしょう?1.日本語でどういう意味か、2.英語の原型はどういうかたちか。教えて下さい。


ちなみに、co.,ltd.はcompany limited か、または、cooperation limitedで、株式会社(有限責任)の意味ですよね??


回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

inc.は
incorporated の略で
「一体化した,法人組織の」の意味だそうです。
「有限責任の」の意味もあります。

映画「モンスターズ・インク」のインクもこれですね。

Q大さじ一杯 小さじ一杯って・・・

それぞれ何グラムぐらいなんですか?困っています教えてください。私はさじを持っていないので測れないのです

Aベストアンサー

重さは量るものによって違いますが、
大さじ一杯=15cc
こさじ一杯=5cc
です。

Q『更迭』と『罷免』の意味

皆様、こんにちは。

最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。(他にも『解任』などもあったりして)

どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。
gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。
『更迭』は他の人に変える事とでてきます。
だとしたら、『更迭』の用法としては『○○を△△に更迭する』という形となると思うのですが、新聞やTVなどメディアでは『○○を更迭』と使っている気がします。
これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか?

なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

罷免--免職と同じで、辞めさせる事. **を罷免する。はやくいえば首
解任---任を解く  課長の任、地位を解く。**さんを解任するはその人の任(地位)を解くで、**さんを辞めさせるという事ではない。結果的には首もあるでしょう.
更迭---人を変える。**を更迭する。--に***を更迭でもいいし、**を更迭するでも、どこへ行こうが更迭をされる事実がわかれば、いいのだから、**を更迭でもかまわいと思います.地位を下げられる人もあり.

Q靴のサイズ 36とは何センチ?

女性の靴やサンダルで外国物の36と言うのは何センチのことか知ってる方がいらっしゃいましたら教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

【靴のサイズ表】

●Japan
22…22.5…23…23.5…24…24.5…25
●USA
5…5.5…6…6.5…7…7.5…8
●UK
3.5…4…4.5…5…5.5…6…6.5
●Europe
35…35…36…37…38…38…39

ですから36というのは、ヨーロッパの品で
日本でいう約23cmのことです。


ρ(・д・*)コレも参考にして下さい♪
      ↓ インポートもの買う時はきっとお役に立ちます。

参考URL:http://www.diyer.com/info/tools/sizechart.html

QTo be or not to be の意味を教えてください

To be or not to be の意味を教えてください。
お願いしますm(__)m

Aベストアンサー

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シェイクスピアの事を知っている人なら、この後の、that is the question.を強調する為に使う言い方としても使います.

つまり、大学へ行くべきがそれとも好きな職につくべきか、と言う迷いがあるときに、相談された人は、To be or not to be.,,,,,,と考え込む、と言う使い方ですね.

最近ボーリングの質問がありましたが、10フレーム目で、この三つをストライクで決めればパーフェクトゲーム. この時点では誰もが感じるchokeの場面です. ボールを投げる前に、余裕のあるところを見せるために、Hamlet, you are not the only one to suffer. Me, too. To be or not to be!! This ball is the answer!! とみんなが聞こえるように言って、そして、みんなが見ている前で、胸に十字を切ってボールを投げる状況ですね. なかなかの役者だともいえますね。

と言う事で、どのように使われているかという視点で書かせてもらいました.

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シ...続きを読む

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