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同じ新興宗教の団体に属しているにも拘らず、
団体について自己批判のできる人と、
常に団体を正当化することしか考えられない人の差は、
どこから生じてくるのでしょうか?

A 回答 (6件)

NO.2です。


自分の回答が、再度読んでみたらわかりにくくてびっくりです!失礼しました。
信仰心が揺らいでいる人のほうが、かえって「俗世間に批判されてもうろたえるな」と自分や団体を正当化しようと必死になる、という意味です。
教義がきちんとわかっていて、信仰心が厚い人は、逆に問題点を提示したり、「フツー」の目をもって「フツー」の行動ができるような気がします。

・・・・という意味でした!!!
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

>信仰心が揺らいでいる人のほうが、かえって「俗世間に批判されてもうろたえるな」と自分や団体を正当化しようと必死になる、

私もそう思います。
団体を正当化することしか考えられない人の方が、ある意味信心が足りてないのだと思います。
きちんとした信仰をしている人は、仏ではないただの人間が運営しているに過ぎない団体が過ちを犯す場合もあることを、きちんと理解できるのだと思います。

>「フツー」の目をもって「フツー」の行動ができるような気がします。

そうですね。きちんとした信仰と「フツー」の感覚とは車の両輪のようなものだと思ってます。

お礼日時:2003/07/06 11:17

 妄信的であるかないか、客観的であるかないか、それにつきると思います。

もし、客観性を失うほどまでに教義・教祖・教団に心酔しているのであれば、教団や教義、教祖を疑う事はせず彼らのすべてを盲目的なまでに信じ、場合によっては彼らの情報を鵜呑みにして特定の集団・組織を敵とみなして過剰行動に出ることもあるでしょう。
 客観性を保てるか否かの分かれ道は、純粋に頭脳の回転と物事を切り離して考える能力の有無にかかっています。頭の回転が鈍ければ、物事を鮮明に見れないため、教義と教団、もしくは教義と教祖、という形できちんと切り離して見る事が出来ないと思います。教義も教団も教祖も、一見、全て繋がっているように見えますが、その実態は別物です。教祖は人なので時の流れとともに変貌するし、時には悪事を犯したり、教義を破ることもあるでしょう。教団も、組織なので、組織防御のために暴走する、もしくは組織運営の権を持った人物が私利私欲に走り私物化するということも起きかねません、その一方で、教義は余程の事がない限り変更されることはありません。教祖の偶像化、組織に対する妄信的従属を強要する教団であれば、十中八九、罠にはまることでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

>教祖の偶像化、組織に対する妄信的従属を強要する教団であれば、十中八九、罠にはまることでしょう。

「強要するような団体」というイメージが一人歩きしてしまう原因として、実際は強要されていないのに自分で勝手に強要してしまう、ある意味信心が足りてないそんな信者が多い場合もありそうです。
他の自己批判もできるまともな信者さんにとっては至極迷惑な話です。団体を正当化することしか考えられないお馬鹿な信者は、本当に困ったものです。

お礼日時:2003/07/06 11:49

団体の教え、理想が高すぎるため、人間の愚かさが、より浮き出しにさられその団体を 幹部を批判せざるおえないんでしょうね。



団体を正当化するのは、そのことがわかってるからでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

教義と団体は別のものであることを理解できない信者が多いようですね。
教義は素晴らしいものであっても、団体を運営しているのは仏ではない煩悩を捨てきれないただの人間であることを、理解できない信者が多すぎます。
教義と団体を一体化して捉えている信者は滑稽としか言いようがないです(笑) 中には、ネット上で信者でない一般人のふりをして、己の団体をそれとなく擁護しまくる信者もいるようですが。そこまでいったら、滑稽を通り越して哀れにさえ思えてしまいます。

お礼日時:2003/07/06 11:37

これは宗教団体だけに当てはまるものではないと思われます。

企業体でも同様の事が言えるのではないでしょうか。批判する動機にもプラス的なものとマイナス的なものがあるように思います。プラス的な動機による批判とは、組織をより向上、より成熟させる為に、問題点・改善点を見出そう!とするのに対して、マイナス的な批判は、組織のトップや幹部たちに対する不満、ぐちのはけ口、追求する糸口として、粗を探すような場合が当てはまると言えます。次に正当化…ですが、正当化という言葉は、責任転嫁という意味を含んでいると思うのですが、正当化したい動機の中には、帰属意識が強く、組織を誇りに思うがゆえに、守りたい!という動機が考えられるのではないでしょうか。信仰団体は、他の団体と異なり、思想が明確ですから、ハッキリした善悪観があると思います。であるがゆえに、真理を知らない人たちは悪、真理を知っている私たちは善、というように、独善的にならないように気をつけることが大切なのではないでしょうか?ですから、団体について正当化し、誇りに思いたい気持ちは理解できますが、客観性を失わないバランス感覚も大切と考えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2003/07/06 11:19

偉そうなことは言えない私ですが、自分の信仰心に揺らぎがある人こそ、他に反発するってこともあるんじゃないですかね。


信仰心に邪念がないのであれば、その他諸々のことは冷静に俗世間の出来事として捉えることができるはず。
何でもかんでも神や仏にこじつけて論じようとするのは、自分が弱ってるからじゃないでしょうか。
まあ、信仰を求めてくる人っていうのは、もともと弱い人が多い(悩みがあったり、病気だったり)とも言えますから、仕方ないのでは?
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まず、それぞれその人の生き方が大きな影響をしていると思います、自分の生き方、信仰態度に合っていれば従順になれるし、そうで無かったら、反発的になりますよね、これて自分が変わる、変化する分けですからいつも従順ってことにはならなくって、ある時突然変わることもあるのでは、もう一つは人間関係です、仲の良い人がいたり、いなかったり、出来たり、不仲になったり、 教団が絶対的と思っている時は反発しにくいですが、絶対と思わなくなってきたりと、これも変わりますね、


私は、結果的にはそれぞれの人の教団に対する経験、良い経験、悪い経験によるのでは、 これでは回答不十分かもね、
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2003/07/06 10:58

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