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新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の教義とそれが規定/記述する行動原理ついて教えてください。

宗教学、哲学、歴史学、キリスト教についてまったくの門外漢ながら質問させていただきます。
「与えよ、さらば与えられん」という、巷でよく使われる言葉、慣用句が誤用であるというのを聞いて、意味を調べてみました。
web上で探した慣用句辞典によると、
http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien01/a03. …
新約聖書(ルカによる福音書第6章)での原義は、先に何かを与えれば見返りが後から回り回って帰ってくる、というような物的な報酬の関係を表すのではなくて、無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬の関係として説明されていました。
一方でこの慣用句は、レヴィ=ストロースの贈与論における一般交換のシステムについて、(個々人の意図や宗教に対する意識に関係なく)人間が古来から持つ法則を俯瞰的に説明しているようにも感じました。
そう考えると、新約聖書(ないしキリスト教の教義)には前者のような行動規範、行動のインセンティブ(=教えを守れば救われる、祝福を受ける)を人々に与える意味の他にも、後者のような種としての行動原理を読み解く様な面があると捉えられます。

不明瞭で抽象的な説明で申し訳ありませんが、(1)「与えよ、さらば与えられん」という記述の原義や解釈について、(2)このような新約聖書の持つ教義と人間の行動との関係について歴史上の解釈ではどう捉えられてきたのか、(3)さらにはキリスト教に限らず仏教の各宗派などの信仰のなかの規範的記述/説明的記述の役割と割合について、解説をいただけないでしょうか。
また、先の(2)(3)について一般向けに解説された書籍があれば教えていただければと思います。よろしくお願いします。

gooドクター

A 回答 (6件)

>宗教の教義とそれが規定/記述する行動原理ついて教えてください。


これを議論しているのを神学論といいます。
聖書の文言とその解釈に基づいた行動規範に関しての論争で有名なのが、歴史上いわゆる宗教改革とよばれているものです。その結果、新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)とに分かれました。
ご質問の(1)に関しても色々な解釈があることにお気づきになられましたように、時代により人により異なります。
宗教は信じるか信じないかということが主眼ですので、科学の原理や法則とは全く意味合いが異なります。
言い換えれば、どれが正しいかではなく、どれを信じるのかということです。

(2)につきましては、ご質問の文章だけのものはありませんが、「宗教改革」に関する書籍が入門書、社会人向け、専門書と多数ありますので、図書館や書店で手頃なものを探して下さい。

(3)につきましても、読む人によっては、聖書の全てが人生の規範となります。
聖書に関わらず仏典を初め全ての宗教教義書というのは、そのような性格を持っております。
読み取る人が規範と感じるか感じないかということですので割合というのは個人によります。

蛇足
日本で儒教と呼ばれているものは、儒教の宗教としての部分を取り除いて箴言の部分のみを取り出したものです。
宗教の部分は日本仏教が担っています。
例えば位牌は儒教のもので、日本仏教が借用使用しているものです。インドには、お墓は勿論位牌などというものはありません。
仏教に儒教を取り入れたのは中国です。その中国で完成したものが日本へ伝わり後に日本化したものが今の日本仏教です。
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 こんにちは。



 (1)の解釈を述べます。

 イエスが山から降りて来たところで 人びとに話をしているくだりです。
 ▲ (ルカによる福音書 6:37-38) ~~~~~
  (α) 人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
  (β) 人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。
  (γ) 赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
  (δ) 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。
  (ε)押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。
  (ζ) あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  上から四つの命題は 最後の(ζ)が共通の原則になっているようです。
 (ζ‐1) 自分が量る⇒すると 同じ秤で量り返される。
 ☆ と言っているはずです。矢印のあとの文は むろん《自分が量り返される》のですが ここでは《神によって》なのでしょうね。ですから 言いかえると
 (ζ‐2) 人間のわたしが量る⇒ その同じ秤で神がわたしを量り返す。
 ☆ こう読めると思います。
 したがって (δ)も 
 (δ‐1) 人間のわたしが誰かに何かを与える⇒その同じかたちや程度で神がわたしに与え返す。
 ☆ こういう意味をおそらく《原義》として持つと思われます。

