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知識欲 好奇心はなんの為にあるものなんしょうか?

A 回答 (3件)

それ(生理的な必要に関する情報以外の環境情報の蓄積=認識


の深まり)がなければ、生きる事は条件反射になってしまい、
新たな環境への適応や、環境の改変(農業や工業、道具)、
分業(本能以外の協力)ができないからです。

人類の繁栄は、ハチやアリのような遺伝的多様化による分業と、
本能的な条件反射による社会行動ではなく、五感の相関した
経験の蓄積による、光や音といった先行感覚に対する生理的
作用の予測(=空間的広がり=外的存在の総合的認識)において、
自己の行動の結果も予測する=淘汰によらない自律的行動の
多様性(適応&社会性&環境の改変)によるのです。

ただ、その社会性(=助け合い)の発達の延長上に、工業化
における分業化や市場の拡大において、その拡大に対応した
認識の深まりを怠り、お金という“馬車馬の目の前のニンジン”
によって他律的に社会行動をとらされるようになった時から、
人の認識の発達は、自己存在の本質の認識による自律的生の
ための認識(=質の向上)から、お金をもらうためにイヤイヤ
働かされる歯車としての知識(=量の増大)へと、変質して
しまったのです。
その結果、環境認識の深まりとしての好奇心は失われ、
理科離れが進んでいるのです。
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人間の心の三機能は、知情意の三つですが、それぞれが目的性を持っています。


知の機能に言及すれば、知は、真理を追究します。
真理を追究することで、喜びを実現しようとするからです。
よって、正しい知は、喜びに結びつかなければならないのです。
悪い例としては、これは多くの人が陥りやすい間違いですが、知識を得るための知識になっている場合があります。
知識を得ること自体は表層であって、知識の本質は、喜びです。
知識を通して喜ぶことが、知識の核心でありましょう。
如何なる博識家であっても、それが喜びに至らない知識なら、真の知識とは呼べず、ただの物知り人形でありましょう。真の知識を得る者は、それをただの知識に終わらせない知恵がある者です。
知識に限らず、全てを自己の喜びに繋げられる者が知恵ある者なのです。
知や情や意の前にあるのは、無=「純粋衝動」です。
その衝動には、能動性はないのですが、宇宙創造の始発点がビッグバンがそうであったように、
限りなく喜びたいという爆発的な衝動が秘められているのです。
その自己の中にある喜びを得ようとするマグマのような衝動から、知・情・意や愛が生まれたのです。
よって、知は、真理や知識を求めながら、つまるところ喜びを実現したいのです。
情の求める対象は美、意の求める対象は善、愛はそれ自体、対象を通して愛そうとするので、愛する対象を求めます。知は、知識、その中でも真理という対象を求めることで、喜びをつかもうとするのです。
さて、知は認識する機能であり、知の中味としては感性、悟性、理性の機能があります。
感性とは、対象から触発されて表象(=感覚中枢に反映された映像)を受け取る能力をいい、
悟性とは、概念(イメージ)を用いて判断する能力をいい、
理性とは、概念によって推理をし、普遍的真理や事物の本質を捉える能力をいうのです。
たとえば、ニュートンが「万有引力」という重要な真理を発見したときのようすを考えてみましょう。
ニュートンがリンゴの木を見ていて、リンゴの実が落ちたのを知ったのは感性の働きです。
そして何かの力に引かれてリンゴの実が落ちたと判断したのは悟性の働きです。
さらに、それを万有引力によるものと推理したのは理性の働きというわけです。
何の好奇心もなく、ただボーっとしていたなら、ニュートンといえど、この偉大な真理法則を発見するに至らなかったことは言うまでもありませんね。


 ≪おまけ≫
さらに、深く追求すれば、感性的段階で捉えられる表象(=映像)即ち「感性的認識像」は、断片的な映像に過ぎないんです。
悟性的段階では、感性的認識像と原型を対比することによって、その一致不一致を判別しながら「認識」がなされるんです。しかし、この段階は一回の認識だけでは、不十分または成立しない場合がありまして、
その時は、新しい知識を得るまで、実践(実験、観察、経験等)を行いながら進めていくわけです。
最後に、理性的段階の認識では、悟性的段階において得られた知識を資料として、理性の思惟作用によって新しい知識を得ることになるのです。
結局、理性的段階の認識とは「思考」にほかならない。
心の中の相互作用で思考はなされるのだが、厳密には、対比や照合がなされているのです。
以前から持っているいろいろな要素(多様な観念や概念、数多くの数理や法則)の中から必要なものを選んで、
それらを連合、分離、分析、総合などの観念(概念)の操作を行うのです。
観念(概念)の操作とは、諸観念や諸概念の対比によって、新しい観念(概念)を得ることを意味しています。
このような観念(概念)の操作を繰り返しながら、知識は増大していくというわけです。
理性的段階の認識においては、新しい知識の獲得は一回毎の判断の完結を伴いながら連続的になされていきます。
すなわち、一旦得られた新しい知識(完結した判断)は、思考の資料として移され、次の段階の新しい知識の形成に利用されるのです。
このようにして知識(思考)は発展していくのです。


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自分が活動する範囲(地理的に、あるいは物質的に)をより広くすることによって、生き残り競争を他の個体よりも有利にしていくという進化論的役割があるのでしょう。

食べ物だって(これは食えるかなー、お、案外うめえ)という経験は確実にその生き物を飢え死にから救う可能性が高まります。もちろん、好奇心のあまり危険を冒し、死に結びつくと言うマイナスポイントもありますが、トータルしてプラスだと思います。
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