 ところが 幸か不幸か 《神がおこなう》ことは 人間には何がどうなっているのか分かりません。基本的に言って 分かりません。
 (α)神に裁かれることがないことも (β)神に罪人だと決められることがないことも (γ)神に赦されることも そして(δ)神によって何かを与えられることも みな基本的に言って その具体的なありさまは分かりません。もしくは 分かるか分からないかが分かりません。(分かったら それは神ではないでしょう。もしくは 人間が神を見たということになりますが それは 何を意味するでしょう?)
 つまり そのように成っているかも知れないし どう成っているのか 分からないというのが 実際だと考えます。
 おのれひとりにおいては その主観の内面において あるいは分かるかも知れません。めぐみを受けたと感じることがあるかも知れません。そしてそれは たぶん 他人には たとえ伝えても 分からないというのがふつうだと思います。

 では 具体的なことを何も言っていないのか? そうだとも言えます。誰もが分かるようには言っていないでしょう。
 というような性質のことを イエスは言ったのだと考えます。
 ほんとうにそうなのか? そうなのだと思います。
 ただの絵空事か? そうだと思います。
 たぶん 絵空事という言い方はふさわしくないでしょうね。うそと言ってもいいのですが つまりは虚構でしょうね。現実としてのうそ 現実に含まれるところのうそ。これが言われているものと考えます。
 つまりはこの虚構が あたかもあなたの背中を押すかのように もしくはあなたの中で川となって水が流れるかのように ちからとなってはたらくと言っているのではないでしょうか? 尽きない泉のごとくあなたの中で生き続けると言っているのではないでしょうか?


 たぶん この息吹きとしてのことばは もしあなたの中で生きるとすれば それによって 縁起共生としての空観を得させるでしょうし やがてあなたが試練をも経て力がついてくれば 慈悲をも実践することができるようになるのではないかと思います。どうでしょう?
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このことは、もう一つの聖書の黄金律、「して欲しいと思うことをしなさい。

」というものと繋がりがあるかもしれません。そのような神の目から見て良いことをすると。それを見ている人がいて、その人が次の機会のとき自分に有利に取り計らってくれるということかもしれません。
東洋にもそれと同じような言葉がありますよ。「情けは人のためならず。」という言葉です。これは、情けをかけると、それはめぐりめぐって自分に返ってくるものです。だから情けは人の為ではなく自分のためですよ。という言葉です。洋の東西を問わず、黄金律というものは似ているものですね。
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聖書は足しても引いても変えてもいけないとされているんですね。



新約聖書の中で旧約に無い箇所は、後に足された あるいは 修正されたものと見るのが妥当だと思う。


>与えよ、さらば与えられん」という、巷でよく使われる言葉、慣用句が誤用であるというのを聞いて

それは聞いたことが無い。
が似たようなものは聖書にある。

「求めよ さらば 与えられん」

エレミア書。
『私をたずね求めるならば見出し、心をつくしてわたしをもとめるなら、私に出会うであろう』

ヨブは義人と世間でも評判だったのですが、家畜は全滅するは 家は燃えるは、子どもは全員死ぬわ、自ら思い皮膚病にかかるわで、こういうことになったのは神からの呪いと古代は考えられていたんですね。

だけど、ヨブは自分のどこに不義があったのかわからず、すべてを失くしてとうとう神の前に立つことになった。

神の義を追い求めるものは幸いなり と新約聖書にもあるように、ヨブは神の不義をなじりこそしなかったが、あなたの義を示してください と言わんばかりに神に迫った。

もう神と対決するしか残されておらず、まるでヤコブのように食い下がった。

求めた(神の前に立った)。結果 与えられた。
もう神に迫るしかなくなったので、とうとう神の前に立つことになり、その結果納得したってことです。


「与えよ さらば与えられんって」が通常使われているのだとしたら、私は今までそういうのを聞いたことが無いし、本でも読んだことが無いので、その意味はわからないです。

第一 例えばやっちゃんが島代として多額のお金を奉納しろと迫って、借金してまで奉納したら、家つぶれちゃいますよね。
やっちゃんが欲しがっているものはすべてなんでも与えていたら、与える側が絶えて、結果やちゃん島守る必要なくなるじゃないですか。

日本がアメリカの求めに応じて好きなところをアメリカに与えていたら、日本なくなっちゃうじゃないですか。
キリスト教が日本が欲しいから日本人みなキリスト教徒になれという求めに応じたら、日本らしさがなくなっちゃうじゃないですか。

働きたくない 遊んでくらしたい とニートの息子が暴れるたびに「かしこまりました」とその人の要望をかなえていたら、両親住むとこなくなるじゃないですか。
改心するどころか もっとひどい状況になる。

可愛い子には旅をさせろということわざは聖書からきていて、聖書では可愛い子には鞭を惜しむななんです。
自分の子どもをつぶしたかったら甘やかせ、なんでも欲しがるものをやれ そうすればその子は駄目になる ってことです。

旧約は間違えたことは書かれてないです。
新約は、、、足しても引いても変更してもいけない聖書を改ざんしたものなので、書かれているものに信憑性は無いです。
新約にあって旧約に無いもの、それは後の人が都合で変更したものと見て間違いないと思います。
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(1)「与えよ、さらば与えられん」



この意味は「天の蔵に富を積む」ということの勧めですね。
仏教での布施の勧めと同じですね。見返りを求めない布施は「天の蔵に富を積む」ことですね。
聖書では、
マタイ6-19,20,21 「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えてはいけない。そこではガやさびが食い尽くし,盗人たちが押し入って盗む。 むしろ,あなた方は自分のために天に宝を積み上げなさい。そこではガやさびが食い尽くすことも,盗人たちが押し入って盗むこともない。 あなたの宝のある所,そこにあなたの心もあるからだ。」
が簡潔ですね。
ルカによる福音書第6章はむしろ「天の蔵に富を積む」ことの行動原理を記述していますね。
この実践は、ナイチンゲールや、マザーテレサを見ればわかるでしょうね。
仏教では、布施を通じて天の蔵に富を積むわけですが、実際は自信の心を豊かにするということですから、鎌倉時代の僧・日蓮は、
「蔵の財(たから)より身の財(たから)すぐれたり
 身の財(たから)より心の財(たから)第一なり」
(「蔵の宝」より「身の宝」の方が優れており、
 「身の宝」より「心の宝」こそが第一である)
という言葉で表現してますね。
キリスト教や仏教では地上の「give & take」の考え方ではなく、あなたの心を豊かにするために「与えよ」つまり「天の蔵に富を積め」と教えているわけですね。
まあ、俗に言いますと、死後の人生で金持ちになるか貧乏人になるかということなんですがね。
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(1)「与えよ、さらば与えられん」という記述の原義や解釈について


聖書の短い言葉は、前後を知っていれば意味が凝縮されていると感じますが、そうでなければわかりづらいと思いますので、該当箇所を記載しますね。

ルカによる福音書 / 6章 28節~36節(新共同訳)
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

おおざっぱに、1段落目が「与えなさい」という説明、2段落目が「なぜ与えるのか」の説明、3段落目が「与えたらどうなるのか」の説明、といえます。与えるもの・貸すものなど、物質的に説明していますが、精神的なお話ですね。

現代日本ではこんな感じでしょうか。
込んでいる入り口で、急いでいる人に笑顔で道をゆずってあげました。しかしその人は、ゆずった人を半ば突き飛ばすようにして、お礼もなく行ってしまいました。ゆずった人は嫌な気持ちになりました。

嫌な気持ちになる・・・割とよくある反応だと思います。わたしたちは人に何か親切なことをするとき「ありがとう」と言い返してくれることを期待して人は人によいことをしがちです。しかし、そうではないですよ、ということをイエスは言っているのだと思います。
上記の例えは日常のささいなシーンですが、長く付き合う人たちにも同じように接しなさいということになります。

(2)このような新約聖書の持つ教義と人間の行動との関係について歴史上の解釈ではどう捉えられてきたのか
神学的なことはわたしにはわかりませんので詳しい回答はできないのですが、思うところを書かせていただきます。

先ほどの小さな親切は「善」であるといえます。人は原罪によって悪に傾きやすくなっていますが、自然に善を求めるように作られています。
世の中の悪いこと、たとえば殺人・戦争・搾取などに対して、多くの人は何か違和感を覚えます。もし人の本性が「悪」であるなら、ほとんどの人が違和感を覚えないはずです。だから、人はもともと善を求める存在であるといえます。
神が人をそのように作ったのですが、当時の人々も今の人々も、それを忘れて悪に傾いてしまうので、イエスの言葉によってそれを再認識するのだと思います。

(3)さらにはキリスト教に限らず仏教の各宗派などの信仰のなかの規範的記述/説明的記述の役割と割合について、解説をいただけないでしょうか。
これまた他の宗派を知らないので詳しくはわからないので恐縮ですが、儒教や道教あたり、いろいろありそうですよね。
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